9.女の覚悟
手描きの地図へ、源次が消し炭で印を付けて行く。
「この西の端が稲葉の曽根、それよりやや東に源助様が預かる菩提山。そこから更に東へ稲葉山との中間程に在るのが氏家の大垣と、安藤の北方」
文殊丸は源次が記を付けて行く地図を眺めながら呟く。
「美濃ってのは、結構広いんだな」
そんな呟きに、久作が答える様に言う。
「地図の上ではその様に見えますけどね。実質的に人が住まい生活できる地域は、南の方に偏っていますから。北の半分は、その殆どが人が生活するには過酷な山ですよ」
それに合わせるかの様に、源次は美濃国内の主要な拠点を地図上に書き加えて行く。
「中津川、岩村、多治見、堂洞、関、加治田――そして街道がこの様に抜けておる」
出来上がった地図を睨んで文殊丸は納得する。
「なるほどな。こう見ると、意外と限られた場所に密集しているんだな。特に、東西に抜ける街道沿いと南の国境が顕著で、北側は中央を南北に抜ける街道沿いにちらほら程度か……」
するとそこへ、
「東濃を治める岩村の遠山氏は、半ば独立状態ですからアテには出来無いでしょうね」
久作が付け加える様に言った。
「ん? どういう事?」
文殊丸は怪訝な顔で久作に問い掛けた。
「遠山氏は旧来より、美濃と信濃の国境に居を構えていましたから、その双方にのらりくらりと付かず離れずの距離を保って勢力を維持して来たんですよ。古くは土岐家と木曽家の時代から、今は斎藤家と武田家の間を渡り歩いているというとこですかね」
そう答えた久作に、「ふーん」と相槌を打つ文殊丸。しかし、半兵衛は沈痛な表情で口を開く。
「それは、少し前の話となりつつあるんだよ。どうやら、その遠山に織田との縁組があった様なんだ。おそらく、織田は斎藤家の外堀を埋める為に方々へ調略を巡らせているんだろうね」
半兵衛の話を聞いて、文殊丸は消し炭で地図に書かれた岩村付近に大きくバツ印を付けながら、
「こりゃ不味いな。詰みゲーじゃねぇか」
思わず口に出してしまった。
「え? 今何と?」
久作がその真意を文殊丸に訊いた。
「いや、こりゃどうにもならないって事だよ。だってそうだろ? 最重要拠点の稲葉山は目と鼻の先が国境だし、東の勢力は寝返るだろうからアテには出来無い。そんでもって西の勢力は足並み揃わずに右往左往で、鼻息荒いのは真ん中の少数。しかも俺らとは仲良しじゃないって、助け舟を出したところで乗ってくれる訳無いじゃねぇか」
そこまで文殊丸が言うと、半兵衛は曇った表情で言う。
「おそらく隼人佐様たちには、ボクらが何を言っても傾ける耳は持ち合わせていないだろうね」
全く持ってその通りだ。と文殊丸は思いもしたが、口には出さずにその先を訊く。
「なにか遣り取りでもあったのか?」
しかし、その答えには半兵衛では無く源次が口を開いた。
「うむ。とある情報を得てな、殿の指示で隼人佐様の下へは届いた筈だがの」
源次が言うには、尾張に潜ませた草が織田と内通する者の情報を得て来たというのだ。それは反織田派の中心人物である隼人佐と盟約を結び、加治田を預かる佐藤忠能であったという。隼人佐が反織田を掲げて抗戦を主張できるのは、加治田を治める佐藤氏と堂洞を治める岸氏、三者間での中濃三城盟約があってこそのものであったのだから、内通の情報が事実であれば根底から瓦解しかねない事態である。この情報は、半兵衛の計らいで守就を介して西美濃三人衆からの提言として龍興の下へと送られたのだが、後見の隼人佐は情報源が曖昧であるとして取り上げなかったのだという。
「取り付く島も無し……ですか」
源次の話に久作が溜息混じりに呟いた。すると文殊丸は、
