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あまりすっきりとしない。少し肌寒い朝の空気が頬をかすめる。
夜の内に何度か目を覚ましてしまった。熟睡できていない頭は、何だか重い。正直、もう少し横になっていたかったけど、今日も文化祭。それも学外の人も参加できる日だ。昨日よりも準備は念入りにしておきたい。
顔色もあまり良くないらしく、和恵おばちゃんにも心配された。
でも、立ち止まっても何か解決するわけじゃない。それだけは分かるから、今は目の前のこと、文化祭に集中することにした。
昇降口までくると、まだ昨日の熱気が残っているような気がした。それは廊下にも、各教室にも言えることだ。普段なら登校しない時間帯なのに、すでにちらほら生徒の姿が見える。朝の空気が少しずつ温まっていくのを感じる。
メイド喫茶の看板の下をくぐると、まだ静かだった。
誰も来ていないみたい。
内装の修繕等は必要ないし、取り急ぎ準備することがあるわけじゃないしね。あまり早くにポットの準備をして冷えても困る。
何気なく調理スペースに入ったら、ギョッとした。
人がいる。
胡坐をかいた状態で、背中を壁に預けて器用に眠っている人。
「馨?」
思わず声がこぼれた。反応したように馨は眉をしかめるけど、目が開く様子はない。
「馨、起きて」
今度は肩を揺すりながら、はっきりと声をかける。すると身をよじりつつも、うめき声を漏らしながら目を覚ました。焦点を合わすように目をしばたたかせる。
「起きた?」
「……ヒナ?」
少し掠れた声。黒い髪が日差しを受ける。馨の瞳がまっすぐに私を捉えている。起こすためにしゃがみ込んだ私と、未だ胡坐をかいている馨の距離は、思ったよりも近い。
あと1歩でも近づけば、きっと2人の顔は重なる。
「おはよう」
そんな至近距離で、馨はくしゃりと無防備に笑みを見せる。
「……おはよう」
かろうじて返せた。でもこの距離は幼馴染みじゃない気がする。3人じゃない気がする。
私は勢いをつけて立ち上がっていた。
「なんでこんなところで寝てるの?」
視線を逸らすように辺りを見回す。何もこんな隅じゃなくても、テーブルだって、椅子だってあるのに。
「いやぁ、早く来すぎたなぁ、って思ったら眠くなってさ、気付いたら寝てた」
「説明になってないよ」
「日差しがちょうどいい感じだったからかな?」
うん、やっぱり説明になっていない。諦めて、別のことを聞くことにした。
「そもそもいつ来たの?」
馨はぐっと背伸びをして立ち上がりながら、壁の時計を確認する。
「うーん、でも30分くらいしか寝てねぇな」
「誰もいないならバスケ部の方に行ってみたら良かったんじゃない?」
「今日はバスケ部の方は店番ないからな」
店番はなくても何かしら準備はあるだろうに。思ったけど、言っても詮無いことのような気がした。バスケ部も特にすることはないのかもしれないけど……。
私はとりあえず、教室内のチェックをして回ることにした。何か見過ごしていることもあるかもしれないしね。そんな私の後ろを馨がついてくる。
「何?」
「今日終わった後のことだけど」
そういえば結局どこに呼ばれるのか、細かいことは聞いていない。私は聞く体制に入る。そして、馨が口を開きかけた所で、廊下が騒がしくなった。
視線を動かすと、有美をはじめとしたクラスメイトが何人かやってきたみたいだ。
「おはよう、2人とも早いね!」
「うん、おはよう」
挨拶を返したものの馨との会話は途切れてしまった。
「また後で」
そっと囁かれた声が低く響く。耳を熱くした。視線を避けようとしたけど、くすりと笑みが落ちた気がする。
「どうかした?」
私の様子に有美が訝しむように声をかけてくる。
「な、何でもない」
「そう? 顔赤いけど風邪?」
「ううん、元気だよ!」
言葉を強くして言う私はかえって不審みたいだ。でも有美は首を傾げたものの深く聞くことはしないと判断したようだ。
「まぁ、気分悪くなったりしたら言いなよ?」
「うん、ありがとう」
そんな会話をしている間に馨は、別のクラスメイトと話し始めていた。その横顔は普段と変わらない。変わらないはず、なんだけどな。
……なんだか変に意識してしまっているみたいだ。
私は無理やり視線を引きはがして、みんなと一緒に準備を始めることにした。
しばらくすると校内放送から生徒会長の声が流れてくる。2日目に開会式はない。代わりに放送で開始を宣言するのだ。校内放送と言っても実際はグラウンドや校門の方にも流れている。一般参加の人たちにも声が届いたのだろう。俄かに窓の外が活気づいた。
今は文化祭のことに集中しよう。私は意識を新たにした。