35.祝宴(下)
「申し遅れ申した。某は織田家家臣、木下藤吉郎秀吉と申す。以後、見知り置きくだされ」
藤吉郎と名乗る男はそう言って少し頭を下げると、隣の小一郎を右肘で小突いた。
「は、私は木下小一郎長秀と申します。以後お見知り置きください」
小一郎は、両の手を床につけて丁寧に頭を垂れた。それに答える様に文殊丸が名乗ろうと口を開けようとすると、半兵衛が遮る様に話し始めた。
「して、木下殿は如何な用向きにて御足労頂いたのでございましょうか?」
半兵衛の問いに藤吉郎は躊躇いも無く答える。
「それはですな、この稲葉山の城と井ノ口の城下町をお譲り頂きたくお願いに参上した次第に御座る。とは申しても安藤様より快いご返答も頂けた故、これ以上に目出度き事は御座らん。その為の祝宴で御座ろう?」
藤吉郎が言い終えるや否や、半兵衛は最奥に座す守就を鋭い眼光で睨み付けた。
「やや、決して悪い話では無い。何せ信長殿は美濃の半分を所領として確約すると申して来た。儂とそなたでそれを分ければ良い話。それ以上を望むは分不相応と言うものであろう」
何の悪びれる素振りも無く言い放つ守就に半兵衛は語調は穏やかではあるものの、珍しく両の眉を吊り上げて言い返す。
「あ、あなたにその権限は無いでしょう?厭くまでも、あなたは城代であってこの城の主ではない筈ですよ!」
急転直下、慶祝気分だった宴席の空気が修羅場の体に転がり出す。
「あれ?不味くね?半兵衛さんマジ切れモードに入っちゃってませんか?」
文殊丸は潜めた声で十助に問い掛けたが、十助は瞑目したまま黙々と酒を呷っているだけだった。
「何を言うか!今この城を預かっておるは儂より他に誰が居るのか。よもや半兵衛、お主であるとでも言うのか?」
文殊丸の懸念は的中していた。事此処に至って、今まで自我を抑えてきた守就には信長からの美濃半国という誘いは十二分に甘美な響きであったようだ。この機を逃すまいという気持ちが守就の語気を荒くしていた。しかし半兵衛もここに至るまでの忸怩たる思いと悔恨の念を、途中で放棄出来る程軽忽な志で蜂起した訳では無い。剰え、自らが美濃の主になろうなどという気は毛頭無い。
半兵衛が守就に反論しようとしたその矢先、
「やや、これは失礼致した。貴殿が竹中殿で御座ったか。某の無礼にてお怒りになるは御尤もに御座る。平に、平にご容赦を」
藤吉郎が声高に言いながら半兵衛に向かって平伏した。藤吉郎は調略の結果が暗転する気配を察して、半兵衛の機嫌を取り直す手に出た。しかしながら半兵衛の意思は揺るがなかった。
「木下殿。誠に申し訳無い事と存ずるが、この一件については無かった事としていただきたい。この城は厭くまでも我らが一時的にお預かりしているに過ぎませぬ故、某にも安藤殿にもこの城の帰趨を決する手立ては持ち合わせてはおりませぬ」
掌を返した物言いをされた藤吉郎は、何としてもと食い下がる。
「や、武士に二言は無いと申すもので御座ろう。仮にも城代である安藤様より頂いた返事を無きものとせよとは、誰が目に見ても得心いきませぬぞ!」
藤吉郎の言に勢いを得た守就も、口角泡を飛ばして言う。
「龍興様が居られぬ今、誰に決めることができようか!儂以外に居るまい!!」
激しい語気で藤吉郎と守就は半兵衛に翻意を迫った。
「されば、ここに居ります」
半兵衛はそう言うと、隣で空になった徳利を独楽の様に回していた文殊丸を指差した。
「ん?どした?」
一同の視線が文殊丸に注がれる。当の本人には視線が集められる理由が解らない。当然の事ながら、藤吉郎にも守就にもその真意は図りかねた。
「某は、此の者の言により志を確たるものとし決起した由。故に、此の者無くばこの城の現状はそもそも有り得なかったものに御座る。龍興様が不在の今、龍興様以外にこの城の帰趨を決する事ができる者があるとすれば、それは某でも安藤殿でも無く此の者を置いて他には有り得ませぬ。」
