Part 4 -My Wish-
「準備、出来ました」
「よし、じゃあ行こうか」
充と夜美は受付の女性に挨拶をすると、無機質な自動ドアをくぐり抜け、朝の日差しのもとへ出た。
これから学校へと向かう。あまり眠れてはいないが、これ以上寝ると遅刻してしまう。なぜなら病院から学校まではそれなりの距離があるからだ。
「なんか不思議な気分だな、病院から登校するのって」
駐輪場へと向かいながら充はぼそっと呟く。夜美も一緒に笑った。
「本当ですね。きっと貴重な経験ですよね」
小鳥のさえずりを聞きながら自転車を走らせる。夜の雰囲気とは打って変わって、街は穏やかだった。
二人は病院を出る時、和麻の荷物を調べていた。事故にあってからまっすぐここへ運ばれたので、荷物もそのまま病院に運ばれたのだ。
その中から、夜美は和麻が授業の時に使っていたノートを数冊取り出した。入っていたのは数学と国語と英語のものだ。
「私が頑張って書いておきますっ」
夜美は和麻が目を覚まして、退院した時に困らないように、和麻が出られない分の授業のノートを作っておくことにしたのだ。和麻の分まで授業中に作るのは大変だし、アドバンスクラスの授業と通常クラスの授業では進み方にずれがあるのだが、その辺はあまり気にすることではない。自分の分を休み時間や家で書けばいいのだ。結局は同じノートを二つ作ればいいので、一冊書きあがっておけば簡単である。
「俺も頑張って授業を受けないと」
「黒木さんなら、きっと出来ますよ」
自転車に乗って緩やかな風を受けつつ、二人は学校へと向かった。もちろん自転車は一台である。和麻の自転車を事故の時にスクラップになってしまったので使い物にならない。
「おはよう、黒木くん」
「ああ、おはよう」
充が教室に入ると、昨日と同じように吉野円が花瓶の水を入れ替えているところだった。少し眉がつりあがっている。
「昨日、ちゃんと帰ってないわね?」
「さて、今日の課題は何だっけな」
やっぱり委員長のきらびやかなメガネにはかなわない。しっかりとバレていた。
「気持ちは分かるけど、あそこは病院なのよ? ちゃんと帰らないと迷惑でしょ?」
観念して充も話を始めた。
「和麻は眠ってたよ。まだ目を覚ましそうになかった。俺たちはナースステーションの仮眠室を借りて、和麻を見守ってたのさ」
「俺たち? ってことは霧野さんも一緒だったの!?」
「ああ。俺は夜美ちゃんには帰れって言ったんだぜ? でも、和麻のそばにいたいって、強く願ってたんだよ。そんな願いすらも摘み取ってしまうのは、可哀そうだったんだ」
「ほんと、馬鹿の考えることはこれだから困るわ」
「生憎、一生治りそうにないんでね」
円はため息をついて、花瓶に花をセットした。
「私にも言いなさいよね」
……は?
「何をだよ」
「私だけ帰すなんてひどいじゃない」
……あんたが勝手に帰ったんでしょーが。充は言い訳すら思いつかない。
「そう言われてもなあ」
「…まあいいわ。そろそろHRだから、席に着いた方がいいわよ」
充は和麻の机をほんの少しの間見つめ、そして席に着いた。
「今日は、どうしましょう?」
時は変わって昼休みである。夜美と充は今日も病院で過ごそうかどうかを考えていた。もちろん弁当は無いので、コンビニのおにぎりを二人で食べていた。
「うーん。さすがに今日は帰った方がいいんじゃないかな。二日連続は許してくれそうにないし、それに風呂も入ってないからな」
「ですよね。そばにいられないのは、残念ですけど……」
「でも、放課後から夜までは病院に行くつもりだから、その時に恵子さんに様子を聞こう」
「はい」
充は案外夜美が落ちついていたので驚いた。てっきり授業にも身が入らないのではないかと心配していたが、そんなものは不必要だったようである。
「和麻のノートは進んでるかい?」
「はいっ。バッチリ纏めてありますよ」
にっこり夜美は笑っている。この様子なら大丈夫だろう。夜美のノートは教科書より分かりやすいのだ。少なくとも充はそう思っている。出来ることなら自分のノートも作ってほしいくらいだった。もちろんそんな野暮なことは言えないので、地道に睡魔と格闘しつつほんの少しだけ黒板を写すのだ。
「ごちそうさまでした」
夜美は食べ終わると手を合わせて、その後おにぎりのラッピングをくずかごへと捨てる。心なしか今日の食堂は空いている。いつもはクレープの包みなどを捨てる生徒でごった返しているのだが、今日はそんな様子は見られなかった。
二人は食堂を出ると、恵梨奈のもとへと足を運んだ。二人が図書室に入ると、恵梨奈がカップ麺をすすりながら新聞を読んでいた。
「あれ、今日も和麻はいないのかい」
そう言えば恵梨奈先生はまだ和麻の現状を知らないのだった。二人は言おうかどうか少し躊躇したが、いずれ分かることだと思い、話すことにした。
「本当かい? あの和麻がねえ。こりゃ明日は矢でも降るね」
「おいおい。傘じゃ防ぎきれねーって」
「しかも火の粉付きで」
「怖ぇーよ!」
特に大きなショックもなく、いたって普通の、というか昨日と全く同じような反応を恵梨奈は見せた。だがもちろん、気にしていないわけではない。充と同じで、泣くのは一番最後だと決めているのだろう。充は一人恵梨奈の心情を悟った。
「何とも、思わないんですか?」
夜美は恵梨奈先生に質問する。恵梨奈は答えた。
「そりゃ心配だよ。でも、だからってガタガタ騒いだって、現状を打破できるような材料にはならないだろ? いつも通り、普通に過ごして、普通に和麻を出迎えてやるのが、私の役目だと思うけどね」
夜美はその恵梨奈の姿勢に納得して、微笑んだ。和麻を心配しているのは、自分だけじゃない。みんなみんな、和麻を知っている人なら、心配なのだ。それを顔に出さないだけで。
結局時間つぶしにもならず、図書室を後にした二人は、食堂へは戻らずに2―Dの教室の前の廊下でわけもなく突っ立っていた。
「ちょっと、あんたたち」
と、突然後ろから二人を呼ぶ声があった。しかし充は声の主が誰なのかすぐに理解した。
「何の用だよ」
そこにいたのは、夜美をいじめる三人組だった。とっさに夜美は充の後ろに隠れた。
「その、聞いたわよ。あいつ、事故ったんだってね」
「だったらなんだ。お前らには関係ない」
充は三人を無視してどこかへ行こうとする。しかし三人は続けた。
「謝らせてほしいんだ」
「は?」
充は変な声を上げる。
「あんたにも、そこの夜美にも。そして、あいつにもさ」
どういう風の吹き回しだろうか。充はいぶかしんだ。
「あの桜庭先生に説教されて、気づいたよ」
「私たちが悪かったし、間違ってた。ほんと、ごめん」
「許してくれとは言わないけど、あんたの誤解は解いておくよ」
妙に反省している三人組を見て、充は不審に思う。もうだまされるものか。
「今度は何をたくらんでやがるんだ」
「ううん。もう何もしないよ」
「嘘ってのは分かってんだぜ」
疑う心を緩めない充。しかしその時後ろから夜美が現れた。
「あの、黒木さん。もう、許してあげてもらえないでしょうか?」
「でも、夜美ちゃん」
充が反論しようとした時、今度は三人に向かって言った。
「あの、よかったら、私と、お友達になって頂けませんか?」
「えっ? 私と?」
「あんなことしたのに、私らと友達になろうっての?」
「許してくれるの?」
思いもよらぬ夜美の言葉に三人は驚いた。
