6 華麗なる一族
和美に声をかけられ、びくっと体を震わせた、魔法使い。
背を丸めるようにして振り返ったトスナルの目は、まるで魚の腐ったかのような、力のないものだった。
「ああ、お京さんのお姉さん……。ボク、帰るんで、失礼します……」
婚約者なんて、トンデモナイよ……
ブツブツ、そう呟いたトスナルは、和美の横に、やや太り気味の四十歳くらいの紳士が佇んでいるのを見つけた。
出口へ向かおうとした足を止める、トスナル。
「……あれ、和美さん、その方は?」
「私の主人です、トスナルさん」
「大華政彦といいます。初めまして――」
ぷっくらした頬をツヤツヤとテカらせながら、政彦が軽くお辞儀をした。トスナルと同じ、蒼い目をしている。
一瞬、目を見開いたものの、興味なさそうにトスナルは軽く会釈。
「それにしても、トスナルさん。お帰りとは、どういうことですの? 京子が、悲しみますよ」
「いや、あの……ボク、お京さんにハメられてしまって……。多分、ボクに『恥』をかかせるためにお京さんは――。まあ、とにかく、帰ります」
そそくさとその場を去ろうとするトスナルの腕をぐっと掴んだ、政彦。その動きは、小太りの四十男とは思えぬほどの、素早さだった。
「まあまあ、そうおっしゃらずに――まずは、お座り下さい」
蒼い目に宿ったブキミな力と、引っぱる腕の奇妙な力――
「は、はあ……」
トスナルは、政彦の持つ不思議な魅力で、無理矢理、テーブルのところに戻された。
「ところでトスナルさん、お願いしていた手紙の意味、何かお分かりになりましたか?」
「いやあ――、それがまだ……」
ボリボリとローブ越しに頭をかく、トスナル。
「どうも、あの117という数字――数字だと思うんですけど、そこんところからもう、引っかかってまして……」
「117? 数字?」
さっと青ざめる、政彦の表情。
「あれは、カタカナの『ハク』ですよ!」
あまりの剣幕に、妻の和美が思わず一歩、体を引いた。
「い、いや、少なくとも、私にはそう見えましたけど……さあ、どうでしょう」
慌てて声のトーンを落とす、政彦。
「…………」
トスナルが、じっと政彦の両目を見つめると、政彦はそっと目を反らした。
「と、とにかく、トスナルさん、魔法使い探偵なんですから、解読をお願いしますよ。あ、ところで……」
政彦がそう云いかけたとき、和美が肘で、政彦の横っ腹をつついた。
「お父様よ」
あちらこちらのテーブルににこやかに微笑みながら、ゆったりとした足取りでトスナル達に近づく、田中社長。
傍には、トスナルが今までに見たこともないくらい、おしとやかな小口で話す、京子がいた。
トスナルの背筋に、キン、と冷たいものが走る。
「お、お京さん、ブキミすぎる! やっぱり、逃げるしかないよ! ――って、クンネ、どうした?」
肩の上のクンネの様子が、なにやらおかしいことに、トスナルが気づく。
「そういえばさっきから、ずっと震えっぱなしだね。そんなに、お京さんが怖いの?」
クンネは、ちょっと首を傾げながら、トスナルの耳の傍で呟いた。
「よく、わからない……オマエは何も感じないのか?」
とそのとき、眩しいほどの派手なドレスで着飾った愛娘を従えながら、田中社長はトスナル達のテーブルに、ついにやって来た。
と同時に、席からすっくと立ち上がる、坂東と北野。
社長は、二人の男を満足そうに頷きながら見たあと、打って変った鋭い目線を、トスナルに向けた。
「君かね? 京子が推薦したフィアンセ候補は――京子がどうしてもと云うからこのパーティーに呼んだのだが……。正直、真っ黒なゴボウみたいで、がっかりだ」
(お京さんが推薦?)
トスナルが、その言葉の意味もよく分からないまま、社長の顔を覗き込んだ。
何ともいえない、その目の圧力。周りの他を圧倒しようとする、体全体からのオーラ。
(さすが、大会社の社長さんってところだね)
そう思ったトスナルに向けて、京子が口を開きかけたとき。
「京子、こちらが北野君。そちらが、坂東君。どちらもお前にふさわしい男だと思うんだがね……まあ、いい。すべては、戦いで決まるのだからな」
社長はトスナルに一度鋭い視線を向けた後、くるっと向きを変えて、歩き出した。
京子が、「仕方がないわね」という表情を浮かべながら、父親の後をつけていく。
(やれやれ……どうしてボクが、お京さんのお父さんに睨まれなきゃならないの?)
