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戦国草子異聞奇譚  作者: BRACHIUM
異聞編 第二章
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7.ソハヤノツルキ(下)

 晩秋とはいえ、天高く日が昇る日中の肉体労働は流石に堪える。木々の合間を擦り抜けて吹き付けるそよ風と暖色に色付いた木々の葉が、軈て来るであろう冬の訪れを予感させる。文殊丸は寺へと続く坂道を上りながら、一人呟く。


「ふぅ。慣れて来たとはいえ、これだけ体を動かすとやっぱり一日二食じゃ体力が持たないよな」


 戦国時代の食習慣は、朝夕の一日二食であった。とはいえ、それは平時での話。戦となると、それに従軍する者達には夜食が追加されて三食となった。朝に一食、夕に一食。そして、夜襲に備えて夜食に一食。「腹が減っては軍は出来ぬ」とは正にこの事だ。然りとて、戦働きとは何も弓や槍で相手を打ち負かすことのみではない。出城を築いたり、空堀を掘ったり、はたまた水責め用に土塁を盛ったり。所謂土木工事の様なものも多く含まれていた。当然、肉体を酷使する重労働であるから夜食に一食分が増えた所で、到底体は持たなかった事であろう。


「おー、来た来た。そろそろ頃合いかと思って、こっちも準備しておいたよー!」


文殊丸が境内へと足を踏み入れると、手を振りながら半兵衛が文殊丸に声を掛けた。そう声を掛けた半兵衛の傍らでは、火を焼べられた大きな釜がぐつぐつと音を立てていた。


「お、いい感じだな。それじゃ取り掛かるとするか」


文殊丸は水場で手を洗い、顔を拭い終えると新たな作業を始める。麻袋に両手をそっと入れて中のものをゆっくりと取り出し、煮えたぎった釜の中へと放り込む。二回、三回と繰り返し、それから長い二本の棒で煮え滾る釜を掻き回す。次第に釜の水面に細かい泡が立ち始め、釜内の対流で放り込まれた物が生き物の様に泳ぎ回る。すると、時間と共にその泳ぎから徐々に固さが抜けて、やがて流れるような柔らかなうねりへと変わって行く。


「そろそろだな。半兵衛、水桶をくれ!」


文殊丸の呼びかけに、半兵衛は水で満たされた桶を文殊丸の傍らへ置いた。すると文殊丸は、うねりの中に差し込んだ二本の棒を器用に動かして釜を泳ぐ物体を絡め取り、次々に水桶の中へと放り込んで行く。


「へー、見事なものだね。キミにこんな才能があったとは驚きだよ」


間近で様子を見ていた半兵衛が、感嘆の声を上げる。そんな半兵衛の感心も他所に、文殊丸は水桶の中の物体を今度は竹で編まれた笊に移すと、勢い良く上下に振って水気を切った。


「これでよし。あとはー」


文殊丸はそう言うと、竹を輪切りにして作られた猪口へ手にした大きな徳利から、濃い色の液体を注ぎ込んだ。


「こんなもんだろ。とりあえず、これで完成だな。あとは海苔と山葵か長ネギがあれば言うこと無しなんだが、贅沢は言えないな」


文殊丸が自身に言い聞かせて額の汗を拭うと程無くして、


「みんな連れてきましたよー!!」


久作が手を上げて文殊丸に呼びかけながら境内へと歩んできた。


「何やら茹で物の匂いがするのぅ……」

「あー!腹減ったー!!」


そんな言葉を口々に、束の間の休息を取りに来た人々が久作に続いてぞろぞろと境内へ入って来た。


「皆さん、腹ペコでしょ。これでも食って鋭気を養ってくださいよ」


文殊丸はそう言って、濃い液体の入った猪口と箸を近くに居た婦人へ手渡した。


「何ですか、この得体の知れない物は……?」


婦人は大きな笊へてんこ盛りになった山を目の前にして、絶句した。灰色がかった細く長い物体など、未だ嘗て見た事も無かったのであろう。おまけに手渡された猪口には得体の知れない濃い色の液体。婦人の反応は当然と言えば当然か。


「これは蕎麦切りって言って、こうやって食うんだ。ここから一口分を箸で摘まんで、半分くらいをこのツユに漬けて――――啜る!!」


ずずずっという豪快な音と共に文殊丸は一気に口の中へ吸い込んだ。


「うむ、我ながら中々の出来栄え。美味し!!」


自画自賛する文殊丸を前にしても、婦人は呆気に取られたままの顔で立ち尽くしていたが、


「おっちゃん、おいらにもおくれよー。おいらも、ずずずーってやるー!!」

「あたちもやるー! ずずずーって!」


文殊丸のデモンストレーションへ真っ先に興味を示したのは、子供達であった。見た目や味、安全性よりも寧ろ、音の面白さに魅かれたのであろうか。二の足を踏む大人たちを尻目に、子供達は文殊丸へ我先にとせがんだ。子供達は箸と猪口を手渡されると、文殊丸の食べ方を真似て勢いよく音を立てて啜ると、ツユを顔中に撒き散らしながらも満足げな笑みを浮かべる。