充も何か言おうとしたが、止める気は無くなった。夜美はいつの間にか友達の作り方がうまくなっていたのだ。
「お友達になったら、楽しいじゃないですか」
笑顔で夜美は答えた。三人は苦笑しながらも嬉しい表情で、順番に握手していた。
昼休み終了のチャイムは、なぜかいつもより穏やかに、優雅に感じられた。
「それじゃ、行こうか」
「はいっ」
「……いいわね? 今日はちゃんと帰るのよ?」
「分かってるって」
「大丈夫です」
「どうなんだか……」
三人は校舎を出ると、昨日と同じ道で病院へ向かっていた。帰りのHRが終了してすぐ待ち合わせたので、今日は昨日よりも少し早い。
学校を出る直前に、恵子から連絡があった。その情報によると、和麻が病室に移されたようだった。とりあえず集中治療室からは抜け出たが、依然として意識は無いそうである。
「会えるんですよね? ……天崎さんに」
「ああ、病室で寝てるらしい」
「急ぎましょう」
三人の進む速度が上がる。信号が変わりかけていたのもあるが、和麻に一刻も早く会うという目的を果たすためである。
昨日より十分ほど早い時間に、三人は病院へ到着した。受付で聞いた病室へと三人は走る。
「ここだな」
302号室。三つ並んだ一番窓際のベッドに、和麻は横たわっていた。
「天崎さんっ」
一番先に駆けだしたのは夜美だった。和麻はまるで死人のように真っ青な顔をしていた。
「みんな。よく来てくれたわ」
いすに座ってリンゴの皮をむいていた恵子は、夜美と、歩いてきた二人に手を振った。聞けばこのリンゴは担任のお見舞いの時に頂いたものらしい。
「どうですか、和麻の容体は」
充の問いに恵子は特に取り乱すこともなく冷静に答えた。
「まだ目を覚まさないけど、悪い異常も見つかっていないわ。今のところは正常よ」
その答えを聞いて三人は胸をなでおろす。死人のような顔をしていても、和麻は生きているのだ。そばにいると、それがひしひしと伝わってくる気がした。充は和麻を見つめた。
顔にはプラスチックの医療用マスク、腕にはいくつもの点滴の針や管がまとわりついている。そしてうっすらと呼吸をしていた。
「昨日は、二人が迷惑をかけてしまったみたいで、すみませんでした」
委員長は昨日の無茶を謝罪していた。しかし恵子は首を振る。
「迷惑だなんてとんでもない。二人とも、本当に和麻を心配してくれていたのよ。悪く言わないであげて」
「寛大なお言葉、ありがとうございます」
円は、充には到底言えそうもない丁寧語をいい、頭を下げる。充は思った。俺はあんたの子供じゃねえっての。恵子は笑っていた。
「あの、恵子さん」
「ん? 何、夜美ちゃん」
夜美は一つ気になっていたことがあり、それを聞くことにした。
「天崎さん、一体何を悩んでいたんでしょうか」
事故に遭う寸前、和麻が何か思い悩んでいたという推測が、本当だと夜美は考えているのだった。
「さあ。私にも分からないわ。あの子、昔から聞いても答えてくれないのよね……」
和麻が目覚めない限り、その時の様子は分からず終いである。
「それより――」
今度は恵子の方からの質問だった。
「何か和麻の持ちモノから、収穫はあったかしら?」
「あ、えっと、天崎さんのノートを拝借しました。天崎さんが元気になった時、すぐに使ってもらえたらいいなと思いまして」
「あら、まあ。きっと和麻も喜ぶわ。わざわざありがとうね」
恵子は笑顔でお礼を言う。夜美も「エヘヘ」と笑って見せた。
「早く元気になってほしいです」
無表情のまま、和麻は眠っている。いつかその顔に笑顔が戻ることを、夜美は強く願った。
「あれ、ここ、どこだろう?」
爽やかに吹きぬける風の中で、夜美は目覚めた。どういうわけか制服を着ている。ここがどこか分からなかった。
空は金色に染まっている。というのは、単なる夕暮れの街を形容したわけではなく、純粋に空が金色の光に包まれていたのだ。淡く染まった風景に、夜美はいた。
遠くには金の空に映える青々とした山々。見たことのない風景だった。夜美は周りを見渡す。一面の草原だった。
「だれか、いませんか?」
夜美は周りに誰もいないことに気付いた。人が見当たらないので、声をかけても、誰も答えない。ただ透き通った風が吹くだけである。夜美は立ち上がり、周辺を歩く。
幻想的な空の色に、誰もいない草原。まるでファンタジーの中に入った様な感覚にとらわれる。しかし不思議なことに恐怖心は湧いてこない。無意識にここへ来たことを体が分かっているようだ。夜美は歩き続けた。
どれくらい歩いたのか分からない。もしかすると歩きだす前だったのかも分からない。だが夜美は視界の隅に、その人物を捉えた。思わずはっとする。
「あ、天崎……さん?」
そこに立っていたのは正真正銘の天崎和麻だった。こっちを振り返ることなく、吹き抜ける草原の風に身を任せ、佇んでいる。夜美に気づいているのかどうかすら分からない。表情も見えないので、笑っているのか、泣いているのかも判断できなかった。
「あの、天崎さん」
さっきよりも強い声で和麻を呼ぶ。だがそれでも和麻は気づかない。あるいは気づいていても振り向く気配がなかった。
「天崎さん」
駆け寄って、その型に手を置いた。その時、ようやく和麻はこっちを向いた。しかしその顔には以前の雰囲気がなかった。
「なんの用だよ」
「え、えっと、起きて大丈夫なんですか?」
和麻は病院のベッドで寝ているはずだ。どうしてこんなところにいるのか、夜美は聞きたかった。しかし夜美の問いには答えず、和麻は冷酷に言い放った。
「ここから消えてくれないか?」
「……はい?」
和麻の口から放たれた言葉を理解するのに、いつもより時間がかかった。それは和麻の口から聞くことはないだろうと思っていた言葉だったからだ。
「邪魔だって言ってんだよ」
横からまた声がした。思わず夜美はパッと振りかえる。なんとそこには、もう一人の和麻が立っていたのだ。夜美は絶句する。
「あ、あの、天崎……さん? その、どうして」
夜美は恐怖感と不審感が入り混じった奇妙な感情に陥った。和麻が二人。どう考えたってあり得ない。
いや、実際そんな事はどうでもよかった。夜美はそれよりも、和麻に邪魔と言われたことにショックを受けた。
二人の和麻は同時に言った。
「俺はお前が嫌いなんだよ」
「……えっ?」
冷たく放たれた和麻の言葉は、夜美の心に突き刺さった。恐れていたことが、現実になってしまった。
和麻――天崎さんに、嫌われてしまった。
「そんな……どうしてですか?」
目にはすぐに大量の涙が押し寄せる。夜美は崩れそうになる体と心を必死で立て直そうとする。
「決まってんだろ」
また別のところから声がした。そこにはあろうことか、三人目の和麻の姿があった。夜美はついに恐怖で頭がいっぱいになる。逃げ出そうと後ろへ後ずさる。
「へあっ!?」
しかし振りかえった先には、先ほどまで穏やかに続いていた草原はなかった。一瞬の間に風景は切り取られ、その形を変えたように別世界になっている。夜美のすぐ後ろは切り立った崖になっていた。断崖絶壁のギリギリで踏みとどまる。
「お前が鬱陶しいんだよ」
四人目の和麻。そしていつの間にか目の前にはたくさんの和麻がいた。みんな口を少しもずらさず、一字一句ずれることなく口を開く。
「ジャマナンダヨ、オマエ」
「いやっ、いやっ!」
こんなの天崎さんじゃない!
