12.冬木瓜と立浪(上)
「言わぬことではない、とでも言いた気な顔だな」
爽やかな声音とは裏腹に、新九郎は顔色を曇らせて呟いた。
「想定の内の事に御座いましょう。ただ、こうも早く動くとは」
切れ長の目を床に置かれた書状に向けて嘆息したのは、喜右衛門だ。
『ふゆほけの はにたちわれし たつなみは
われてもすえに あはむとそおもふ』
清水谷の遠藤邸で浅井新九郎と遠藤喜右衛門は、一枚の書状を間に挟み、対面する様に座していた。浅井家の表向きの事柄については、小谷城の接見の間にて行われるが、その他の私的な事柄について喜右衛門と打ち合わせる際には、こうして新九郎が遠藤邸を訪れるのが通例であった。今、二人の眼前に在る書状は、半兵衛が新九郎宛てに寄越した書状だ。他には何も書かれておらず、使者として遣わされた小柄な老人は草野の領地台帳と財務台帳、そしてこの書状を持たされて来たという。使者は半兵衛の言伝として、火急の用向きの為に辞去する旨を述べ、直接往訪出来ぬ無礼と今般の厚情に対する謝意を伝えたのみだった。
「過分の恩に対して、使いの者と書状のみとは。無礼にも程があると言うものに御座いましょうや」
そう、誰もが思う事を代弁したのは、見慣れた来訪者へいつもの様に湯呑を差し出す与吉であった。
「これ、与吉。差し出がましい真似をするでない。殿の御前であるぞ、控えよ」
与吉の嘆きを、そう言って喜右衛門が窘めた。
「善い善い」
差し出された湯呑を手に取ると、新九郎は表情を晴れやかに一転させて与吉を赦し、
「与吉、手習いの方は順調に励んでおるか?」
年の離れた弟を気に掛ける兄の様な眼差しで、与吉に問い掛けた。
「はい、励んでおりまする。この仮名も読めまする」
与吉は、その程度の事は言うに及ばず、とでも言いたげな表情で答えた。すると、
「左様か。であれば、この書状を何と見る?」
新九郎は、悪戯っぽい表情を浮かべて、与吉に書状の内容を問いかけた。
「冬木瓜の葉に断ち割れし立浪は 割れても末に逢わんとぞ思う――に御座いましょう。今時期の景色を詠んだ歌かと。とはいえ、この出来は余り上手とは言えないものに御座いましょう。この程度の歌を態々送り付けて来る図々しさは、私には解りかねまする」
与吉はそう言ってしたり顔で新九郎に視線を向けた。
「ふむ、お主はそう見るか。では、喜右衛門。お主は何と見る?」
新九郎は、与吉の返答に一応の理解を認めると、正面に座する喜右衛門に視線を移した。
「冬木瓜の葉に断ち割れし立波は、割れても末に逢わんとぞ思う――」
喜右衛門は、書状の歌を何度となく繰り返し呟きながら思考を巡らせていた。新九郎はそんな喜右衛門の回答を待っていたのだが、即答は望めまいと諦めて書状と共に持ち込まれた財務台帳に手を伸ばして目を通し始めた。
「三千貫しか与えて居らぬのに、是は如何な事か」
新九郎はそう言って開いた台帳を喜右衛門に指し示した。差し出された台帳に目を遣ると、喜右衛門は直ぐに領地台帳を手にして具に中身を確認し始めた。
「善祥坊の報せでは、治水工事を行っていたとも聞く。確かに取れ高は上がったのだろうが、掛かる費用を勘案すれば、先ず三千貫では立ち行くまい」
新九郎は腕を組み、そう言って首を傾げた。
「伽羅繰屋なる生業の者が、鍛冶仕事を広めたとも伝え聞いて居りまする。元来、草野の地には鍛冶を行うものも在りましたが、これもまた幾許かの益となっておるやもしれませぬが――」
言いながらも喜右衛門は再び財務台帳に目を移すと、一枚、二枚と捲った。
「如何な細工を施したものか。一見するに偽りは無き様に見えまするが、目立たぬ所で記述に偽りが在るやも知れませぬな。草野へ当家の者を差し向けて検分致すなり、後を追い捕縛するなり致しましょう」
そう言うと、喜右衛門は台帳を閉じて新九郎に視線を向けた。
「否、其れには及ばぬ」
