41.旅立ちの朝
照り付ける日差しの鋭さも、未だその爪を隠す早朝。半兵衛とその郎党は稲葉山からの出立の準備に追われていた。或る者は屋敷と外を忙しなく往復し、或る者は運び出された荷を馬に括り付け、或る者は縁側に横になって大きな欠伸をしていた。
「はいはい、欠伸なんかしてないでキミも手伝う!」
縁側に横たわる文殊丸の耳元で大きく手を叩いて、半兵衛が文殊丸に荷造りの催促をした。
「え? 俺は源爺さんのとこに帰るだけだから、別に何も持っていく必要ないだろ」
文殊丸は気怠げに上半身を起こして半兵衛に言った。
「キミは一体、何処へ帰るつもりなんだい?」
半兵衛が呆れた顔をして言った。
「へ? 今、何と仰いました?」
半兵衛の言葉に文殊丸は目を瞬かせながら言った。
「そんな間の抜けた顔をしている場合じゃないよ。皆に置いて行かれちゃうよ?」
半兵衛は更に呆れた顔をして文殊丸に荷造りを促す。
「ん? 話が見えないんだが、半兵衛さん。俺は伽羅繰屋の見習い従業員なのだよ。だから、言うまでも無く工房へ帰るに決まってるじゃないか」
文殊丸が当然の様にそう答えた。すると半兵衛は、
「竹林の中にあるあの工房は、もう使えなくなっちゃうんだよ。翻意が無い事の証に、軍需物資を供出させられるだろうからね」
と、理由の一端を明かした。
「軍需物資?」
文殊丸が訊き返す。
「そう、軍需物資。木材や鉄源は戦の道具の素になるからね。つまり、予めそれらを没収して戦力を削いでおくという事だよ。特に竹なんかは、弓矢に用いられたり防柵に用いられたりと加工性も良くて汎用性もあるから、尚の事だよ。あそこは謂わば、軍需物資の塊だからね。ましてや丸裸にされちゃったら、隠れ家としてはもう使い物にならないしね」
半兵衛は文殊丸の問いに丁寧に答えた。
「あー。でも、鍛冶場と工房は残しておいてもいいんじゃないの? 鍬鋤の鍛冶仕事とか雑具の手直しとか、少しはそれなりに仕事もありそうだし……。」
文殊丸は控えめに、半兵衛へ工房存続の打診を試みた。
「あそこは元々、草達の情報を集約する為に築いた場所なんだ。だから、大っぴらに人の出入りが判ってしまっては何の用も為さないんだよ。大変残念な事ではありますが、あの場所はもう放棄する事に決めました」
半兵衛は両の腕を組むと、取って付けた様に丁寧な口調できっぱりと工房の存続が有り得ない事を文殊丸に告げた。
「え……。じゃぁ、俺は一体何処へ行けばいいんですかね?」
文殊丸は雨に打たれた子猫の様な視線で半兵衛を見上げる。
「だーかーらー、早く荷造りしなさいって言ってるでしょ!!」
半兵衛にきつく言われて、文殊丸は持って行けそうなものを手当たり次第に掻き集める。鍋釜お構いなしに荷造りする文殊丸見て、半兵衛は言う。
「そんな無駄に大きな荷物を疾風に運ばせる気かい?」
半兵衛に言われて、慌てふためいていた文殊丸は手を止める。
「……半兵衛さん。そもそも、何処に行くのかも判らずに荷造りなんて仕様も無いんですけど。みんなは判ってるのかね?」
我に返った様に文殊丸が半兵衛に問い掛けた。
「取り敢えず、供廻りの者達は夫々の家に帰すよ。これからはボクの郎党としてでは無く、源助の為に力を尽くしてもらわなければならないからね」
半兵衛がそう言うのを、文殊丸は手を止めたまま聞いている。
「ただ、十助はどうしてもって言うものだから、ボクと行動を共にする事になったよ。あ、それと人質として不要になった久作もね。源助の身内から新たに稲葉山へ出さないと、人質としての意味が無いからね。ボクらは、少し離れた所からこの国の行く末を見守ろうかと思っているんだ」
これからの事を静かに語る、憂いを帯びた半兵衛の眼差しに文殊丸は一つ溜息をつくと、
「そうか。じゃ、それに洩れなく俺もオマケで付いて行くって事になる訳だな」