逃げることもできない。前にも進めない。夜美は八方ふさがりの中、和麻の罵声を浴びるしかなかった。
「ハヤクキエロッテイッテンダヨ」
「ひっ、きゃあああ!」
夜美は足を滑らせた。深い奈落の底へと夜美は吸い込まれていく。その様子を和麻たちは一斉に笑っている。
大粒の涙を残して、落下途中に夜美は気を失った。
「いやっ!」
夜美は瞬時にベッドから跳ね起きた。額には玉のような汗が噴き出ている。
「はあ、はあ、はあ……」
時計を見ると、午前二時二十五分。まだ辺りは暗く、窓の外で街灯が光っているのがカーテン越しにも分かる。
「ゆ…夢?」
なんて嫌な夢だったんだろう。思い出すだけでゾッとする。頭をブルブルと振って忘れようとした。
和麻に、嫌われる夢。こんな夢を見てしまうなんて、どうかしている。夜美は気分を取りなおすために、のどを潤すことにした。
部屋を出ると、母親がちょうどトイレから出てきた。夜美を見て不安そうな声を上げる。
「どうしたの? さっき叫ぶような声が聞こえたけれど」
「あ、ああ、大丈夫だよ。ちょっと変な夢見ちゃった」
渇いた笑いを浮かべて、夜美は答えた。それを聞いて母親も少しほっとしたようだった。
「そう」
「うん。心配しないで」
「はいはい。……あ、そうそう。心配と言えば、例の、天崎さんだったっけ。大丈夫なの? 夜美のお友達でしょ?」
「うん。まだ目を覚まさないけど、異常も特にないんだって」
「もう二カ月も休みっぱなしなんて、早く元気になるといいわねえ」
そう。もう和麻が事故に遭って二カ月が過ぎようとしていた。今は六月下旬。あれからずっと夜美は病院へと欠かさずに通った。今日は目を覚ましたんじゃないかって、いつも淡い期待を抱きながら。
けれど、まだ和麻は目を覚まさない。依然として状況は変わらず、和麻は病院のベッドで静かに寝息を立てているのだった。
だがしかし、夜美は、いつまでも待つつもりだった。和麻を信じているから。たとえ夜美が大人になろうと、おばあさんになろうと、和麻がそれで帰ってくるのなら、それで構わないと思ったのだ。和麻にもう一度会えるなら。そう思い、今日まで和麻を待ち続けているのである。
「それじゃ、おやすみ」
母親は自分の寝室に戻り、また眠りに就いたようだった。夜美もトイレを済ませ、軽く水を一杯飲んでから、ぐっすりと眠りについた。
「おはようございます、黒木さんっ」
「おはよう。夕べは眠れた?」
朝の並木道。生い茂った緑の葉が灰色のアスファルトをすっぽり覆い隠しているようだ。その木々の隙間からは木漏れ日が降り注いでいる。夜美はいつもの曲がり角で充を待っていたのだった。
「変な夢見ちゃいましたけど、大丈夫です」
「変な夢?」
「でも、夢ですから、気にしないでください」
「そう、か。じゃあいいよね」
特に追求することもなく、充はさらっと流す。
因みに今日は学校は休みである。夜美と充はあれから毎日、欠かさずに和麻の病院に通っている。一向に和麻の容体が回復する兆しは見えないものの、諦めることなく二人は和麻を待っているのだ。
「それでは、行きましょう」
「うん」
いつも通り充の自転車の荷台に乗り、和麻のいる病院へと向かう。夏の日差しは強いものだったが、だいぶ通っているうちに慣れてしまった。日焼け止めクリームを塗っているので、日焼けの心配もない。
「それにしても、罪なやつだな、和麻は」
自転車をこぎつつ、にやけながら充は言った。
「え? どうしてですか?」
「だって、夜美ちゃんを置いてずっと寝てるんだぜ? まったく、夜美ちゃんが可哀そうだよ」
「エ、エヘヘ。そうですね。私、可哀そうかもしれません」
二人で笑いながら、信号を抜ける。二人はまだ、笑っていられることができたのだ。
それは、二人が病院に着いた時に明らかになった。
病室の前で、恵子が泣いていた。壁にすがりつくように、はっきりと泣いていることが分かる。充と夜美はすぐに駆け寄った。絶対に和麻に何かあったのだと、二人は確信した。
「恵子さん」
駆け寄るなり、夜美はその背中に声をかけた。恵子がゆっくりと振り返る。
「……夜美ちゃん。来てくれたのね」
消え入りそうな声で、恵子は呟いた。
「何が……和麻に何があったんですか!」
同じく充も恵子に詰め寄る。恵子は嗚咽混じりの声で、ゆっくりと囁くように言った。
「和麻が……大変なことに」
「落ちついてください。どうなったんですか?」
「先生に、聞いてちょうだい。私の口からじゃ……ごめんね」
充はすぐに診察室へと走る。夜美もそれに続いた。
「先生! 和麻は、和麻はどうなったんですか!」
突然押し掛けてきた高校生に不審な顔を浮かべていたが、和麻という名を聞いた瞬間に医師は理解した。一瞬話すのを躊躇したが、伝えるべきことは伝えなければならない。
「落ちついてください。今彼は深刻な状況です」
医師の目つきや表情が険しくなる。充はごくりと唾を飲んだ。体中から噴き出す汗が止まらない。
「和麻くんの脳の機能が、ほとんど低下しています」
「そ、それは、どういうことですか?」
恐る恐る夜美は尋ねる。医師は一呼吸置いて、続けた。
「彼は自分自身では、心臓を動かすことができず、また呼吸もできません。恐らくこの状態が続けば…………彼は植物状態になってしまうでしょう」
頭が真っ白になった。それは文字通り、夜美の頭をからっぽにしたのだ。何も考えることができない。無意識に涙がこみ上げてくる。
「そんな……それじゃ、ひぐっ、天崎さんは……」
「このまま進行すれば、命の保証はありません」
医師の言葉はとても冷酷に、残酷に聞こえた。深く夜美の心をえぐり取るように、傷を負わせた。
「ですがまだ私たちも諦めたわけではありません。全力を尽くして和麻くんを助けます。どうかお気を楽にしては頂けませんか?」
慎重に告げた医師の声は、もう夜美には聞こえなかった。夜美は一人、暗い闇の底に落ちて行くように、――今日見た悪夢のように、放心状態になっていた。
「先生。和麻はなぜ、そうなってしまったんですか?」
「私たちも分かりません。しかし脳の出血が原因ということは判明しています。ちょうど一時間後に、手術を始める予定です」
二度目の手術。充は本気で神を呪った。何故和麻がこんなひどい仕打ちを受けなくちゃならないんだ。
「行こう、夜美ちゃん」
「…………」
夜美はその場で凍りついていた。もう、逢えなくなってしまう。そんな考えだけが、まるで傷が入って音飛びするCDのように延々とループしていた。
「夜美ちゃん!」
「……は、はい」
ようやく夜美は我に返った。ネジの切れたオルゴールのように、その場で凍りついていたが、やはり心に受ける精神的ダメージは誰よりも大きい。
「ぐすっ、すみません」
「いや、いいんだ。行こう」
「はい……」
二人は今までにないほど、心が暗黒に塗りつぶされたように重い雰囲気になっていた。
診察室を出ると、夜美はぼそりと呟いた。
「どうして……」
充はなんと声をかけていいのか分からなかった。いままで泣いている夜美はいくらか見てきたが、ここまでつらそうなところは見たことがなかった。
病室の前には、まだ恵子の姿があった。無言でソファに腰掛けている。
「和麻がこうなったのは、いつなんですか?」
充がそう聞くと、か細い声で恵子は答えた。
