20.薬用酒の効能
「十助、もう十分だよ」
半兵衛はそう言って十助から薬研を取り上げる。
「こ、これはしたり」
十助は材料が器に入っていない事に、取り上げられてから気が付いた様だ。
半兵衛は取り分けてあった材料と薬研にこびり付いた残りを、懐から出した布切れに包んで布の先を縛った。そして、持参した酒の入った瓶に放り込む。
「ん?薬用酒でも造るのか?」
文殊丸は怪訝な顔で半兵衛に訊く。
「薬用にしては効き過ぎるかもね。さっきの白い塊は、ある植物の種子に傷を付けて採取した液を固めた物なんだ。そのまま使うと効き目が強すぎて、人の体に害を与えかねないんだよ。だから、あんな感じに他の薬草と混ぜて効き目を調整するんだ。源爺から調達した忍びの秘薬とでも言ったところかな」
半兵衛は所々伏せながら文殊丸に答えた。文殊丸は分かった様な分からなかった様な顔をしながら、
「ふーん。で、何に効くんだ?」
と効能の説明を要求した。
「そうだね、二刻の間くらいはずっと夢の中だろうね」
半兵衛は比喩的に文殊丸の問いに答えた。そして、瓶の中身を五合ほど入りそうな徳利十数本に移し替えた。
「それじゃ、手筈通りに宜しく頼むよ」
そう言って半兵衛は供廻りの数名に徳利を分けて渡した。渡された供廻りの者達は、半兵衛に一礼すると小走りで外へ出掛けて行った。
「あれ?薬用酒はどっかに献上でもするのか?」
文殊丸が半兵衛に問う。
「そうだね、献上と言えば献上だね。この寒空の下で、警護に当たっている者達への差し入れだよ。もうじき宵の班に交代する刻限だから、今から持っていけば丁度良い頃合いなんだよ」
文殊丸は頷きながら、
「そうだよな。この寒さじゃ、酒でも飲まにゃあやってらんないよな」
と言って残っていた徳利の一つに右手を伸ばした。と同時にその手を半兵衛の左手がぴしゃりと払った。
「キミは飲んじゃダメだよ!これを飲んだら大変な事になるよ!」
数秒前とは全く別人の様な形相で、半兵衛は文殊丸を窘めた。
「だからさっき言ったでしょ。これを飲んだら二刻(約四時間)は動けなくなるよって!」
文殊丸は半兵衛の言ったことを今更ながらに理解した。惰眠を貪る程度の話で済む物では無い、と言う事だ。言葉通りに動けなくなるのだ、と。
「おぉう、流石忍者の秘薬だな。危うく三途の川の向こうを見に行くとこだったぜ……」
文殊丸は、払われた右手で自身の額を軽く拭った。そして文殊丸は問う。
「俺はダメでも、この城の警護要員には飲ませるってのかよ。大丈夫か?」
半兵衛は晴々とした顔で言う。
「ボクらに切り殺されるよりは良いでしょ。酒飲んで酔っ払って、いい夢見て、目が覚めたら落城していたのなら寝覚めは良いでしょ?」
「寝覚めが良いとは言えそうにないけどな。とは言え、永遠に目覚めないよりは大分マシか」
文殊丸は遣る瀬無い気持ちを吐露する。
「今回の策は、こちらも向こうも最小限の被害で収めなければならない。こちらの望む結果になるにせよ、斎藤家そのものを揺るがしかねない様な甚大な被害をお互いに被ったら、意味が無いんだよ。弱体化したところを他国に攻め込まれたら、元も子もないでしょ?」
半兵衛はこの策の肝を説明した。そして続ける。
「今回の策には分水嶺が三つある。一つ目は、稲葉山の城内に僕自身とその他の道具を持ち込めるか否か。これは一緒にいたから解るだろうけど、久作の見舞いと称してボク自身が登城できて、且つ治療の名目で幾許かは道具を持参できる目途が立った。ただ、中身を検分される恐れがあったから飛騨守が自領に戻っている日を狙ったんだけど、計算外だったよ。まぁ、おまけの献上品を納めれば多少は誤魔化せるかと思ってはいたけど、キミの活躍もあってこれは効果覿面だったね。」
「俺が悪態をつくのも計算の内だったってのかよ」
文殊丸が腕組みしながら口を尖らせて半兵衛に言う。
「まぁね、想像通りの活躍ぶりだったよ」
半兵衛は軽く舌を出して悪戯っぽく笑みを返すと続ける。
「二つ目は、城内の警護の者達を無力化できるか否か。幸い織田家の侵攻も暫くは小康状態だし、源爺の草達が市井のほうぼうで織田の侵攻は無いと喧伝してくれたから、警護の者達も緊張感から解放されて差し入れにも手を出し易くなっているはずだよ。ましてや、この寒空の下となれば手を出さずにはいられないでしょ。あと半刻もすれば結果は分かると思う。ただ、それでも精勤な者は受け取りすら拒むかもしれない。むしろそんな忠義者には傷を負わせたくはないんだけど、これを如何に少なく済ませられるかが重要だね」
文殊丸は半兵衛の策に聞き入っている。
「三つ目は、この稲葉山の城を占拠できたとして、龍興様が政に関心を取り戻して頂けるか否か。ボクらが城を占拠しても、別にボクが城の主になるつもりなんて更々無い。第一、菩提山付近の領地でさえボクは持て余しているんだから。龍興様が佞臣を排して美濃の国を平穏に治めて頂けるようになって初めて、この策は完成されるんだ」
半兵衛は願う様な面持ちで言い終える。そんな半兵衛の表情を黙って見ていた文殊丸が口を開く。
「それがこの薬用酒の効能か。国を思うお前が絞り出した策なんだ、きっと上手く行くさ」
文殊丸はそう言って半兵衛の隣に座ると、半兵衛の大きな背中をバンバン叩いた。
「いたっ、痛いってば!ちょっとは手加減してよね」
半兵衛は言いながらも、決して嫌な顔はしていなかった。
そうこうしていると、引戸を開けて半兵衛の供廻りの者達がぞろぞろと帰って来た。
「殿、手筈通りに進んでおります」
供廻りの一人が半兵衛に報告した。半兵衛はそれを聞くと文殊丸に言う。
「そろそろ頃合いだね。じゃ、ボクは久作が戻って来たら龍興様の所へ行ってくるよ」
文殊丸は半兵衛に言われて
「じゃ、俺は十助さんと一緒に鐘の丸に行って、爺さんと適当にお喋りでもしてればイイのか?」
半兵衛に訊く。
「そうだね。何も無ければこっちが済んだら迎えを出すよ。それまでは鐘の丸からは出ない方が良いだろうね。取り敢えず十助が一緒だから危険な目に遭っても大丈夫だと思うよ」
半兵衛はそう言って十助の肩を軽く叩いた。
「御意。何があっても文殊丸殿は某が御守り致す」
十助が文殊丸に熱気を帯びた視線を向ける。そんな熱い眼差しを受けた文殊丸は言う。
「え。それって、よろしくないフラグ立ってません?」




