4.驢馬と虎
文殊丸は初めて知った。
源次の工房が美濃と近江の国境、しかも人通りも疎らな村落からさらに少し離れた、小高い山を背にした竹林に存在しているということを。普段、ほとんど来客がないのも頷ける。時折、行商人らしき人物が雑多な荷物を抱えてやってきて、鍛冶製品と引き換えに荷物を置いていく。そんなやり取りも、何度か見かけた程度だ。
工房で文殊丸は、源次から渡された地図を広げて首を傾げていた。首を右へ左へ何度も傾けながら地図を覗き込む文殊丸に、見かねた葉が助け船を出した。
少しばかり歴史に造詣のある者であれば分かろう地名も、どこの事だか解らない。美濃だの近江だの言われても、歴史音痴の文殊丸からしてみれば、完全に異世界だ。要するに、山奥の村落のまた更に人里離れた竹林に居るのだ、と文殊丸は解釈することにした。
葉とは、源次の娘だ。文殊丸に音速を超える速度で水を浴びせかけて、一瞬で姿を消した女性だ。年の頃は文殊丸と同じくらいか。源次や凛とは異なり、作務衣的な衣服では無く落ち着いた萌黄色の着物に身を包んでいた。文殊丸の知るところで言えば、有名旅館の美人若女将とでも言ったところか。とは言え決して華美では無く、物腰の柔らかな印象を受ける。嫁いだものの夫に先立たれ、後家となって源次のもとへ帰ってきたという。凛と連れ立って歩いているのを見て、母娘と言われれば納得してしまいそうになるが、会話の関係を見るとどうやらそうでは無い様だった。その佇まいと甲斐甲斐しく凛達の世話をする姿を見ていると、野に咲き和かな風に揺れる、白い董の花の様な趣を感じずにはいられなかった。
「私たちが居りますのは、ここですね。そして、この先の沢沿いを下って行って……」
源次作の大雑把な地図に詳細を補足していた葉は、とても和かな口調だった。
「あ、あぁ。な、なるほど……」
文殊丸はその心地良さに、思わず聞き入ってしまっていた。
「大丈夫ですか? まだ、どこか具合が悪かったりしていませんか?」
葉が半ば惚けていた文殊丸を気遣って、文殊丸の顔色を窺う様に訊いた。
「あ。いやいや、全然。全く問題無いです。続けてください、お願いします」
文殊丸はそう言って我に返ると、気を引き締め直して説明の続きを促した。
葉の説明によると、馬で一刻少々、徒歩では二刻弱程度かかるという道程のようだ。ちなみに、ほとんどが山道となるので、馬でも大きく時間を短縮できる訳ではないそうだ。目的地は、菩提山の麓の大樹のある寺だという。
「葉さん助かったよ、ありがとう。そんじゃちょっくら、遠足に行ってきますかね」
文殊丸は、葉に礼を述べて立ち上がると、出立の準備に取り掛かった。源次から渡された地図と皮袋を懐に仕舞い込んで、竹製の水筒と驢馬用の鞍を担ぐと、引戸から工房を出て厩へ向かった。厩へ着くと、馬房の一番端に繋がれていた疾風の背に鞍を乗せ、鞍の後ろに水筒を括りつけた。そして、馬房の閂を外して左手で手綱を引き、
「よろしくな、相棒。頼りにしてるぜ!」
と、頭を撫でようとした文殊丸の右手を、疾風は首を大きく振って掻い潜った。
「え? 俺への信頼値はゼロっすか、先輩……」
馬房から出された疾風は、ゆったりとした歩調でのらりくらりと歩き出した。と思いきや、徐に道端の草を食み始め、手綱を引かれても何処吹く風。
鍛冶場から出てきた源次がその後姿を見やり、
「大丈夫かのぅ?」
昼下がりの竹林に溜息が漏れ響いた。
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景観が緑と直線の形成物から、次第に雑多なものへと変わって行く。竹林を抜けて、樹木が林立する山道に出た。山道といっても整備されているわけではない。人一人がようやっと通れるか、場所によっては生い茂る草木の隙間程度の幅しかない、獣道と呼ばれる類のものだ。そして、そこから暫くは勾配のきつい獣道を手綱片手に疾風を曳き、眼下に見える沢を目指して九十九折りに下って行く。
低木の枝葉や蔦などが繁茂し、進み行くのはなかなか容易ではない。文殊丸は慣れない足元に苦戦しながら、ふと考えた。おっさんを担いで源次はこの坂道を帰ってきたのか? と。あの好々爺的な笑みの裏に潜む何某かの思惑を感じると、文殊丸は軽く身震いした。そんな思いに同意を求めるでもなく、文殊丸は無意識に疾風の首筋を軽く撫でていた。しかし、頼りたい相棒はそれに対しても我関せずといった、つれない態度のままだった。