「私が朝来た時には、もうこの状態だったわ……。病院にいた人の話だと、深夜の二時半あたりに、突然機械に異常が確認されたみたい」
「……二時半? ですか?」
夜美は涙をためた瞳で、恵子を見た。深夜二時半――まさに夜美はその時間に、悪夢から目覚め、現実に戻ったのだ。
単なる偶然なのか。それとも関連があるのか。いや、きっと偶然にすぎないのだが、夜美は怖かった。もしあの悪夢が和麻の昏睡にかかわっていたらと思うと、今にも背筋が凍りそうになる。あふれる涙を、夜美は必死でこらえた。体の震えが止まらなかった。
「どうしたの、夜美ちゃん」
充が話しかけてくれたので、夜美はなんとか正気に戻ることができた。身を案じるような顔で充は夜美の顔を覗き込む。明らかに何かに怯えた表情だったのだ。
「い、いえ、何でもないです」
人間は作り笑いの時の笑顔では感情を表現することは出来ない。充はすぐに夜美が何かを隠していることを悟った。だが深くは追求することはなく、そのまま放っておくことにした。言いたくないことを、むやみに聞くものではない。
夜美はとぼとぼと病室に入っていく。手術前なので、和麻はもうベッドにはいない。空っぽになったベッドの上で、夜美は静かに目を伏せた。そうでもしないと、苦しい現実に負けてしまいそうになるからだった。シーツに一滴、また一滴と涙がしみこんでいく。
充はそんな夜美を見ていることしかできなかった。慰めてやろうにも、かける言葉が見つからない。実際問題、充自身、どこかではもう諦めかけていたのだった。
永遠のように長い沈黙が重くのしかかる。三人はしばらく黙っていた。
次に夜美が呟いたのが、もう日が暮れる頃だった。その呟きに、隣のベッドに腰をおろしてうつむいていた充の顔がふっと上を向く。
「昨日、夢を見たんです。それはもう……嫌な夢でした」
夕日の差す夜美の顔からは涙は消えていたのものの、哀しげな表情が無くなることはない。
「どんな、夢だったのか、よければ教えてくれるかい?」
思わず充はそう返してしまう。言って後悔しても遅いというものだ。
だが、しばらく間を置いて夜美はポツポツと話し始めた。
「見たこともないような綺麗な風景の中に、天崎さんが立っていたんです。嬉しくて胸がいっぱいでした。でも同時に、どうしてここにいるんだろうって、疑問も浮かんできたんです」
「和麻が。元気だったのか?」
「分かりません。天崎さんは私の声には、振り向いてくれませんでした。だから私は、そばに言って、肩をたたいたんです」
苦い顔をしながら、夜美は少しずつ絞り出すように言った。
「そしたら、……『お前のことが嫌いだ』って、言われたんです」
瞬間、充も苦虫をかみつぶしたような顔をした。それは辛い夢だったはずだ。
「気が付いたら、……天崎さんが何人もいて、同じようなことを言ってるんです。逃げようと思って後ろを向いたら、いつの間にか崖になっていて、私はそこから落ちたみたいです。気が付いたら、ベッドの上にいましたから」
話し終えると、夜美は窓の外を見つめた。遠くを見るような表情で、オレンジの空を眺めている。最後に一言、夜美は告げた。
「その夢が覚めた時間と、……天崎さんの様子が変になった時間が、同じなんです」
充はそれを聞いて、血の気が引くのを感じた。思わずゾッとする。単なる偶然であろうが、流石に出来過ぎたものだった。
「で、でも、夢だからさ。気にすることないって」
充がフォローするも、夜美は表情を変えなかった。まるで動かない人形のように、話し終えた夜美は固まっていた。
これ以上は何も話が続きそうになかったので、充は家へと帰ることにした。夜美を乗せて行こうとしたが、一言「今日は泊ります」と言われ、渋々だが一人で帰ることにした。
七月四日。和麻が脳死状態寸前になってから、ちょうど一週間がたっていた。
夏の暑い日差しは容赦なく紫外線を放出し、街中を灼熱地獄へと変貌させている。充は重い足を引きずりながら、教室の引き戸を開けた。今までにないほど、疲れていた。
「おはよう、黒木君」
「……ああ、おはよう」
円の声にもそっけない返事を返す。今はとにかく誰とも話したくない気分だった。
「和麻君、もう一週間なんだよね」
「…………」
和麻の話題は充にとって毒だった。そう、手術を受けても、一向に和麻が元に戻る様子はないのだ。呼吸するための器具や心臓を動かすための機械を取り付け、死人のように眠っている。そんな限りなく哀れな親友の話など聞きたくもない。
円は気を遣ったつもりだったが、余計に充の顔が険しくなったので、慌てて口をつぐんだ。
「席に着け」
担任の声はいつもと変わらず教室に響く。しかし和麻の席はいつも通りではなく、和麻の姿はない。いや、これが既にいつもどおりになりつつあるのである。
HRが終わり、授業に入っても、充はずっと顔を上げられずにいた。結局そのまま、正午を迎えてしまう。
「夜美ちゃん、どうしてるかな?」
昼休みにはいつもならば昼食を食べに行く。夜美は来ているのだろうか。
教室にいてもすることはないので、充は食堂へと向かうことにした。
食堂に着くと、いつも通り夜美はそこにいた。しかし、やはり表情は沈んでいる。
「やあ、夜美ちゃん」
夜美の前では元気でいたいと思い、無理にでも笑顔を作る。夜美は充に気づき、微笑を浮かべたが、すぐに下を向いてしまった。
「黒木さん……」
「お昼、食べようよ」
適当にその辺の席へと誘い、二人で座る。夜美はサンドイッチ、充は生姜焼き弁当を広げる。
しかし会話はそう弾むことはなく、二人は黙々と昼食を食べ続けるだけだった。互いに視線を合わせることもなく、ただ食べるという動作を繰り返す。
夜美が声を出したのは、サンドイッチを食べ終わってしばらくしてからだった。
「私、どうすればいいんでしょう」
「え? どうするって?」
突然の言葉に、充は戸惑う。
「今までずっと、頑張ってきたのに、……天崎さんは……うっ、ひぐっ」
鳶色の瞳に、涙がにじむ。夜美はずっと待ち続けてきた理想を打ち砕かれた思いだった。もう和麻は戻ってきそうにない。信じきることができない。夜美は絶望の淵に立たされた気分だったのだ。感情が一気にこみ上げてくる。その感情をこらえることができなかった。
「夜美ちゃん……」
充はかけてやれる言葉がなかった。現に和麻はもう絶望的な状態だった。もし運良く目覚めても、記憶が消えていたり、自我がなかったりという可能性が極めて高いのだ。それもほんのわずかの目を覚ますという可能性にかけた時の話だった。
「きっと私の所為です。あの夢が、天崎さんをあんな風に」
突然夜美はそんな事を言い出した。充は笑って否定する。
「いや、そんなことはないさ。ただの偶然だって。第一、人の夢で他人が死ぬなんて、そんなのファンタジーの世界じゃないか」
「でも、私にはそうは思えないんです。きっとあの時、天崎さんは私に何かを伝えたかったんです。でも、私は夢から逃げてしまったんです。天崎さんを置いて」
「そんな考え方はやめるんだ。バカげた思想でしかない」
今度は少しきつめに充は忠告した。これ以上夜美が不安定になってしまうのは嫌だった。
それから昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまで、充と夜美は口を利かなかった。