「なにこれ! うんめぇー!!」

「おいちー! あたち、これ好きー!!」


子供達の笑顔に安堵した親達が箸を手に取り始め、やがて皆が蕎麦切りを口にする。余裕を持って作ってきたつもりであったが、あっという間に平らげられてしまった。半兵衛と凛が文殊丸の指示に沿って順次茹で上げてはいるものの、麻袋満杯に作って来た蕎麦は既に空だった。


「おっちゃん、おっちゃん! おかわりー!!」

「あたちも食べたいの……」


子供達に言われると、何とかしてやりたいと思ってしまうのは文殊丸の性分なのか。


「しょうがねぇな。ってか、おっちゃんじゃねえよ……。お兄さんだろがっ!! ちょっと待ってろよ」


おっちゃん呼ばわりした少年の頭を一頻ぐりぐりしてから、文殊丸は本堂の軒下へ繋がれた疾風の下へと走って行く。疾風に括られた荷物を担いで戻ってくると、皆の前で新たな蕎麦を打ち始める。取り出した大きな円形の器に石臼で引かれた全粒の蕎麦粉を移し、水を撒きながら指を立てて粉をおから状にする。適度に蕎麦粉が湿気を帯びたら、水桶に指先を漬けて水分を調整しながら素早く且つ丁寧に大きな粒にして行く。そして程良い大きさに纏まって来たのを見計らうと、力を込めて押し込みながら一つの塊を作り上げた。ちなみに、これらの蕎麦粉は以前に修繕した水車小屋の主に頼んで挽いてもらったものだ。「要らない」と言われたにも拘わらず、華麗な? 営業トークを駆使し、無理矢理オプションで水車に回転式の石臼を設置した産物だった。


「ほぉー、粉に対して水の割合は随分と少ないんじゃのう……」


寺の主が、文殊丸の手捌きを見ながら感心を示す。


「蕎麦掻きに比べたら、かなり少ないかな。肝心なのは、水の量と水まわし。少ないと直ぐにヒビ割れして生地に出来ないし、多過ぎたらベタついてこの次の作業に入れないからね。それと、満遍なく水を含ませないと固さが均一にならないから要注意。その為には、しっかりと捏ねないとダメ。あ、作り方教えましょうか?」


 当初は接客要員として入った、地元の駅前でひっそりと老夫婦が営んでいた蕎麦屋のバイト。店主が体を悪くして蕎麦を打てなくなり、急場凌ぎで店主に替わり文殊丸が蕎麦を打つことになった。それまではボソボソの蕎麦として近所で有名だったが、店主の指示の下で文殊丸が打ち始め、何時しか喉ごしの良い美味い蕎麦として知られるまでになった。『月・水・金の一日限定二十食』という希少さも目を惹いていた事だったろう。そもそも食数を限定したのは、ただ単に文殊丸がバイトに入っている時にしか蕎麦が打てないという理由でしかなかったのだが、『蕎麦を滅多に食えない蕎麦屋』そんな稀有な状況が、ニッチな客層を虜にしていたのかもしれない。学生生活終盤の就活は、超就職氷河期の真っ只中。やっとの思いで就職先が決まり、文殊丸が蕎麦屋のバイトを辞める事を申し出ると、時を同じくして老夫婦は店を畳んだ。社会人生活の始まりと共に上京した為、「身体に気を付けて頑張りなさい」と背中を叩かれて別れたあの日以降、老夫婦とは十年近く顔を合わせていない。


「して、この塊が如何にしてあの様な細い糸状に成るのですかな?」


遥か彼方へ視線を投げたまま感慨に浸っていた文殊丸を、呼び戻す様に寺の主が蕎麦切りの作り方を催促した。


「おぉう、そうだった……。『百聞は一見に如かず』かな? まずは――――この蕎麦玉を薄く延ばす」


文殊丸は我に返ると、大きく平たい木製の板と細長い棒を取り出した。木製の板の上に軽く粉を振ってから塊状の蕎麦玉を乗せると、両の掌で平たく押し潰して行く。すると今度は、細長い棒を手に取って巧みに操りながら厚みのあった生地をくるくると円を描く様にして延ばして行き、軈て四角い敷布の様な生地が出来上がった。


