9 ヤンビフの娘
「ヤンビフは、魔法で眠らせてある。でも、相手は暗魔団のボスだ。用心しろよ」
クンネは、トスナルの肩の上で、掠れたような、小さい声でそう云った。
「……。ああ、わかったよ」
執務室のドアの前に構えたトスナルが、小声で頷く。その横には、神妙な顔をしてゴクリと息を飲む、パセナルがいる。
「じゃあ、突っ込むぜ。イッチ、ニイ、サアン!」
パセナルの合図で、ドアを蹴破るようにして執務室になだれ込んだ、二人の魔法使い。
目にも止まらぬ速さで構えた右手のその先には、大きな肘掛け椅子にぐったりとなって座る田中社長、いや、暗黒魔法団のボス、ヤンビフの姿があった。
ふうう
大きく息をついた、パセナル。
「どうやら、クンネさんの云ってたことは、本当のようだ。一気に倒すか?」
パセナルの鋭い目が、トスナルを捉えた。
「ああ……そうですね」
トスナルの、気の無い返事。
それを聞いた探偵助手の黒猫が、突然、怒ったような声を出した。
「どうした、トスナル! アイツを倒すのがオマエの長年の願いだったんだろ?」
「……」
「今だ! 今しかない!」
叱りつけるような声でわめきながら、クンネはトスナルの肩から、ひらりと飛び降りた。
「わかったよ――倒す」
トスナルは「仕方ないな」という目をして肩をすくめ、クンネをじっと見つめた。
そのとき、トスナル達の背後から、白い塊が旋風風を起こしながら現れ、真っ直ぐヤンビフの方へと向かっていった。
その白い影が、ぐったりとなったヤンビフにぴたり寄り添いながら、トスナル達の前に立ち塞がる。
「お、お京さん……」
そう呟いたトスナルを、目一杯睨みつけた京子。今までにトスナルが見たこともないほどの、必死の形相だった。
「あんたたちの話、全部聞いたわよ。お父様が暗黒魔法団のボスですって? そんなこと、有り得ないわ……。あんたたち、まともじゃない!」
トスナルは、京子の瞳から、百年に一回流れるか流れないかというほどの貴重な、そして清らかな涙がこぼれていくのを、見逃さなかった。
「あ、あのね、お京さん――」
トスナルがそう云いかけたとき、クンネが京子にどなりつけた。
「そこをどくんだ! さもないと、オマエが死んでしまうぞ!」
「そうだ、京子さん。そいつは、君のお父さんの仮面をかぶった、悪魔さ。暗黒魔法団のボス、ヤンビフなんだ」
パセナルもクンネに助力し、なんとか京子を説得しようと試みる。
「信じないわ、そんなこと――お父様を殺すなら、私も一緒に殺しなさい!」
京子が、益々、父親に自分の体をぴったりとくっ付ける。
「……。兄さん、ここはボクに任せてもらえませんか?」
「任せる?」
「そうです。ボクがなんとかします」
「そこまでトスナルが云うなら――京子さんの説得を、頼んだぞ」
その言葉に小さく頷いたトスナルが、ゆっくりと京子とヤンビフに近づいていく。それを見たクンネも、てくてくとその後に続いた。
「お京さん、頼むからそこをどいてくれないですか」
「どかないっ」
「それならボクは、お京さんごと攻撃魔法で倒さねばなりません。それでいいのですか?」
「やればいいじゃない。やってみなさいよ、アタシのフィアンセさん!」
うっひゃああ!
まるで恐ろしい呪文を聞いたかのように、後ずさりしてたじろいだ、トスナル。
「もういい加減にしないか! そこをどけ!」
クンネは、トスナルの前にしゃしゃり出て、今にも噛みつきそうな勢いで叫んだ。
いつもより数倍迫力のある黒猫の言葉に、さすがの鬼女も怯んだ様子。
トスナルは、クンネの後姿をじっと見つめながら、何かを決心したように、唇をきゅっと結んだ。
「お京さん……ごめん」
ぽつり、つぶやいたトスナル。
顔を引きつらせる、京子。
ニヤリ、目を吊り上げた、クンネ。
「アスピタル・チューン!」
トスナルの呪文とともに、オレンジ色に輝く彼の人差し指から、魔法の光線が発射された。
???
