36.木の下の兄弟
山肌を駆ける風に乗って、陽気な笑い声が木々の間を抜けて稲葉山を巡って行く。笑い声は龍興邸より発せられていた。
文殊丸に勧められるままに自棄酒を呷っていた藤吉郎が、
「最早持て成される理由も無くなってはしまったが、こうなっては存分に楽しまねば悔いも残ろうというもの。されば余興に」
と言うや否や軽い身のこなしで座敷の中央へ飛び出すと、膝を屈めて中腰になり床に手を付きながら即興の猿舞を始めた。
藤吉郎の色黒で皺くちゃな顔と小柄で機敏な動きが相まって、既にそれは猿の真似の領域を超えていた。顔を拭う仕草をしながら、座っている小一郎の背後にやって来る。そしてしゃがみ込んで小一郎の背中を摘まむ様な仕草をして、毛づくろいの真似を演じる。小柄な藤吉郎の滑稽な仕草と、所在無げに座っている広い背中の小一郎との対比が笑いを誘う。それから藤吉郎はふらりと小一郎の傍を離れると、今度はたどたどしい足取りで胡坐を掻いた文殊丸の膝に座り込み、お道化た表情を見せる。藤吉郎のハイクオリティな猿舞に笑い声と拍手は絶えなかった。
一頻笑い終えると、
「やっぱりこういう時は、こちらも何か返礼をしないとね」
半兵衛はそう言って文殊丸を見遣る。
「俺に余興をやれと? いくら何でも、あの藤吉郎さんの後ってのはやりずら過ぎだろ……」
文殊丸は藤吉郎の猿舞に舌を巻いた。そんな文殊丸に半兵衛は言う。
「出来の良し悪しの問題じゃないよ。厭くまでも心遣いの問題だよ」
さらりと言う半兵衛に文殊丸は反論して言う。
「だったらお前がやれよ。出来の良し悪しの問題じゃなくて、心遣いの問題なんだろ?」
そう言われた半兵衛は口を尖らせて言う。
「だから、ボクはこういう場は得意じゃないんだってば!」
そんな半兵衛と文殊丸のやり取りを聴いていた十助が、脇に置いた太刀を掴む。
「されば、拙者が一差し剣舞を……」
そう言い掛けた瞬間、
「十助さん待った! そんな物騒な物振り回されちゃ敵わないよ。仕方ねぇな、一丁やるか」
文殊丸はそう言うと懐から手拭いを出して頬被りをすると、床の間に飾ってあった花木の枝を短く折って鼻の両穴に一本ずつ差し込んで口に咥えた。
「おひ。準備完了!」
間の抜けた気合いを入れると、文殊丸は傍らにあった盆を両手で持って足元から何かを追い立てる様な仕草をしながら、腰をカクつかせて中腰でひょこひょこと歩き出した。手に持った盆を箕に見立てて鰌を救う真似を始めた。所謂、安木節の男踊りだ。駆け出しのサラリーマン時代に新年会の座興にと、当時の課長直々に仕込まれた宴会芸だ。半兵衛はきょとんとした表情をしていたが、藤吉郎と小一郎には文殊丸の仕草に思い当たる節があった様だ。文殊丸が盆を置き、親指を鰌の頭に見立てて捉え損ねた鰌を手掴みする様を演じ始めると、藤吉郎も躍り出て一緒になって鰌を捕まえる仕草をし始めた。二人の滑稽な仕草に、それまで不機嫌顔だった守就も手を叩いて笑い出していた。しかし、文殊丸だけは何か微妙な違和感を感じていた。
初夏の日差しを上回る熱気を帯びた酒宴も酣を既に越え、縁側から見える西の空は赤々と染まっていた。吹き抜ける風が酔って熱を帯びた頬を少しずつ冷まして行く。自棄酒を呷り過ぎた藤吉郎は倒れて、酒宴の座敷にそのまま寝かされていた。守就は奥座敷へ戻り、半兵衛と十助は夫々屋敷に戻って行った。酒宴の座敷の縁側に文殊丸と小一郎が風に吹かれながら佇んでいた。
「いやはや、兄者があそこまで楽しんでいる姿は久しく見ていなかった気がします」
縁側に胡坐を掻いた小一郎が、夕陽を見遣りながらポツリと言った。