新九郎は組んでいた腕を解き、片の掌を眼前に翳して喜右衛門の言を制すると、
「如何様な手を用いたかは知る由も無いが、台帳を寄越して来たという事は、寧ろ己に後ろめたい事は何も無いという証左なのであろう。半兵衛程の者が、我等に容易く見破られる様な小手先の策を弄するとは到底思えぬ。故に、我らが徒に労力を割いたとて、得る物は在るまい」
己の思考を整理しながら喜右衛門に静観を促した。
「差し詰め、『借りた恩は返した故、引き留めには及ばず』とでも言わぬばかりに……」
遣り取りを見ていた与吉が、嫌悪感を露わにした表情でそこまで言うと、
「下手に此方に顔を出して辞去の儀を述べれば、其方等ならずも、未だに根深い竹生寄りの者達に捕縛されるやもしれぬし、何の沙汰も無く去れば、後を追われよう。故に、己が働きを理詰めに示して穏便に計らったつもりなのであろう」
新九郎はそう言うと立ち上がり、自身の後ろにあった文机に座した。
「記載されている内容が事実であるとすれば、半兵衛の行いは我が浅井家にとっては寧ろ僥倖、とでも言うべきかも知れませぬが――」
喜右衛門は散乱していた帳面類を整えながら、煮え切らない表情で新九郎に言った。
新九郎は当主と成って日が浅い。故に、政の在り方や古参の家臣達からの信頼の得方には、喜右衛門も新九郎の傅役として心を砕いていた。更に、それも然る事乍ら、当主となった経緯が曰く付きであったという事も喜右衛門の頭を悩ませていた。
浅井家は、先々代当主であった亮政の代に越前朝倉家の助力と、反六角家の旗印の下、浅井家に糾合した北近江国人衆達の力によって北近江での勢力を確立したという経緯がある。それに反して、先代当主であった久政は、南近江の六角氏に従属する事で浅井家の命脈を保って来た。斯く在る新九郎も、つい先頃までは六角承禎(義賢)からの偏諱を受けて賢政と名乗らされ、六角家重臣である平井定武の娘を正室として迎えていた程だ。故に、家臣の中には久政の六角家に対する外交姿勢を快く思わない者達も少なく無かった。新九郎はこの状況を打開する為に、反六角家の筆頭であった赤尾孫三郎清綱と、ここに居る遠藤喜右衛門直経等と謀って、父・久政の留守に乗じて小谷城を占拠し、家督の移譲を迫るという苦渋の決断をした。結果、久政は半ば強制的に隠居させられ、鳰の海の孤島(竹生島)に幽閉される事と成ったのだ。そして、六角家への臣従の証とも言える賢政の名を新九郎に戻すと共に、正室を平井家に返す事でその手切れとした。とはいえ、父・久政寄りの家臣が全く居なくなったという訳ではない。新九郎が口にした『竹生寄りの者達』とは、この久政寄りの家臣達の事である。派閥闘争や権力抗争の幕引きに、敗者の全てを粛正するという手法は、勝者の法として古来より常套手段として多く用いられて来たが、他勢力の緩衝地帯的な位置付けにある浅井家の内情を鑑みれば、そのような解決策は、己を死に至らしめる劇薬以外の何物でも無かった。その為、今現在も水面下で新九郎から久政への実権復権を図る彼等は、事在る毎に異を唱えては粗探しをするのだ。ともすれば、半兵衛が浅井家を辞去した事でさえ逐電したとも言われかねず、粗探しの口実を与える事にも成り得る状況でもあった。
半兵衛は浅井家の内情を察して、最善の選択肢を探したのだろう。然れど、その全てを語る場は得られそうに無かった。故に、成果を示して害意の無い事を示して、語るべき思いを歌に認めたのであろうか。そう考えると、浅井家にとっては僥倖であったのかもしれないと安堵すると共に、内情を見透かされていたという事実に心胆を冷やしている己が有る事に喜右衛門は気付いた。
「やはり、僥倖とは言えませぬな」
間を置かずして、喜右衛門の口から正反対の言葉が吐き出された。それを聞いた新九郎は、
「喜右衛門、何時も心労を掛けてばかりで済まんな」
そう言って喜右衛門を労い、書き上げた書を持って喜右衛門の前に再び座した。