「それでは、明日も遅刻をしないように」
担任が帰りのHRの終わりを告げた。すでに日は傾きかけているが、まだまだ明るかった。充は夜美と病院へ行くために、夜美を探す。
三階へと階段を上り、アドバンスクラスへ。教室からはすでに生徒が出ていたので、夜美を探そうと教室へと駆け寄った。
「あれ? おかしいな」
教室にも廊下にも、夜美の姿はない。もしかして一人で帰ってしまったのだろうか。
「トイレにでも行ったのかな」
まだ夜美が帰っていないのなら、一人で病院へ行くのは心もとないので、充は一度下へ降りて、靴箱を確認することにした。夜美の登下校用の靴が入っているなら、まだ校舎にいることになる。
「なんだ、いるじゃん」
その靴箱の中には間違いなく夜美の靴が収まっていた。クラスと番号は知っているので、間違えることはない。
しかし、再び教室へ戻っても、自分の教室に行っても、夜美は見つからない。
「どこ行ったんだ?」
すれ違いで夜美の方も充を探している可能性は十分に高い。
「今日はゲーセン行きましょ」
「いいね。プリクラ行こうよ」
「帰りにパフェ食べよー」
と、後ろから例の三人組の声がした。夜美と親しくなったため、今のところ夜美はいじめられることは無くなったそうだった。
「あいつらだったら知ってるかもな」
充は夜美の消息を聞くことにした。声をかけると、意外そうな顔で振り向いた。充から話しかけてくるなんて珍しいと思ったのだろう。
「夜美ちゃん、どこに行ったかしらねーか?」
「さあ。知らないわね。HRが終わってすぐ階段の方に走ってっちゃったから」
「そうか、すまねえ」
用件が終わると、また三人は話しながら帰りだした。結局得られた情報は何もなし。
「階段って言われてもな」
呟いて充は気づいた。夜美が利用する階段は先ほど充がアドバンスクラスへ来た時に上った階段だった。
「すれ違わなかった」
妙な話である。充が三階へ来た時、クラスからは生徒が今まさに帰ろうとしていた時なので、HRが終わってすぐだと考えるべきであろう。しかし、夜美とはすれ違わなかった。
「上か?」
下へ来なかったということは、あとは屋上しかないのだが、果たしてそんなところに用事はあるのだろうか。
「まさかな」
もういるとは思えないが、充は探す当てもないため、屋上へと上る。普段は施錠が施されているのだが、今はあいていた。
ガチャリとドアを開ける。鉄のさびた音がして、耳に痛い。
そこに、夜美の姿があった。空を見上げて、その場にたたずんでいる。
「あ、……来ちゃいましたか」
「こんなところで、何やってるの。空なら、帰りながらでも見れるじゃないか」
夜美は自分のバッグをそばに置き、その上に、和麻のノートが乗っていた。
「私、もう無理です」
「え?」
「初めて天崎さんと一緒に帰った時、この人となら、仲良くなれるかもしれないって思いました。そして実際、天崎さんと一緒にいた時間は、すごく楽しくて、素敵な時間でした。でも、もう無理です」
夜美の頬を、暮れゆく太陽に照らされてキラリと光る一粒の涙が伝い落ちる。
「黒木さんとも、もうお別れです。もう哀しむのは嫌ですから」
「な、何を言ってるのさ、冗談だろ?」
夜美は『職員用』と書かれた鍵の束を使い、フェンスの扉を開け、その向こうに立った。
「いいえ。淡い希望にすがるのは、もうやめます。向こうで、天崎さんを待つことにします」
「止めろ! 危ないって! 意味分からないことを言うのはやめてくれ!」
充ほどのバカでも、この状況がどういうものなのかは理解できる。夜美は自分の命を断とうとしている。
「どうして死のうなんて考えるんだ!」
「いままで死のうと思ったことは、正直何回あるか分からないくらいです。でも、私の所為で天崎さんはああなってしまったのですから、私なんていない方がいいんです」
「だから、違うって言ってるじゃんか!」
「それに、もうこれ以上あんな天崎さんを見て哀しむのは嫌です。ならいっそ――」
「ふざけるな! いいから戻ってくるんだ!」
充はフェンスの向こうの夜美に向かって走る。しかし夜美は受け入れようとはしない。
「来ないでください。……もう、私のことはほっといて下さい」
夜美はゆっくりと後ろへと下がる。大丈夫。落ちる時も、夢と同じ。ただ、落ちるということが、落ちて死ぬということになるだけ。
「させねええええええええええ!」
夜美の脚が宙に浮いた。そのまま後ろに倒れこむ。下にはコンクリートの地面が広がっている。部活途中の生徒は、誰ひとりとして気づいていないようだった。
夜美は閉じていた目を開けた。その瞬間、手に衝撃を感じる。
体は宙に浮いたまま、静止していた。ゆっくりと上を見上げる。
「目を覚ますんだ。夜美ちゃんがやろうとしているのは、ただの自殺だ」
充が腕をしっかりと握っていた。夜美の細い腕を、がっちりとつかんでいる。
「今夜美ちゃんが死んだって、何の打開策にもなりゃしねえ」
「うぐっ、ひぐっ、どうして……」
夜美は充に腕を支えられたまま、泣いていた。充は言った。
「和麻のこと、好きなんだろ?」
「へっ……?」
よいしょ、と充は夜美の体を引き上げる。結構な力が必要だが、夜美は小柄で軽かったため、一人で引き上げることができた。
安全な場所まで夜美を連れて行くと、充は夜美に問うた。
「夜美ちゃんがいなくなったら、誰が和麻にお弁当作るんだ?」
「……それは…ぐすっ」
口をつぐむ夜美。更に充は問いかける。
「夜美ちゃんがいなくなったら、誰が和麻と一緒に登校するんだ?」
「ひぐっ……え、えと……その」
「夜美ちゃんがいないと、和麻は戻ってきても笑ってくれないぜ。だから、一緒に待つんだ。大丈夫さ。和麻は必ず戻ってくる」
「うぐっ、黒木さん……私…………うえーん!」
夜美は充の腕の中で泣き出した。それを充は優しく抱きとめる。夜美は怖かったのだ。和麻の死を確認することが。だから先に死んで、全てをなかったことにしようとした。
「和麻が大好きなら、和麻のそばにいたいなら、こんなことで命を、生きる希望を捨てちゃいけない。和麻だって、必死に頑張ってるんだからさ。諦めたら、それでおしまいだぜ」
「ぐすっ……はい。すいませんでした」
「分かればよろしい」
充は笑って、夜美を離した。力が抜けているのだろう。夜美はその場にへたり込んだ。
「私……どうしていいのか、分かりませんでした。考えるたびに辛い現実から目をそらしたくなって、でも、夢の中でも苦しんで……。何もかもが信じられなくなったんです」
「おいおい。俺だって夜美ちゃんの親友だぜ? 少しは信用してくれてもいいんじゃねーかな」
「本当にごめんなさい。黒木さん」
「はっはっは。いいんだよ」
夜美の涙が癒えるように、充は笑って見せた。
「さ、こんなとこにいたってしょうがねえ。和麻のところに行こうぜ」
「ぐすっ……はいっ!」
屈託のない笑顔で、夜美は元気よく答えた。
幸い教師や他の生徒たちには見られなかったため、事は大きくなることなく、無事にいたった。もともと夜美が飛び降りたのは校舎の裏側だったので、誰にも気づかれなかったようだった。
「ほら、涙を拭いて」
「あ、ありがとう……ございます」
階段を降りながら充はハンカチを渡す。本当は夜美も持っているのだが、せっかく充が渡してくれたので、使うことにした。
