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Part 3 -Unexpected Accident-

「おはようございますっ、天崎さんっ」

「おはよ」

翌日の朝。夜美はウキウキしながら和麻に声をかけた。一緒に登校してくれる友達という存在が夜美を突き動かしている。和麻に会えるのが嬉しいのだ。

「テンション高いな」

「気持ちのいい朝ですねっ」

和麻にとってはただ眠いだけだった。昨日雨が降ったことを考えれば、雲ひとつない空は確かに清々しいが。

「やっぱり、眠たいですか?」

「いつものことだ。ふぁーあ」

昨日と同じ風景。変わらない通学路。そして隣を歩く夜美。やっぱりこんな朝のシチュエーションは緊張するのが人間だろう。

「クァーズマーーーーー!!」

そしてこんな平和的登校時間を台無しにしてくれるやつもいるわけだ。世界の理は塞翁が馬なのだ。

充はまたも和麻たちの前でギリギリ停止した。肩で息をしているのは言うまでもないことだ。

「おはようございますっ、黒木さんっ」

「…ああおはよう、夜美ちゃん」

「暑苦しい奴め。もう少し静かに登場しやがれ」

自転車をぶっ飛ばすのは競輪選手にでもなってからにしてくれ。サッカーより向いている可能性がある。

「無茶言うなよ。超高速で静かに迫るなんて出来るか」

「超高速で接近するなと言ってんだよ」

「てめえ。俺を置いて帰りやがったな」

「昨日は霧野と帰ったからな。お前を待ってると日が暮れる気がしたんだ」

相合傘のことは口に出すつもりがない。そんなもの恥ずかしくて顔から火が出てしまう。

「俺も一緒に帰りたかったな」

「じゃあ、今日は三人で帰りましょう」

「充が説教されてなかったら考えてやるよ」

もっともそれは至難の技だろう。充にとっては。

雨で散ってしまった桜の並木道を、笑いながら三人は進んでいた。

しかし、行く手を阻むものが現れた。それは信号待ちをしていた時である。

「あんたたち、そんな奴をかばって楽しいの?」

「ほんと、そんな奴と突き合うなんて、虫唾が走るわ。人生無駄にするわよ」

「そんなゴミみたいな人間のどこがいいのかしら」

例の三人組だった。和麻は三人の言葉を聞いた瞬間に睨みつけた。

「あ、天崎さん……」

無意識に夜美は和麻の後ろに隠れた。夜美にとっては天敵も同然だ。

一番で会いたくない人間三連発だ。やはり人間万事塞翁が馬だ。

「大丈夫。あんなのに耳を貸しちゃだめだ」

相変わらず他人を見下したような視線が飛んでくる。夜美を嘲笑い、放課後にいじめる卑劣なやつらだ。

「少なくともお前らの方が何千倍もゴミに近いんじゃねーのか?」

「そうだな。夜美ちゃんは俺たちの友達だ」

そう充が叫ぶと、三人はどっと笑いだした。

「アッハハハハ。友達? そんなのと? 冗談もいい加減にしてよね」

「悪いが本気なんでね。お前らが俺らを罵るのは一向に構わねえ。だげどな、霧野を侮辱するのだけは許さないぜ」

夜美の笑顔を奪おうとするやつらだけは絶対に許せない。許してはいけないのだ。

「いるものねえ、物好きな馬鹿って」

「キモいだけの変態男子なのよ。女子トイレに勝手に踏み込んできたし」

口数は一向に減らないようだ。相手にするのも面倒なのでそろそろ行くことにした。

「結構。じゃあな。さ、行こうぜ霧野」

「は、はい」

和麻たちはちょうど青になった信号を渡りだした。そのまま何事もなかったかのように他愛もない会話を始める。

三人は少しその態度にいらつきを覚えた。あれだけ悪口を言っているのに、微動だにしない様子。相手になどしていないような、そんな雰囲気。

「ちょっと、あの二人ウザくない?」

「ウザいね。あいつらもやっちゃおうよ」

「そうね。友達とやらを消し去ってやろうかしら」

不敵な微笑を三人はそれぞれに浮かべ、横断歩道を渡った。




昼休みとは不思議なものだ。長いようで短い四十分の時間のうちに存在するつかの間の休息。それを生徒は思い思いに過ごすのだが、その時間の感じ方はその人その人、またはその日その日によって様々だ。長く感じる人もいれば、あっという間に終わる人もいる。長く感じる日があれば、あっという間に終わる日だってあるのだ。

