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何と声をかければ良いのか。
わずかに逡巡した隙に透は歩き出していた。するりと私の横を通り抜け、馨のそばに寄る。まだ息の整わない馨に何か言ったみたいだったけど、声が小さくて聞き取れなかった。ただ馨は少し驚いた顔をして、去っていく透の背中を見ていた。
やがて、馨の視線が私を捉える。少したれ目だから普段なら愛嬌がある顔。だけど、今はこめかみに汗が伝い、険しい雰囲気がある。それでも、私はちゃんと馨の顔を認識できているのだ。
「馨……」
名前を呼んだものの、言葉が続かない。
馨も何も言わない。ただ、足が大きく1歩動いた。私たちの距離はあっという間に縮まる。馨が右手を伸ばしてくる。
「泣いたのか?」
そっと目元に触れた。馨の指先のぬくもりを感じる。
「泣いてない」
涙はこぼしていない。視界だってぼやけたりしていない。嘘はついていないはずだ。馨は苦笑したみたいだった。私の目元から離れた指先は、少し濡れていた。
「透と何かあったか?」
ためらうようにして開かれた唇からは、はっきりとした声が響いた。私は即答できなかった。視線をそらすように見上げた空は、気持ちいいくらいの秋色で、かえって切なくさせる。
透から告白された。ずっと先延ばしにされていた気持ち。いつか告げられることは知っていた。
私の態度は透にとって不誠実なものだった。
透の気持ちに答えることはできないと分かっていた。でも離れ離れになる決断もできず、透が保留にしたことを良いことに目をそらした。そして3人のままでいたいと願った。
結局、逃げていただけなのだ。
そのくせ目元から離れた馨の指先を、名残り惜しく思う自分がいる。
透は優しい。
馨も優しい。
私はどちらの手も取れない。
「少し、昔の話をしたの。2人がツキとヒナで呼んでくれた日のこと。馨は覚えている?」
「覚えているよ」
「約束のことも?」
「もちろん。ヒナは思い出したのか?」
どうやら馨にも、私が忘れていることはお見通しだったみたいだ。申し訳ない気持ちになる。一方で、覚えていてくれたことが嬉しくもある。
「うん、割と最近だけどね」
「そっか」
「馨は3人でいるのは嫌?」
「……嫌じゃない」
馨は少し目を伏せた。意地の悪い聞き方だったと思う。でも、1度口に出した言葉は取り消せない。
沈黙が落ちて、代わりに遠くから歓声が聞こえる。この時間、外で盛り上がるような演目はあっただろうか? プログラムを思い浮かべてみたけど、すぐには出てこなかった。
この沈黙を破る言葉も出てこない。
「ヒナ」
馨も、何かを言いかけて口を閉じた。首を傾げると、わざとらしく咳払いされた。
「たこ焼き食うか?」
突然の提案に目をしばたたかせる。でも、そうだ。私はバスケ部のたこ焼きの所に行こうとしていたのだ。
「うん、食べる」
頷くと、馨は柔らかい笑みを浮かべた。そうして私たちは歩き出した。手は繋がないまま、人1人分の距離を開けて。
馨の作るたこ焼きは美味しかった。1個1個、綺麗な丸で、馨の手先の器用さを妙な所で実感したりもしていた。
食べ終えて文化祭実行委員の見回りに戻ろうとしていたら、馨が声を掛けてきた。
「明日、文化祭の終わり頃って時間ある?」
「終わり頃?」
文化祭の後片付けは大まかには明日もするけど、本格的には明後日になる。文化祭実行委員としての見回りもない。
「クラスの方の忙しさ次第かな?」
今日はまだ全然顔を出せていないし、明日はできるだけクラスの方に参加しようと思っている。
「そっか。じゃあさ、明日、呼ぶから。時間あったら来て」
呼ぶ? 来て? 要領を得なくて困惑してしまう。
「えっと、どこに?」
「それは明日のお楽しみってことで!」
明るく言い切られると、何だか心の奥がぽっとぬくもりを感じる気がした。笑顔がまぶしい。
頬がほんのり熱くなる気がした。それは3人でいたいと思う自分の気持ちからは、離れたものだと思った。私は急いで蓋をするように笑顔を浮かべた。
「分かった。楽しみにしてる!」
……また逃げたのだろうか。
分からない。
文化祭実行委員の見回りを終えて、クラスの方へ行くことにする。腕章を1人で返すことになったけど、特に何も言われなかった。透の分の腕章は既に返されていたみたいだ。
今、どこにいるのだろう。
気になったけど、今の私に透を追いかけていく権利はない。明日にはまた同じように話せるようになっているといいと願いながらも。
クラスの方は盛り上がっているみたいだ。メイド服も好評みたいで、ほっとする。メイド服を着ること自体にも抵抗はなくなっているみたいだ。
私も明日には慣れているのかな。
1つ、こぼした溜め息は文化祭の喧騒の中に消えてしまった。




