5.ソハヤノツルキ(上)
長閑な谷間の村落に、初秋の心地よい風が吹き抜ける。棚田に茂る黄金色の稲穂は頭を垂れて風に揺れ、豊穣の秋を予感させている。半兵衛が浅井新九郎賢政より割り当てられた草野の地は、谷間の小さな村落だった。山一つ越えれば小谷城下と鳰の海が望める、北近江と美濃との境にある場所ではあるが、街道から少し奥まった地域であった為に人や物の動きが活発とは言い難いものがあった。半兵衛達の新居は、簡素な作りの母屋とそれに隣り合う様に新たに建てられた鍛冶場のみという非常に質素なものであった。鍛冶場には伽羅繰屋と乱雑に書き殴られた看板らしきものが、何時来るでもない客を待ち詫びる様に秋風に曝されていた。
小谷城下での黄粉餅騒動から既に一月程が経っていた。久作の傷は癒え、必要以上に忙しない姿は以前と変わらぬ程にまで回復していた。半兵衛は日がな一日書に耽り、十助は畑を耕して土弄りに明け暮れる。源次と文殊丸は鍛冶場で鍬鋤の手入れに勤しむ、そんな穏やかな日々が繰り返されていた。戦乱の世にありながらも晴耕雨読の日々に身を委ねる生活は、自分達がさながら隔離された別世界に存在しているのではないかと錯覚させる程でもあった。山向うにある隣国美濃では、尾張の織田が美濃への侵攻を本格化させている。そんな情報が源次の仕切る草達により逐一伝えられていた事で、辛うじて同じ世界に存在している事が認識できていた様にも思えた。
伽羅繰屋と看板を掲げてはいるものの、その実態は草達を仕切る源次が情報を集約する為の表向きの姿でしかない。しかし、稀にではあるが、一般の客が迷い込んで来る事がある。包丁や鎌の手入れに始まり、粉を挽く水車の修理や茅の葺き替えまで。伽羅繰屋と銘打つものの、その実態が判然としない為なのか、ありとあらゆる仕事が舞い込む万屋稼業。普段は怠惰な見習い従業員も、この時ばかりは「どう熟してやろうか」と腕が鳴るというものか。
そんな折、「長雨の度に川が決壊してしまい、耕作するにも難儀している」といった無理難題が持ち込まれた。話を持ち込んで来たのが川上の集落の若い娘達であったから、話もそこそこに席を立とうとした源次とは異なり、文殊丸が無理難題にもかかわらず鼻息を荒くしたのは言うまでも無い。
「うら若き乙女達が心を痛めているんだ。ここで立たなきゃ男が廃るってもんでしょ。ねぇ、十助さん」
川上の集落の娘たちを帰した後、母屋で火の無い囲炉裏を車座に囲みながら文殊丸は、畑仕事に一段落付けて囲炉裏で一息ついていた十助に同意を求めた。
「文殊丸殿のその心意気には感心するものはありますが、流石に今度ばかりは如何なものでしょうな。川の決壊を防ぐとなると、これはもう治水工事になります。領主ですら、なかなか手を出したがらない類のものに御座る」
文殊丸に同意を求められた十助も、首を振りながら今回ばかりは同意しかねると言った素振りで文殊丸に答えた。
「え? そうなの? 領民が困ってる時に、御領主様は手を差し伸べようとはしないものなの?」
文殊丸は腑に落ちない、と言った顔で十助に訊いた。
「治水工事というものは掛かる費用に対して効果が目に見えにくく、尚且つ、水に押し流されれば全てが無駄になってしまいます。ですから、小領主程度ではなかなか手出しする者は御座いません」
十助は文殊丸を諭すように言うと、隣にいた源次の方をちらりと見た。すると、源次は十助の意を察したのか、
「断るなら早い方が良いじゃろう。余りに先延ばして、無駄に期待を持たせるのも酷じゃろうて」
そう言って立ち上がると、足早に鍛冶場へ向かって行ってしまった。
「ちょ、待ってよ! まだ続きがあるんだってば……」
源次の塩対応に文殊丸が面食らっていると、
「まったく、騒々しいね。自適に書を読み進める事も儘ならないとはね」
そう言いながら源次と入れ替わる様に、数冊の書を小脇に抱えた半兵衛が縁側から車座に加わって来た。
「姉上、姉上! また文殊丸さんが突飛な事を言い出したんですよ」
呼ばれてもいないのに車座に加わっていた久作が、半兵衛に文殊丸へ再考を促す様に助けを求めた。
「おいおい、人をアホな子みたいに言うなよ。それに、「また」ってなんだよ。そんなに言う程、俺発信で迷惑なんて掛けてないだろうが」
文殊丸は久作の迷惑千万的な言い様に反論するが、
「いやいや、小谷での一件にしてもそうですよ。文殊丸さんが茶屋に行こうなんて言わなければ、オイラだってこんな風にはならずに済んだんですからね――」
久作はそう言いながら着物の裾から右足を出して、痛々しい火傷の痕を文殊丸に見せつける。が、
「はいはい、自業自得でしょ。それよか半兵衛、丁度いいところに来てくれた。折り入って相談なんだが……」