そして大半の場合、楽しい時間を過ごしている時の方が短く感じてしまうのが世の常であり、人間の感覚なのである。

そんな不思議な昼休みをどう過ごすかは自由だ。何故ならつかの間の休息であるからだ。

「ああ、違います。そこはxじゃなくてyでくくってみてください」

現在三人は例の廃れた図書館にいるのだった。理由は簡単。昨日だされた充の特別課題をこなすためである。

「本当だ……。出来た。出来たよ夜美ちゃん!!」

「エヘヘ。これは因数分解の中でも基本的なカタチですから、覚えておくと便利ですよっ?」

「そうなんだ、サンキューな」

「それほどでもないです」

ついに瀬川がシビレを切らしたのだった。いつまでたっても治らない充の居眠り癖を改心させるために出された課題だ。その枚数、五枚半。今日中に提出するように。瀬川はそう言い放ったのだった。

「瀬川じゃなくて夜美ちゃんが数学の先生だったら大喜びなんだけどな」

「嬉しいお言葉ですっ」

「それだと霧野の授業が進まないだろうが」

和麻はソファーに寝転がって本を読みながら突っ込んだ。腐っても図書室。いろんな本が置いてある。ヒマつぶしの材料にはうってつけだ。さすがに辞書は読む気にはならないが。

「和麻も手伝ってやりなよ。親友なんだろ?」

コーヒーを飲みながら恵梨奈先生は言った。もう早速片づけに飽きたようである。整頓しかけの歴史資料を足元にドカッと置いたかと思うといすに座って新聞を読み始めたのだった。

「ヤツの自業自得につきあう道理はねーからな」

和麻も一口コーヒーを飲む。眠気覚ましのコーヒーのつもりだったが、例によって恵梨奈先生に働かせられ、更に問題を一問解く毎に感動して声を上げる充の所為ですっかり眠気が吹き飛んでしまった。

「そう。じゃ、これを――」

「よし充、次の問題はな、こうやればいいんだ」

「あ、ああサンキュー」

危うくまた途方もなく重い資料を運ばされるところだった。和麻は反射的にソファーから跳ね起きていた。

「天崎さんは数学得意ですか?」

「全然だな。とりあえず赤点は無いようにしてるけど、得意とは呼べないぜ」

「そうなんですか」

「ま、こいつよりは何倍もマシだけどな」

充を指さして吐き捨てた。充は不服そうな顔はするものの、否定はしない。自分で認めてしまっているのだ。最近ようやく自分が馬鹿だということに気付き始めたようだ。

「しかし夜美は流石アドスリーなんだな」

夜美の教え方に恵梨奈先生は感心していた。和麻もそれには素直にうなずける。なんとあの充が納得できるように教えることができるのだ。瀬川が手こずっている最大の刺客をいとも簡単に打破していたのだった。

