2.君の名は俺の名は
狭い空間に、全裸の男と小柄マッチョな爺さんが二人きり。
傍から見れば、その手の組合の方々かとも言われかねない状況だ。
とはいえ、全裸の男は至って真剣だ。しかしながら、老人の口から語られる内容に追随できていない。なにせ老人の口から出てきた言葉は、男にとって衝撃的な事実ばかりだったからだ。
荒涼とした戦場のど真ん中で、真っ裸の男が大の字になって倒れたまま気を失い、そのままここへ担ぎ込まれたと。何も身に着けていなかったが故に、追剥にも遭わずに済んだ事も。そもそも、何故戦場に自分がいたのかさえ解らない。それでも必死に頭の中を整理して、言葉を選んで老人へ問い掛ける。
「ってことは、俺は戦利品?」
得体の知れない不安と受け入れがたい現実が、男に突飛な発言を喚起させた。
「買い手がおれば、かのぅ」
相変わらず好々爺的な笑みを浮かべてはいるが、源次の発言の内容は意外と辛辣だ。
その発言に男は筵を体に巻き付けて後ずさる。
「自分の名も分からぬ稚児同然のおぬしに、買い手がつくとは思えんしの」
源次は、手に入れた品物が使い物にならない不良品であったかのように、溜息混じりに呟いた。男と源次の間に行き場の無い、遣る瀬無い空気が漂い始め、暫しの沈黙がその場の空気を支配した。そうこうして、沈黙に耐え切れなくなった男が何事かを口走ろうとした時、
「源爺。只今戻りました」
引戸の向こう側から澄み渡るような声がして、徐に引戸が開かれた。引戸の入り口の方へ二人の視線が集まり、つい先程まで残念至極が満面に張り付いた様な源次の相好が、一瞬で綻んだ。
引戸から土間に入ってきたのは、少女だ。背丈は140センチそこそこ。薄紅の作務衣風の着物に草履を履き、黄色い布で長い黒髪を後ろで一つ縛りにしている。齢の頃は十歳前後であろうか。幼いながらも、その佇まいには気品のようなものが滲み出ている。少女は涼し気な眼差しを男に向けて一瞥すると、源次に向き直った。
「どうでしたかの?」
源次は少女の方へ体ごと向き直ると、何某かの報告を待っていた様だった。
「やはり、芳しく無いようですね」
そう答えながら、少女は源爺と呼ばれた源次へ、書状を手渡した。すると、源次は折り畳まれた書状を広げて中身を確認すると、
「ふぅむ」
と、小首を傾げて眉間に指を番えた。
「それで、源爺。この不逞の輩はどうするつもりですか?」
少女は、間髪入れずに淡々とした口調で男に話の水を向ける。
「え? 俺? 不逞って、何かしましたっけ??」
男の方には全くもって思い当たる節が無いようではあるが、少女は畳み掛ける様に、更に辛辣な爆撃を行う。
「葉から聞きました。大した程でもないモノを、仁王立ちして見せびらかしていたとか」
男には思い当たる節が無くもなかった。
「あ、あれは事故だって」
少女は、感情を見せない涼し気な眼差しで男に視線を刺すと、
「わざわざ身体ごと振り向く必要など無いでしょう」
男は思い起こす。確かに言われた通りだ。何も、無防備な状態で身体ごと振り返る必要は無い。顔だけで振り返ることもできたし、寧ろそちらの方がより自然ではある。
「くっ、黒歴史にまた新たなる章が、刻まれる……」
男は、愛想の無い子供にコテンパンにやられ、がっくりと項垂れて虫の息だ。右も左も解らぬ状態で、ゼロスタートどころかマイナススタートが確定した。
「……誰なんだよお前は。初対面の大人に向かって不逞の輩って、可愛げの無い子だねぇ」
男も余りの言われ様に心外だったのか、刺々しく言い返した。
「私は凛。可愛げ云々については、あなたに言われる覚えはありません」
そう少女は名乗った。
「あー、凛ね。はいはい、よろしくね。俺は……」
と言いかけて、またしてもその後が続かない。
「難儀なものじゃのぅ。名前くらいは付けてやるかの」
拾ってきた仔犬に仮の名でも付けるかのような言い回しで、書状を懐に仕舞い込んだ源次が首を捻りながら呟いた。
「ポチ」
「俺は犬かー!」
「タマ」
「俺は猫かー!」
間髪入れずに、凛が淡々と仮名をノミネートしてくるも、男は出される候補を片っ端から全て否定していく。
「まずい、このままだと家畜的な名前にされかねない……」
男は必死になって自身の名を思い出そうとするが、期待した結果は得られなかった。すると、
「まぁ、名付けに関しては心配 召さるな。ほれ」
と源次は引戸の脇を指さした。そこには、まな板程の大きさの木片に『伽羅繰屋』と墨塗りの掘り文字がされた、看板らしきものが立てかけてあった。
「からくりや?」
要領を得ず、男が字面を読み返す。
「そう、カラクリじゃ。儂自身の手で新しい道具をこの世に生み出しておる。当然、新しい物には名前など無い。故に、儂自らがそれに名前を付けて、この世に送り出す。」
源次の言葉を受けて、男は改めて部屋の中を見渡す。二畳程の土間があり、そこから30センチ程高くなった場所に六畳程の板張りの床がある。出入り口となる引戸の両側には、無数の引き出しがついた箪笥のようなものがそれぞれ一竿ずつ。その周りの土間には農具らしき物がごろごろと転がっている。板張りの奥には低い書机と藁編みの座布団。書机の上には、筆硯と書き殴られた絵図面があった。そうして初めて、男は源次の工房に寝かされていた事に気付いた。
「名前というものは、その性質を表すものじゃ。しかし、時にその名は、そのものに足りないものを補うというものでもある。故に……」
好奇の眼差しで工房内を観察していた男に源次が語りかけ、そして続ける。
「お主には、足りないものが多かろう? ならば、せめて生き抜く知恵くらいはその名前から補ってもよかろうて」
男は源次に視線を向けて、その先の言葉に期待を込めた。
「であれば、文殊丸でどうじゃ?」
源次が会心の出来、といった風な表情で男へ同意を求めた。
「は?」
男は期待を込めて源次の顔を見つめていたが、想像だにしなかった命名に間の抜けた声を上げた。
「えっと……。もっとこう、大人の男っぽい名前って無いもんですかね?」
源次の機嫌を損ねないように細心の注意を払いながら、男は再考を促してみる。
「決して悪い名では無いと思うがのぅ。文殊菩薩の知恵も授かれように」
助けてもらった恩を考えると、源次のボヤキが骨身に染みる。それ以上、男には返す言葉は無かった。
そうして三十代裸族に名前がつけられた。