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誤解されない幼馴染みの距離とはどれほどのものなのだろう。少し考えてみたけど、よく分からなかった。今までにも関係を疑われることはあったから、主観の部分が強い気もする。
どこまでが友達で、幼馴染みで、どこからが彼氏彼女なのか。1人1人、それぞれに境界線がある。その全てに対応するなんて無理だ。
じゃあ、透とは?
私と透。
2人が心地良くいられるのって、どれくらいのスペースが必要なんだろう。
それも分からない?
それとも分からないふりをしているのか。
分かることと言えば、今、誰かに目撃されたら確実に誤解されるということだ。私は透に抱きしめられる格好になっていた。
……どうしてこうなった!
今日も今日とて文化祭の準備に勤しむ放課後。私は店の看板作りをしていた。メイド喫茶というからには、可愛らしさと気品を兼ね備えたものにしたい。生憎、私には芸術センスはないので、美術部に所属する子が起こしてくれたデザインを元にして制作していた。看板の骨組みには廃材の木材を使っていたのだけど、ちゃんと整えていなかったために、ささくれた棘が飛び出ていた所があったみたいだ。
私は、うっかりその棘に指先をひっかけてしまった。すっと右手の人差指に切れ目ができる。深く切れた訳ではないけど、地味に痛い。廃材だったものだし、ちゃんと消毒した方がいいのかもしれない。私は一旦、他の子に制作を任せて保健室に向かうことにしていた。
その途中で透に会ったのだ。他には誰もいない踊り場だった。最近はもう偶然なのかもよく分からない頻度だな、とちょっと緊張する自分がいた。
透に対して緊張? 何故? その戸惑いがいけなかった。
――危ない!
透の声が聞こえた時には、既に私の足は階段を踏み外していた。一瞬、身体が宙に浮く感覚がした。
だけど、私が落ちることはなかった。透に腕をひっぱられ、その反動で私は抱きしめられる形になってしまったのだ。
うん、事故だ。しかも私のドジのせいだ。
「ありがとう、透。もう大丈夫だから」
お礼を言ったものの、透の腕が離れる様子がない。この状況を誰かに見られるとまずいと思うのだけど……。
「透?」
もう1度声をかけると、ぎゅっと力を込められてから腕が離れた。透の力強さを感じた瞬間、頬が熱を持つのを感じた。馨に比べれば文化系の透。だけど、ちゃんと男子なのだ。
「ごめん」
静かな踊り場に謝罪が落ちる。うつむく透の表情は、前髪が邪魔してよく見えない。
「ううん、助けてくれてありがとう」
上手く会話が続かない。
「えっと……私、保健室に行くから」
血は止まっているものの、切れ目がきっちり入っている指先を見せる。すると透の瞳が心配そうに揺れる。
「俺もついていくよ」
「え、そんな大層な怪我じゃないよ?」
「また階段から落ちるといけないからね」
冗談めかして言われた言葉に、空気が動き出したことを感じる。いつもの空気だ。私はその空気を壊したくなくて、透についてきてもらうことにした。
保健室はしんと静まっていた。保科先生はいなかった。ベッドで眠る人もいないためレールカーテンは全て開いている。
窓の外に見えるグラウンドには生徒がたくさんいるけど、どの部活かまでは分からない。馨の姿はないので、サッカー部ではないようだ。サッカー部は外周にでも出ているのかな。
窓を境界にして別世界みたいだ。
「消毒液とか、勝手に使っても大丈夫かな?」
「うーん、怒られはなしないと思うけど……」
言いながら透は棚から消毒液を探してくれている。ほどなくして透は消毒液と綿棒を持って私の前に座る。保健室の机の椅子のせいなのか。透は白衣も似合いそうだな、なんて考えてしまう。
「消毒くらい、自分でできるよ?」
「利き手じゃないとやりづらいだろ?」
そう言われると、たしかに、と思ってしまう。すっかり透に治療されることになっている。
「ちょっと前にも透と保健室にはお世話になったね」
ふと思い出した。あの時も保科先生はいなくて、透と2人きりだった。
「熱中症になった時だったか」
透も思い出したみたいだ。まぁ、保健室に来ること自体、本来はあまりないしね。
熱中症で倒れた直後のことは、はっきりとは覚えていない。だけど、私はあの時、透に抱かかえられて保健室に運び込まれたのだ。私は、すでに透の力強さを知っていたのだ。
都合良く忘れたふりをしていたのだろうか。
「ねぇ、透」
消毒液で濡らした綿棒で傷口を綺麗にし、丁寧に絆創膏をまいてくれる透の指先を見ながら、声をかける。
「どうした?」
「その、最近のことだけど……」
はっきりと言葉にされた訳じゃない。態度から何となく察している状態だ。どう切り出そう? 少し考え込むと透が笑みをこぼした。どこか寂しそうだ。
「ごめん。ツキを困らせている自覚はあるんだ」
「透……」
「気持ちを抑えないって決めてから、どうも上手くいかないんだ」
静かに響く声は、穏やかさとは違う。でも、不快を伴うものでもなかった。
透も私との距離を測りかねているのかもしれない。きっと幼馴染みでいる時間が長過ぎたのだ。他の関係の距離を知らない。感情ははみ出そうとしているのに。
「透も意外と不器用だったんだね」
「どうやら、そうらしい」
苦笑する透の顔には、確かな熱情も見え隠れする。
「ちゃんと言葉にはするから。だから、それまで待っていてほしい」
聞きようによっては、随分身勝手な言葉かもしれない。でも、気持ちを持て余してしまう、その想いは分からないでもない。私は頷いていた。
「うん、分かった」
「また困らせるかもしれないけど……」
「そこは困らせないようにするって言ってよ」
私達は笑った。私も透も今はまだ適切な言葉を持たない。曖昧な関係。だけど、どこか清々しくもある。今の2人の距離を確認できたからかもしれない。目盛りも区切りもないけど、不思議と安心感はあった。