「でも、成績は全然ですから……エヘヘ」

無理に笑ってもその暗い瞳は隠せない。いじめがエスカレートしないことを願うばかりだ。


「終わったぜー!!」

昼休みもあと五分ほどで終了と言うギリギリの時間、充はついに課題をクリアした。

「時間内に終わってよかったです」

「これに懲りてもう居眠りはしないことだな」

「ど、努力はしてみよう」

そろそろ教室に戻る時間なので三人は旧図書室を後にする。最後に恵梨奈先生が鍵をかけて外に出た。

「ここがいつも天崎さんが過ごしている憩いの場所なんですよね?」

「まあ、憩いっつってもただ寝るだけだがな」

「ふふっ。それもいい過ごし方だと思います」

しばらく進んで渡り廊下。その先の階段でそれぞれ分かれる。先生は保健室に、夜美はアドバンスクラスへ、和麻と充は2-Dへ向かった。

それは和麻たちが教室に入った瞬間であった。ただならぬ違和感が漂っていた。

二人を敬遠するような、そんな視線が飛んでくる。なかには非難の目もあるようだった。

「なんか、おかしくねえか?」

充も分かったようだ。やはりこの雰囲気はおかしい。

「みんな俺たちを遠ざけているのか?」

その時、とある女子のグループからヒソヒソ話が聞こえてきた。

「あの二人、本当に女子トイレに入ったの?」

「うん、いきなり飛び込んできたらしいよ。誰かが入ったタイミングを見計らって」

「うっそー、キモいー」

なるほど、そう言うことだったのか。和麻は理解した。

昨日の事件が間違った伝わり方をしているのだ。それもあの三人に都合のいいように組みかえられている。

「みんな誤解だ! その情報は間違ってる!」

和麻は叫んだ。だが、皆は聞く耳を持たない。

「まさかお前らがそんなことするなんてな、がっかりだぜ」

「だから、これには理由があるんだ!」

充も声を大にして叫ぶ。こんなうわさ、冗談ではすまない。

「あーら、覗きに理由なんて、やっぱり変態さんなのねー」

突然後ろで声がした。和麻たちが振り返ると、あの三人組が微笑を浮かべていた。勝ち誇った様な顔をしている。

「てめえらか。こんな意味不明な情報を流したのは!」

「何を言ってるの。私たちは被害者なのよ。あんたたちにトイレを覗かれた」

やはり仕組んだのはあいつらのようだ。そもそも掃除時間なので、被害者も何もあったものではない。

「何をばかな。そろそろ授業始まっちまうぜ?」

充がそう言った瞬間にまさしくグッドタイミングでチャイムが鳴った。

しかし彼女たちは一向にその場を動こうとしない。むしろ余裕の表情である。

「そうね。でも今日はここもあっちも自習なの」

「それで俺らにこじつけをしに来たってところか」

「こじつけなんてよく言えるわね。こっちは覗かれたのよ」

「だから、覗いてねえって言ってんだろ!」

そろそろ苦しくなってきた。クラスの人間は明らかに三人組の言うことを信じ込んでいる。

すると、三人組はするだけのことをしたのか、帰っていった。

「くそっ、あのやろ―」

和麻も怒りでいっぱいだった。いじめの矛先を和麻たちに向けたのだ。どこまでも卑劣である。

仕方なく、陰険な雰囲気の漂うクラスの席に二人は腰を下ろした。

自習時間。静かな空間だが、今はこの静寂が逆に焦りを掻きたてる。みんな誤解しているのに、それを解くことができない。

まだひそひそと会話が聞こえてくるが、気にしてはいけない。

二人は暗い気分のまま、午後の授業を終えた。


「和麻、どうする?」

「どうするったって、やっぱり行くしかねえだろ」

六限目は通常通り授業が行われた。英語教師はクラスの空気に気づいた様子もなく、冷静に淡々と分厚いグラマーをめくっていたのだった。

今は現在掃除時間だが、二人は例の女子トイレに行くことをためらっていた。クラスの人間にこれ以上間違った情報が伝われば、更に誤解を解くことは難しくなる。だが行かなければ夜美がまたいじめられてしまう。絵にかいたような苦渋の選択だ。

「やっぱり、俺たちの都合で夜美ちゃんを悲しませるわけにはいかねえよな」

「ああ。早くしないと、もう始まっている可能性は高い」

だがクラスの人間は依然として冷酷な目で二人を見ている。このままでは二人とクラスとの間には溝が深まるばかりだ。

だが和麻は不審に思っていることがあった。

「なあ、なんでみんなあんなに簡単に信じ込んでいるんだ?」

その和麻の疑問に充も相槌をうつ。

「あ、言われてみれば。確かになんの根拠もなしにあそこまで信じさせることはなかなか出来そうにねーよな」

「そうするなら、何かあいつらが決定的な証拠を掴んでいるということになる。何か、クラスの人間を一発で信じ込ませるようなものを」

それが何なのかは皆目見当もつかないが、そう考えるのが自然である。

そんな事を考えていると、吉野円が近づいてきた。

「あなたたち、本当に女子トイレを覗いたの?」

「違う。そんなダサいことするかよ」

必死に和麻は反論する。もしかしたら円なら分かってくれるかもしれないと思ったからだ。

「昨日言ってただろ? いじめを止めるんだって。それが俺たちが女子トイレに踏み込んだ理由だ」

「まさか、女子トイレでいじめが起こってるの?」

「ああ、その通りだ。五限目前にいたあの三人組がいじめてるんだよ。その子に向かって放水したり、汚い掃除用のスポンジをこすりつけたりして」

その話を聞くだけで円は嫌そうな顔をした。半分は納得したようだ。

「でも、あの子たちはこんなものを見せてきたわよ?」

そう言うと円は携帯を取り出す。その画面に映っていた画像に二人は言葉を無くした。

女子トイレの扉を開けて中を覗き込んでいる和麻と充。そして泣いている夜美。

「なるほど。確かに見ようによっちゃ覗きの現場に見えるわけだ」

「どこから撮りやがったんだ。いつの間に」

携帯カメラの画質では、夜美が濡れているかどうかまでは分からない。撮り方がうまい写真だ。

「これは覗きじゃないの?」

「俺たちが昨日、駆けつけたときだ。すでに女子トイレではいじめがあった後で、ずぶ濡れの彼女が泣いていたんだ」

「そうなの…。さっきの三人組は、この子を含む私たちが覗かれましたって言ってたのよ」

「そいつは違うな。この子に訊けば分かることだけど、普段は掃除時間にいじめられてるんだよ」

ようやく納得したような顔をしてくれた。クラスの委員長に信じてもらえれば心強い。

「じゃ、今も」

「ああそうだ! 和麻! こんなことしてる場合じゃねーぞ。早く行かないと」

「分かってるよ!」

何故だ。何故携帯がならないんだ!

