現世の世の中事情
道行く人々の雑踏が音や気配として空気に溶け込むように当たり前のものとして街中に溢れ出し、それに歩みを止める者はいない。
――否、一人だけいた。
腕時計を何度も見ては辺りをキョロキョロと不自然なほど見渡しては、時たまに片手に持つ心もとなさげに風に揺れる紙切れを見る、二十代半ばの男性。
そんな行為を何度もしているわけだが、それを目に留める者はいなかった。
それをわかっているのかいないのか、男性は一歩を踏み出そうとしては止めている。
ぴっちりと着込んだスーツも台無しという有様だった。
そんな男性の目の前に現れたのは、摩訶不思議なモノだった。
「え……っ?」
それは、まるで先程までの焦りを忘れさせるほどにまで幸せそうな笑みを含んだ――普通ではありえないものが生えた少女がいた。
相変わらずの微笑みは、それをものともしないほど美しく絵になるほどではあったが、だからといって無視するには存在感が嫌というほどにまで放たれた美しいものだった。
それは、純白に輝く綺麗な翼だった。
「――依頼、ですか?」
「違います。依頼ではなく、奉仕、といえば理解してもらえるかと思います」
少し困った笑みを向ける少女は明らかなる天使であり、そんな天使は男性を助けると言ってきたのだった。
「私は、貴方を助けにきました」
それは、とあるカルトかなにかかと思うほどに胡散臭い口説き文句だったが。
――困った。
非常に困った状況に置かれていることを理解するのに、そこまで時間が取られなかったのは幸いというべきなのかどうなのか……。
最近まで謹慎処分を受けていたため、数十年もの間は現世に降りていなかったこの現状が今回の仕事に対してここのまでの支障をきたすだなんて思いもしていなかったのが本音だった。
けれど、数十年前までは違ったのだ。
貴方を助けるためにきたと言えば、疑問を持たれることはあっても明らかなる疑いの目を向けられることはなかった。
今まで上司や友人たちから、現世の世は変わりやすいからあまり無理をしないほうがいいといわれてきたが、正直言うとあまり真に受けていなかった。
それがこんなところで痛いほどにまで思い知ることになろうとは、誰が思うだろうか……。
「…………」
いつもの決まり文句を言うと、何故か目の前の男性は難しそうに眉を寄せて黙ってしまった。
困った。
本当に困った。
ここまでターゲットとコミュニケーションを取ることができなくなったことは今までになかった。
そのため、私には私なりのコミュニケーションの仕方しかできないこととなる。
つまり、通常運転ということだ。
「――嘘ではありません。私は、貴方を助けにきました」
「……そ、う?」
「はい。ちなみに、私の名前は〝天使〟ミロ・カーミルといいます。短い付き合いとなるとは思いますが、よろしくお願いいたします」
とりあえず、なんとか男性に話を聞いてもらい、互いの交流を少しでも深めようとふかぶかと頭を下げる。
「は……、あ?」
「……っ。いま、困ってませんか?」
「はあっ!?」
……つい、単刀直入に聞いてしまった。
だって、面倒くさかった。
前から周りの天使たちに、言葉遣いを少し改善したらと勧められてきて、なおかつ上司にも遠回りな言い方ではあったが言われた言葉でもあった。
だからこそ、少しでも直せたらと思い矯正してきた。
謹慎中ずっと……。
そのおかげなのかなんなのか、前と比べて今となっては幾分か話し方も大人っぽくなったほうだとは思う。
――が。
いい加減に我慢の限界だった。
「先程時計を見ていたり、辺りを見渡したりとしていてとても困っていた様子……でしたけれど」
「ああ……って、別に、どうでもいいでしょ」
どうでもよかったら話しかけたりなんかしないから!!
赤の他人であり、特に目に留めるようなところもないような貴方になんか話しかけたりはしない!
仕事だから話かけてる、そう!!
「よくないです! 私は現世に詳しくないんです。だから話し方もよくわからないし、模範的な交流の仕方も知らないんですっ」
半ば自分を納得させる気持ちもあったが、正直八つ当たりをした気持ちのほうが断然強かった。
ターゲットに対して八つ当たりなど言語道断なのかもしれないけれど、それでも私としては八つ当たりしたかったのだ。
困っているのに困っていると言わない、面倒くさいこと極まりない目の前のターゲット。
……こんな話、聞いていなかった。