誰もいなくなった校舎を二人で歩き、靴箱を目指す。部室棟から聞こえてくる合唱部のピアノ伴奏が、そのままBGMになっていた。
「今日は助けて頂いて、改めてありがとうございました」
広い廊下を歩きながら、夜美は呟くように言う。
「夜美ちゃんに死なれたら和麻に殺されそうだったからね」
「黒木さんが来てくれなかったら、私いまごろ……」
「でも、来たからこうして和麻のところに向かってるんだ。反実仮想……だったっけ、そんなのはよくないぜ」
「そうですよね。黒木さんのお陰で、道を見失わずに済みました」
和麻を信じること。帰りを待つこと。そして、温かい、とっておきのお弁当を和麻に作ること。まだまだ夜美はやるべきことが無限に残っているのだ。
二人は登下校用のローファーに履き換えると、いつものように二人乗りで和麻の病院へと向かった。
「今日が、一番の山です」
診察室で、医師は二人に告げた。二人の目は医師と、和麻の状態を表す書類にくぎづけだった。
「山、とは?」
充は医師の言葉を頭の中で復唱し、医師の言いたいことを更に詳しく聞いた。
「今晩で目を覚まさなければ、恐らく彼に意識が戻ることは無いと思います」
それを聞いて、二人の目は険しくなる。医師は続けた。
「正直いつ彼の脳死を確認してもおかしくはない状況です。明日になって戻らなければ、和麻くんの生存確率は今度こそ絶望的です。しかし彼の手術は問題もなく、成功しています。ここを見てください」
医者は不安そうな顔をする二人に、一枚の書類の折れ線グラフを見せた。
「これは和麻くんの脳波のデータです。手術の後から、ほんの少しずつではありますが、元の数値に戻ってきているんです」
「それじゃ、和麻は……」
「目覚める確率は十分考えられます。しかし目覚めてくれなければ、今度は体が持ちません。事故の傷を癒すために、体にはただでさえ、大きな負担がかかっています。これ以上人工の心臓で生き延びられる分の力があるかどうか……分からないんです」
二人の目に輝きがともった。和麻が息を吹き返しかけている。その言葉が医師の口から聞くことができた。生き返らない可能性がないわけではないとはいえ、二人にとっては嬉しいことだった。
「天崎さんに、また会えるんですよね?」
「ああ、きっと会える」
「我々も全力を尽くします」
頼もしく心強い医師の言葉だった。
二人は最後の希望を抱いて、診察室を出た。明日という時間は無いのに、不思議と二人の気持ちは楽だった。和麻が目覚めないこともないという可能性が出てきた以上、信じないわけにはいかない。マイナス思考をしないようにしてきた二人には、希望の方が大きかったのだ。
病室の窓際に、恵子が座っていた。夕焼け空に流れている雲を見上げている。その表情は見えない。充は声をかけようか、躊躇した。
和麻はそのそばのベッドで横になっている。ベッドの横には大きな機械があり、音を立てていた。あの機械で和麻の命をつないでいるのだろう。そう考えるとその機械がどれだけ重要なのかが分かった。
「あ、あの、恵子さん」
迷いを振り切り、充は恵子に声をかけた。肩にかかった髪が翻り、恵子の顔が現れる。
「ああ、二人とも。いらっしゃい」
夜美も充の後ろから話しかける。
「天崎さんは……」
「まだ眠っている状態よ」
「明日まで……なんですよね」
夜美が呟くように言うと、ほんの少し恵子はうつむいた。
「そうね。目を覚ましてくれるか、それともそのまま眠り続けるか……。明日になったら、分かるわね」
内心、恵子は覚悟が出来ていた。明日もし、和麻が目を覚まさなくても、それを受け入れる。たとえ哀しい現実であっても、素直に受け止めるつもりでいた。
「私は信じます。天崎さんは絶対に帰ってくると」
夜美はまっすぐな目で、そう訴えた。哀しいことは考えない。涙が流れてしまうから。
「ありがとう。私も、信じてみるわ」
恵子は和麻を見つめ、語りかけるように言った。和麻は何も答えない。だが、恵子には和麻が笑ったように見えた。
やがて日は沈み、夜の帷が降りる。陽が沈むまで、三人は黙って和麻の病室にいた。が、恵子は仕事でナースステーションへと戻り、夜美と充は二人、和麻のそばで時を過ごしていた。
「今日も、ココにいるのかい?」
「はい。今日は絶対に、ここを動かないつもりですから」
充の問いに、夜美は珍しく力強く答えた。やれやれと充はため息をついたが、充も同じ考えだった。
簡単な食事を済ませ、二人は病室で時間を過ごしている。もし和麻が目を覚ましたらと思うと、一時もここを離れるのが惜しいのである。
しかし夜も十一時を回ると、やがて充は仮眠室へと足を運び、夜美と和麻だけになった。明日は土曜日なので、特に課題をする必要はないのだが、夜美は遅くまで、和麻のノートを纏めていた。自分のノートを開き、和麻のノートにより分かりやすく、丁寧に纏めていく。いつも寝る前にやっているので、すっかり日課になってしまった。
夜美は気がつかないうちに、ベッドに倒れこむようにして眠っていた。
夜美はまた、淡い光の中に立っていた。とても綺麗なところである。
「あれ、ここは」
夜美ははっきりと理解した。これは自分が見ている夢なのだ。
普通夢というのは、見ている間はそれが夢だと気づかない。だが今回の夢は明らかに『夢』だと分かった。
「どこだろう?」
目の前に広がる風景は一面にして野原だった。所々に菜の花が咲いており、とても温かい風景だった。そこに、夜美は一人でポツンと立っている。これと同じような夢を、夜美は見たことがあった。
「この前と、同じだ」
もう見たくないと思っていた夢。それとこの夢は酷似していた。
夜美は歩きだすのを躊躇った。和麻に出会うのが怖いのだ。
だが夜美は、勇気を振り絞って一歩を踏み出した。ここで和麻を探しださないと、和麻に会えない気がしたのだ。もう二度と、である。
しかしいくら探しても、和麻は見当たらなかった。それどころか、誰もいない。誰も夜美の前に現れなかった。
「だ、誰かいませんかー?」
誰にともなく、人を呼んでみる。しかし返ってくる声は無く、無情にも風が吹きわたるだけである。夜美は走った。
時間がない。この夢が覚めたら、きっと天崎さんは眠ったままだ。
夜美は草が絡まるのも気にせず、裸足で和麻を探した。
「天崎さーん、どこですかー?」
和麻がここにいるという確実な証拠はどこにもない。だが、ココで探すべき人は和麻だ。夜美は分かっていた。この夢は普通の夢ではないと。和麻を救うための、最後の試練であると。誰に言われたわけでもない。夜美の直感が、そう告げている。だが、それでいい。夢の世界は、その夢を見ている自分だけのもの。頼れるのは直感。それ以外には何もないのだ。
「天崎さーんっ」
いくら走っても疲れることは無い。だがその代わり、いくら走っても和麻はいなかった。時間が経てば経つほど夜美の焦りは増加していく。
一体この夢はどこまで続くのだろうか。和麻を見つけることができなければ、そのままタイムアップなのだろうか。それとも見つけ出せなければ、永遠に目覚めることは出来ないのだろうか。夜美としては後者の方が制限時間無しであるため、気が楽だったが、和麻が見つからないと、いつまでもこのままなのでどっちにしろ早く見つけるしかない。明るすぎる雰囲気が、逆に薄気味悪い。
