小林 弥栄
7匹目の蚊を潰した時には既に約束の時間から30分が過ぎ、生徒会室の中はオレンジ色に染まっていた。
私の額には汗が滲み、座っているパイプ椅子の背もたれはジワリと汗ばんでいて、べたついて少し気持ちわるい。
室内の空気は蜂蜜のように体にまとわりつき、さらに中庭からの蝉の声が私の体温を余計に上昇させるので何もしなくても汗ばむのだ。
制服のブラウスの胸ボタンを2つ外し、スカートをパタパタさせてみても、全く清涼感は得られず、むしろ暑くなったのでやめた。
本当なら窓を開け放し、爽快な空気を取り入れるところだけど、草木の生い茂る中庭に面した生徒会室でそれをやっちゃうと大量の蚊が侵入してしまうからそんなことをするわけにはいかない。
そうでなくとも、今日の昼休みに中庭でバレーボールをしてこの部屋のガラスを割ったバカのせいで、割れた箇所から蚊が侵入してくるのに。
汗ばんだパイプ椅子に座り足を投げ出したままぬるい烏龍茶のペットボトルに手を伸ばす。
タオルで汗を拭い、わずかな清涼感を求めて机に頬をくっつけてみたけど、机のひんやりとした感覚は私自身の体温ですぐに消え生ぬるいものに変わってしまった。
パイプ椅子から立ち上がり私は生徒会室の中をウロウロしてみる。
そうすれば少しは暑さが紛れるかもと思って。
「やめろ、うっとおしい」
窓際の机で何かを書く江藤が私を見ずにそう言った。
江藤はさっきから私が暑さでダレているなか、ずっと何か書いている。
何を書いてるのかは知らないけど何やら真剣そうなので放っておいた。邪魔しても悪いし。
でも、さっきの
「うっとおしい」という言葉には少しカチンときたので、私は江藤に構わず生徒会室を更にウロウロしてやった。
「あのさ、うっとおしいからやめろって」
シャープペンの動きを止めて私を見やる。
「うるさいなぁ。いいじゃん別に。ここは私の城よ」
はぁ?と言う江藤に私は続けた。
「はぁ?ってあんた…。私は生徒会長よ、ということは生徒会執行部の部長ってワケ。んで、部室は部長のもんでしょ?つまりこの生徒会室は私の城ってことよ、わかった?江藤くん」
そう言うと江藤はしばらく怪訝な目で私を見つめ、そして何事もなかったようにまた黙々と何か書き始めた。
せっかく説明してやったのに、江藤が何の反応もしないので手持ちぶさたになって少し恥ずかしくなった私は、しょうがないからまたパイプ椅子に座りバインダーをうちわ代わりに扇いでいた。
しかしいつになれば他の執行部員は集まるのだろうか?
この執行部もともと集まりが悪いのだけど、私と江藤の2人だけしか集まらないというのは今までなかった。
今日は文化祭の会議をすると聞いて来たのだがこれでは会議どころではない。
まあ、この生徒会執行部の部員はほとんど他の部活を掛け持ちしているやつらで構成されてて、みんなそれぞれの部活を優先するから会議とかバックレられることはしょっちゅうある。
やる気がないなら辞めればいいと私は思うのだけど、生徒会という肩書きは進路に有利なもので、それ目当てに生徒会に所属しているやつらが多いのだ。
しかし例外がいて、江藤もその例外の1人。
こいつはテニス部に所属しているけど、しっかり仕事をこなしてくれるから勝手に私の右腕だと思っている。
江藤は男子と女子の両方から結構人気があるから、一般生徒に指示を出す時は江藤にやらせるとスムーズに指示が通るので便利である。
部活で日に焼けた髪は少し茶色に見えるし、涙袋のある笑った顔にはあどけなさがあり、そこが女子からの人気を集める要因になっているみたい。
性格は明るくいいやつでちょっと天然なので男子からも人気高い。
「よっしゃ終わった!」
突然声を発した江藤は伸びをしながら体をひねっている。
「さっきから何書いてたの?」
江藤はそれを書き終わって嬉しいのか、にかっと笑い私に紙をよこした。
−−三年四組二番江藤拓己。
僕は今日の昼休みに中庭でバレーをし生徒会室のガラスを割ってしまいました。
僕のアタックが中村くんの顔面にあたり跳ね返ったボールがガラスにあたって割ってしまいました。