「仮に織田の立場で考えるならば、後は美濃の西を抑えてしまえば外堀を埋めて終わるんだろうな。そうすれば、後はじわりじわりと切り取って行くだけって事か」
そう言って西の隣国、近江に丸印を付けた。と、同時に一同の視線が伏せがちになる。最善の策を練ろうと息巻いていた源次も、突き付けられた現実を前に絶句してしまう。それは半兵衛にしても同じだ。自身が頭の中で構築していたものを眼前に事実として曝け出す事で、絶望的な状況がより輪郭をはっきりと浮かび上がらせてしまっていたからだ。
「ならばいっその事、龍興さんには速やかにご退場して頂くってのはどうかね?」
唐突に言い放った文殊丸の言葉に一同が絶句する。が、
「姉上! また文殊丸さんが突飛な事言い出しましたよ!!」
青褪めた顔で久作が声を上げた。
「落ち着け、久作っ!」
文殊丸はそう言って、手にしたおやきを久作の口に捻じ込んだ。
「――――――!!」
久作は文殊丸に向かって何事かを言おうとしているが、全く聞き取れない。
「別に龍興が稲葉山の主で無くなっても、斎藤家が無くなるって訳じゃないだろ?」
文殊丸はそう言って凛を見遣る。
「別に昔住んでいた場所が無くなっても、それがどうとかという感情は全く無いわね」
視線を向けられた凛はさらりと言って退けた。
「い、いや、それでは斎藤家惣領としての――」
俯いた半兵衛が言い終える前に、凛は続けて言う。
「現在の織田には、姉上と兄上も居るのだから、龍興に拘る必要は無いというのも事実」
凛が言った姉と言うのは、織田家へ輿入れした帰蝶の事である。そして兄と言ったのは、長良川の戦の折に織田家へと亡命した道三の末の男子である新五郎の事だ。凛が言うのは、仮に織田に攻められて甥である龍興が居なくなったとしても、凛の兄である新五郎が斎藤家を継ぐ事もあり得ると言っているのだ。また、信長と帰蝶の子が数多く誕生すれば、その中の一人が斎藤家を継ぐ可能性がある事も十分に考えられると。そして更に、
「いざとなれば私自身が立つ事も、私を人柱とする事も厭わない。武家の女として生まれたからには、その程度の覚悟は持っているというもの。あなたもそうでしょう?」
半兵衛は、凛の真直ぐな視線を眼前にして口を噤んだ。大身、小身の差は在るにせよ、凛の眼前に居る半兵衛は凛が口にした覚悟の体現者であるのだろう。凛の口から発せられた言葉は、凛なりの半兵衛に対する励ましであり、自身もそう在りたいという憧れの様にも感じられた。すると、半兵衛は深い息を一つ吐くと、
「そ、そうですね。私が今やらなければならない事が、やっと見えてきた気がします」
そう言って俯いていた顔を上げて、晴れやかな顔で凛と視線を交わす。そんな折、
「殿! 御客人をお連れしました!!」
引き戸の向こうから十助の声が聞こえた。
「こんな時分にどちら様かね?」
裸足のまま土間へと駆け下りて文殊丸が引き戸を開くと、そこには十助とその後ろに蓑笠姿をした凸凹な二人の人影があった。
「ご無沙汰致して居りまする」
蓑笠姿の大柄な男がのそりとした動きで文殊丸に頭を垂れた。
「小一郎さんじゃないですか!!」
予期せぬ来訪者に文殊丸が声を上げると、隣にいた小柄な蓑笠姿の男が黒光りする顔に白い歯を見せて、
「息災そうで何よりに御座る」
文殊丸に声を掛けた。
「藤吉郎さん!!」
文殊丸の出した名前に、囲炉裏を囲む面々の顔色が気色ばむ。源次は広げていた地図を懐へ仕舞い込み、久作は脇に置いていた刀の鞘を掴んだ。
「待った、待った、待った!!」
文殊丸はそう言って久作を制すると、
「取り敢えず、中に入ってくださいな。こんな所で立ち話という訳にもいかないでしょ」
二人を招き入れた。