「私も連れてってくれない? いじめられているかどうか、この目で確かめたいわ。そうすればあなたたちの容疑も晴れるでしょ?」

その意見には賛成だ。味方が多いのはとても助かる。だが…。

携帯電話が反応を示さない。夜美から連絡が来ればすぐにとんでいけるが、現状あのトイレに近づくのは難しいのだ。恐らくあの三人組のことだから女子トイレの周りのクラスにも手を打っているはずだ。不用意に近づくと拘束される恐れがある。

「和麻! 行くぞ!」

「…分かった!」

三人は走り出した。掃除時間はすでに半分が経過しようとしている。走っても五分かかる距離なので、いじめられていたら手遅れになる可能性がある。無事を祈りながら和麻は角を曲がる。

走る途中、意外にも白い目で見られることは無かった。円がついていたからかもしれないが、和麻の考えは先を急ぎ過ぎていたようだった。

そして三人は辿り着いた先でそれを見た。和麻は拍子抜けして膝をついた。

恵梨奈先生が夜美をかばい、三人にきつくお灸をすえていたのだ。

夜美が和麻に気づくと、駆け寄ってきた。

「大丈夫か?」

「はいっ。恵梨奈先生に助けて頂いたんです。もう少しで水をかけられるところだったんですけど」

和麻の問いかけに元気よく答えた。恵梨奈先生も三人に気づいたらしく、少し視線を送ってきた。

「ごめんね夜美ちゃん。俺たち、あいつらの所為で覗きって勘違いされて、出るに出られなかったんだ」

「そうだったんですか。…ごめんなさい。私の所為でこんなことに…」

「気にすんなって。あいつらのやりそうなことだし」

「すいません…」

申し訳なさそうに頭を下げる夜美を見て、円が尋ねた。

「あなたが、いじめられてるっていう生徒なの?」

「え? …あ、はい。えーっと、あなたは?」

「和麻くんと充くんのクラスで委員長をしてるの。吉野円よ」

「そうなんですか。私は霧野夜美と言います」

どうやら三人目の友達ができたようだ。仲良く笑顔をかわしながら自己紹介していた。

と、横では恵梨奈先生の説教が続いていた。

「あんなことをしていいと思ってるんだね?」

「いえ、そんな事は…」

「じゃあどうしてこんなことするんだろうね。簡単だね。誰も見てないから。違うかい?」

「…………」

言葉が返せないようだ。やはり正論に勝てる理論は存在しえない。

「夜美がどれだけ傷ついたか、永遠にあんたたちには分からないよ。平気で人をいじめるやつは、絶対にいじめられてるやつの気なんざわかりえないからね」

流石恵梨奈先生だ。説教に関しても、この人の前に出る者はいない。

その後、他の先生方にも事が知れ、校内で発生していたいじめに対して全く感知されていなかったことが問題となり、対策が進むことになった。三人は生徒指導室でこってり絞られたという。

こうしてこの日は一度もいじめに遭うことなく帰宅することができるのだった。




「それでは、また明日ですね」

帰り道。夜美はニコッと微笑んで手を振った。和麻も手を振り返す。

「ああ、また明日な」

夕日差す通学路。今日は円、充、夜美、和麻の四人で帰ることになったのだった。夜美は楽しそうに笑いながらみんなと歩いていた。

けれどもやはり最後はこの二人になってしまう。充は和麻と道は同じだが、本屋に寄って帰るからと、ひとつ前の曲がり角で別れた。

そしてたった今夜美と分かれ道で手を振りあったところである。明日また、そう約束した。

和麻は自転車に乗ると、家に向かってゆっくりとペダルをこぎ始める。坂に伸びる影を見つめながら、和麻はぼんやりと考えた。

自分は、果たして夜美の役に立っているのだろうか。あいつのためにと思ってやっていることは正しいのだろうか。もしそれが正しいとして、本当にそれをすべきなのか。

「ほんと、カスみてぇだな。俺って」

今日結局夜美を守ったのは、恵梨奈先生だった。和麻が自分が変な目で見られていることを恐れ、躊躇して、その結果辿り着いた時、夜美は恵梨奈先生が守っていた。助けてやると、約束したのに。

