2
チクタクと時計の音が、妙に耳につく。ベッドの枕に顔をうずめても、遠くなるのは蝉の鳴き声と、騒がしい子供たちの声だけ。秒針の音は消えない。
行くべきか、行かないべきか。
当日になって、また悩んでいる。もうそろそろ試合が始まる時間だ。分かっているのに。足が動かない。馨と篠宮さんの顔がちらつく。気にすることないじゃないって思うんだけどな。
でも、今日、もし試合の応援に行ったら、馨はまた「ただの幼馴染みだから」と周りの子たちに言い訳することになるのかな。それは申し訳ないし、何となく寂しいことのように思えた。
チクリと肌をかすめるような痛みがする。
「陽菜―、出かけないの?」
ノックの音と同時にドアが開けられる。家族のような気安さが、今はちょっと憎い。
「和恵おばちゃん、ノックの意味ないよ」
「何か困ることでもあるの? てか、おばちゃんって言うんじゃないよ!」
「はい、和恵お姉さま」
「うむ、よろしい」
大仰に頷いた後で、和恵おばちゃんは溜め息を細く吐いた。
「で、陽菜は何してるの?」
「何って?」
「馨くんの試合に応援に行かなくていいの?」
ベッドに寝転がる私を見下ろす和恵おばちゃんの視線は、清々しいほどに何も疑っていない。あまりにまっすぐで言葉に困る。
「いや、うん、そうだね……」
「何? 喧嘩でもしたの?」
喧嘩なんてしていない。ただ勝手に私が気まずく思っているだけだ。案外、顔を合わせたら平気なのかもしれない。
「あんたらが喧嘩するなんて珍しいわね」
無言を肯定ととったらしい。ますますどう答えたら良いのか分からなくなる。
「ああ、でも口喧嘩はよくしていたっけ。すぐにケロッと仲直りしていたけど」
「……そうだったっけ」
「そうよ。心配する方がバカみたいだったわよ」
口喧嘩か……そういうのだったら、もっと気楽だったんだろうな。それこそ本当に翌日には普通に接していたんだと思う。
「ねぇ、幼馴染みってどこまでが幼馴染みなんだろう?」
「突然どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
どうしたと聞かれても、どう言えば良いのか分からない。馨と篠宮さんの関係を、結局の所、実際はどうなのかは知らないのだ。あれこれ考えて踏みこめずにいるだけ。頭では理解しているんだけどな……。
和恵おばちゃんが、呆れにも似た笑いをこぼした。
「ま、あんたらも年頃だからね。色々あるだろうさ。でもさ、陽菜、あんたはどうしたいの? 応援、行きたくないの?」
それは……色んなことをすっ飛ばして良いのなら、余計なことを考えないのであれば。
「行きたい、と思う」
「そう、じゃあ、応援行ってくれば?」
「でも……」
「ほら、今ならまだ間に合うよ!」
「う、うん、分かった!」
和恵おばちゃんに追い立てられるようにしてベッドから立ち上がり、慌てて出かける準備をする。ベッドでぐだぐだしていたせいで、髪の毛がぐちゃぐちゃだ。誤魔化すようにお団子にまとめて、服も動きやすそうなものを適当に選ぶ。
幼馴染みとして見るなら……まずまずかな。いや、他にどう見てほしいって訳じゃないけど。むしろ私が馨を見に行く訳だし!
外に出ると、もう夏真っ盛りの日差しだ。じっとしていても汗が浮かぶ。だけど、私は走り出した。熱を含んだ風が、不思議と心地良い。応援に行く! と決めたら足が軽やかだ。
いつだったか、こんな風に走ったことがあったな。あれはいつだったろう。今よりも視線はずっと低かった。小学校4年くらいだったかな。
――待って! 待ってよ!
――うっせ! ついてくんな!
確か、そう馨と手を繋いで登校していたら、周りの男子にからかわれたのだ。透だったら笑顔で流したのかもしれないけど、その日は風邪を引いて休んでいたのだ。男女3人が男女2人になった途端、からかいの対象になるのかと思えば、可愛いものだと今なら笑える。
だけど、まだ幼かった私たちは上手く対処できず、男子たちから逃げるように走り、しまいには馨が私を突き放すように走り出したのだ。当時から馨は足が速かった。
――ヒナちゃんとはもう手、繋がない!
諦めの悪い私に観念して立ち止まったかと思えば、突然そんなことを言った。
――なんでよ!
――なんでも! 女と手を繋ぐなんてだっせぇもん。
――意地悪! 馨くんなんて嫌い!
――俺だって! 大嫌いだ!
自分から嫌いだと言ったのに。馨に大嫌いと言われたことに、ひどく動揺してしまった。気付いたら見開いた目から、ボロボロと涙がこぼれていた。
――な、なんだよ、泣くなよ……。
――だって、だって……。
売り言葉に買い言葉の結果、私は泣き、馨は途方に暮れた。
不意に馨の手が頬に触れる。そして乱暴に涙を拭いた。涙の向こうに見た馨の顔は、泣いているように見えた。私みたいに涙は流れていないし、嗚咽もこぼれていないけども。
あぁ、これが後悔って言うんだ。小学生の私は深く納得していた。私も後悔していたから。
――ごめんね。馨くんのこと好きだよ。だから、手、繋いで。
――俺もごめん……。
どちらからともなく手を差し出し繋いでいた。走った後の馨の手は熱く、何より安心感があった。
もしも、今、馨に嫌いと言われたら何と答えるのだろう。同じように好きだよ、と答えるのかな。昔と今じゃ言葉の意味が少し違う気がする。
でも、関係性が変わっても手を繋いでいられる距離でいたいと思う。
試合の会場は、電車の冷房で落ち着いた体温を吹き飛ばすような熱気だった。ボールを追いかけ走り回る人たちの、ひたむきさと貪欲さに包まれている。
その中でも先陣を切っているのが、他でもない馨だった。相手選手を次々とかわしていき、ゴールへと向かっていく。アッシュブラウンの髪がフィールドにゆらめく。
でも、次第に囲まれて行き場をなくしていくのが分かる。馨の顔に焦りが浮かんだ気がした。
「馨! がんばれ!」
思わず大声を出していた。周りの声援にかき消されたと思う。けど、ほんのわずかだけど馨と視線が合った気がした。
次の瞬間、馨は重田くんに相手の隙をついてパスを出し、包囲網を抜けたかと思うと、ゴール前に一気に駆け抜け、重田くんから返されたボールを、強く蹴っていた。
ボールは綺麗な放物線を描き、ゴールキーパーの手をすり抜けていった。
そして、ゴールを見届けるようにしてホイッスルが鳴り響いた。でも、馨の表情に歓喜はなかった。肩で荒く息をしながら、がっくりと膝をつくのが見えた。
点数は……1対2。
馨たちの今年の選手権が終わった。