魔法の攻撃を受けたとばかり思っていた京子は、体に痛みが走らないのを確認して、ぎゅっと閉じていた目を、ゆっくりそっと、開けていった。
ぐはっ……
崩れ落ちていく、黒くて小さな体。
京子の目の前で、トスナルの魔法攻撃を受けて倒れたのは、トスナルの相棒、クンネだったのだ。
「何するんだトスナル! 血迷ったか?」
パセナルが、そう叫びながらクンネに近づき、その華奢な体を抱きかかえた。
「いえ。これでいいんですよ、兄さん」
トスナルの顔に、苦痛の表情が浮かぶ。パセナルに抱かれたクンネは、ぜえぜえと息をしながら、震えるその口から、真っ赤な血を流していた。
「トスナルのバカぁ!」
クンネのもとにかけよる、京子。
クンネは、視線だけをトスナルに向け、かすかに口を開いた。
「イ、イツ、ワカッタ?」
そこから出てきたのは、トスナルが今まで聞いた事もないような、低く唸る、まさに地獄の底から湧き上がってきたような声だった。
「廊下で会った、最初から」
トスナルは悲しそうな目をして、そう云った。
ほほう――と感心の声を出したクンネ。
訳が分からず、京子は立ち尽くしていた。パセナルは、ただ口をぱっかりと開けて、トスナルを見つめるばかり。
とそのとき、クンネの体がオレンジ色に光り始め、その姿を変えていった。同時に、イスにもたれ掛った田中社長――ヤンビフの姿も、輝き始めた。
「わっ!」
抱えたクンネを、思わず床に落としてしまった、パセナル。ムクムクと体を大きくしていくクンネに代わり、イスの上でみるみる縮んでいくのは、ヤンビフだ。
「お、お父様?」
オレンジ色の光が消え、目の前の床に横たわっていたのは、高級スーツに身を包んだ京子の父、田中野火夫こと、ヤンビフ。見ると、イスの上には黒猫が一匹、倒れている。
「首の後ろの『擦り傷』。それが無かったんですよ、あなたの変身したクンネには」
トスナルは、この屋敷に来る途中に自転車で転び、クンネがちょっとしたケガをした「経緯」を話した。
確かに、眠ったようにイスの上に倒れたクンネの首のあたりには、擦れたように毛が薄くなった、小さなケガがあった。
と、今までぼう然となっていた京子がぐったりとなった社長に近寄り、その両腕で彼を抱き上げた。
「お父様、しっかりして! アタシは信じないわ。お父様は暗黒魔法団などと、関係ないのでしょう? そうだと云ってください!」
田中社長は、京子の腕の中でブハッと赤黒い血を吐き出し、弱々しく笑った。
「……。どうやら、私にはもう、そんなに時間は残されていないようだ。まともに攻撃をくらったからね――。京子……実は、私はお前の本当の父親ではない」
「ウソよ!」
「まあ、聞きなさい……私は、暗黒魔法団のボス、ヤンビフなのだ。十年前、お前の本当の父、野火夫を殺した私は、それ以降、彼に成りすましてきた」
げほっ、ごほっ――
激しくせき込んだ、ヤンビフ。
「だがなあ、京子。一つだけ、ここで話しておかねばならないことが……ある」
血の気の引いたヤンビフの顔に、京子は顔を近づけた。
「現在の本当の暗黒魔法団のボスは、別にいるのだ」
えっ?
予想外の言葉に、思わず口が半開きになった、トスナル。そのとき、パセナルの蒼い目が、きっ、と鋭く光った。
「どういうこと?」
「私は、まがりなりにもお前の父となってからというもの、この普通の生活が楽しく愛おしいものになってしまったのだ――それで、暗黒魔法団のボスの座を、十年ほど前に、一人の男に託した」
ヤンビフの顔が、パセナルの方に、ゆっくりと向いていく。
「そう、この男……二十年ほど前に捕虜として捕らえ、そのまま暗魔団に寝返らせた魔法使い、パセナ――」
そこで、不意にヤンビフの声が途切れた。
がっくりとうなだれ、ピクリとも動かなくなった、ヤンビフ。
「しゃべりすぎたようだな、老いぼれよ」
それは、トスナルの兄、パセナルの口から出てきた言葉だった。パセナルの右腕は魔法力で鋭い金属の刃に変わっており、その先がヤンビフの胸元を貫いていた。
青ざめたトスナルと京子の目が、赤く腫れたようになって、恐怖で引きつっている。
「やれやれ、結局オレが殺さねばならないのか――」
パセナルは研ぎ澄ました刃物のような冷たい声でそう云いながら、金属と化した右手をヤンビフの胸から引き抜いた。
ごろん、と物体と化したヤンビフの体が、床へと落ちていく。
「ちっ……ここでトスナルや京子、その他を一網打尽に殺せると思ったのに、オマエのせいで、ダイナシだぜ」
「その他、とは何だあ!」 いつの間にか気がついたクンネが、大声を張り上げた。
「うるせえな、黙ってろ!」
パセナルがヤンビフの血で真っ赤に染まった右手をクンネに向かって振りかざした。すると、魔法の風圧でクンネは吹き飛び、壁に激突した。
ぐはっ――
クンネの小さな口から飛び出した、おびただしい鮮血。
「ど、道理でこの十年、ヤンビフの臭いが世の中にしなかったはずだ――その後釜をまさか、よりによってトスナルの兄、パセナルが継いでいたとは」
