引っ越し、思わぬ追い風
藤木君の提案のおかげで私は何とか立ち直ることができた。小さな町での新たな下宿先探しは苦労すると思われたが、意外にも同僚のベレン先生から二階にある離れを貸してもらえることとなった。事務所から許可が下りたので、早速移り住んだ。もう、これで首都への出張の時に勝手に部屋に入られる心配をしなくてよくなった。
「カナ、引っ越ししたんね。それにしても一週間も帰ってこないから、心配したんだよ。」
「ごめんね。ロベルト。ちょっと首都での仕事が忙しくてね…。でも、もう大丈夫よ。引っ越しもしたし、新しい仕事も始まったからね」
「そうなんだ。でも、それで僕に算数を教える時間がなくなったら嫌だよ…」
「それはないから、安心して!」
私が急にいなくなったものだから、ロベルトはかなり心配したようである。こんな小さな少年に心配をかけてしまったことを私は反省した。そして、現地にも私のことの心配してくれる人ができたことをほんの少しだけうれしく感じた。
また、ブランカさんにも引っ越ししたことやサンホセで研修会をすることになったことを話したところ、かなり喜んでくれた。
「カナが元気になってよかった。ここのところ、ずっとつらそうだったから、心配していたの…」
「ブランカさん、心配かけてごめんね」
「ううん、いいのよ。新しい家も決まったし、研修会も決まったことだし、これで気持ちよく仕事に取り組めるね。私にできることがあったらなんでも言ってね。なんでも協力するから」
ブランカさんもロベルトもどうしてこんなに優しいのだろうか。この優しさのおかげで私の心は再び暖かさを取り戻した。
久々に前向きな気持ちで日々の仕事に向き合えるようになった。こんな気持ちになったのは、サルドノに来てからすぐの頃以来だ。もう半年以上もこんな気持ちを忘れていたのかと思うと、少し残念な気分にもなった。
しかし、過去に後悔ばかりしていても仕方ない。残りの一年半を前向きに過ごすことで、これまでの出遅れた分まで取り戻そうと心に誓った。
そんな気持ちで仕事をするようになると、これまで気付かなかった様々なことに気付くようになった。これまで分数や小数の理解度が低いのは割り算をきちんと理解していないからだと思っていた。
しかし、それ以前にかけ算九九すらきちんと覚えていないことがようやく分かった。小学六年生でも九九をきちんと暗記しているのはわずか五割ほどで、あと半分は平気でノートや下敷きに書かれている九九表を見ながら計算しているのだ。
こんな子ども達に対して、いくら小数や分数のかけ算・割り算を説明しても理解するはずはない。
このとき、私は「まずはかけ算九九を子ども達にしっかり覚えさせよう」と言う具体的目標を初めて立てる。それから現地の教員に対しては「基本を大切にした授業を丁寧に行えるようにすること」を働きかけることに決めた。
そうやって、あれこれ進めて行くうちに三月に入った。三月に入ると、この地域特有の風土病であるシャーガス病予防対策を行う同期隊員の天川君から
「カナの町でも啓発劇をやりたいので、コラボしないか」
と言われた。気付いたら、向かい風はすっかり追い風に変わっていた。気分が変わったら、嘘みたいに状況が一変している。私は驚きが隠せなかった。
そこでアリソスさん、遠山さん、藤木君と話し合った結果、ナコク県の県都・アソラナスと藤木君の任地・ニウロク、私の任地・サンホセで事務所や遠山アドバイザーの全面支援を受けて、講演会を四月に行うこととなった。また、予防対策の隊員と合同で保健分野担当の大山アドバイザーも協力することとなった。
事務所の後ろ盾を得たことで、これまでどこか及び腰だった活動校の校長や任地の市長や地区教育事務所長もとたんにやる気になった。また、これまで県都・アソラナスの県教育事務所長とも関係を築くことができた。
さらには、普通に仕事をしていては関係を築けるはずのない県や地区の保健事務所とも感染症予防対策の隊員を通じて、関係を築くことができた。
セマナ・サンタ(イースター休暇)明けてから一週間ほどたった四月十二日、アソラナスでシャーガス病啓発劇と算数指導法の講習会が合同で開かれた。啓発劇は一般市民にも公開され、会場には五〇〇人もの市民が訪れた。