藤吉郎は勿論の事、守就もぽかんと口を開けたまま絶句していた。
「不躾では御座いますが、そちらの御方は何方様に御座いましょうか?」
激高していた藤吉郎や守就とは対照的に、冷静に事の行く末を見守っていた小一郎が当然の質問を投げかけると、
「文殊丸殿に御座る」
それまで黙って酒を呷るだけだった十助が口を開いた。
「確かに、文殊丸殿を置いて他には考えられませぬな。文殊丸殿が印術を破らなければ、今ここに某が座している事も無かったでありましょうし、延いては此の現状に至る事も無かった事に御座いましょう。あの場に居られなかった義兄上には解りますまい」
奪取劇で直接的に参加する事を躊躇い、あわよくば的に城下警護の為の出兵にしか応じなかった守就にとって、十助の言葉は痛いところを突くものであった。ここに至るまでの仔細を知らない藤吉郎や小一郎にも、半兵衛や十助の論じ様から十分に文殊丸抜きには話が進められない事は読み取れた。
「さ、されば改めて文殊丸殿にお伺い致す。我が殿、織田上総介信長は此の城と井ノ口の城下町と引き換えに美濃国の半分を貴殿の所領として確約すると仰せに御座る。いや、ご心配召さるな。美濃国を手中にしてもおらぬのにとお思いになられようが、信長様は現斎藤家当主龍興殿の御尊祖父にあたる斎藤道三殿より美濃国の譲り状を遺言として頂いておる故、この申し出に偽りは御座らん。望まれる地をそのまま所領として認めると仰せに御座る」
藤吉郎が改めて文殊丸に信長の意向を提示してきた。破格の厚遇での調略である。藤吉郎もこの言葉に落ちぬ者無しといった、自身に満ちた表情で文殊丸の返答を待つ。
「んじゃ、この城と井ノ口の城下町を貰っておこうか」
文殊丸は手にした徳利の中を覗き込みながら、吐き捨てる様に言った。
「は?」
その場にいた一同が文殊丸の言葉に目を丸くした。
「織田さんからの事付けはちゃんと聞いたよ。そしてその内容にも応じたよ。これで木下さんの役目は果たされたでしょ?でも俺が欲しいのは他でもないこの城と、井ノ口の城下町だったと言うだけの事」
文殊丸は当然の様に付け加えて言った。
「い、いやそれでは安藤様の返答と異なりますれば……」
藤吉郎は翻された返答を覆そうと取り縋るものの、文殊丸は左の掌を翳し藤吉郎の言葉を遮るようにして続ける。
「あ、ごめん。俺は武士じゃ無いから、二言も三言も何遍でも言うよ」
文殊丸の言葉に起伏の少ない表情だった小一郎が驚愕の表情を見せて言う。
「何と申されるか、武士では無いと?」
文殊丸は手にした徳利を床に置くと、
「某は伽羅繰屋の見習い従業員、文殊丸にござる!」
胸を張って、取って付けた様に十助の真似をして言い切った。
険しい顔をしていた半兵衛が思わず吹き出して笑い出すと、釣られる様に小一郎が笑い出し、更には藤吉郎も大声で笑い出した。緊迫していた宴席の空気が一瞬にして緩んだ。ただ、真似をされた事に気付いていない十助と、事の結末が自身の意の儘にならなかった守就を除いて。
「さ、自己紹介も済んだことだし、これで一件落着。ささ、飲み直しましょうよ」
文殊丸はそう言って半兵衛の膳に添えてあった徳利を抱えて藤吉郎の傍らに座り込むと、藤吉郎の盃に酒を注ぎ始めた。
「兄者、これは一杯食わされましたな」
小一郎が藤吉郎を横目に見ながら言った。
「ここまで言われては仕方無かろう、相手が一枚上手であったと云うまでの事よ。城の主次第でこうも変わるとは、今のこの城は誰がどのような手で攻めても難攻不落じゃろう」
藤吉郎は流石にこれ以上は何を説いても結果が変わらないと察し、文殊丸の勧めに只々応じて酒を呷るしか無いと腹を括った。
その様子を反対側の膳で見つめていた十助が、隣の半兵衛に酒を勧めながら言う。
「我らも祝宴と参りましょうぞ」
 