文殊丸は久作の責任追及を華麗に放置して、半兵衛に前置きを言おうとすると、
「いいよ」
半兵衛は一言だけ言って、静かに自身の湯呑を手に取った。
「あ、ありがとう。って、まだ内容を言ってないんだが」
半兵衛の否定的な返答を想定して言葉を選んでいた文殊丸は、呆気ない程の即答に気勢を削がれた。そんな文殊丸とは対照的に、半兵衛は顔色一つ変えずに茶を啜っていた。
「そ、そのだな、川上の集落の治水工事をしたいんだ」
気勢を削がれた文殊丸は、気を取り直して話を進めた。
「いいよ」
さらに半兵衛はそれだけ言うと、涼しげな表情で飲みかけの湯飲みを囲炉裏の炉縁に置いた。すると、今度は二の句を継げようとした文殊丸よりも先に、久作が声を出した。
「姉上! な、何を仰っておられるのですか。治水工事なんて無茶無謀にも程があります! 第一、そんな大掛かりな仕事に割く人手も財源もないでしょう?」
噛みつくように声を張り上げた久作をそのままに、半兵衛は文殊丸を見遣ると、
「何か考えがあるんでしょ? で、ボクは何をすればいいんだい?」
そう言って脇に置いた書を一つ手に取り、開いた書に視線を落とした。
「人手が欲しい。そうだな、二十人位居れば足りると思うんだ。後は、ここに居る面子で十分だと思う」
文殊丸は前のめりになって半兵衛に言った。
「ちょ、勝手に人数に加えないでくださいよ!!」
半兵衛が答えるより先に、久作が口を開くも、
「え? 二十人って、それだけで足りるのかい?」
半兵衛は、久作の抵抗を気に留める事も無く、文殊丸に訊き返した。
「こっちから用立てるのはそれ位で良いと思うんだ。あとは向こうの集落からも、男衆の助力はあるだろうしさ」
久作や十助の心配を他所に、文殊丸は楽観的に半兵衛に答えた。
「とはいえ人手を出せるのは、あと一月程先になるよ。まだ稲の刈り入れが残っているでしょ。それが済んで農閑期にならないと、近隣の衆も手を貸してはくれないだろうからね」
半兵衛は右手の人差し指を立てて、文殊丸に条件を提示した。
「こっちにも、しなきゃならない事だってあるしな。寧ろ、準備期間としては申し分ない」
文殊丸は半兵衛の条件提示を全くの譲歩無しに飲み込んだ。するとそれを聞いていた十助が、
「さりとて、得る物無くば近隣の衆が素直に手を貸すとは思えませぬが……」
神妙な面持ちで歯切れ悪く言い掛けた。
「それならば、手を貸してくれた者達には今年の年貢の割合を軽減するなんていうのはどうかな。幸い、今年は実りも豊かな様だしね。それに、こちらも粟や蕎麦なんかの雑穀類の備蓄は十分にあるようだし」
半兵衛はそう言って、手にしていた開かれた書を指差した。
「なんじゃそりゃ?」
文殊丸が訝し気な表情で半兵衛に尋ねた。
「あぁ、これはボクが預かっている領地台帳の写しだよ。小谷へ挨拶に行った折に、預かってきたんだ。耕作面積と、その耕作主。それと前年に何がどれだけ収穫できたか記載されているんだ」
半兵衛が説明するのを聞きながら、文殊丸は横から台帳を覗き込んだ。
「――蕎麦」
文殊丸が文字を指差して、思わず口から発した。蚯蚓がのた打ち回ったような文字の中でも、それだけは辛うじて文殊丸にも読むことができた。学生時代にアルバイトしていた蕎麦屋の入り口に架かっていた、暖簾に染め抜きされた文字と一緒だったからだ。
「おや、読めるのかい? そう、蕎麦だよ。ここは谷間にあるから、棚田にもできない様な斜面では蕎麦を作ったりもしているんだよね。おかげで、蕎麦の備蓄は過剰な程だよ」
半兵衛は文殊丸に感心しつつも、偏った備蓄状況に嘆息をついた。
「え? 余る程なのに、俺は口にしたことがないんだが……」
文殊丸は思い返すも、こちらの世界に来てから蕎麦を食した記憶がなかった。玄米を炊いたものや、雑炊。それに汁物と香の物。余裕があるときには、根菜などの煮物や焼き魚などが食膳に並んでいたのを思い浮かべる。出される食事に不満があった訳ではないが、時には色物も食したいと思っていた今日この頃ではある。
「あるよ。雑穀の雑炊に入ってたりしたでしょ。あとはそうだね、蕎麦掻きにして食べるなんて方法もあるけど、ボクが得意じゃないから食膳に上る様な事は無いけどね」
苦々しい顔をして語る半兵衛のすぐ横で、文殊丸は目を輝かせて半兵衛に言う。
「それだ!!余ってる蕎麦も貸してくれ!!」
思わず文殊丸は半兵衛の手を握っていた。
「わわわっ! わかったよ。わかったけど一体そんなものをどうしようというんだい……」
文殊丸の突然の行動に半兵衛は顔を高潮させながらも了承し、消え入るような声で問い返した。しかし、
「よし! 善は急げだ。行くぞ久作!!」
文殊丸はそう言って久作を引っ張りながら、母屋から駆け出して行ってしまった。




