第1章 ウソっ! なんでこうなるの? 3
ほぼ同時刻。地上に渡されたタラップを駆け上がり、居住区に向かう若い女性士官の姿があった。
永井ミサキ。23歳。独身。言わずと知れた地球最強アイドル、ミルキー・エンジェルのリーダーである。
175センチの長身に抜群のスタイル。長い手脚はモデルを思わせ、駆けるたびにふわりとなびく長い髪は清楚さを強調して、鼻梁のラインも絶妙。小さく尖ったあごに澄んだ瞳と相まって、さすがはアイドル。超がつくほどの美女だ。
ただし、血相を変えていなければ……の、話だけど。
「あーん、もう。なんだってこんなときに限って、ジョルジュが閉まっているのよ。おかげでレジエールまで足を運ぶ羽目になっちゃったじゃない!」
走りながら閉まっていた洋菓子店に対してぶつくさ文句を言う。
確かにレジエールのシフォンケーキは美味しい。それも、とてつもなく美味だ。1個6百円とカットケーキの値段としてはかなり高価だが、それに見合うだけの内容があると彼女は確信している。
イベントで世界各地を飛び回っている身としては、食べられるときは是が非でも食べたい!
ただ問題なのは、宇宙船ドックからレジエールの店が遠いということだ。ドックから車を出して店まで往復1時間余り。時間があればどうということはないが、次のミッション開始まで3時間と迫った状況でレジエールに行くのは辛い。美味しいケーキをゆっくり味わいながら食べる時間がなくなってしまうからだ。
それで今日のように時間に余裕がないときは、ドックに比較的近くてそこそこ美味しいジョルジェを利用しているのだが、今日に限って臨時休業だったので、無茶を承知でレジエールに買いに行ったのだった。
その結果がこの駆け足というわけである。
「それというのも、時間にルーズな所長が悪いのよ!」
走りながら愚痴をこぼす。直接の要因は彼女の言う通りで、次の予定も考慮せず、無茶振りでイベント時間を設定した宇宙船ドックの所長にあるが、そもそもの原因は言い渡された予定をど忘れしていたミサキ自身だ。
「あ~ん。もう、時間がないっ」
サイン会を途中で放棄してまで買いに走ったケーキである、なんとしても美味しい内に食さなければ。そんな思いがミサキの足を前に進める。
「急げ!」
かけ声も勇ましく給湯室に駆け込み、予め用意しておいたダージリンをポットに入れる。ここから自室に戻ったころには、丁度いい煎れ具合になっているのは経験上マスターしていた。
「カップは確か部屋に置いてあったわよね。フォークと小皿も準備万端。早くしないと折角のダージリンが濃くなりすぎちゃう」
優雅な振る舞いでお湯を注ぎ入れていたのが一転、再び急ぎ足で駆け出していった。
それが命取りだった。
優希は道に迷っていた。
運良くイベント会場からシルフィードに潜入したまではよいが、初めて入った艦のこと、しっかり迷子になってしまったのだ。
広報用の艦とはいえ、中身はまるまる軍艦であるシルフィード。客船のような親切な案内板など艦内にあるはずも無い。遥か前方を駆けていった如月と相沢の姿はどこにも見えず、絨毯こそ敷き詰めていないが左右に同じような扉の続く、ビジネスホテルの廊下のような一角に優希は迷い込んでいた。
「ここは、どこなんだ?」
声を潜め小さく呟く。知っている人がいれば、士官用の居住エリアだとすぐに判るのだが、あいにく優希は士官ではなく士官候補生。彼が普段乗り込む実習艦には、こんな贅沢な空間は無い。
「如月に相沢。おまえ等、一体どこにいるんだ?」
ひとりになって心細いのか、弱気な言葉が口から漏れる。実は如月と相沢は潜入と同時に警備員に見つかり、事務室でこんこんと説教されているのだが、艦内を徘徊するのに必死な優希が知る由も無い。永井ミサキのサインを貰うために潜入したのだが、人影が無く見知らぬ艦内でうろうろするうちに、本来の目的よりここを早く出ようという意識のほうが強くなったのだ。
そして不用意に駆け出す。それが悲劇につながるとも知らずに。
自室に急ぐべく、ミサキは駆けていた。
街中とは違い、狭い艦内通路である。右手にポット、左手にシフォンケーキの入った箱を持っての急ぎ足。しかも頭の中は、ケーキを食べて幸せに耽ることだけでいっぱいで、他のことは一切眼中にない。そうなれば前方に注意が行き届かないのは当然のこと。その結果引き起こされる悲劇も十分予想の範囲内にあった。
そして、予想はすぐさま現実となった。
事故というには、あまりにも唐突過ぎた。
あと少しで自室という直前の十字路で、なんの前触れもなく黒い影がぬっと現れたのだ。
急ブレーキ!