今度からは中庭でアタックしないようにします。
すみませんでした。ーー
「ガラス割ったの江藤?」
「うん。んで反省文書けってさ、こんなん書いても反省するやつなんかいないのに」
江藤はあくびをしながら私から反省文を取った。
「さぁ、会議が終わったら学年主任に見せに行こっと」
そう言うと江藤は鞄からポッキーを取り出し袋を開けはじめる。
「小林、もしかして、うやらま?」
うらやまとは、羨ましいのことらしい。
私がポッキーを見ていたので羨ましがっていると考えたのだろう。
返事をする前にポッキー手渡された。
イイ奴だ。
「まだ、始まんない?俺腹減った」
一気に食べられるポッキーはどんどんなくなっていく。
「うん。だって人いないじゃん。」
「じゃあ先に反省文を見せて来ようかなー」
二袋目のポッキーを口にしながら江藤は立ち上がった。
「いや、多分まだムリだと思うよ、職員会議あってるから」
それを聞いてまた座る江藤。
「ふぅん。なんについての会議?文化祭」
江藤はポッキーを両手に一本ずつ持って交互に食べる。
食べ方にはバリエーションがあるらしい。
「ううん、違う。昨日ウチの生徒が変質者に襲われたらしくてね、それについての対策会議らしいよ。『変質者対策会議』」
江藤にもらったポッキーを食べ終えた私は烏龍茶を一口飲んだ。
「はー、変質者?」
興味深そうな江藤の目は私に変質者の説明を求めていた。
「うん、ショッキングピンクのレオタード姿の中年の男でーー」
そこで江藤は口からポッキーを吹き出していたが私は構わず続けた。
「ショッキングピンクのレオタード姿でね、私キレイ?って聞いてくるらしいよ」
いい終えると江藤はポッキーで噎せていたので私は背中の叩いてやった。
そうしていると生徒会室の引きドアが開いて、ラグビー部のユニフォーム姿の男子が現れた。
「ちわー」
少しアンニュイに挨拶をした男子は今まで部活をしていたせいか額が汗でテカテカしている。
「会議まだすか?」
坊主頭で色が黒いくアンパンマンみたいな彼はそう言って生徒会室に入って来た。
「まだ始まってもないし、と言いますか堀川あんた来るの遅い」
いやぁ、と言って堀川は恥ずかしそうに俯く。
堀川は私より一個下で二年生である。
ラグビー部顧問の竹下が生徒会の顧問でもあるので、こいつは半ば強制的に生徒会に入れられたそうだ。
それでも真面目に会議なんかに出席するし仕事も速いから私は重宝している。
ただちょっと頭わるいのが玉に傷なわけなんだけど。
「あー、苦しかった、はぁ」
江藤は噎せがなおり私の烏龍茶を勝手に飲んでいる。
堀川がその烏龍茶を見ていると、
「ん?もしかして、瑛司うらやま?」
堀川が頷くと同時に烏龍茶を渡す江藤。
「全部やる」
江藤にそう言われて、どもっと言って堀川は残りの烏龍茶を飲みだした。
まぁいいや、ぬるくなってたし。
堀川の上下に動く喉仏は烏龍茶を味わっているように見えた。
「ここ暑いっすね。窓開けていいすか?」
烏龍茶を飲み干すと空のペットボトルを机に置き、窓に向かった。
私は蚊が入るから窓を開けないように堀川に言うと
「えぇ?でもガラス割れたところから普通に入って来ますよ。蚊」
「いや、窓を全開にするよりはマシだって」
窓を開けられない堀川は仕方ないのでユニフォームの上を脱ぎ、タンクトップ姿になった。
「んで会議はいつ始まるんすか?」
私は机の上の空ペットボトルを黒板横のゴミ箱にシュートしてみたけど、大きく外れてペットボトルは黒板に当たり、ばんっと音が生徒会室に響いた。
「みんなが来たら始まるよ」
私は転がったペットボトルいそいそと拾いあげ、ゴミ箱に捨てた。
「外してんじゃん」
江藤はニヤニヤしながら言ったが無視した。
「でも、これ以上は待てないから先生にどうしたらいいか聞いてくる」
「職員会議は?」
「もう終わってるよ。多分。」
江藤がふぅんと黒板の上にある時計を見ると針は五時過ぎを指していた。
「勝手に帰んないでよ」
そう言い残し私は職員室へと向かった。