34.祝宴(上)
深緑の山道を半兵衛が先頭を速足で行き、十助そして文殊丸と続いて龍興邸へと向かう。稲葉山を占拠してから、安藤守就が政務を執り行う為に滞在していた龍興邸を仮の政所として用いていた為だ。ただ、渉外交渉については半兵衛に一任されていた為、他家の使者が直接守就と面会をすると言う事は本来あってはならない事態ではある。
「半兵衛さん、何か雲行き怪しくなってきてない?」
文殊丸は先を行く半兵衛に訊いた。
「どうだろうね。まだ雨は降りそうに無いとは思うけどね」
半兵衛は頭上の木々の間から覗く、抜ける様な青空を見ながら問いに答えた。
「いやいや。そうじゃなくてさ、守就さんの事だよ。お前に何も言わず直接使者と面会するなんて、如何にもで怪し過ぎだろ」
文殊丸が言うのを聞いて半兵衛は答える。
「相変わらず察しが良いね。恐らくボクに使者を寄越しても色好い返事が引き出せないから、あちらに矛先を変えて来たんだろうね。だからと言って、はいどうぞって渡すつもりはないんだけどね」
視線の先に龍興邸の木で作られた門が見えてくると、涼を運ぶ風に乗って賑やかしい声も耳元へ運ばれて来た。
「ん?やけに騒々しいな」
文殊丸が半兵衛に聞こえる様に呟くと、半兵衛もそれに頷く。
「確かに酒肴を用意するようにとは言ったけど、この盛り上がり様は一体……」
半兵衛は歩みを止めて小首を傾げながら、暫し黙考する。
「ま、何とかなるでしょ」
半兵衛はそう言うなり再び龍興邸へ向かって歩き出した。
「え?作戦とか何かあったんじゃないの?」
文殊丸は、半兵衛に交渉の場での立ち居振る舞いを指示されるものと構えていたが、肩透かしを食らった表情で十助を見遣る。
「殿がああ仰るのであれば、心配は無用に御座る。我等も参りましょう」
十助はそう言って半兵衛に続いた。
「どんだけ信頼し切ってんだか。ってか信頼と言うより盲信の域に達してません?」
文殊丸の愚痴に前を行く十助が足を止め、振り返って言う。
「拙者の命は殿に預けて御座る。故に、我らは殿の進む道を共に歩むのみに御座る。愚直と言われようが盲信と言われようが、それが武士の生き様というものに御座ろう?」
快活に言う実直な十助の言に一切の迷いは無かったが、文殊丸はやれやれといった表情で歩みを進める。
「我等って、俺の事か……? って、俺は武士じゃ無いですよ!伽羅繰屋の見習い従業員ですよっ!!」
そんな二人のやり取りを尻目に、半兵衛は門番に労いの言葉を掛けると龍興邸へ入って行ってしまった。十助と文殊丸は慌てて半兵衛を追って門を潜った。
「はっはっは。目出度き哉、目出度き哉。ささ、安藤様もう一献!」
半兵衛達が屋敷に入ると、奥の座敷から朗々とした声が響いて来る。半兵衛の指示に従った治右衛門が用意した酒宴の席からの様である。板張りの廊下を真っ直ぐに突き当たりまで行き宴席の間の前に着くと、半兵衛は着物の襟を正し裾を揃えて身形を整えながら文殊丸に言う。
「どうやら、客人はボクの苦手な性格の御方の様だ。キミが先に入ってくれないかな?」
突然の半兵衛の申し出に文殊丸は目を見開いて言う。
「は?何でだよ、それじゃぁまるで主と従が逆になっちまうだろうが。俺はお前のオマケでついて来てるだけだってのに」
半兵衛は文殊丸の反論を他所に文殊丸の後ろへ回り込むと、両手で文殊丸の背中を押して強引に酒宴の席へと押し出した。
「うわっ!!ととと」
不意に後ろから押されて、敷居に躓いた文殊丸は勢いのままに上座の方まで押し出されてしまった。半兵衛は何事も無かったかのような顔をして文殊丸の後に続くと、上座から二つ目の膳に座った。
「キミの席はそこだよ」
半兵衛は迎賓側の上座へ文殊丸を座らせて文殊丸に盃を持たせると、盃に酒を注ぎ始めた。
一段高くなった最奥には守就が座し、迎賓側の上座に文殊丸、続いて半兵衛その隣に十助が着席した。来賓側の上座には、黒光りする様に日に焼けた皺くちゃな顔を更に皺くちゃにして笑う小柄な男が座り、守就と酒を酌み交わしている。その隣には正反対に所在無げな顔をして寡黙な男が一人、座していた。
「おぉ、貴殿がかの高名な竹中半兵衛殿に御座るか!一晩で稲葉山を陥落させたと、巷では知らぬ者は居らぬ知恵者にワシも一目 会うてみたかったんじゃ。こんなに早う願いが叶うとは目出度き哉、目出度き哉!」
半兵衛達が座した事に気付いた小柄な男は、そう言って自身の膳の前から素早く飛んで文殊丸の眼前に座ると、両手で文殊丸の手を取って強引に握手をしてきた。
「え?あの、俺はですね……」
文殊丸が言おうとした言葉を遮る様に半兵衛が、
「ささ、殿。盃が空に御座います」
半兵衛がそう言って徳利の酒を文殊丸の盃に注ぎ始めた。
「やや、これは失礼 仕った。何分、不調法者故ご容赦くだされ。小一郎、その徳利をワシにくれい」
色黒で小柄な男は、物静かな男に向かって彼の膳に添えてあった徳利を持ってくるように言った。小一郎と呼ばれた物静かな男は徳利と隣の膳の盃を持つと、ゆっくりと小柄な男の後ろに控えて両手の物を渡す。
「此奴は小一郎と申しまして、某の愚弟に御座る。万事のそりとした男では御座るが、気の利く男でしてな。愛い奴めに御座る。今しも、徳利を寄越せとしか言っておらぬのにワシの盃まで用意して来よる。はっはっは!」
小柄な男はそう言いながら両手を上下に煽り、文殊丸に盃を空ける様に促す。文殊丸は取り敢えず促される儘に半兵衛が注ぎ込んだ酒を飲み干す。すると色黒で小柄な男は、直ぐ様空いた盃になみなみと酒を注ぎ込んだ。
「あぁ、どもども」
文殊丸はそう言って注がれる酒を盃で受けて飲み干すと、今度は徳利を手に取り小柄な男に返杯を注ぐ。
「ややっ、これは忝い。いやぁ、今日の酒は真に美味い!」
色黒で小柄な男が声高に言いながら盃を一気に呷ると、後ろに控えた小一郎が男の袖を軽く引いた。色黒で小柄な男は軽く後ろへ振り向くと、小一郎の意図を汲んだ様子で居ずまいを正してから文殊丸に向き直る。
「嬉しさの余り、ちと性急過ぎましたな。まだ己の名乗りも済ませて居らなんだ」
色黒で小柄な男は文殊丸に一礼してから、自身に宛がわれた膳へと引き揚げて行った。




