3.はじめてのおつかい
耳元で精緻な間隔の音と振動が、間断なく続く。寸暇を惜しんで惰眠を貪り、安眠の妨害者を苛立たし気に掴んで押さえつける。そんな事を二度三度繰り返し、ようやく朝の訪れに気付く。結果、慌ただしく身なりを整え、胃袋に何も放り込めずに住処を飛び出す。変り映えの無い日常は、そうして始まっていた。
お世辞にも一流とは言えない企業の、そのまた二流、三流の従業員。決して目立つ方ではない。いや、寧ろ努めて目立たない様にしているというべきか。営業職ではあるが、然したる業績も上げることなく、顧客のクレーム対応に右往左往。面倒事には遭遇しないに越した事は無いとは知りつつも、人が良いのか断れない性格なのか、結局あてがわれるのは一癖も二癖もある難敵ばかり。当然ながら業績の上がる芽も潰え、そうして繰り返される日々の中で負のスパイラルが完成する。不要な顧客を押し付けていった同期は出世街道の遥か先を行き、既にその姿は後姿を見る事すら叶わない。
望んでもいない不幸が手招きどころか、向こうの方からやって来る。いわば、巻き込まれ体質とでも言うべきか。そう割り切れば、今ある状況も有り得ない話では無いのかもしれない、とすら思えて笑えて来る。そんなどうしようもない状況に惚けていても、食うに事欠いては生きる事も儘ならない。
「さて、どうしたものか」
溜息混じりに、文殊丸が小首を傾げる。
「これでも着ていなさい」
と、凛が土間の隅にある長持の中から取り出した、濃紺の衣服を文殊丸に投げつけた。
「わっぷ。ありがとさん」
文殊丸はそれを顔面で受け止めると、何事もなかったかのように颯爽と腕を通していく。源次や凛が着ているそれと同じ作りの衣服だ。多少の型崩れはあるものの、着心地は悪くない。そして源次に向かい直ってから襟を正すと一息ついて、
「源爺さん、俺をこの工房で使ってください」
と言いながら頭を下げた。すると源次は、
「ふむ、とは言われても人手は足りておるしのぅ。御覧の通り、儂一人でも十分過ぎる程じゃからの」
と顔色一つ変えずに、さらりと言った。
「いや、ほら、こんなにゴチャゴチャしちゃってるじゃないですかぁ。部屋のお掃除とか買い出しとか、本当は人手足りて無いんでしょ?」
文殊丸はそう言いながら、土間に散乱していたガラクタを手早く片付け始めた。
「これ、勝手に触るでない。中には扱いに注意が必要な物もあるのじゃぞ」
源次は文殊丸を落ち着かせるように言った。とはいえ、平静を装ってはいるものの、文殊丸は必死だ。全く見ず知らずの土地に無職無一文で放り出されても、残された道は限られている。つまりは、行き倒れるか行き倒れる。否、それしか有り得無い。
「あーあー。こんなに散らかっちゃってるじゃないですかぁ」
いつしか、文殊丸は必死の形相で書机の周りにばら撒かれた紙片を集めて整理を始めていた。
「これ、絵図面を勝手に捨てるでない。まだ考案中の物もあるのじゃぞ」
それまで顔色一つ変えずに見ていた源次は、慌てて文殊丸の手を止めさせようとする。あの手この手で文殊丸は源次にアピールするものの、どうにも好評を得ていない様だった。
「それだけ?」
いつの間にか源次ではなく、凛が文殊丸に次の候補を提示させている。
「うーん、あとはそうですね……って、おい。なんでお前にアピールしなきゃならないんだよ!」
そんなやり取りを見ていた源次は、渋々といった表情ではあるが口を開く。
「ふむ。果たして使い物になりますかのぅ?」
源次はちらりと眦を細めながら、凛を見やる。それを察して、凛は少し不満げに
「源爺に任せます」
とだけ言って、引戸を開けて出て行ってしまった。兎にも角にも、身売りされることもなく、再就職先が決まった。斯くして、文殊丸の住み込みバイト生活が始まったのだった。
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鍛冶場仕事にも大分慣れてきた。荒れ狂う炎の光と、溶け合う灼熱の息吹を感じながら、精進の日々――などと想像していたのだが、現実はというと雑用ばかり。朝の水汲みから始まり、鍛冶場と工房の掃除。更には、薪割りだの砂鉄採りだのと、いわゆる下働きという類のものだった。
そんなある日、工房の前を掃き掃除していた文殊丸は源次に呼び止められた。
「少し良いか?頼まれて欲しい事があるのじゃが……」
と呼ばれて、
「どーぞ、どーぞ。何でも言ってくださいなー!!」
文殊丸は、いつもの薪割りか砂鉄採集かと思い、安請け合いしてしまった。すると、源次は徐に懐から小さな皮製の袋と折り畳まれた紙を取り出して、文殊丸に手渡した。
「とある御方に届けて貰いたい。大まかな地図はここに描いた。できるか?」
源次は皺の多い瞼を見開いて、文殊丸の瞳を覗き込むように問い掛けた。瞬間、文殊丸の背中にぞわぞわとした怖気が走り、文殊丸は初めて感じた源次の雰囲気の変り様に硬直した。
「は、はいぃー」
文殊丸は思わず引き攣った声で、反射的にそう返答してしまった。その返事を聞くと、源次は一瞬でいつもの好々爺的な笑みを浮かべた。
「なれば善し。ところでお主、馬には乗れるようになったかの?」
そう言って源次は、工房の少し先に見える厩へ視線を向けた。
当然の事ながら、元の世界でもブルジョワではなかったので、そんな経験値などある筈も無い。下働きの合間を見て悪戦苦闘しながらも修練に励んではみたものの、芳しい結果とは言い難かった。
「あれ位の大きさだったら、何とかなりそうな気も……」
と言って、文殊丸は厩の一番端を指さした。
「くっ。……あれは驢馬じゃぞ」
源次が必死に笑いを堪えながら文殊丸を諭した。
「え、そこ笑うとこですかね?」
文殊丸は源次の笑いのツボをはかりかねて、思わず訊いた。すると、
「その昔、馬と鹿の区別がつかぬ君主があったと云うが、お主は馬と驢馬の区別が付かぬと言うか。はっはっは!」
源次はとうとう堪えきれずに、笑いながら文殊丸へ言った。
「げ。おバカな奴と仰ってるんですね。ははは……。」
文殊丸は、源次の余りの快活な笑いに反論の機を失い、
「ちょっとちっこいだけじゃん」
と微かな声で呟くのが精一杯だった。すると、息を整えた源次が
「ならば、彼奴を連れて行くが善い。ただ、あれは難儀するじゃろうな。かなりの頑固者じゃて」
驢馬の名は疾風。名前負けであろうことは、文殊丸にも分かった。体高が他の馬たちに比べると明らかに低い。といっても、厩に繋がれている馬たちも文殊丸が知っている競走馬などに比べると小型でずんぐりとしている。脚の長さが走行距離と速度を決めるのであれば、疾風は言うまでも無く厩の中では最下位だ。全身が白銀の体毛に覆われていて艶やかさを感じ、均整の取れた体躯は他の馬たちと比べても遜色の無い気品が見て取れるものの、言われてみれば確かに、大きな耳が特徴的な驢馬だ。
文殊丸が疾風に視線を送るも、疾風は我関せずといった様子で首筋を馬房の柵に擦り付けていた。自身で指名しておきながらも、不安の色を拭えない文殊丸であった。
かくして、住み込みバイトと白銀の驢馬による珍道中が決定した。