自分だけでは守れなかった。いや、自分で守れるものを守ろうとしなかった。

いじめさせないと、約束したのに。

昨日だってそうである。見え透いた嘘を真に受けてまんまと三人組の自作自演に踊らされ、夜美は酷いいじめを受けた。また、守ることができなかったのだ。

何一つとして、役に立ってないじゃないか。

和麻は想像以上に、いや、もとから分かっていたのかもしれないが、弱く、もろく、誰かを守ることすらできなかった。目の前にある不正を許さないと誓うことは出来ても、それを正すことは出来ない。

そう考えると和麻は言いようもない感情がこみあげてきた。あんなにも夜美は和麻を頼っているのに、それを裏切ることしかできないのだから。

誰でもない自分に対しての、怒り、悲しみ、むなしさ、切なさ。全てのマイナスイメージを自分で自分に突きつける。

 

そんな事を考えていたからかもしれない。負の意思、感情は、不幸を招いてしまうのだろう。

明日、学校で会うという当たり前のように当たり前な約束。

それすらも、守れなくなってしまうのだ。




「天崎さん、どうしちゃったのかな」

夜美はいつもの分かれ道で和麻を待っていた。しかし夜美は困っていた。

「遅いなあ」

腕時計を見て確認する。午前八時三十分。いつもの和麻なら、二十分も前にここへきてくれるはずなのに。

和麻は一向に姿を見せない。もうあと二十分もすれば登校完了時間なのだ。

「そうだ、メールをしてみようっと」

携帯電話を取り出して、和麻あてのメールを作成する。もっと早くこうしておけばよかったと、ほんの少しだけ後悔する。だが、あんまりせかすのも悪い気がしたので、これくらいが妥当だろう。

『おはようございます。まだ、お家にいらっしゃいますか? そろそろ登校完了時間が迫っていますので、メールしました。もしかしてお体の具合がよろしくないのでしょうか。もしそうでしたら返信して下さい。それまで待ってます。早く学校に行きましょう(^o^)』

頑張って練習した顔文字を使って、完成。送信の文字が浮かんで、メールの送信はこれでいいはずだ。

「今日のおかず、喜んでもらえるかな?」

一人で早起きして作った、夜美特製のお弁当。ほとんどのおかずは昨日の帰り道で聞いた和麻の好みをもとに作ったのだ。早くお昼にならないかな、と夜美はウキウキしながら和麻を待つことにした。

しかし、それから更に十分たっても、和麻は来ない。携帯にもメールは帰ってこなかった。

「どうしたんだろう」

だんだんと不安になっていく。もしかしたら、何か和麻の機嫌を損ねることをしたのだろうか。

もう登校完了まで時間がない。

しかし、ふと夜美は気づいた。

「もしかして、先に行っちゃったのかな」

ここまで待ってこないということは、すでに学校へと登校している可能性がある。

「もしそうだったら、あんなメール送らなきゃよかったなあ」

すでに学校にいる人間に、まだ家ですか、なんてメール、送ったら不審に思われるに違いない。

そう考えると、夜美は曲がり角から出来るだけ早くダッシュする。唯一、どうして先に行っちゃったんだろうという疑問だけを残して。

コンビニ前の信号に辿り着くと、ちょうどコンビニから充が出てきた。

「あ、おはよう、夜美ちゃん」

「はあ、はあ。おはようございます、…黒木さん」

「どうしたの、そんなに息切らして」

「天崎さんを待ってたら、なかなか来なくて、遅れそうだったので走ってきました。ふう」

「そう言えば和麻がいないね。どうしたんだろう」

サンドイッチを朝食代わりに食べながら、充は辺りを見回す。手に持った袋には、お昼の分だろう、たらこスパゲッティが入っていた。

「もう学校に行ってしまったんだと思います」

「マジでか。夜美ちゃんを置いて?」

「そうとしか、考えられないので」

「なんだよ、最低なやつだな。せっかく待ってくれてる子を置いて行くなんて」

「いえ、でも、私が勝手に待ってるだけですから」

そろそろ鬱陶しくなったのかも知れない。やはり静かな朝は一人で登校したい時もあるのかも知れない。

「ちぇ。二人(・・)を待ってたのにな」

充はつまらなそうにそう言うと、じゃあいこうか、と信号に向かって歩きだした。

 

