4.軍略談議
「痛い! 痛いたいたいたいぃーーっ!!」
「少しは我慢してください。そんなに動かれては手当の仕様が無いですよ!!」
久作の悲痛な叫びと、それを嗜めるような与吉の声が閉ざされた襖を挟んだ向こう側から聞こえて来る。与吉が久作の手当てを試みるが痛みを堪えきれない久作がのたうち回っている、遮られた襖の向こう側がそんな状況なのであろう事は容易に想像が出来た。濱屋で合流した半兵衛一行は喜右衛門の残した言葉に従い、負傷した久作を手当てする為に小谷城下にある清水谷の遠藤邸を訪れていた。
「此度は御迷惑をお掛け致し、誠に申し訳無い。貴殿の御厚情に篤く御礼申し上げる次第に御座る」
半兵衛はそう言うと深々と頭を垂れた。
「お気に召さるな、拙者は馳走になった礼を致したまでの事。頭を下げられる等、過分の礼に御座る」
喜右衛門はそう言って半兵衛に頭を上げさせるが、半兵衛の少し後ろに座する十助は相変わらず納得のいかない表情のままだ。そんな十助の顔色を意に介する事も無く、喜右衛門は続けて言う。
「さておき、美濃の客人。如何な用向きでこの地に参られたのか?」
然したる前置きも無く、唐突に質問をぶつけられた半兵衛は目を瞬かせた。
「用向き、ですか……?」
半兵衛が唐突な質問に答え倦ねている間も、喜右衛門は切れ長の双眸から鋭い視線を半兵衛に向けていた。
「ははは。美濃を追われて行き場を失い、新九郎様の御厚意に縋ったというだけの事ですよ」
半兵衛は、笑いながら手をひらひらとさせて喜右衛門の鋭い視線を遮りながら答えた。
「それは表向きの事、であろう? 竹中殿」
喜右衛門は、半兵衛の瞳の奥を射抜く程の視線の鋭さを緩める事無く追及を続ける。
「いやいや、他意は御座いません」
顔色を変えるでもなく、さらりと半兵衛は返した。そんな半兵衛の反応を窺う様に、更に喜右衛門は問い掛ける。
「浅井の軍勢が美濃へ侵攻しようとした折に、後背を六角の軍勢が衝こうとしているのを報せたのは貴殿であったと聞くが、それは寧ろ美濃への侵攻を足止めさせる為に貴殿が六角を動かしたのではないのか?」
確かに、その点については文殊丸も懸念はしていた。北近江と隣接する西美濃を拠点としていた半兵衛が何の策も無く浅井の美濃侵攻を見過ごす筈は無い。何らかの確信があって攻めさせたのではないか、と。
「あぁ、なるほど。それが兵法三十六計に云う遠交近攻ですか。浅井家へ報せずに、こちらも討って出ていれば挟み撃ちに出来たであろうと。あぁ、そういう手もありましたね。ふむふむ、狭隘の西美濃へ誘い込んだ上で敢えて通過させて、大垣辺りに展開した大軍で迎え撃てば……。ははは、勿体無い事をしてしまいましたね。これは良い勉強になりました」
半兵衛は、然も今気付きましたと言わんばかりの表情で頭を掻きながら、毒気を多分に含ませて返した。そんな半兵衛の仕草に「そういう事か」と文殊丸は一人納得していた。
半兵衛の言う通り、美濃からも軍勢を差し向けて浅井の軍勢の進行を阻めば、六角の軍勢と挟撃する事も可能であったのだろう。狭隘の西美濃の地を通過させ、広い平野への出鼻で急襲する。そして、狭隘に詰まった浅井の軍勢をその後背から六角の軍勢に攻め立てさせる。それが半兵衛の軍略家として描いた最高のシナリオだったのかもしれない。当然の事ながら、喜右衛門も同じ立場であったならば軍略としてはそうする事が最善の策であると踏んでいたのだろう。
だが、半兵衛の行動は異なっていた。なぜ挟撃しなかったのか、それが喜右衛門の問いかけの真意であろう。美濃国内部へ深く侵攻させることを善しとしなかったのか、はたまた龍興が半兵衛の策を拒んだのか。半兵衛が浅井に六角の動きを報せた事に因り、浅井の美濃国侵攻を食い止めて浅井と六角の衝突を回避し、八方丸く収める結果となったのを考えると、文殊丸は一つの結論に辿りついた。
統制が取れずに混乱状態である軍事的事情と、度重なる内乱で民草が疲弊している内政的事情を鑑みると、美濃国内を戦場とする戦は避けなければならなかったのだろう。そんな中、微妙なバランスで均衡を保っていた外交状態を最大限に生かして国内戦力を温存させる手段としては、敢えてある程度浅井に侵攻させてから「隙あらば何時でも急襲出来る」というデモンストレーションを浅井に見せて、侵攻を思い留まらせる必要があったのだろう。
「戦自体、起こしたくなかったのか」
不意に文殊丸の口から出た言葉に、半兵衛は軽く頷いて見せた。
「これは見事に謀られましたな。噂に違わぬ策士ぶり。さぞかし龍興殿も手を焼かれた事でしょうな」
喜右衛門は両の腕を組んでそう半兵衛を評した。
「手を焼いたのは、こっちの方だっつーの!」
半兵衛の隣に座した文殊丸は、美濃での一件を思い出して思わず口走った。