……などできる筈もなく、行き着く先は一直線。
どん! という鈍い音。
「きゃっ!」「わっ!」
可愛い叫び声と無粋な叫び声がハモる。で、なにが起こるかというと……
がんがらがっしゃーん!
派手な金属音と自分の尻餅、目から火花が飛び散ったうえに、得体の知れない付着物のフルコンボ攻撃に、ふたりの思考はフリーズしてしまった。
「ったたたたた~っ」
先に我に返ったのはミサキの方だった。思いっきり頭突きをしてしまったおでこを抑えつつ、ゆっくりと立ち上がる。
「キミ、大丈夫?」
な、訳ないか。ミサキは慌てて優希のほうに向き直る。
「いった~っ…………」
大半の衝撃は優希のほうに来たらしく、ミサキ以上に大きく頭を振りながら、こちらも呻き声をあげながら起き上がる。
「ご、ゴメンなさいっっ!! その、慌てていたもので……」
済まなさそうな表情で、ミサキがぴょこんと頭を下げた。
「慌てていたで済めば、警察なんか……って……あれ?…………」
ミサキさん?
優希が怒りの言葉を言いかけたところで、ぶつかった相手が、探していたミルキー・エンジェルのリーダーだと気付いた。
これは……ひょっとして……千載一遇のチャンスではないだろうか?
人気が高く、一般のイベントでは入手率が極めて低い永井ミサキのサインだが、この状況なら否応も無く貰えるのではないだろうか? 当のミサキは申し訳なさそうに、こちらをしげしげと見つめているだけ。
今しかない!
「あ、あの! サ、サインして下さい!」「……ひょっとして……、沖田さん家の優希クンじゃない?」
意を決して色紙を差し出しながら言った優希のセリフと、一切の脈絡なしにミサキの声が被る。
「はひぃっ?」
突然名前を呼ばれ、意味不明の声を出す優希。ちょっと間抜けだが、人気アイドルの口からいきなり自分の名前を呼びつけたら、誰だって驚くだろう。
しかも、しかもだ!
「そうだ、やっぱり優希クンだ! 久し振りっ! 大きくなったわねぇ!」
声をかけるだけでは飽き足らず、優希の両肩までバンバン叩き出す始末。
超有名アイドルといっても過言でない彼女に、親しみを込めて肩を叩かれるのは悪い気はしないが、一切の前置きがなくいきなりの扱いに戸惑いを隠せない。
「あ、あ、あ、あのぅ……随分と馴れ馴れしいけど、ボクのことご存知なんですか?」
「あれ~っ、忘れちゃったの?」
馴れ馴れしさに加え、ちょっとショックとでも言いたげな口調。忘れたの? って言うことは、彼女は自分のことを知っていたことになる。だけど、本当に覚えているのか? 他の誰かと混同しているってことはないか?
「あんなに仲良くしていたのに、お姉さん悲しいわ……グスン」
「え、えーと……」
(明らかにウソ泣きだが)涙声のミサキを前に、必死に頭を回転させる。知っていると言うのは簡単だが、もし勘違いだったら、気まずいだけでなくミサキの反感を買うのは必至。サインを貰えないどころか、立ち直れないくらいの精神的ダメージを食らうことになる。勘違いで済ませば話は簡単で、万事丸く収まるが、せっかくの機会はふいになり二度と彼女との接点は現れないだろう。
どうすれば?