「ほぉー。見事なものですな」


文殊丸の手捌きに、寺の主は感嘆の声を漏らした。


「んで、こいつをこうやって畳んで――――準備完了!」


生地を九十九折に畳み終えた文殊丸はそう言うと、腰に二本差ししていた刀の一振りをすらりと抜き放った。


「うわーぁ! お助けぇ~!!」

「きゃぁー!!」

「御気を御鎮めくだされー!!」


近寄って観ていた人々が一斉に慌てふためき出し、中には腰を抜かす者まで出る始末。


「いやいや、ちょっ……。そうじゃなくて――――これは蕎麦切り包丁なんだよ! 落ち着いて!!」


文殊丸が落ち着かせようと試みるも、手にした抜き身のままの刀に周囲の者達は戦々恐々。文殊丸が右往左往しながら言葉を尽くして取り繕うが、喧騒は止まない。文殊丸が手にしていた刀は、源次から譲り渡されたものだ。文殊丸がバイトの時に愛用していた蕎麦切り包丁をイメージして源次に製作を頼み込んだのだが、「そんな幅広の包丁は打てない」とあっさり断られ、「これなら扱い易かろう」と刀掛けに置かれていた小太刀をそのまま渡されたものであった。 

 文殊丸は止まぬ騒めきの中で蕎麦の生地に正対すると、手にした刀で軽快な音と共に折り畳まれた生地を切り始める。蕎麦切り包丁と化した小太刀と敷かれた木版が軽やかな旋律を奏で始めると、慌てふためいていた人々の視線が文殊丸の手先へと吸い込まれるように集まって行く。そして半ば程まで切り進めた所で刀を置き、切り分けられた蕎麦を解して掲げると、


「ほらっ、見て見て!! こうなるの!!」


周囲を納得させる様に示した。すると、


「はー、大したもんだわ」

「なるほど。それで蕎麦切りと言うのか」

「ウチでも作ってみるか。なぁ、おっ母ぁ」


慌てふためいていた人々は感嘆の声と共に胸を撫で下ろし、掲げられた蕎麦に目を奪われた。


「よし、じゃぁ追加で茹で上げるから、存分に腹拵えしてくれ!」


文殊丸がそう声を掛けると周囲の人々が「おー!!」と一斉に応え、団結感と心地良い高揚感が生じた。そんな中、文殊丸がボソリと言う。


「で、こんな時になんだが――――後で御代を頂きます」


一瞬にして微妙な空気が一帯を支配し、つい先刻までの団結感と高揚感は何処へやら。そして、じっとりとした視線が文殊丸へと向けられる。この場に居る全員が蕎麦切りを口にした後であるから、その視線の数と鋭さは尋常では無い。


「いやいや、何も銭をくれって言うつもりは無いんだ。気持ちでいいから、蕎麦以外の物を対価として貰えればそれでいい。別に不味かったって言うんなら払わなくても構わない。また食いたいって思ってくれたら俺としては嬉しいんだけどね」


向けられた視線を気にも留めないかの様に、残りの生地を切り進めていた文殊丸はさらりと言った。とはいえ周囲の人々からすれば、未だ嘗て口にした事の無い物に対価を求められても判断に悩むのは当然の事。黙々と蕎麦を切り進める文殊丸の包丁捌きを見ながら皆が思案に難儀していると、寺の主が木製の椀を手に本堂の方から文殊丸の下へと歩んで来た。


「当方にはこれしかお渡しできる物が御座いませぬ。本当に気持ち程度にしかならんが、これをお納めくだされ」


そう言った寺の主から、木製の椀を文殊丸は受け取ると、


「おや? これは小麦じゃないですか。これだけ頂ければ十分です。有難うございます」


そう言って恭しく頭を垂れた。すると、周囲の人々は呆気に取られた顔をする。


「小麦なんて、馬の餌だろうに。そんなものでいいのかい?」

「それくらいなら、ウチにもあるよ」

「じゃぁ、おいらは桶一杯にして持って来るから、この笊の分は全部おいらが貰うよ!!」

 

 米作の裏作として小麦を育ててはいたが、製粉の技術が十分に発達していなかった為にその殆どが食用としてでは無く、飼料として売却されていた。搗き臼で表皮と中身を分離する手間を考えれば、手離れ良くそのまま飼料として売却してしまっていたのは、当然の結果の様にも思える。それ故に、周囲の人々は口にした蕎麦切りの価値を勘案すると「そんなもの」感は拭えなかったのだろう。片や文殊丸からすれば、水車小屋に設置した石臼を使えばその手間は搗き臼を用いるよりも簡便に行えるのであるから、然したる問題では無かった。


「今度はうどん屋でも始めるかな?」


和気藹々と蕎麦切りに箸を伸ばす人々の笑顔を眺めながら、文殊丸は新たな蕎麦を打ち始めようとしていた。


 後日、文殊丸が用いた蕎麦切り包丁の切れ味と、文殊丸の軽快な切り様に感心した者がその包丁を真似て刀を拵え、なかごに銘を刻んだと云う。その銘は『蕎麦屋の剣 (そばやのつるぎ)写す也』。主を替えて伝えられたその刀は、その切れ味と扱い易さを気に入った某大御所が、自身の今際の際に「この刀の切先を西に向けて安置する様に」と遺言したとかしないとか……。


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