教室にも、和麻の姿は無かった。

「あれ、来てないのか?」

和麻の席には鞄がかかっていなければ、机の中身も空っぽだった。案外教科書は持ち帰る和麻なので、空っぽということは和麻の不在を意味する。充はいぶかしんだ。

「なあ、吉野。和麻、来てないのか?」

花瓶の手入れをしていた吉野円を見つけたので、充は訊いた。しかし円の返事も曖昧なものだった。

「知らないわよ。黒木くんと一緒じゃないの?」

「それが、今日は姿が見えないんだよ」

「へえ。天崎くんが欠席なんて、珍しいわね」

本当に珍しいことである。和麻が学校を休む日なんて今までなかったことだ。

話を終えると同時にチャイムがなり、担任教師が来たので、そこで充は席に着いた。後で昼休みにでも夜美に報告することにした。

「席に着け。あさのHR始めるぞ。まずは出された課題を各自提出すること」

聞きあきた中年の声が教室にこだまする。和麻のいない一日をどうやって過ごすかを考える。

サッカーをしてもいいが、昼休みに夜美は一人ぼっちで過ごすことになる。今日はパスするしかなさそうだった。

「出席確認。天崎。……どうした、天崎が休みか。珍しいな」

担任の教師も驚いている。もちろんクラスの所々からも同じような声が聞こえてきた。

「それじゃ、池田。内山。大久保――」

その他の生徒は全員出席だった。




「そうですか。天崎さん、やっぱりどこかお体の調子が悪かったんですね」

時は変わって昼休み。楽しいランチタイムだが、和麻がいないといまいち盛り上がりに欠けるものだった。夜美は予想以上にさびしげな顔をしている。ここ三日間、和麻とずっと一緒に過ごしてきた夜美にとっては辛いだろう。

弁当の中身を見ると、何やら和麻が大好きだというサバの味噌煮やトンカツが入っていた。なるほど、和麻に食べてもらいたかったのだろう。またおかずの交換をしたかったようだ。

「っつっても、別に昨日キツそうな雰囲気は無かったけどな、和麻のヤツ」

帰り道だってみんなと一緒に笑っていたし、『また明日』といいながら別れたということは、明日ももちろん学校へ行くという明確な意思表示が入っている。そんな奴が突然学校を休むというのは不自然だった。

