40.Half & Half
曇り無く綺麗に磨き上げられた漆黒の珠が、板張りの床を滑る様に転がって行く。ほんのりとした青白い光を帯びた珠は、半兵衛と隼人佐の間にあった床の窪みに阻まれてその勢いを止めた。漆黒の珠はその身に周りの景色を映すでも無く、禍々しい陰鬱な黒さを湛えていた。
「————!!」
倒れて来た襖に気を取られていた筈だった隼人佐の視線が、半兵衛と対峙する板張りの床へと寄せられる。
「光を、発している……だと?」
隼人佐は自身に言い聞かせる様に言葉を吐いた。暫くの逡巡の後、隼人佐は半兵衛を始めとした応接の間に居合せる者達の顔を見渡すと、
「この中に、黒珠に魅入られし者が居るというのか……」
そう言って立膝になりながら、久作を文殊丸を十助をと、折り重なった三人を上から順番に舐めるような視線で観察し始めた。
その隙に半兵衛は素早く黒珠を拾い上げると、冷静さを保った表情で口を開いた。
「左様に御座る。某かも知れませぬし、そこな郎党の中の者やも知れませぬ。見かけだけでは測り様もありますまい。……三人とも、そこにお直りなさい」
冷たい半兵衛の言葉に文殊丸を始めとする三人は戦慄し、隼人佐は平静を取り戻した。隼人佐は半兵衛へ向き直ると重々しく口を開く。
「……既に、天啓は降りたのか?」
半兵衛は隼人佐の問いを、
「何が天啓で何が戯言なのか、某には判別が付きませぬ。故に全ての言を信じれば、ここで貴殿に斬りかかると言う天啓もあり得ますな」
と冗談に聞こえない冗談で淡々と返した。
「ふんっ、随分と小憎らしい物言いをする様になったものよ」
隼人佐は鼻を鳴らして半兵衛に言うと続ける。
「天啓が降りれば、即ちそれは業に憑かれた事をも意味する。宝珠に魅入られし者は、どう抗おうとその業より逃れる術はない。それはお主も知っていようものを」
隼人佐が言い終えると、
「確かに、飛騨守のそれは酷い様に御座いましたな。あの尋常ならざる肥え方は、醜き事この上無い物に御座いましたし。あれが業に因るものとすると、天啓は差し詰め西美濃衆を政から遠ざける事だったのでしょうか」
飛騨守が重用され始めたのと入れ替わりに、西美濃衆が政から遠ざけられた事実の裏付けを半兵衛は求めるでもなく呟いた。
「今となっては、ではあるがな」
隼人佐は直接的な明言はしなかったものの、暗にその事実を認めた。
天からの啓示であるという天啓。それが誰が為の天啓なのか、何を、何処へ導く天啓なのか半兵衛に知る術は無い。ただ、現状の斎藤家の政がその天啓に基づいていた事実を告げられると、落胆の色は隠し様も無くなっていた。言うまでも無く、斎藤家での栄達が絶たれた事への落胆では無い。龍興にこの稲葉山を返しても状況が変わることは無い、という帰結が得られてしまった事にである。
「左様に御座いましたか。然れば、この稲葉山は殿にお返し致しましょう。そして魂が抜けて脱殻となったこの宝珠も某には無用の物故、お渡し致そう」
半兵衛は力無くそう言うと、手にした透明な数珠を隼人佐の前に差し出した。
「ふむ。殊勝な心掛けじゃ」
隼人佐は満足げにそう言って、透明な数珠を懐に仕舞い込む。
「して、其方の仕置きについてではあるが……」
そう言い掛けた隼人佐の言葉を遮る様に、文殊丸が口を開く。
「余り欲を掻かない方がいいんじゃないの? 稲葉山も手に戻って、始末に困ってた輩も居なくなって、至れり尽くせりじゃない。強いて言えば、殿様の無能さが世に知らしめられたってだけの事だろ? あ、それは皆知ってた事で今更か。メンゴメンゴ……」
文殊丸が茶化す様に口を挟むと、隼人佐では無く半兵衛が文殊丸を鋭い視線で睨み付けた。
「うひっ!!」
小さくなる文殊丸を横目に半兵衛が口を開く。
「然るべきけじめの付け方というものがあろう事は、承知致しておりまする」
そう前置きをして半兵衛は続ける。
「某は家督を譲り隠居致しまする。序列で申せば、其処に在る久作にとなりましょうが、此度の一件に関わった者である為に憚られましょう。故に、菩提山は従弟である源助に譲りまする。これを以って、これらの儀に関しましては手打ちとして頂きたい」
半兵衛の発した言葉に十助は絶句し、久作は口を開けたままだった。
「さて、そうと決まれば俺らはお暇するとしようかね」
文殊丸だけが意気揚々と席を立とうと声を出した時だった。
「時に、兄君は御息災か?」
不意に隼人佐が半兵衛に訊いた。
「何を仰っておられるのか、兄は疾うに鬼籍に入って居りまする」
隼人佐の質問に、半兵衛は眉を顰めて感情の無い声で答えた。隼人佐は半兵衛の答えを聞いていたにも関わらず、さらに続ける。
「最後に会うたのは如何程前であったか」
半兵衛に構わず話を続ける隼人佐に半兵衛は、
「随分と昔の事になります故、某には判りかねますな」
と話を打ち切る様に言うが、隼人佐は意にも介さずに続ける。
「それ程昔の事ではあるまい。去年の年賀の挨拶に登城した折であったかのう」
隼人佐の物言いに、珍しく半兵衛が苛立ちの色を見せる。大切な故人の話を突然切り出されて、触れられたくない琴線をかき乱されたのだろう、と文殊丸は半兵衛の顔色を察した。文殊丸は隼人佐の話の腰を折る為に席を立って応接の間を退席しようと襖の引手に手を掛けようとした。そんな文殊丸の背中を指差して、隼人佐はぶつける様に声高に言い放った。
「待て! 儂の目はそこまで耄碌してはおらんぞ、半兵衛重治!!」
隼人佐が発した言葉に、十助と久作が目を見開いた。
「はぁ? 半兵衛はそっちだっての! おっさん、十分過ぎるくらい耄碌してるじゃねぇか」
文殊丸は半兵衛を指差して隼人佐に言い捨てた。
「話は付いたんだろ。もう俺等がここに居座る理由も無えから、荷物纏めて帰るんだよ。矢鱈に故人の話をして、思い出したくも無い過去を穿り返すもんじゃねぇだろ」
文殊丸は皆が意図しない方向で正論を吐くと、早々に応接の間から退室してしまった。
「あの者は嘗て、旧主半兵衛重治の影武者を担って居た者に御座います。今は鍛冶屋の下働きをしており、文殊丸と申します。御無礼の段、平に御容赦頂きたく……」
十助はそう言って平伏した。その傍らを半兵衛は隼人佐に一礼して退出して行った。
「あ、ちょ、まっ……」
久作は言葉にならない何事かを口にすると、慌てて隼人佐に一礼して半兵衛の後を追った。
「それでは、某も支度が御座います故。これにて失礼 仕りまする」
十助は隼人佐に再び丁寧に礼をして席を立とうとした。
「暫し待たれよ、喜多村殿」
隼人佐が十助を呼び止めた。
「もしや、半兵衛殿は記憶を失っておられるのか?」
隼人佐は薄い顎鬚を撫でながら十助に訊いた。
「さて、某には何を問われているのか皆目見当も付きませぬ」
十助はそう言って隼人佐の問いに答えると、襖を静かに閉めて応接の間を辞した。