「ほう。そこな御仁は……」
喜右衛門は半兵衛の隣に座する文殊丸に視線を向けた。十助は主である半兵衛の後ろに座し、凛は少し離れた位置に座している。慣習として家臣の者が主の隣に座する事はほぼ皆無であるのに、半兵衛の隣で膝を崩して堂々と座っている文殊丸の姿に喜右衛門は少々面喰っていた。
「あ、文殊丸です。伽羅繰屋の見習い従業員です」
文殊丸は端的に自己紹介をした。
「伽羅繰屋とは、商人であるか? 職人であるか? して、竹中殿とはどういった間柄か?」
喜右衛門が半兵衛と文殊丸の関係について掘り下げようと文殊丸に質問を投げかけると、半兵衛が顔を紅潮させて慌てた口調で喋り出す。
「あ、いやいや、その、関係という程の関係では無くてですね。べっ、別に男女の関係とかそういうものは――あうっ!!」
半兵衛の脳天に文殊丸の手刀が突き立った。
「取り敢えず落ち着こうか、半兵衛」
文殊丸に水を差されて半兵衛は一瞬不貞腐れた表情をした。そんな半兵衛は頭を擦りながら、
「あはははは……。それよりも、幼くもしっかりとされた御子息が居られて、さぞかし将来が楽しみなことでしょうね」
襖の向こうの与吉へ話の矛先を向けた。
「ふむ、あれは拙者の子では御座らん。」
濱屋での一件に居合せなかった半兵衛は、明後日の方向に話を振ってしまった事に気付かされた。
「え……。そ、そうでしたか。それはそれは……」
半兵衛は思わず自身の失態に赤面するも、喜右衛門は頬を綻ばせて語り出した。
「あれは与吉と申しましてな。以前、犬上郡を治めていた藤堂家の次男坊であるが不遇をかこっておった故、拙者の下にて預かり置いた由。中々に見所のある小僧でしてな」
そう語る喜右衛門の眼差しは、何時しか真贋を定めんとする鋭いものから慈しみを湛える穏やかなものへと変わっていた。そんな喜右衛門の思わぬ変化に、戸惑った半兵衛が口を開こうとした時だった。
「おや? 偏屈な喜右衛門に来客とは、世の中には物好きな者が居るようだな」
一同が会する座敷に面した中庭から、爽やかに声を掛ける青年の男が居た。
「こ、これは殿! 御呼び頂ければこちらから参りましたものを」
喜右衛門はそう言って座敷から縁側に出て平伏した。
「善い善い。勝手にこちらから押し掛けただけの事、気にするな。おぉ、竹中殿であったか!」
爽やかな男はそう言って縁側に腰を掛けると、半身のまま喜右衛門に面を上げさせた。
「奇遇ですね、先程お会いしたばかりだと言うのに。またお会いできるとは、新九郎様」
半兵衛はそう言って軽く頭を垂れた。
「ほぅ。浅井随一の知恵者と美濃随一の知恵者か、軍略談議でもしておったのか? これは見物だな」
新九郎は興味津々といった表情で喜右衛門に訊く。その姿は英雄譚に心躍らせる少年の様な清々しさがあった。しかし、そんな新九郎の期待は叶わなかった。
「お待たせしました。あまりに動き回るものですから、大変でしたよ。暫くは安静にしていてください」
開けられた襖から、久作に肩を貸しながら出て来た与吉が半兵衛に声を掛けた。与吉に支えられながら歩く久作の右足には、薬草から生じたであろう毒々しい赤紫色のエキスがしみ込んだ布が幾重にも巻かれ、痛々しい姿そのものだった。
「この毒々しい液がもの凄く滲みるんだけど、本当に大丈夫なんだよね?」
久作は、額に脂汗を滲ませながら苦悶の顔で与吉に訊いた。
「代々、遠藤家と縁のある場所から取り寄せている薬草から作った万能薬です。私達も使っている物ですから、心配は無用です」
久作の懸念は与吉の言葉にバッサリと両断された。
「与吉殿、愚弟が手間を掛けさせて申し訳ない。遠藤殿、重ねて礼を申す。それでは我らはこれにて失礼仕る」
半兵衛がそう言って喜右衛門と新九郎に向かって頭を垂れると、十助と文殊丸が与吉と替わって久作を両脇から抱え上げ、その後ろを凛が付いて行く恰好で半兵衛一行は遠藤邸を辞去した。
「拙者は、あの者達を迎え入れる事には賛同致しかねまする」
半兵衛一行を客間より見送った喜右衛門が、縁側に腰掛けていた新九郎に言った。
「やはり、か。喜右衛門がそう申すのは分からないでもない。恐らく、そう長くこの北近江に留まっては居るまい。ただ、半兵衛は手放すには惜しい人材だ」
新九郎は中庭に植えられた緑を見遣りながら呟いた。
「確かに、あの者の才は敵とするには危険ですな。更に申せば、あの男も相当に厄介な者に御座いましょう」
喜右衛門はそう新九郎に返すと、両の腕を組んだ。
「あの男とは、半兵衛の後ろに控えた隻腕の男か?」
新九郎は喜右衛門に視線を移すと、確認する様に訊いた。
「否、伽羅繰屋に御座る。あの男もまた、鋭敏な才を持つ者に御座いましょう」
喜右衛門はそう言うと、両の腕を組んだまま切れ長の目を瞑った。