立ち上がって半兵衛に向かって言った。ところが、半兵衛は文殊丸の意図しない返事をする。
「いや、無理にとは言わないよ。キミにはキミの人生がある。商いを始めて頑張り続ければ大店の商人となる事もできるだろうし、浪々と諸国を巡って見聞を広めることだってできるだろうし。恐らく、ボクについて来たら晴耕雨読の日々になるよ。ずっと土弄りなんかをする事になるんじゃないかな? キミはそんな退屈な日常に耐えられないでしょ?」
半兵衛にそう言われるものの、文殊丸には商いを始める為の元手も無ければ諸国を巡る為の路銀も無い。そもそも伽羅繰屋の従業員とはいえ、住み込み生活の生活費の対価としての労働であった為に財産らしい財産など何も持ち合わせてはいなかった。ただ、持って生まれた性分は至って怠惰なものであり、「土を弄って生きて行けるならそれもアリ」的な事を考えなくも無かったのだが、それにも増して未知の世界に何の後ろ盾も無くして放り出される恐怖の方が、余程耐えられそうに無かった。
「いやいや半兵衛さん、そんなに攣れない事を仰らなくてもいいじゃないですか。これも何かの縁、乗りかかった舟。ご一緒させて頂きますよ……」
文殊丸は額に汗を滲ませて言った。
「だから、無理にとは言ってはいないんだけど」
半兵衛は、文殊丸の悲壮感漂う表情を嫌々ながらの同行と捉えた物言いをした。
「というか、俺がここで捨てられた場合どうなるか。行倒れるか、行倒れるの二つしか選択肢が無いじゃないですか。あはは……」
文殊丸は乾いた笑いと共に眉を引き攣らせながら言った。半兵衛はじっとりとした視線で見つめながら文殊丸の意思を確認すると、
「そこまで言うなら、同道を拒みはしないよ」
仕方なさそうな素振りを見せながらも、嬉しそうな表情で前置きをして今後について語り始める。
「ひとまず、この美濃の国を離れようと思うんだ。きっと、ボクが領内に残ったままでは源助に肩身の狭い思いをさせかねないから。竹中は何時牙を剥くか知れない一族という風に思われ続ける事になるだろうしね」
半兵衛の説明に文殊丸が水を差す。
「それならそれで、近場に居れば抑止力になるんじゃないの? おかしな事したら何時でも城を乗っ取るぞコラー! みたいな」
文殊丸は拳を振り上げて冗談めかして言った。
「ははは。それは無いよ。もう二度とあんな方法で落とすことは出来ないだろうからね。もうきっとボクらが稲葉山に近付くことすら警戒してくるだろうし、美濃国内では監視の目も厳しくなるだろうからね」
半兵衛は差された水を笑い飛ばしながら否定した。そして呼吸を整えてから柔和な笑みを浮かべる。
「病に伏したと称して、隣国の近江で隠棲しようかと思うんだ。伝手もあるから、暫くの間は大きな不自由もなく過ごせるとは思うよ」
そう言って半兵衛が続けようとするが、
「ってことは、菩提山には寄らずに直接その近江ってところに向かうんだな?」
文殊丸が間に割って入る様に言った。
「相変わらず察しがいいね。正解だよ。監視の目が厳しくなる前に近江へ抜けるよ」
半兵衛は文殊丸の問いに満足げな笑みを返しながら言った。
「で、そこまではどれくらいかかるんだ?」
文殊丸はそこまでの道程を半兵衛に訊く。
「そうだね、馬で駆ければ二刻くらいかな。途中までは帰宅組と紛れて一緒に行くから半日ちょっとくらいじゃないかな」
半兵衛の答えを聞くと文殊丸は
「これは要らない。これも要らない……」
そう言いながら、無駄に大きな荷物の中から不要な物を辺りへ散らかす様に放り投げ始めた。
「立つ鳥跡を濁さず、なんて言葉知ってる?」
呆気にとられた表情で半兵衛は文殊丸に問い掛けた。
「俺は鳥じゃないから、そんな習性は持ち合わせて無い!」
そう自信たっぷりに言い切る文殊丸に半ば眩暈を覚えつつ、半兵衛は屋敷の外へ出て行った。
戦国草子異聞奇譚 異聞編 第一章 完