「帰りに、和麻の家にいってみるか」

「そうですね。ちょうどお家がどこにあるのかも知りたかったですし、いい機会ですっ」

夜美の弁当をつつきながら充は放課後に和麻の家へと赴くことを決めた。

「それはそうと、今日は何をしようか」

「天崎さんがいないと、何というか、こう言ってしまったら黒木さんに失礼かもしれませんが、今一つ盛り上がらないです…」

「ああ。俺もそう思うよ」

そう考えるといかに和麻が三人の中でもムードメイカーであったことが分かる。

「図書室、行くか」

「そうですね。恵梨奈先生にもお礼を言わなきゃいけませんし」

昼食を食べ終わると、二人はいつもの和麻の昼寝場所へと向かった。

「あの和麻がかい。へえ、明日は雪でも降るかもしれないね」

「そりゃ困るな。マフラーの用意をしないと」

足を組んでコーヒーを飲みながら、恵梨奈先生はお気楽にパソコンをいじっていた。

「恵梨奈先生は、いつもここで過ごしておられるんですか?」

「昼休みの間だけね。他は職員室か、あの保健室にいるよ」

この学校はとても広いので、保健室は他にもう二部屋存在する。

「ここでこんな仕事をしてなかったら、和麻にも会ってなかったね」

「やっぱり、天崎さんと初めて会ったのは、ここなんですか?」

「ええ。いきなり入ってきて、昼寝しだしたときは、こいつはもうホンマもののアホだと思ったけどね」

もう一年も前の話だ。恵梨奈がここの担当をはじめて間もない時だったのを覚えている。

「そうだ、あんたたちヒマなら、こいつをしまうのを手伝ってくれないかい?」

恵梨奈はいかにも重そうな辞書の類をどっさりと抱えてきた。それをどかっと床に置くと、ふうと腕で額を拭う。

「えー、何で俺らが?」

すぐさま充は不満の声をあげた。和麻につきあってここに来るたび何か重いものを運ばされるのだ。骨が折れる。

「良いじゃないですか、手伝いましょうよ」

「んー、まあ、夜美ちゃんがそう言うなら、俺は構わないけど」

夜美は楽しそうにニコニコしている。きっと運びだしたらそんな顔は出来ないだろう、と充は思った。

「それじゃ、まずはこの百科事典からお願いね」

見るからに重そうなブリタニカ国際百科事典が我が物顔で床に居座っている。運ぶのは苦労しそうだ。

「どこに運ぶんだ?」

「AからFの棚まで詰めてって」

「私も手伝いますっ」

とりあえず三冊くらいを夜美は手に取った。が、しかし。

「こ、これ、結構重いですね」

たった三冊だというのにずっしりとした辞書である。気を抜くとよろけてしまいそうだった。

「無理はしちゃダメだよ、女の子なんだから」

恵梨奈は苦労している夜美に運ばなくてもいいと言ったのだが、夜美は手伝うと言ってきかなかった。

「一体なんでいつも散らかってんだよ。俺前にこの辞書片づけた覚えがあるぞ」

「授業で使ったり先生方が調べ物したりするんだよ」

そういう点ではこの廃図書館はこの学校にとって無くてはならないものになっている。特にここに置いてある本は高等部のみにとどまらず、中等部以下でも共通して使われているので、結構頻繁に貸し出さなければならないそうだ。

「よっこらせっと」

「これは、ここですよね」

やはり二人いると結構スムーズに片付くものだ。見る見るうちにたまっていた百科事典は少なくなっていった。

「次はこれだよ」

恵梨奈は少しいたずらっぽい顔で奥から英和・和英辞典が百冊くらい乗った台車を運んできた。

「まだあんのかよ」

「多いですね」

「この台車があと四台」

「多すぎるって!」

充はげんなりした。和麻がいればすぐに済むはずなのに。

「こらこら。私はいつもこれを一人で片づけてるんだぞ」

「先生なら雑作もない事だろ」

「それはどういう意味だい?」

「気にするな。さ、片付けようぜ」

先生、お願いですから手をポキポキ言わせないでください。プロレスラーにしか見えないじゃないですか。

「私もまだまだ行けますよっ」

充には恵梨奈ほどの怪力は備わっていないが、だからと言ってひょろひょろというわけでもない。ただ面倒ではあるが、まだまだ平気だった。

しかしその冊数は凄まじく、片付けは昼休み終了まで続いた。




掃除時間。充はまた、あの女子トイレへと足を運んだ。和麻はいないので、充だけである。

周囲にはまだ誤解されたままなので、一度話をつけるべきなのだが、今日のところは痛い視線を無視して女子トイレをノックする。しかし痛い視線と言ってもごく少数になっていた。昨日の一部始終を見ていた人間は充が何をしに来たかを理解しているからだ。

「はい? ――あ、黒木さんっ」

「今日は大丈夫かい?」

「はい。掃除場所のメンバーを変えてもらいました」

なるほど。担任も手を打ったというところだろうか。それとも恵梨奈先生の差し金か。どっちにしろよい選択である。充はホッと胸をなでおろした。

「それはよかったね」

「はいっ。あ、そう言えば、天崎さんの欠席理由、分かりましたか?」

そう言われて充は、昼休み終了間際に夜美に、和麻の欠席理由を聞いておくことを約束したことを思い出した。

「あ、ごめん、まだ。HRの時に訊こうと思って。担任ってその時くらいしか来ないからさ」

「そうですよね。私も担任の先生は朝か帰りにしか見ませんし」

「今日のお弁当、和麻に食べさせたかったんだろ?」

唐突に話題を変える充。その質問に夜美はさっと顔を赤らめ、恥ずかしそうに答えた。

「…分かっちゃいましたか?」

「和麻の好きなおかずがいっぱい入ってたからな。昨日好みも聞いてたし」

「…エヘヘ。初めて作るものばかりで、全然味に自信がなかったんですけどね」

照れ隠しの微笑みで、夜美はそう言った。しかしそういう割に味は文句なしで、充も一口貰ったのだが、とても美味しかったのを覚えている。

「霧野さん、こっち手伝ってー」

「あ、はい、今行きます。それでは、放課後ですね」

「ああ。またあとで」

充にさよならを言うと、夜美はトイレの扉を閉めた。

「帰ったら和麻にも教えとくか」

とりあえずこれで少なくとも当分いじめられることは無いだろう。あの三人組が懲りずに仕掛けてきても、担任が状況を把握していれば、手を出しにくいはずだ。

掃除時間はあっという間に過ぎ去り、帰りのHRの時間がやってきた。担任が忌々しい課題プリントを引っ提げ、のっしのっしと我らが教室に向かって歩いてくる姿をクラスの人間が目撃すると、一斉にブーイングが巻きあがり、その後一瞬にして全体的にテンションが低下する。