沢まで辿り着くと疾風に跨り、涼やかな波音を立てる水面を眺めながら沢を下る。苔生した岩場に足を取られぬように細心の注意を払い、なるべく平坦な足場を探しては、ゆっくりとした歩みで道程を進めて行った。
そうこう何度か獣道を辿り沢を下りと繰り返し、太陽に赤みがかかった頃にようやっと人里が見えてきた。人里と言っても、さほど大きい集落ではないように見える。文殊丸は懐から地図を取り出して
「目的地は、この集落のでいいのか? てか、地図が大雑把過ぎだろ。誰かに訊くか――」
と呟いて周囲を見渡すも、周りには人の姿が無い。
「とりあえず――それらしき大樹のある寺とやらを探してみますか、先輩」
文殊丸はそう言って地図を懐に仕舞うと、跨っていた疾風の鬣を撫でた。
地図に記された目印の大樹を探して集落を歩く。暫し歩き回ってみると、やはり人の気配が感じられない。よく見れば、田の畦は苔で覆われ半ば朽ち、稲が植えられていたであろう一面には、背の高い雑草が群生している。ぽつりぽつりと、人が生活していたであろう小屋が視界に入るも、戸は外れて壁板は破れたまま。到底、現在進行形で人が使っているとは思えない有様だった。集落としての形はあれども、そこに住まう人々の生活の息吹が全く感じられない。妙な違和感を感じながら、文殊丸は歩みを進めて行った。
程無くして、文殊丸が集落に入ってきたのと反対側の小高い場所に、大きな広葉樹が見えた。文殊丸は疾風に跨ったまま、ゆらりゆらりと歩みを進める。近づくと、数段の石段と低めの石垣があり、その先にこの集落の中で一番大きな建物が見える。文殊丸は疾風から降りると、疾風の手綱を曳いてゆっくりと石段を上り、草の生茂る石垣の上に出た。恐らく、寺だ。
板葺きの屋根は、ところどころに反りが生じて剥がれかけ、壁板には大きめの隙間が目立つ。欄間の装飾にはびっしりと蜘蛛の巣が張り付き、寺の銘板は色を失い役目を果たしていない。つまりそれは、かつて寺だったもの、だった。
「見えてはいけないモノが見えちゃったり……しないよな」
文殊丸は言いながら疾風の首を撫でたが、疾風はいつも通りの気の無い素振りでゆっくりと歩み続けていた。
本堂と思わしき建物の傍らに、樫の大樹が立っていた。文殊丸はゆっくりと周りを見渡しながら、疾風を曳いて本堂を回り込んで大樹の方へと歩みを進めた。すると、本堂の縁側に人影があった。一人の人物が、文机の前に胡坐をかいて欠伸をしながら、何某かの書物に目を通しているのが見えた。
「お、第一村人発見……か? 実は見えてはいけないモノだったり」
文殊丸がそう呟いた瞬間、疾風が嘶いた。
「きゃっ!!」
「ひーっ!!」
静寂を切り裂いた疾風の嘶きに、第一村人と文殊丸が同時に驚きの声と悲鳴をを上げた。
「ちょ、センパイ! チビっちゃうとこだったじゃないの!!」
文殊丸が恨みがましそうな視線を疾風に向けるも、疾風は何処吹く風。そのまま縁側にいた人物の方へと歩んで行ってしまった。
「疾風じゃないかぁー!」
縁側にいた人物は、裸足のまま疾風に向かって走り寄ると、その首筋に抱き着いた。疾風も特に害意が無いのを知っているのか、嫌がる素振りも見せずに軽く頭を垂れている。
「俺の時は塩対応だったくせに……。扱い違くね?」
文殊丸は不服そうに呟きながら、その人物を見やる。
齢は二十歳そこそこ位に見受けられる。かなりの長身で、180センチはあろうか。その割に色白く痩身で、中性的な感を得ずにはいられない。端正な顔立ちで涼やかな眼差しはどことなく物憂げな、それでいて眼前の事象を見透かすかの様な鋭さを孕んでいた。淡い水色の羽織と白い袴に身を包み、その両袖には白い笹の葉のようなものが九枚描かれた家紋が見て取れる。小奇麗な出で立ちと風貌に、そこそこの身分の者ではないかと勘繰った。そして、文殊丸が目的を果たすために、依頼人の情報を得ようと第一村人へ声を掛けようとすると、
「やぁ。待っていたよ、文殊丸だね。まさか疾風と一緒に来てくれるとはね」
文殊丸は、機先を取られ、
「え、え??」
目を瞬かせていた。
「疾風はね、ボクの父上が道三公より拝領したんだ。いい娘でしょ?」
文殊丸はさらに目を瞬かせる。
「今何と?……メスだったの?」
ぽかんと口を開けて文殊丸は惚けたように言った。すると、第一村人は告げた。
「ボクが依頼人の竹中重虎だよ、よろしくね。みんなには半兵衛って呼ばれているんだ」
半兵衛と名乗る人物は文殊丸に向き直り、右手を出して握手を求めてきた。
とりあえず、目的の半分は達成できたようである。