32.ズル休み
柔らかな日差しが白い山肌を照らし、雪解け水が新たな緑の芽吹きを促す。
淡い桃色の花弁を開いた山桜が透き通った春風に散り、赤みを帯びた新葉が山肌を埋め尽くす。
梅雨の長雨が山肌に潤いを与え、木々の緑がより濃さを増す。
季節は移ろい、稲葉山を占拠してから半年近く経っていた。
安藤守就は龍興邸で城代として政務を執り行い、半兵衛はその補佐として竹中邸で国人衆や他家との交渉などに当たっていた。文殊丸は十助ら竹中家中の者達と一緒に、帰郷して空家となった国人衆の屋敷を宛がわれて稲葉山に逗留していた。
「半兵衛さん、俺はいつまで稲葉山に居ればいいのかな?」
書机に向かって書を認めている半兵衛に向かい、文殊丸は問いかけた。
「んー。もうちょっと待っててね」
文殊丸の問いかけを他所に、半兵衛は筆を走らせ続ける。
「もう、今日が何月の何日かも分かんなくなっちゃってるんですけど……」
文殊丸は欠伸をしながら、幾通もの書状を認める半兵衛に嘆いた。
「はいっ!終わりー!!」
半兵衛は書き終えた書状を畳み終えると、そのまま仰向けに大の字に寝そべった。
「もうね、十助さんとか久作とチャンバラごっこするのも飽きちゃったんだよね。ほらさ、あの人達って手加減って言葉知らないでしょ?三十路過ぎた俺にはしんどいのよ、ホントに」
辟易とした表情で文殊丸は誰に向かって言うでもなく呟いた。
そんな文殊丸を寝そべった半兵衛はケラケラと笑いながら言う。
「最初は酷かったよね。とても見て居られるものじゃ無かったよね。もうやられ放題だったものね」
それと言うのも、半兵衛の思惑による所が多分にある。
稲葉山を掌握して、御役御免になったと思った文殊丸が源次の工房へ戻る事を申し出たのだが、半兵衛がそれを許さなかった。源次には「文殊丸は暫く預かる」との事付けをした使いの者を遣り、「御意」との返事が来ただけ。それ以来、何の音沙汰も無い。凛曰く、「居ても居なくても変わらないからでしょ?」と。
半兵衛は使者の対応や返答の書状作成に追われ、守就は事後の混乱の収拾に奔走し、その他の者達も半兵衛の指示で忙しなくあちこちへと動き回っていた。指示もなく残された文殊丸は稲葉山を散策するも、二日と持たずに手持無沙汰となった。そんな文殊丸を見た十兵衛が越前への帰り際に、「彼に剣術の手解きでもされてみては?」と半兵衛に言ったのに対して「それはおもしろそうだ。もしかしたら素質があるかもね?」と半兵衛が答えたのを聞いた十助が、是非にもと指南役を買って出たのである。左腕を失っても尚、精強な十助ではあるが自身の戦力としての低下を鑑みて、主を守る為には文殊丸の助力が必須であると信じて疑っていなかったからに他ならない。
十助の稽古は苛烈を極めた。冒頭から久作を相手にした立合いをさせられ、滅多打ちにされた挙句に無数の痣を五体へ刻み付ける事になった。
十助の剣は戦場の剣であり、型や奥義などというものは存在せず実践の積み重ねにより剣は磨かれるという持論だ。故に、稽古をつけられる度に文殊丸はその身のいたる所に幾つもの痣を刻み付けられた。
そうして日を重ねて痣を作らぬ為に受け方を覚え、避け方を覚える。自身が受けにくいと思う方へ斬撃を放ち、避けにくいと思う方へ突きを入れる。
今となっては立合いの姿も様になり、十助と久作を同時に相手して数合は耐え得るまでにはなっていた。
そんな文殊丸の苦渋の日々も意に介さず、半兵衛は続ける。
「最近はめっきり腕を上げたって、師匠の十助も褒めてたじゃない。久作とは好い勝負になってきてるってさ」
文殊丸は快活に言う半兵衛に納得のいかない表情で言う。
「あのなぁ。俺に有りもしない剣の素養があるかもしれないなんて、お前が十助さんに言うからこんな事になちゃったんだろうが。十助さんがあんなにヤル気になっちゃって、俺も断るにも断れねぇんだよ!」
文殊丸の抗議も何処吹く風。半兵衛は起き上がって書机に頬杖を突くと、
「ふふっ。ほら、呼んでるよ。直ぐにお迎えが来たでしょ?」
竹中邸の外から男性の野太い声が聞こえてくる。
「文殊丸殿ー!稽古の刻限ですぞー!何処に御座すかー!?」
文殊丸は十助の声を耳にして身震いしながら言う。
「いつまでここにって、そういう意味じゃないんだよ……」
文殊丸が言い終える前に竹中邸の入り口に十助が顔を出す。
「殿、文殊丸殿をお見掛けになりませんでしたか?」
半兵衛は書机に頬杖をついたまま、顔だけを部屋の隅に向ける。と、その視線の先で部屋の隅の壁板に張り付いた文殊丸を十助が見つける。
「さぁ!参りましょう、文殊丸殿!今日もみっちり心身の鍛錬を行いますぞ!!」
十助は鼻息を荒くして文殊丸に同道を促す。
「あ、いや、その、あれ?そう、今日は半兵衛と大事な話があってですね。長い話になりそうなんで、さすがに今日は無理かなぁ・・・。なんて状況なんですよね」
と、しどろもどろに文殊丸が言ったのを聞いて半兵衛が笑いを堪えながら言う。
「じゃ、早速そのお話とやらを拝聴しましょうかね?十助も上がってよ」