「え? 藤吉郎さんって、普段からあんな感じなんじゃないの?」
小一郎の隣に座って、文殊丸は小一郎の言葉に真意を図りかねた様に訊いた。
「兄者は生来明るい気質ではありますが、ここ最近ではあそこまでの燥ぎ様は無かった様に思います。信長様の為にと必死になって働いてきたからでしょうか。どことなく昔の明るさとは違う物を私は感じていましたものですから、それが気掛かりでもあったのですが」
そんな心情を吐露する小一郎へ、更に文殊丸は感じていた違和感について訊く。
「そう言えば気になってたんだけど、藤吉郎さんって、右手の指多くない?」
小一郎はやはりといった顔をして文殊丸に答える。
「お気付きになりましたか。確かに、右手の親指が人より一本多御座います。それもまた、信長様に心酔する理由の一つなのかも知れませぬ」
文殊丸は夕暮れの風に吹かれながら、黙って小一郎の言葉に耳を傾けている。
「他人と異なる姿形はどうしても不要な軋轢を生んでしまった様です。幼き頃に、一人生まれた村を出て森に迷って行き場を失っている所を拾われたと申しておりました」
小一郎の話を聞いていた文殊丸は思わず口を開いた。
「ん? どういうこと? 藤吉郎さんは小一郎さんの兄貴なんじゃないの?」
文殊丸の問いに小一郎は続ける。
「幼き頃に寺に出されて小坊主として修業しておりました折に、兄弟子らに謀られて一人で山菜採りに山へ出されまして。敢え無く道に迷い、行倒れているところを私も拾われた身に御座います」
額を掻きながら言う小一郎の告白に文殊丸は、
「え? 道に迷った繋がりってこと……?」
文殊丸の珍回答に小一郎は訂正を加える。
「ははは……。当たらずも遠からず、ですね。育ての親が一緒という事です。私共は山の民の長に拾われて育てられました。我らは木の下で拾われ木の下で育ちましたものですから、故に木下と名乗って居ります」
文殊丸は感慨深げな表情で小一郎の声に耳を傾けていた。片や血縁の柵に囚われて一族同士が血で血を洗う争いを演じる者達も在れば、片や全くの他人であるのに実の血縁以上の絆を見出す者達も在るものなのだな、と。
「兄者は信長様に仕官を申し出た折に言われたそうです。『他人より指が多いは、他人より多くの働きが期待できるということであろう。励め』と。その言葉が今でも兄者の背中を押しているのだと最近では殊更に感じる次第です。今回の調略の使者に名乗りを上げたのも、その現れでしょう。」
縁側で足をぶらつかせながら文殊丸は口を開いた。
「なるほどね。信長さんは他の人達とは違う見方をしてくれたのか。人と違う事は短所ではなく長所に換えろ、か。そりゃヤル気スイッチ入っちゃうだろうね」
小一郎が両目を瞬かせながら文殊丸に訊く。
「やるきすいっち……ですか?」
文殊丸が笑いながら答えようとすると、
「小一郎、その辺にしておけ。長居し過ぎたようじゃ。そろそろ辞去するとしよう」
文殊丸と小一郎が振り向くと、そこにはすっかり酒気の抜けた藤吉郎が居住まいを正して立っていた。
「文殊丸殿、今の話は心に仕舞っておいてくだされ。表立って話に出されると、こそばゆい物にて」
藤吉郎はそう言いながら小鼻を掻いていた。
「藤吉郎さんは良い主に恵まれたんですね。話をふいにしちゃった俺が言うのも何だけど、頑張ってくださいね」
文殊丸の言葉に藤吉郎は晴れやかに笑みを見せると、
「我が殿、織田上総介信長様は天下をお取りになられる器よ。何れこの稲葉山も攻め落としてくれよう。文殊丸殿、御覚悟召されよ!」
声高にそう言って笑いながら、小一郎を連れ立って龍興邸を後にした。




