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神社の裏手から出て喧騒が戻ってくると、早足はいつの間にか駆け足になっていた。人にぶつかりそうになりながら、苛立ったような視線を受けながら。やがて息も上がってくる。帯で締められていて、いつもより苦しい。だのに足は止まらない。
馨と篠宮さんの姿。どうすればいい?
応援? がんばって? お祝い? おめでとう?
2人が付き合う可能性は分かっていたこと。そして、2人が本当に付き合うのかどうかは、まだ分からない。事実は事実として、理解しているはずだった。
だけど、気持ちが追いついてくれない。
カクン、と不意に右足の力が空回りする。鼻緒が切れたのだ。すぐに理解したけれど、急に立ち止まることもできず、転倒しそうになる。
「危ない!」
鋭い声とともに私は後ろから抱きとめられていた。腰に回された腕は、意外とがっしりとしていた。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう」
心配そうな透の顔。何かを意識する隙はない。私はそっと息を整える。
「とりあえず、ここで突っ立っていると邪魔になるから端に寄ろう」
透は言うや否や腰に回していた手を離すと、そのまま膝裏に持っていく。あれ? と思った時にはすでに私の身体は宙に浮いていた。
「えっ? ちょっ、透?」
「どうかした?」
「どうかしたっていうか、そのですね!」
「暴れると危ないよ」
あまりに平然としていて、動転している自分がおかしいみたいだ。でも、これってお姫様抱っこってやつですよね? ただの幼馴染みではしないんじゃないかな? 周りの視線も感じるし!
それにこんなに密着していると、今回は意識しない訳にはいかない。透の力強さを。男性だということを。顔が赤くなっていることが、鏡を見なくても分かる。提灯の紅い光が救いだ。
透は屋台の間の道を通り抜けると、私をそっとおろしてくれた。片足で立つのは地味に辛いな、と思っていたら、鼻緒の切れた下駄が足元に差し出される。いつの間にか拾ってくれていたらしい。何から何まで申し訳ない気分になる。
そして、透はそのまま跪いていた。お姫様抱っこの次は何事?
「ぷっつりと切れているなぁ」
私の動揺には気付いていないようで、妙に呑気に聞こえてしまった。透は下駄の状態を確認したかっただけらしい。
「どうする?」
跪いた状態で顔を上げられると、透にかしずかれているような変な錯覚を起こしそうになる。私は邪念を追い払うように1つ咳払いをする。
「どうするって?」
「片足じゃ、さすがに帰れないでしょ?」
「あー、うん、そうだね」
さすがに透でも鼻緒をすげ替えることはできないだろうし、片足でぴょんぴょん跳ねて帰るのも無理だろう。透には迷惑ばかりかけることになるけど、肩を貸してもらおうかな。
馨には……連絡しない方がいいよね。
さっきの2人の様子が思い返される。どうなったかは分からないけど、こんな鈍くさい幼馴染みの世話をしている場合じゃないだろうし。それに、故意ではなかったとはいえ盗み聞きしてしまったから、ちょっと顔を合わせづらい。
どんな顔をすればいいのか、分からない。
「しょうがない、ほら」
私があれこれ考えている内に、透が跪いたまま背を向けていた。
ん? ほらって? え、おぶされってこと?
