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黒髪を後ろで1つにまとめて、楽しそうな笑顔を浮かべる女性。
「お母さん……」
そう、お母さんが教室の入り口にいる。ちらりと辺りを見ると、私の漏らした声を聞いたらしいクラスメイト達は、家族の対応は任せるといった雰囲気で温かいまなざしをくれる。
え、家族相手にメイド接客するのってつらくない?
お母さんは、対応を楽しみにしている様子で、入り口でにこにこしている。このままでは後ろがつかえるだろう。私は腹をくくった。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
女性相手でもご主人様で良いのだろうか? と思わないでもないけど、本格的なものではないから大目に見て欲しい。
「はいはい、ただいま」
「お席にご案内いたします」
笑顔で対応するものの、なんだろうな。家族相手だから、お帰りもただいまも言いなれたもののはずなのに、違和感がすごい。
「お食事はいかがいたしますか?」
「そうねぇ。アッサムティーだけもらえる?」
飲み物だけか。やっぱり忙しいのかな。思ったけど、顔には出さないようにした。
「かしこまりました」
「なんだか変な感じねぇ」
お母さんも違和感は拭えないらしい。顔が半笑いだ。私も我慢しているので、こらえてほしい。
とりあえずオーダーを伝えるために一旦離れる。といっても、さして広くない教室で、まだお客さんも少ない時間帯。私たちの声は十分に聞こえていたようで、外村くんがすでに準備に入ってくれていた。妙に手馴れていて、お湯を注ぐ所作も様になっているように見える。
「紅茶淹れるの得意なの?」
思わず聞いてしまっていた。外村くんはパチクリと瞬きした後、小さく笑みをこぼした。
「昨日もしていたからね。多少慣れたのかも」
「そうなんだ」
マイペースでそつのない人だと思っていたけど、器用な人でもあるのかもしれない。
「はい、アッサムティー、どうぞ」
「ありがとう」
受け取った私は、さっさと接客を終わらそうと振り向いた所で、目が点になった。馨がお母さんの前の席に座って喋っている。
「何してんの、馨」
メイド接客を吹っ飛ばして、素の声になっていた。
「いや、俺も今は客だから」
「いつ休憩になったのよ」
「ついさっき」
そんなシフト体制だったろうか。まぁ、アルバイトじゃないし、そこまで固いことは言わないけど。周りをちらりと見てみるけど、誰も気にしていないようだった。
学外の人も参加できる日といっても、実際に来るのは家族や他校の友達がほとんどだ。誰かの身内がきたら、そっと見守る。昨日の今日でそんな体制になっているようだった。馨と母は家族でもなければ友人でもないはずだけど。
「あんたたちは相変わらずなのねぇ」
アッサムティーを一口飲んでから、お母さんはのほほんと言う。
「おばさんも相変わらずきれいだよ」
何歯の浮くことを言っているんだ、馨。
「ありがとう。でもそういうのは好きな子に言わないとダメよ」
小さな子をたしなめるように、お母さんは微笑む。ちらりと私の方を見ながら。意味深に感じられて、思わずお母さんの瞳を見つめ返す格好になった。けれど、すぐに視線を外される。
「うん、これからはちゃんと伝えていくようにするよ」
「そう、それならいいわ」
うん? ん? どういうことだ?
2人はまるで分かり合っているかのように頷き合っている。でも、私にはさっぱりだ。馨にはちゃんと好きな子がいるってこと……?
そっか、そうだよね。いたっておかしくない。そして、そんな話を目の前でされている私が相手ということはないだろう。
一緒にいたいと願っていても、いつかは離れ離れになるのだ。
それは当たり前のことなのに、胸の奥がぐっと絞めつけられるような、痛みを感じた。でも、馨の気持ちを束縛したくはない。私は指の先に力を入れて、2人の他愛無い会話を眺めていた。
しばらくしてアッサムティーを飲み終えると、お母さんは席を立っていた。
「もう仕事に戻る感じ?」
今日は土曜日だ。でも、看護師をする母には関係のないことだった。
「午後からにしてあるから大丈夫よ。透くんの所も見てから行くわ」
「抜け出してきた訳じゃないのね」
「そりゃそうよ。患者さんをないがしろにはできないわ」
そう微笑む姿は、確かに慈愛という言葉が似合っていた。でも、入り口の所まできて立ち止まると、もう休憩は終わって飲み物の準備に入っている馨の方に視線を投げかける。
「ねぇ、陽菜。仕事ばっかりで寂しい思いをさせてきた私が言えたことじゃないけど、私は陽菜のことが大切よ」
「お母さん?」
突然、何を言い出すのだろう。
「大切に思っているのは私だけじゃないわ。寂しいと思った時に、ちゃんと握り返してくれる人はいるのよ」
お母さんの笑みは、慈愛ではなく、きっと母性愛になっていた。何だか気恥ずかしい。でも、とても大事なことを言われていることは分かるから、頷き返す。
「そしてね、その手は多少関係が変わったって、ちゃんと隣にあるものなのよ」
「うん」
もう1度頷く。だけど、なんて言葉を続けたらいいか分からない。あまり一緒にいられないお母さんだけど、確かに私の気持ちをよく知ってくれていると思う。
でも、それは家族だからじゃないのかな。
他の関係にも、本当に求めていいの?
私の瞳は不安そうに揺れていたのかもしれない。お母さんは優しく肩を叩く。
「ねぇ、陽菜、あれ言ってよ。でないと出られないわ」
改めて言われると照れ臭い気もする。けど私たちにとっては日常の言葉でもある。
「いってらっしゃい」
ご主人様はつけなかった。お母さんは嬉しそうに笑む。
「ええ、行ってきます」
それは小さな頃から変わらない。お父さんが亡くなってからというもの仕事に邁進するようになって、時間はほとんど合わなくなった。でも、何度も言ったことのある言葉。家族の挨拶だ。
離れたって変わらないものもある。
透の教室の方に向かうお母さんを見送ると、私は教室内の馨を見遣った。飲み物を用意している馨の横顔は楽しそうだった。私はその隣に向かった。