23.封印の開放
途轍もない耳鳴りだ。衝かれた鐘の中に頭を突っ込んだ様に頭蓋に響く音の暴力だ。
何かを言いかけた口元は中途半端に駆動を止め、瞼は見開いたまま瞬きもせず、硬直した体は立膝のままだ。脂燭が揺らめく暗がりの中に文殊丸は一人、彫像の様に佇んでいた。
文殊丸は、先刻目の前で起きた事を反芻する。
まず、目の前に居た影は残夢ではなかった。無浄という別の僧だった。そして、不埒な事を言っていたのを思い出す。その後、無浄が何かを呟きながら組んだ指先を色々な形に組み替えていた。そして組み終わってから何事かを叫んだ瞬間、この事態に見舞われた。自身を庇う様に眼前に現れた大きな影は、きっと十助の背中だろう。無常と思われる影が自分の左側をゆっくりと通り過ぎたのを思い起こすと、十助にとって有利な展開では無いであろう事は計り知れる。
首どころか指先すら動かすことができず、暗がりにぼんやりと見えていた人影も今は確認できない。音の暴力に耳を犯されて自分の周囲に何が起きているのかも、見開いた眼の視野だけでは感知しようも無い。
(「とんでもなく不味い事が起きている」)
文殊丸の脳裏には、ただそれだけしか浮かばなかった。
警護の者達を刺激しない為に、帯刀していたのは文殊丸だけだ。いくら手練れの十助とは言え、丸腰では真面な立ち合いは望めまい。辛うじて視野の左端に小太刀の柄が映り込んでいるのが判る。
(「せめて、小太刀を十助さんに渡せたら」)
どこまで状況が好転するかは解りようも無いが、少なくとも現状よりは良くなる筈だ。そう考えるものの、体は一向に言うことを聞かない。動きを封じられているというより寧ろ、動かし方を忘れていると言った方が妥当か。身を捩ろうにも、腕を上げようにも、体を動かす感覚を剥奪されてしまった様な状態だ。
(「全然ダメだな。その内どうにかなんねぇかな……」)
文殊丸に諦観か達観か、馴染みのある感情が芽生えた。身に覚えのある感情だ。こちらの世界で目覚めるその前の事だ。金縛りにあったままその束縛に身を委ねた結果、この状況に辿り着いた。
(「このまま意識が飛んだら、普通に目覚めて実は夢でした。なんてことは……」)
御都合主義的な考えが頭を擡げる。この八方塞がりな如何ともし難い状況から目を反らして、在るべき現実に戻りたいと願う。戻ったところで、そこに何があるという訳では無い。戻りたいと思わせる何かがあるからそこに戻りたい、という訳では無い。そもそも在るべき現実というものの存在自体が、既に文殊丸の中では真実味を失いつつある。ただ単に、この最悪とも思える状況から逃げ出したいだけなのだ。
(「仮にこのまま動けないままだと、俺はどうなるんだ?」)
十助は半兵衛の配下であり、その半兵衛は主である龍興にクーデターを仕掛けたのだ。薬入りの酒は供廻りの者達が配り終えて、既に後戻りはできない状況だ。
(「俺、間違い無く詰んでるな……」)
女性に対して礼を欠いて余計な事を口走ったが為に、罰として連れて来られた結果がこれだ。文殊丸は自身の浅慮さに頭を抱えたくなる。が、手は動かぬままだ。
頭蓋に響く耳鳴りが、徐々にその勢いを獰猛にしていく。今までに経験してきた中でも最大級の轟音が文殊丸を襲う。
(「やべぇ、気持ち悪くて目が回りそうだ……」)
意識が根元の方からごっそりと持って行かれそうになった。その瞬間、手足はふらつきもしないのに腹の辺りに嫌悪の感覚がしたのを僅かに感じる。
(「あ。これって……!!」)
文殊丸は思い出す。過去に一度だけ自身の意思で金縛りから脱した経験があった事を。逃れられない束縛から唯一逃れた術を思い出す。
(「さあ、来い!恥も外聞も構ってられるか!」)
至って変化は見られない。
(「今すぐ来いってんだよぉ!!」)
そう心の中で声にならない叫び声を上げ続ける。
(「おらぁー!かかって来いや!」)
襲い掛かる眩暈と轟音の中、文殊丸はただ只管にその訪れを喚起する。
(「バッチこーい!!」)
そう心の中で叫んだ瞬間、下腹部を震源に背中を伝い肩の先や頭の天辺に向けて小さな振動が駆け巡る。
文殊丸はその小さな振動に身を任せ、途中からシンクロする様に意識を集中させる。
「…………ぅるぁあー!!」
シンクロさせて増幅した震えは全身の神経を活性化していく。奪い去られていた感覚が一気に蘇ると、心の叫びがそのまま口から声となって開放される。
文殊丸は水浴びをした犬の様に体を震わせ、余った勢いで板張りの床にそのまま突っ伏した。荒げた息もそのままに、取り敢えず安堵の声を漏らす。
「あっぶねぇー。またやっちまうとこだったわ……」
あれは遥か遠い、幼い頃の閉ざされた記憶。
お泊り会の夜に金縛りに遭い、その最中に催してしまったのだ。不幸にもその時の震えは、事が済んだ後の震えであった。阿鼻叫喚、地獄絵図。まさに暗黒の歴史だ。当の本人が封印していた記憶を自ら開放した。そう、待っていたのは催した時に来る、あの意識の外からの震えだ。
文殊丸は朦朧とする頭を左右に振りながら、左手に小太刀を鞘ごと掴んで立ち上がる。
息を整えて一呼吸置くと、意を決した面持ちで鞘から反りの少ない白刃を抜き放つ。
文殊丸は壊された戸板の裂け目から、外に見える黒く大きな影を睨み付ける。
「どんだけ金縛られてきたと思ってやがる。その道のプロを舐めんなよ!生臭坊主!!」




