5
――ツキちゃん。
――ヒナちゃん。
声が響く。遠く近く。姿は見えないのに聞こえる。目は開いているはずなのに何も見えない。
だけど不思議と不安はなかった。
――じゃあ、ヤクソクしよう?
また声が響く。温かく安心感がある。
――うん、ヤクソク。もしも、いつか――。
ヤクソク。約束とは何だったろうか。問いかけようとするも、言葉を口にできない。パクパクと息が洩れるだけだ。
次第に周囲が白みだす。相変わらず何も見えないけど、目覚めが近いのだと直感する。
待って!
反射的に思った。でも、やっぱり音にはならず空気をかすめるだけだ。私は抵抗する術を持たず、まぶたが軽くなっていくのに身を任せるしかない。
目に映るのは見慣れた天井だった。若干ぼやけた景色は、何度か瞬きするとはっきりとした輪郭を持つ。
「夢か……」
思わずつぶやいたものの、あまり実感はない。夢というよりは過去の記憶のような気がする。頭が覚醒するに従い、夢の内容はどんどん薄れていく。
「約束?」
ぽつりとこぼれた瞬間、思考を阻害するようにけたたましい音が部屋に鳴り響いた。目覚ましだ。起きなくちゃ……。
まだ眠気の残る上半身を勢いつけて起こす。
今日はスヌーズ機能を使うことなく目を覚ましたお陰で、いつもより少しだけ朝にゆとりがある。ここの所、文化祭の準備に忙しくしていたからかな。何もせずにぼんやりしているだけで、疲れが抜けていくような気になる。
だからといって、のんびりしすぎる訳にもいかない。私はベッドから立ち上がる。
少し早い時間、だけど、当然のようにお母さんの姿はない。今日も早くから仕事に行ってしまったようだ。もうすっかり慣れたことではあるけど、こんなに朝早くから仕事に行く親には感心せずにはいられない。
「あら、おはよう」
身支度を整え終えて洗面所から出てくると、和恵おばちゃんと鉢合わせした。
「おはよう」
「今日は学校早く行くの?」
「そうじゃないけど、目が覚めたから」
「そう、朝食はできているから食べてね」
「ありがとう」
ダイニングテーブルにはこんがり焼けたトーストにコーンスープ、それから野菜サラダ。絵に描いたようなブレックファーストだ。何だか微笑ましい気持ちになる。トーストにはマーマレードジャムを塗って食べる。
そうして、いつもよりゆったり目に朝の時間を過ごすと、玄関のチャイムの音がする。透が今日も迎えにきてくれたのだ。
「おはよう、ツキ」
微笑む透は穏やかだ。
「うん、おはよう」
私はローファーを履いて、透と並んで登校する。馨は今日も朝練だ。文化祭1週間前になると、部活は実質休みの状態になる。その前に少しでも長くサッカーに没頭していたいのだろう。
「文化祭の準備は順調?」
最近はそんなお決まりのことを透はよく聞く。天気の話をするのと同じくらいに当たり障りがない。
「うーん、やっぱりメイド服が手間取っている感じかな。私はあんまり裁縫は得意じゃないし……」
「そっか。まぁお化けの格好も凝りだすと大変なんだけど」
苦笑する透の顔は、だけど穏やかだ。馨も透も黒髪になった。外見上は同じになったのに、表情は案外違うものだな、と実感する。
「透はお化けの格好するの?」
「それは当日までの秘密」
「えー、教えてくれてもいいじゃない」
私の抗議を、透は笑ってかわす。もう何年と見てきた幼馴染みの透の顔だ。それだけに、微かな違和感はこぼれてしまう。
――ちゃんと言葉にはする。
その透の声を、私はきちんと覚えている。でも、触れない。透も私も。
わずかなしこりは以前にはなかったもの。それでも透の顔も、多分私の顔も変わらない。幼馴染みとしての距離を測りながら、私たちは学校に向かう。
やがて校庭が見えてくると、サッカー部が朝練を終えて後片付けをしている様子が見えた。馨はサッカーボールを抱えながら、重田くんと何か楽しそうに話しているようだ。
「どうかした?」
「え?」
「なんか笑っているからさ」
言われて頬の辺りに触れてみる。表情筋の動きは自分では良く分からないものだった。
「変な顔していたかな?」
「変ではないけど……」
言葉を濁した透は、困ったように笑みを浮かべる。首を傾げながら、私はどこか幼い頃の透と重なるような、そんな気がしていた。
「お化けの顔の参考にしようかな」
「どういう意味?」
少し怒気を含めてみたけど、透も私も本気じゃないことが分かるから、結局ごまかしたかのような感じになってしまった。気持ちを押し隠すように、校門へと進む歩に力をいれた。
見上げた青空には、もう夏の残り香は見えない。