「あ……っ」
どれだけ走っただろうか。夜美は川岸の木の下に佇んでいる和麻を見つけた。夜美は思わず安堵した。
「天崎さん」
和麻の名を呼びながらゆっくりと近づいていく。和麻はこの前とは違い、まっすぐに夜美を見つめていた。だが、その口から出たのは、やはり一つの冷酷な宣言だった。
「消えろ。ここにくるな」
和麻が喋った瞬間、一気に空気が重くなる。夜美にのしかかる気迫が、夜美をまるで心臓を掴まれるような感覚に陥れる。
「あ……天崎……さん……っ!」
言葉がうまく出ない。和麻の気迫に思い切り負けている。歩を進める一歩がとても重い。
「お前が嫌いなんだよ、鬱陶しい」
まただ。あの時と同じである。二人目の和麻が現れる。更にもう一人の和麻が現れた。
「もう付きまとうんじゃねえ。さっさと消えろ!」
この前よりも口調がきつい。夜美は耳をふさぎたくてたまらなかった。
だがここで怯えてはいけない。後ろを振り向くと、また私は負けてしまう。暗い闇の底に落とされるだけ。
また和麻はいつの間にか夜美の周りを取り囲んでいた。和麻の言葉が頭の中にリフレインし、大音量で響く。
「私の声を聞いてくださいっ!!」
夜美は和麻の声に負けないくらい大きく、和麻に向かって叫んだ。
その瞬間、夜美を取り囲んでいた和麻の声がピタリと止まる。夜美が顔を上げると、取り囲んでいた和麻たちが一人残らず姿を消していた。
「天崎さん?」
夜美は顔面蒼白で辺りを見回す。振り返っても崖は無かったが、和麻はみんな消えてしまった。
「どこですか? 天崎さん!」
「夜美」
夜美の叫びに答えるように、和麻の声が聞こえた。夜美は驚いて、声の方を見る。
それは川の向こう岸、綺麗な紅い花の咲く野原だった。和麻はその花の中に立ち尽くして、夜美を見ていた。
「天崎さん!」
その和麻は、先ほどのような嫌悪感は微塵も感じられなかった。夜美のよく知っている和麻だったのだ。川の向こう岸で、微笑んでいる。夜美は笑顔で手を振った。
だがその笑顔は一瞬のうちに夜美の顔から消えた。
気がつくと和麻の立っている向こう岸は暗く、禍々しい空気になっていた。黒い闇の渦が和麻を取り巻いている。その渦から、黒い手が和麻に伸びていた。
「うあっ!」
和麻は腕に足を取られ、もがいている。草やら花やらがが和麻にまとわりついていた。
「天崎さんっ!!」
夜美はすぐに和麻のもとへと走った。スカートが川の水で濡れても、川底の泥に足を取られて水中に転んでも、夜美は進むことをやめなかった。
あれに天崎さんを渡したら、永遠に天崎さんに会えなくなる! そんなの、絶対に嫌だ!
夜美は死に物狂いで川を渡る。和麻はズリズリと足を引きずられ、闇の渦の中に引き込まれようとしていた。
「天崎さんっ!」
夜美は必死で和麻の名前を呼ぶ。想うように進むことができない。このままでは間に合わない。
涙があふれてくる。哀しみというマイナスの感情に心が飲み込まれそうになる。
そんなとき、ふとみんなの顔を思い出した。
『いつも通り、普通に過ごして、普通に和麻を出迎えてやるのが、私の役目だと思うけどね』
カップ麺をすすりながら、笑っている恵梨奈先生。
『マイナス思考はやっちゃだめ。行きましょう。結構遠いから、時間がないわ』
天崎さんが倒れた時、泣きそうになる私を元気づけてくれた吉野さん。
『夜美ちゃんがいないと、和麻は戻ってきても笑ってくれないぜ。だから、一緒に待つんだ。大丈夫さ。和麻は必ず戻ってくる』
取り返しのつかないことをしようとした私を、優しく慰めてくれた黒木さん。
そして――。
『よし、分かった。これから一緒に帰るか?』
寂しかった私に、温かい手を差し伸べてくれた、天崎さん(たいせつなひと)。
みんなとの大切な思い出、そして和麻への大好きな想いが、夜美を突き動かした。
いつの間にか夜美の手には和麻の色あせたノートがあった。
「天崎さんを離してえええええええええ!!!!」
夜美の叫びに呼応して、和麻のノートが光り出し、闇をかき消す。和麻の手を、夜美はギュッと握りしめた。
地響きが凄まじい。闇ではない別の何かに、夜美と和麻は吸い込まれた。
「夜美、夜美。起きろ、夜美」
自分を呼んでいる声がする。夜美は目を覚ました。
「んう、ううん……ふぁーあ」
「おきてくれねえと、重いじゃんか」
「んえ? あっ、すいません」
夜美はベッドに倒れこむようにして眠っていた。いつの間にか寝てしまったらしい。
「あっはっは。嘘嘘。夜美は軽いから、全然重くは無いぜ」
「そ、そうですか。エヘヘ」
ここまで話して、夜美は気づいた。誰と話してるんだろう。ベッドで体を起こしているその人物を、こすっていた目を開けてしっかりと見る。そして、夜美は言葉を無くした。
「ん? どうした。俺の顔に、なんかついてるか?」
正真正銘。天崎和麻がそこにいた。ベッドの上から夜美を見て、楽しそうに笑っていた。
「あ、あああ、あああああ…………天崎さんっ!!?」
「でかい声出すなって。せっかく治ったのに耳が壊れちまうじゃねーか」
夜美の頭を優しくぽんと叩きながら、和麻は言った。
「ひっ、うっく、ぐすっ、うっあ……天崎さああああああああん!!」
「ああおい、こらこら、苦しいって」
夜美は溢れる感情を抑えきれずに、思いっきり泣きながら和麻の胸に飛び込んだ。今まで抑えてきたものが一気に解き放たれたように、夜美は今の自分を感情に任せた。
「よかったです……ぐずっ、ひぐっ、ううう、もう、……うっ、会えないかと思ったじゃないですかあ……」
みるみるうちに和麻の服が涙で濡れていく。和麻は夜美が泣きやむまで、そっとその体を抱きしめた。
「一緒に帰るって約束したからな。そんな簡単に死んでたまるか」
「ぐすっ、うぐっ、ううっ……ありがとう……ひぐっ、ございっ、ます」
「礼を言うのは俺の方だぜ。毎日ここに来てくれたんだろ?」
「今日は……うっ、目を覚ましてるんじゃないかって……いつも思って……ぐすっ、うっ、それだけ……信じてました」
夜美は振り絞るように呟いた。和麻が事故にあってから、一日も欠かすことなく、雨の日も、風の日も、日照りの時も、必ずここへ足を運んだのだった。そして、日が暮れるまで和麻の手を握って、いすに座ってじっとしていた。なかなか、そんな事を出来る人間はいない。それだけ夜美は、早く和麻に会いたかったのだ。
「そっか。サンキュな」
「うっ……いいえ、ぐすっ、ひっく、目を覚まして下さって、本当に良かったです」
「夢の中に、夜美が出てきたよ。俺を助けてくれた」
「えっ、それは、ぐすっ、本当ですか?」
夜美は驚いた。自分の見ていた夢は、まさしく和麻を助け出す夢だったからだ。
「私も、夢の中で、天崎さんを……ぐすっ、助けた気がします」
「そうなのか。じゃあ目を覚ませたのは夜美のお陰だな」
和麻は笑った。その笑顔を見て、夜美は心の底から安心した。これは夢なんかじゃない。まぎれもなく、天崎さんが目を覚ましたという現実なんだ。
あの夢は現実と関係していたのだろうか。もしあの時、和麻を助けることができなかったら、果たして和麻はこうして笑っているのか。夜美には分からなかった。いや、誰にも分からないのだ。
だがしかし、きっと和麻は眠ったままだったのだろう。何故なら、あの夢で夜美と和麻はつながっていたのだから。
