26.通行手形
傾きかけた木造の建物の引戸が外側から開かれて、一人の男が中に入ってくる。
「殿、水の手口方面より合図が上がりました」
供廻りの者が半兵衛に伝えた。
「良し、手筈通りに進んでいるね」
半兵衛はそう言うと、供廻りの者達に長持の中から取り出した太刀を佩かせて準備を始める。
「久作以外は全員いるね。いいかい、大方の者達は酔い潰れて動けない筈だよ。太刀はあくまでも護身用であって、ボクからの指示が出ない限り無用の斬り合いはできるだけ避ける様に。それから、移動中はなるべく物音を立てないようにする事。あまり物騒な物音を立てて、必要以上に多くの人を館には集めたくないからね」
半兵衛は自身も太刀を佩きながら、行動指針を説明した。
すると、引戸を間の抜けた調子で小さく叩く音がする。
「ん?この間違え方は久作だね。何で教えた通りに叩けないのかな……。開けてあげて。」
半兵衛は合言葉代わりに教えた叩き方と異なるものの、久作であることを確信して戸を開けさせる。
「た、只今戻りました。手筈通りに水の手口を開放してきました]
久作は息を弾ませながら言った。
「お疲れさま、と言いたいところだけどまだ終わりじゃないんだよね。早速だけど準備が整ったらすぐに出るからね」
半兵衛は淡々と言って、久作にも太刀を渡す。
「相変わらず人使いが荒い事でいらっしゃる」
久作は息を整える間も無く腰に太刀を佩きながら、半兵衛に呟く。
「何か言ったかい?」
半兵衛は久作にちらりと細めた目で視線を送る。
「い、いや。何でもありません……」
久作への牽制はその一言で十分過ぎる効果がある様だ。
供廻りの者達の一人が、そんな久作の肩に手を置いて軽く頷いた。
どうやら、久作の心情を察したらしい。
「……ははは。こんなのは慣れっこだよ。今日に始まった事じゃ無いからね」
そう言って気を取り直すと、久作は姿勢を正す。それに合わせて半兵衛も佩いた太刀の柄頭に左手を乗せて姿勢を正す。
「では、総仕上げと参ろうか」
半兵衛の隣に松明を前方に掲げる久作が並び、その後ろに供廻りの者達が松明片手に続く。防衛機能の主要な部分を除いて篝火等は設置されていない為、視野を確保する物は松明の明かりに頼る他無い。一行は竹中邸を出発し、蛇行した参道の斜面を更に登って龍興の居館を目指す。辺りは闇に包まれて出歩く者の姿は全く見えない。鞘の鯉口と納められた刀の鍔を左手でしっかりと掴み、周囲に気取られない様に無言で歩み続ける。松明の爆ぜる音と土を踏む足音しか聞こえない。
暫くして、勾配の終着点に木製の柵と両側に篝火の焚かれた門が見えてくる。龍興の居館である。門の傍らには二人の衛兵が直立不動で半兵衛一行に視線を向けている。
「さすがに精勤だね。ここは簡単には通して貰えそうに無いね」
半兵衛は前を向いたまま独り言のように久作へ言った。
「姉上、どうするおつもりで?」
久作は水の手口で合図を送る事までは知らされていたが、その先については姉から何も聞かされていなかった。半兵衛は久作の問いには答えずにそのまま歩みを進める。
「え。まさか、このまま斬り込むとか言うんじゃないでしょうね?」
そんな久作の独り言も素知らぬ顔で半兵衛は歩み続ける。
「こんな夜更けに何用で御座るか?」
門の前に達した半兵衛に衛兵が当然の問いを掛ける。
「火急の用向きにて龍興様にお知らせしたき儀があり、罷り越した由。急ぎお取次ぎを願いたい」
半兵衛は顔色を変えずに衛兵に言った。
「はて、この時分に火急とは。飛騨守様より誰も通すなと仰せ付かっておりますれば……」
衛兵は飛騨守が中にいることを無意識に暴露しながら、半兵衛の申し出を拒む。
「飛騨守殿がお見えならば尚の事。一刻の猶予もならぬ事態故、至急にてお取次ぎ願いたい」
半兵衛はそう言って説得を試みるが、衛兵は応じない。
「ましてや、その様に差料をお持ちでは尚更お通しは致しかねます」
精勤な衛兵は、頑なに半兵衛を通すことを拒む。
「左様にあらば、そなた等の目は節穴か?彼の状況を見て火急では無いと?」
半兵衛はそう言って、衛兵の一人を蛇行した参道の開けた場所まで連れてくる。そこは門の正面からは見えないが、眼下に井ノ口の町が見渡せる場所であった。
普段のこの時分には生活の火が疎らにしか見えない筈の井ノ口の町に、無数の明かりが町を取り囲むように揺らめいているのがはっきりと眼下に見える。それを指さして半兵衛が言う。
「織田の軍勢が井ノ口の町を制圧したとの知らせが入った。そなたにはあの軍勢の松明が見えぬと申すか。直にこの居館にも攻め入るであろう事は火を見るよりも明らか。そなた等と問答している時も惜しいのだ。これが火急でなくて何とする!!」
衛兵は半兵衛の怒号に二の句も継げずに、慌てて館へ向けて走り去った。そして半兵衛はその後を追うようにゆっくりと門の前まで行くと、
「罷り通る!」
残された衛兵に顔も合わせずに正面を向いて言い放ち、堂々と門を通過して行った。