バカらしくなって、こっそりと部屋を出ようとした、トスナル。けれど、何か後ろから強烈な力でローブを掴まれた気がして、彼は後ろを振り向いた。
「うわっ」
トスナルが、思わず、のけ反る。その眼前に構えていたのは、京子。これでもかというくらいの豪奢な衣装に包まれた美女が、鬼の形相でトスナルを睨んでいる。
「まさか、あんた逃げる気じゃないわよね?」
唇をぶるんぶるんと横に振りながら、トスナルは必死に否定した。
「あっ、そう。よかった。もしそうだったら、あそこの事務所が爆弾か何かで吹っ飛んでしまうところだったわよ」
ぞっと青ざめた、トスナル。
「それにしても、あんたたちの服装、サンタさんとトナカイじゃないわね……服装を変えてもいいなんて、誰が許可したのよ」
ご立腹の、探偵秘書。
「いや、それはそのぉ……あ、それよりお京さん、これはどういうことなんですか? ボクが、お京さんのフィアンセ候補というのは、一体――」
慌てて話をはぐらかそうとする、探偵事務所の所長。
「どうもこうも、ないわ。今まで聞いた通りのことよ」
あっけらかんと、京子が答える。あまりの開き直りに、トスナルは、しばらく声も出ない。
「……わかりましたよ。全然、わかんないけど……じゃあ、一つだけ聞いていいですか? お父さまのお名前、どういう漢字をお書きになります?」
「はあ? 漢字? なんでそんなこと今聞くのよ……まあ、いいわ。教えてあげる。野原の野原の『野』、火事の『火』、夫婦の『夫』で、野火夫、よ」
「ふうん――なるほど」
このとき、京子の知り合いらしい年配の男性が、近くのテーブル席から、彼女に呼びかけた。
「はーい、おじさま。今、お伺いしまーす! ……それじゃトスナル、頼んだわよ。あいつら二人に負けたら、ただじゃおかないんだからね」
「はあ」
最後はトスナルに耳打ちするようにして去っていった京子を、トスナルは、ただ茫然と見送った。
「それにしても、オマエ、お京さんに惚れられていたとはな――クックック」
いつの間にか震えの収まったクンネが、面白そうに笑った。
「悪い冗談は止せよ! 黙らないとその口、二度と開けないように、魔法をかけてやるぞ!」
真剣に怒り出した、童顔の魔法使い。被害を避けるように、慌てて魔法使いの肩から飛び降りる、黒猫。
とそこへ、二つの影がトスナルに近づいた。
「どういうことだ、トスナルとやら。アンタ、お嬢さまとやけに親しいじゃねえか」
「そうですよ。アンフェアです」
京子と親しげに話すトスナルを見た北野と坂東が、トスナルに詰め寄った。
「いや、ボクは特にそういう気はなくて、それで、あの……」
二人の剣幕に、タジタジのトスナル。とそのとき、先ほどの司会者が舞台の上に立ち、アナウンスを始めた。
「それでは、京子お嬢様のフィアンセ候補である御三名、舞台の方まで、お願いいたします」
パラパラと鳴る、拍手。
会場のあちらこちらから、トスナル達三人に視線が集中しだす。
「ちっ、時間のようだ。テメエにだけは負けねえからな」
「私もです。覚悟しておいてください」
睨みつける坂東に、真剣な表情の北野。二人が舞台の方へと動き出し、トスナルは、ほっと一息つく。
と、そのとき間髪をいれずに口を開いたのは、クンネだった。
「じゃ、オイラ用事が出来たから、ちょっと出かけてくる。あとは、一人で頑張れよな。あ、そうそう、くれぐれもお京さんに殴られないように、気をつけろよ」
「えっ? 猫に用事があるのかい?」
「ああ――こう見えて、猫も案外、忙しいのさ」
クンネの目線の先にあったもの――それは、大広間から退出しようとしている、田中社長の姿だった。