結局、一度には全員には見せられないとの判断から、二回の公演を三回に増やして対応した。また、アソラナスにいる音楽隊員と美術隊員も駆けつけてくれたこともプラスに働いた。
一方で昼から行われた講習会は教員のみを対象にしたものであったためか、二〇名ほどの参加者にとどまった。本来であれば、五〇名ほど来るはずだったが、交通費が一切でないことがあだとなる。
もし、交通費でも出すことができたなら、参加動機が交通費をもらうためと言った不純なものであったとしても、それなりに参加者が見込めただろう。
アリソスさんが「サルドノと日本のすばらしい協力関係」について、わかりやすく説明してくれた。遠山アドバイザーは「新しい算数教科書の利点」について、日本のカリキュラムを上手に取り入れたことでサルドノの教育内容がよくなったことを軸に話されていた。
藤木君と私は「割り算の筆算」の指導法について、絵や図形を使って、一生懸命説明した。最後には参加者から拍手が沸き起こった。
「まずは最初の参加者に分かってもらうこと。彼らが口コミで君達の活動のことを言い広めてくれれば、自然と活動は軌道に乗るはずです。焦らず、地道にやっていきましょう」
アソラナスでの一日が終わった後、ホテルの反省会で遠山さんと大山さんが声を合わせて言っていた。それがいつまでも耳に残って、何か嫌だった。
四月十三日は藤木君の任地・ニウロク、翌日十四日は私の任地・サンホセでアソラナスの時と同じように、シャーガス病啓発劇と算数指導法の講習会がそれぞれ行われた。
狙い通り、地元の新聞でアソラナスのことが取り上げられたこともあり、啓発劇はアソラナス以上の観客が訪れた。アソラナスの人口三万人に比べれば、どちらも五〇〇〇人ぐらいの小さな町なのに、千人近くも劇を見に来たのだ。これは実に驚くべきことだった。
しかし、講習会はアソラナスと違って、それぞれの任地の活動校の子どもを対象にして模擬授業を行った。しかし、それにも関わらず、結局は低調で終わってしまった。
それでも藤木君の任地ではバネッサ先生、私の任地ではカンディダ先生が日本のボランティア集団が行う事業に大きな関心を示してくれたのである。今後、一年余りの活動を進めて行く上で、大きな力添えになってくれることが期待された。遠山さんも
「藤木君も、瀬戸さんも、それぞれが活動を進めて行く上で後ろ盾となるパートナーを見つけたみたいだね。ここまでは本当に大変だったと思うけど、ここからは物事が以前よりは順調に進められるようになるから、いくぶんは楽になると思うよ」
と、楽天的な発言していた。中米暮らしが長いから、ラテン気質がすっかり染み付いたのかとさえ思ったが、この発言は意外と的を得ていたことを後に気付かれる。
また、この二人が他の教員に粘り強く働きかけて、味方を増やしてくれることを願った。そう言った意味でも、この企画はこれからの活動を進めて行く上での新たな出発点となった。
一方で、この企画は集団事務所と保健隊員の後ろ盾で無理矢理実施にこぎつけたものであったため、ただの「お祭り騒ぎ」で終わってしまった側面もあった。そのため、後ろ盾がなくなってから、しばらくは自分の無力さにがっかりし、自分の企画力のなさと己の現実を直視させられることになる。
場合によってはずっと底で這いつくばるよりもつらいかもしれない。どうにかしてはい上がろうとしたのに、再び底に叩き付けられたのだから…。それは高く舞い上がっていればいるほど、勢いよく叩き付けられるものである。
いつものように、ロベルトがやって来て、アボガドを売りに来た。
「カナ、今日はアボガドいらないの? 今はマンゴーの時期だから、マンゴーもあるよ」
「ロベルト、ありがとう! 今日はマンゴーを二個もらうね」
「ありがとう。二個で一〇ピーラだけど、一個おまけしておくね」
「いつも、おまけしてくれて、何か悪いね…」
「いいんだよ。だって、カナは僕にいつも算数を教えてくれるから」
こんなささいなやり取りは、私をいつもほっとさせてくれた。日々のロベルトとのささやかなやり取りは密かに私の心の支えとなっていた。彼が私を必要としたように、私も彼を必要としていたのだ。まだ、十歳の少年を…。