三途の川の向こうに、立っていた和麻。彼岸の花に囲まれて、和麻を向こうに引きずり込もうとした黒い闇と腕。川の向こうから和麻を連れだしたからこそ、きっと和麻はここにいるのだ。夜美はそう信じている。
「夜美」
「は、はい、なんですか?」
「そのノート、俺のじゃね?」
和麻は夜美がずっと握りしめている大学ノートを見て聞いた。
「あ、これ、天崎さんがいつ目を覚ましてもいいように、今までの授業内容を纏めていたんです。どうぞ使ってくださいっ」
「本当か? それは助かるよ。充には絶対できないからな」
「うっさいな。お前だってほとんど真っ白だったじゃねーかそのノート」
ベッドのそばに立っていた充がすかさずツッコんだ。どっと笑いが起こる。
夜美はその時、いろんな人が病室の中にいたことに気づいた。
お母さん、恵梨奈先生、吉野さん、黒木さん、病院の先生、恵子さん、そして天崎さん。みんな天崎さんの回復を待ち望んでいた人たちだ。
「ほんと、心配ばっかりかけさせるんだから」
腕を組んでメガネをいじりながら円が言う。そうそう、と充も便乗する。
「夜美ちゃんを何回泣かせたんだろうな。今ので、えーっと、分かんねえ」
「ほんと、みんなには迷惑かけたな。すまない」
和麻が頭を下げると、院長が声をかける。
「本当に奇跡だよ。よく戻ってきてくれたね」
本音を言うと院長も、もう駄目だと思っていたらしい。今だから言えるココだけの話である。
「学業に戻るには、もう少し時間がかかりそうだけど、脳死の一歩手前まで行ったにも関わらず、後遺症というか、不具合が全く見られない。実に不思議だね」
記憶障害も起こることなく、無事に意識を完全回復できたのは数少ない例だそうだ。夜美は早く和麻に目を覚ましてもらいたかった反面、もし目を覚ました時に自分を覚えていなかったら、という可能性がたまらなく怖かったのだ。まるで悪夢の時のように、『お前知らない』などと言われれば、元に戻っても意味は無いに等しい。
「とにかく、和麻が戻ってよかった。またいろいろ手伝ってもらうから覚悟しな」
恵梨奈が実に恐ろしいことを言っている。病み上がりに重労働は勘弁してほしい。
「改めまして、霧野夜美の母、博美と申します。夜美が先だってお世話になっておりま
す」
夜美の母親が続いて和麻に話しかける。
「ああいえ、こちらこそ。夜美さんにはいろいろお世話になってます」
「どうかいつまでも、この子の安心できる人でいてやってください。友達がいままでいなかったもので……」
「はい。任せてください」
その言葉に、夜美も嬉しく感じた。これからも一緒に学校に行って、一緒にお昼を食べるんだ。なんともなかった日常を一度失って、夜美はその大切さに気付いた。
和麻はこれからまだ検査や事故後のリハビリなどで二カ月ほど入院しなくてはいけない。だが夜美は、またその日常が戻ってくることを、楽しみに待っている。いつか必ず、その日は来るのだから。
「星がきれいですね」
「ああ。今日は晴れてよかった」
和麻と夜美は、病室の窓からキラキラと輝く星を見ていた。
七月七日。今日は夏の中で星が一番光る日。そう、七夕だった。天の川は見渡す限りに続いており、無数の星々が見事に空を彩っている。
「短冊、買ってきました。よかったら、どうぞ」
「短冊なんて、久しく書いてないな」
夜美はスーパーで購入した小さな短冊のセットをベッドのデスクに広げる。赤やら青やらのカラフルな長方形の画用紙が顔を出す。
「天崎さんの願い事は何ですか?」
「うーん、やっぱ早く退院することかな」
最もな答えである。夜美は頷いた。
と、今度は和麻が尋ねる。
「夜美の願い事は何だ?」
「私のですか? うふふっ、秘密ですっ」
いたずらっぽく微笑むと、夜美はスカートのポケットになにも書いていない短冊をしまう。
「ずるいぞ」
「実は、まだ考えてないんです」
「早く考えないと、七夕終わっちまうぜ?」
「大丈夫です。それまでには考えますから」
二人は笑った後、また星空を仰いだ。流れ星が時々流れていく。黒一色の世界に光の線が浮かぶたびに、夜美は無邪気に指さした。
「あの、天崎さん」
「ん? なんだ」
夜美には一つ、どうしても聞きたいことがあった。
「なにか、悩んでたんじゃないですか?」
「な、何言ってんだよ」
不意に図星をつかれ、少し和麻は動揺する。夜美は食い下がる様子は無かった。
「私にだけでも、教えてくれませんか? 天崎さんの力になりたいんです」
「…………」
和麻は戸惑う。夜美に話すのが返って躊躇われるのである。
「天崎さん」
「……実は、夜美のことでさ」
観念して和麻は話しだす。自分のことと言われ、夜美は少し顔を赤くした。
「俺って、何か役に立ってるんだろうかって、思ってたんだ」
「どういうことですか?」
「実際、最初のあの時以外、俺は夜美を救えなかったんだ。三人の嘘に騙されて保健室に行った時も、自分の悪いうわさが広まるのを恐れて、行くのが遅れた時も、俺は夜美を守れなかった。こんな俺で、何の役に立ってるんだろうかって」
「…………そんなこと、言わないでください」
夜美は和麻の悩みを聞いて、哀しい気持ちになった。夜美は、和麻がそばにいてくれるだけで、ただそれだけで嬉しいのに、和麻は何も夜美のためになっていないと思っている。それが夜美は哀しかった。
「天崎さんは、私の初めての友達です。天崎さんがいなかったら、今の私はいません。天崎さんのお陰で、いろんな人と友達になれました。あの三人の方とも、お友達になってもらえたんです。恵梨奈先生に怒られて、改心したらしくって、私たちと天崎さんに謝ってくれたんですよ」
和麻は目を丸くした。とても信じられなかった。
「あいつらが謝ったっていうのか?」
「はい。ですから、私を守ることが、天崎さんの責任だなんて思わないでください。私は、天崎さんがいてくれるだけで、楽しくて、嬉しくて、毎日を過ごしていきたいって思えるんです。だから、役に立たないなんて、そんな哀しいこと、言ってほしくないです」
「夜美……」
夜美の哀しげな表情を見て、和麻は気づいた。自分は夜美の友達だ。そばにいるだけで楽しい存在。それが友達ではないか。そう考えた途端に、悩んでいた自分がバカみたいに思えた。自分で夜美を哀しませちゃいけない。
「ごめん。俺が間違ってたぜ。変なこと言ってごめんな。どうしたら夜美に笑ってもらえるんだろうって、ずっと考えてたら、どんどん変な方向に考えちまって、気が付いたら、バカみたいなこと考えてんだ。ほんと、どうかしてるよ、俺は」
「いえ、いいんです。私は天崎さんが隣にいるだけで、笑顔になれますから」
そう言って夜美はにっこりと笑った。
夜美は家に戻ると、自分の部屋へと真っ先に向かい、ポケットにしまっていた短冊を取り出す。油性のマジックペンを取り出してノートの隅に適当に試し書きをし、インクが付くのを確認すると、空を見上げた。
『夜美の願い事は何だ?』
和麻の笑う顔を空に思い描く。
「私の願いは――」
夜美は、たった一つだけ願うことを短冊に綴った。
「天崎さんとずっと一緒にいられますように」
銀色に染まる天河と、そのそばでひときわ明るく光る星――織姫星と彦星を見上げ、夜美は短冊に書いた素直な願いをそっと呟いた。