「いや、そんな悪いよ。でも、その、肩を貸してくれると助かるけど……」
しどろもどろになっていると、透の振り返った顔から笑みがこぼれていた。提灯の明かりから離れた暗がりでも、はっきりと見えた。どこか寂しそうだった。
「ツキが遠慮することはないよ。これは俺のわがままでもあるんだから」
「わがまま?」
首を傾げるけど、透は頷くだけで答えてくれそうにはなかった。腑には落ちない。でも、幼馴染みの厚意を無碍にするのもどうかと、考え直した。
……帰り道、知り合いには会わないことを祈ろう。
「じゃあ、悪いけど、お願いしてもいいかな?」
「うん、お願いされるよ」
さっきの笑顔とは違う、明るさがあるように見えた。
透の背中は大きかった。当たり前のことだ。と思うのに、妙に緊張してしまう。何か話して気を紛らわそうと思うのに、話したいことが思いつかない。いつもは何を話していただろう。
透も何も話さない。首筋を汗が伝うのが見えた。自分の鼓動がうるさくて、周りの喧騒も視線も遠い。透も馨も、今夜は心臓に悪いことばかりする。こないだまで気軽に手を繋いでいたことが嘘みたいだ。
参道を抜け、神社から少し離れた時、不意に大きな音が響いた。辺り一面が明るく彩られる。その時になって、ようやく夕暮れの時は去り、すっかり夜になっていることを知った。
立て続けに上がる花火は綺麗だ。
「綺麗だね」
シンクロするような透の言葉が、ふと寂しさを際立たせる。空気を読んでいなくても、やっぱり馨に電話でもすれば良かった。そうすれば、今年も3人で見られたのかもしれないのに。
来年はどうなんだろう。3人ではもう2度と見られないのかもしれない。
「ツキは覚えている?」
「何を?」
「前にもさ、3人で花火を見られなかったことがあったんだよね」
いつのことだろう? 少なくともここ数年は一緒に見ているはずだ。小学生の頃とかも、家族が一緒のこともあったけど、3人で見ていたはず。
……あ、もしかして。
「私が熱を出した時?」
「あ、覚えている?」
「なんとなくだけど……」
あの時、隣にいてくれたのは透だったのかな。だけど、その推測は次の言葉で否定された。
「ツキは馨におんぶされていた。ちょうどこんなふうに」
透の腕に力がこもる気がした。
「そして、2人で縁側で花火を見ていたよ。隣の家の屋根でほとんど花火なんて見えないのに、とても嬉しそうだった」
馨と2人で見た花火。嬉しかった……のかな? ぼんやりとした記憶を手繰り寄せてみると、そんな気もしてくる。今年は見られないと思っていた花火を見せてくれた。小さな体で頑張って連れていってくれた。その行為が嬉しかったのだ、きっと。
「そんな2人がとても羨ましかったよ」
「透はどうしていたの?」
話からするにすぐ近くにいたと思うのだけど……。
「俺はトイレに行っていたんだ。戻ってくる途中で2人の姿を見かけた。声はかけられなかったよ」
淡々と言われる言葉には、どこか距離を感じる。努めて冷静でいようとしているような、感情を押し殺しているような。
「俺はツキのことをヒナとは呼べないんだろうな、って思ったんだ。双子でも、きっとあの2人のようにはなれない」
透はどんな顔をしているんだろう。花火に照らされる顔を見てみたい。だけど、後頭部しか見えない。透は前を向き続けている。
「嫉妬していたんだ」
さらりと言ってのけられた響きと単語に違和感があった。まるで別のことを言われたような気がした。
もしかしたら、私たちはずっと幼馴染みじゃなかったのかもしれない。
「ツキは子供のくせに何考えていたんだって笑うかもしれないけどさ。でも、だからこそ今は嬉しいんだ。こうしてツキをおんぶして2人で花火を見られたから」
立ち止まり振り向いた透の顔は、とても真面目だった。
だけど、ツキ。透は決して下の名前では呼ばない。小さい頃からの2人を見分けるための処世術のようなもの。でも、今はそれだけが理由じゃない気がする。透なりに一線を引いているのかもしれない。
私たちはまだ3人でいたいのだ。少なくとも私は。
そうしてまた花火が打ち上がる。空に大輪の花が咲く。透と同じ目線の高さで見る花火は、去年よりも大きく、だけど遠かった。神社の裏にはまだ馨と篠宮さんがいるのかな。だとしたら、寂しいことのように思えた。私の鼓動は花火の音にかき消される。
来年はいつもの場所で、3人で花火を見られるといい。