絞り出す様にしてそう呟いたクンネを、パセナルはただニヤリと見ただけだった。
「さあ、わかっただろ、我が弟よ。宿敵、ヤンビフは倒した。この後は兄弟で力を合わせ、世界征服を目指そうではないか」
いつの間にやら暗黒のオーラを身に纏っていた魔法使いは、その右手をトスナルに差し出し、握手を求めた。けれどトスナルはピクリとも動かず、パセナルの足元に転がったヤンビフの死体を、じっと見つめるばかりだった。
しばらくたって、ついに、トスナルが口を開いた。
「暗黒魔法団のボス? 兄さんが?」
「ああ、そうだ」
「魔法警察官だったのに?」
「そうさ。ヤンビフの捕虜となったとき、オレは悟ったのだ。『悪』こそが、この世を動かす力があると。そして、オレはついに、その力のすべてを得た」
「……。じゃあ、ボクが長い間、兄さんの敵として暗黒魔法団を追っていたのは、一体なんだったというのだ……」
「人生には、回り道がある。そう、オレがかつてこの世で何の役にも立たない魔法警察官であったように――」
トスナルはゆっくりと顔を上げ、宿敵に殺されたはずの、そして今やその宿敵のボスとなった、兄の顔をじっくりと眺めた。
「そうか――わかった」
「わかってくれたか、我が弟よ。では、オレについてきてくれるよな? 関東支部長の座ぐらいなら、すぐに――」
トスナルに差しのべられた、パセナルの右手。けれどトスナルは、普通の人間には見えないくらいのスピードで、それを力強く、振り払った。
触れ合った手と手からビリビリ噴出す、黄色いイナズマのような魔法エネルギー。
「ボクがわかったのは、そんなことじゃない。ボクの知っている優しい兄さんは、今、ボクの目の前にいる悪魔のような兄さんに殺されたという事実だ」
トスナルの目に、激しい怒りと、そして途方もない深い悲しみを内包したかのような、金色の光がみるみると宿っていった。
「……」
パセナルの目が、きゅうっと細くなりながら、灰色の鈍い光を帯びていく。
「では、我が弟よ。オレと戦うというのか?」
暗黒のオーラに包まれた、兄の姿。トスナルはほとんど喘ぐように、苦しい息の中で声を出した。
「ああ……そうなるね……」
「そうか――」
一瞬、トスナルから離れたパセナルの目線。ニヤリと開いた、口元。
「では……死ね!」
青白いイナズマがパセナルの指先から、放たれる。
それは、トスナルの体を包み込み、まるで彼を小さな虫けら扱いをしているかのように、トスナルの体をひらひらと空中に漂わせた。
「があああああ」
苦しそうに左手を喉に当てて、必死に右手をパセナルへと伸ばした、トスナル。
「ぐあはっ!」
パセナルの青いイナズマの光を、なんとか断ち切ったトスナルの右手から発したオレンジ色の光。トスナルが、そのままの姿勢で、床へと打ちつけられる。
「弱い……弱いゾオ。わが弟よ、がっかりだ」
パセナルの目がみるみると赤く染まり、ついには深紅のルビーのよう赤黒く膨らんだ。低い呻き声をあげ、体を震わせながら立ち上がろうとする、トスナル。
「本当に、これで最後だね。グッバイ、マイ・ブラザー!」
楽しそうな笑みを浮かべたパセナルが、右手をトスナルに向けた。
そのときだった。
「……いいかげんに――しろっ!」
身の毛もよだつほどの、おどろおどろした、京子の声が響いたのだ。
一瞬、戸惑いを見せたパセナルに、京子が全身にピンク色のオーラを発しながら、突っ込んでいく。
「うわ!」
隙をつかれたパセナルが、バランスを崩して、倒れそうになる。
(うそ……)
血の滴る左腕をおさえながら、トスナルは一瞬、呆気にとられた。
「お京さん――やっぱり強力な魔女だったんだ! どおりで強かったわけだよ!」
そう呟いたトスナルの前に、京子が立ちはだかる。
慌てて体制を立て直したパセナルが、右手からイナズマを発し、京子に攻撃を仕掛けた。パセナルの魔法波と京子のオーラが激しい音を立て、ぶつかり合う。
「何してるのよ、トスナル! 早く助けなさいよ!」
はっ、そうだった――
トスナルは急いで右手を構え、オレンジ色の光を京子のピンク色のオーラに重ね合わせた。二人の勢いに押され、パセナルがじりじりと後退していく。
ぐふう
パセナルが、苦しそうな表情を浮かべだした。
「あ、愛……なのか? あの、滅茶苦茶な組み合わせな二人の?」
誰にも聞こえないほどの小さな声をパセナルが発した、そのときだった。
「今だ、クンネ!」
トスナルがそう叫んだのと同時に、待ってましたとばかり、クンネがパセナルに向かって飛び出していった。それは、例えるなら、光り輝く金色の魔法オーラの塊と化した、一匹の黒猫。
がっはああ!
金色の光の塊が、パセナルの体を突き抜けていった。ばたりと音をたてて崩れ落ちた、パセナル。クンネは、すでに、元の黒猫に戻っている。
「そんな、ばかな……」
シュウシュウと音を立てて体が溶けだしたパセナルを、二人と一匹は荒い息の下で、見下ろしていた。
「終わったな……」呟いた、クンネ。
「に、兄さん……」
総ての力を出し切ったトスナルは、崩れるように、その場に倒れこんだ。