ダメだ! 思いつかない。
「ゴメンなさいっ! 思い出せないので、ヒントをお願いします!」
考えても答えは出ず、これはもうミサキに委ねるしかないと、両手を合わせて懇願する。
「そうねぇ……ミサキ。って、言えば思い出す?」
う~ん。と前置きした後、ミサキは小首を傾げて尋ねなおした。
「いえ、それは判っている事だから」
なにしろミルキー・エンジェルは超有名ユニットだ。そのリーダーの名前を知らない人の方が珍しいだろう。
「質問にはなりません」
大括りにも程がある。
言われてミサキも気づいたのだろう「そっか」と小さく頷いて納得した。
「んじゃねぇ。このドックの近くにある、リバーサイドタウンって大きな団地に心当たり無い?」
改めて問われた質問は、先ほどと打って変わって、えらく範囲が絞られていた。
「リバーサイドタウンは知ってますけど……」
ピンポイントな住宅地指定というか、優希が住んでいる団地街だ。
「そこの某棟の三階にね、昔カワイイ男の子がいたの」
問うた返事に質問を返すことなく、ミサキは唐突に昔語りを始めた。
「もう、14~5年くらい昔の話かな? 当時、わたしは小学校に入りたてで、所謂オシャマさんだったのね。まあ、その年頃の女の子って、誰でもお姉さんぶって背伸びしたがるもんだけどね」
肩を竦めながらコロコロ笑う。アイドルとはいいながら、ライブ等では絶対に見せないような素の笑顔を間近に見て、優希のほうがどぎまぎする
「話がちょっとずれちゃったね。で、その男の子は隣の部屋に住んでいたのね。男の子は両親が共働きの所謂鍵っ子で、近所の好ということでウチの家がよく預かっていたの。それでまあ、同じ子供のわたしが遊び相手になっていたんだけど……」
と、遠い目で思い出を語る。
「まー、若気の至りというか、お姉さん気分の暴走というか、ちょっと調子に乗り過ぎちゃってね。無茶しちゃったんだよね」
しみじみとした口調から一変、アハハと乾いた笑い。ここに至って優希は間違いないと確信した。
「てことは、やっぱりミサキ姉ぇ? 308号室に住んでいた」
「やっと思い出してくれたのね♪ お姉さん嬉しいっ!」
思い出してくれた優希に、ミサキは思いっきり抱きしめようと手を広げたが、その手を途中で引っ込めてしまった。優希の服が生クリームでべっちょりコーティングされていたので、抱きつくのを躊躇ってしまったのだ。
その原因を作ったのは一体誰なんだ?
「……それにしても優希クンって……」
そんなことはおくびにも出さず、というか全く気がつかず、それでいながら自分の服が汚れないように絶妙な距離を取りながらミサキが口を開く。
「かーいくなったわねー。昔も可愛かったけど、今なんてお目めぱっちりで「美少年満開~ぃ」って感じだし。あ、でも、ちょっと背が低いかな? それがまた美少年ぽさを強調するんだけど……」
言うに事欠いてそのセリフ?
「誉めてくれているみたいだけど、背が低いのは余計です!」
不満いっぱいに答える。ミサキ姉が育ちすぎなんだよ。男のボクよりも背が高いじゃないか!
コンプレックスの箇所を思いっきり指摘され、心の中で悪態をつく。確かに優希の身長は百六十九センチしかなく、世間相場から見れば高い方ではないが、卑下するほど低くは無い。
ミサキの身長が百七十五センチもあるから、相対的に低く見えるだけだ。
と、優希は固く信じたい。そうでないと男のアイデンティティーが……
「ま、それはそれとして、その格好はなんとかしないとね。シャワーを浴びて着替えないと、折角の美少年も台無しよ」
その原因を作ったのは自分だということを棚に上げてミサキが言う。
見れば優希の服もズボンも、生クリームと紅茶でびしょ濡れ。美少年かどうかの評価は別として、とても人前に出られる格好ではない。
一方ミサキはというと、上手に逃げたのかちゃっかりしているのか、全くといっていいほど濡れていない。優希ひとりが貧乏くじを引いた格好なのだ。
「久し振りなんだし、色々つもる話もあるから、シャワーついでにわたしの部屋にいらっしゃいよ」
根が楽天家なのか、ケーキのことなどすっかり忘れ、ミサキが提案する。
「え、遠慮しておきます……」
照れ臭さと後ろめたさから、優希はやんわりと拒否する。
幼友達は昔の話、あれから十年以上のブランクがある。しかも相手は今や超人気アイドル。そんな気軽に呼んでもいいのかと思うのだが、ミサキの方は全く気にしていないようだ。
「ダメダメ。そんな格好じゃ風邪ひくし、だいいち見苦しくて艦内を歩きまわることなんて出来ないわ。だから一緒についてくるの!」
優希に一切の拒否権を認めさせず、ミサキは強引に引っ張っていった。