21.鐘の丸の影
暮れ六つを過ぎて辺りは夕闇よりも色濃い闇に飲まれ、所々に置かれた篝火が夜陰を照らす。なだらかな斜面を進み暫くすると、開けた平坦な空間に武骨な建物が姿を現わす。龍興の居館と思われる大きな建物が奥に見え、手前にそれよりも小さな瓦屋根の建物が見える。その傍らに並ぶように建てられた櫓の上には、二尺ほどの警鐘が吊るされていた。
「鐘の丸って名前の通りなんだな」
文殊丸は呟いた。それを聞いた十助は答える。
「左様。御覧の通りに警鐘櫓のそばにある為、鐘の丸と呼ばれる建物ですな」
十助は文殊丸と並び歩く。
文殊丸と十助は数分前に竹中邸で半兵衛達と別れて、残夢の要請に応じるために鐘の丸へ向かっている最中だった。半兵衛は久作の帰りを待って、供廻りの者たちを連れて龍興の居館へ向かう段取りになっていた。
「なんだあれ?」
文殊丸は龍興の居館の更に奥の空を指差して十助に訊く。
「水の手口の久作殿ですな。準備が整った合図です」
天にも昇ろうかという程の大きな火柱が赤々と突き立っているのが見えた。
「半兵衛が持たせた徳利か!」
文殊丸は半兵衛が何を作っていたのかを、闇夜を照らす火柱を眺めて悟った。文殊丸と十助が鐘の丸に近づくと警備の者が二人に気付き声を掛ける。
「やや、竹中様の御薬師様でございますな。既にお待ちですぞ」
そう言って鐘の丸の中に先客が居ることを伝えて、入場を促す。
「あ。どもども、お勤めご苦労様です。お寒いでしょうから皆さんで飲んでくださいな」
文殊丸は営業スマイルで携えていた徳利を渡した。
「これはこれは、お心遣い痛み入ります。今晩は底冷え故、皆も喜びます。では遠慮なく」
警護の者は謝意を述べて恭しく頭を垂れると、徳利を大事そうに抱えて軽い足取りで立ち去って行った。
文殊丸は十助に向かって頭を抱えながら言う。
「何か、気が引けるよね。凄く喜んでたよね。あー、すんごい罪悪感」
十助はそんな文殊丸に言う。
「良いのですよ。あの者達の命まで奪う訳では御座らん。寧ろ、あの者達を傷付けぬ為の策に御座る」
十助は文殊丸の心根を見抜いてか、良心の呵責を和らげるように言った。そんなやり取りをしながら、文殊丸と十助は建屋の外側に巡らされた板張りの廊下に腰を掛ける。踏石の上に草鞋を脱ぎ、鐘の丸と呼ばれる建物の引戸を開けて敷居を跨いだ。
暗闇の中に数個の脂燭が灯され、十畳ほどの板張りの部屋がそれ以上の奥行を感じさせる。その薄暗がりの上座に一つの人影が、明かりの震えに応じて小さく揺らめく。文殊丸は人影の対面に胡坐を掻いて、その左手に腰に差していた小太刀を置いた。それに続き十助が文殊丸に侍る様に後ろに控えた。そして文殊丸は半兵衛に仕込まれた口上を平伏して伝える。
「此の度は高名な残夢和尚の御招きに預かり、恐悦の至りに御座います」
文殊丸の口上が終わると、暗がりの影から声が発せられた。
「紀伊よりの長き旅路、さぞお疲れであろう。今宵はゆるりとされるが善かろう。」
文殊丸は発せられた声音がかなり低いものだと気付き、顔を上げる。
「して己等、何を企んで居る」
続けざまに問い掛けた影を文殊丸は凝視する。
「お前、残夢の爺さんじゃねぇな?」
暗がりの中の人影は、老木の様であった残夢とは比べ様も無い程に大きな図体をしている。暗がりに目が慣れていなかった文殊丸と十助は立膝になり警戒する。
「拙僧も衆生の救済に身を賭す者には変わらん。同じく冥府に落ちるのであれば、苦しみの時が短い方が良かろう。その手助けを致して居るしがない僧に御座る。無浄と申す。」
無浄と名乗った僧は何やら呟きながら、数珠を絡ませた両手の指を組み換えている。文殊丸は無浄の動きを見つめながら、
「をっさん、何やってんだ?」
と呑気に話しかけた時、十助が叫んだ。
「いかん!其奴は印術師ですぞ!!」
十助は文殊丸に告げると同時に前に踏み込んだ。
「入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽…………縛!!」
しかし、十助が文殊丸の前に出るよりも一瞬早く、文殊丸の瞳を凝視した無浄が声を張り上げた。
無浄は発声が終わると、直ぐに立膝になって右手で後ろから棒状の物を掴み、文殊丸目掛けて突きを見舞う。が、文殊丸と棒の間に十助が対面するように体を瞬時に捻じ込んで、左の脇に棒を抱え込んだ。
「勝手はさせぬ!」
十助は声を張ると、抱えた棒を押し引きして無浄に揺さ振りを掛ける。無浄もそれに呼応するように力を込めて揺さ振り返す。そんな牽制の合間にも、十助は文殊丸に声を掛ける。
「文殊丸殿!御気を確かに!文殊丸殿!!」
十助の呼びかけも空しく、文殊丸は立膝のまま目を見開いて微動だにしない。十助は只管に文殊丸へ声を掛け続けるも、変化は見られなかった。
「他人の心配ばかりしておる場合でもなかろう!」
無浄はそう言って勢い良く棒を自身の方へ引っ張って、僅かに体勢を崩した十助の隙を見逃さずに素早く鳩尾目掛けて強烈な突きを放った。瞬間、大柄の十助が後方へ突かれた勢いのままに戸板にぶつかり、外周にあった板張りの廊下すらも越えて砂利敷きの地面にまで落とされた。
「不覚っ……」
十助は地面に仰向けに倒れたまま腹部を押さえて歯噛みする。そして体を転がしうつ伏せから四つ這いになって、肩を上下させながら息を荒げている。十助を突き飛ばした無浄は悠々とした足取りで、動かぬ文殊丸を放置したまま十助が落ちた屋外へ向かう。
篝火に無浄の姿が映し出される。髪、髭は無精の儘で身の丈は180センチはあろうか。薄汚れた黒い着物の肩口まで袖部分を捲り上げ、隆々たる二の腕を見せている。左手に黒光りする数珠を握り右手に身の丈程の鋼鉄でできた錫杖を携えていた。所謂荒法師と呼ばれる者に相違ない。
無浄は不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「己等の魂に、救済の手を差し伸べてやろう」