そんな毎日が日常になっていたので、本日の担任の口から開口一番発せられた一言はクラス全体に衝撃を与えた。

「天崎が、交通事故にあったそうだ。昨日の帰宅途中らしい」

充だけでなく、クラスの人間全員が声をあげた。すぐに教室中がざわめきに包まれる。

充は担任の放った言葉が理解できなかった。いや、理解したくなかったという方が正しい。

「先生! ……それは、本当ですか」

「信じたくない気持ちは分かる。だがな黒木、現実からは、逃げてはいけない」

「今和麻は!」

「国立の病院に緊急搬送された。私も後で向かうが、もし黒木も時間があるなら、向かってやってくれ」

充は固く頷いた。

HRが終わるまで、クラスは落ちつかなかった。

「黒木くん」

充が急いで教室を出ようとしたところを、円は呼びとめた。

「私も一緒に行くわ」

「ああ、ありがとう」

「昨日の帰り際ってことは、私たちと別れたあとよね?」

「ああ。夜美ちゃんも知らないから、更に二人で別れた後ということになるな」

あの分かれ道から和麻の自宅までの数百メートルの間、悲劇は起こったのだ。

「とりあえず、夜美ちゃんのところに行こう」

「ええ」

充と円の二人は二階から三階へと続く廊下を駆け上る。三階にはアドバンスクラス、つまり2―A1から2―A3のクラスが設けられている。2―Dクラスからはそう遠くない距離なので、階段を上がってすぐ、夜美を見つけた。

「夜美ちゃん!」

「あ、黒木さんと吉野さん。いまそちらに行こうと思っていたところでした」

何も知らない夜美は笑顔で二人に手を振り、近づいてきた。しかし、言わないわけにはいかないだろう。充は意を決して二人を階段下まで連れて行く。

「いいか、夜美ちゃん、落ちついて聞いてくれ」

「? はい、なんですか?」

一呼吸置くと、充は静かに言い放った。

「和麻が、事故に遭ったらしい」

「――えっ…? あ、天崎さんがですか?」

「ああ。昨日、夜美ちゃんが別れた後、帰る途中で」

夜美の顔がみるみる哀しみの色に染まっていく。充も、そうなるとは思っていたが、やはり言いづらい現実というものは痛ましい傷を心に残すのだ。

「そんな、……天崎さんが、……事故なんて」

「ああ、泣かないでくれ。今国立病院の方にいるらしいから、今から三人で行こう」

「…助かるんですか? ぐすっ」

「助かると思うしかないさ。信じるんだ、和麻を」

「そうよ。マイナス思考はやっちゃだめ。行きましょう。結構遠いから、時間がないわ」

三人は決断すると、校舎を飛び出した。夜美は自転車通学ではないので、充が後ろに乗せて行くことになった。

部活動生徒でにぎわうグラウンドを片手に見つめ、二台の自転車は暮れなずむ街を疾走する。向かい風がやけに重く感じられた。早く、急がなければ、という気持ちが体を急かす。

「黒木さん、重たいと思ったら、遠慮なく言ってくださいね?」

充の荒い息を気遣ってか、夜美は後ろに乗りながら充に声をかけた。

「へへっ、俺を誰だと思ってるのさ。クールビューティーで優しい黒木充様だぜ。女の子一人乗っけて走れないんじゃ、俺の名前が廃れてしまうぜ!」

「ほら、早く行くわよ!」

この時充は、めちゃくちゃなスピードを出して公共歩道を激走する2―Dクラス委員長に戦慄した。

陽が三分の二ほど沈んだとき、三人はついに国立病院へと辿り着いた。ここに和麻はいるはずである。国立というだけあって、とても大きな病棟がそびえたっている。さらに半年前に出来たばかりであるため、まだまだ真新しい外壁が汚れ一つなく綺麗にあしらわれていた。

「すいません、天崎和麻さんの病室はどこですか?」

受付では、委員長である吉野円が話をした。委員長に相応しい言葉遣いと雰囲気が出ている。

「えーと、天崎和麻様ですか。……少々お待ち下さい」

しかし受付の看護婦はすぐさま答えずに、奥のナースステーションへと入っていった。

「どうしたのかしら?」

「もしかして、ここじゃなかったんじゃないですか……。」

「いや、そんなはずはねえ」

仕方がないので、奥へと消えた看護婦を待つことにする。三人とも不安で胸がいっぱいだった。特に夜美は、今にも泣き出しそうな顔で佇んでいる。

数分の後、ようやく先ほどの看護婦が現れた。手には書類を持っていた。

「天崎様でしたら、現在集中治療室で緊急オペの実行中ですね」

「緊急…オペ…!」

想像していたよりはるかに危険な状態であることを、三人は悟った。

「そこのエレベーターで三階まで上って、右の突きあたりの第二集中治療室です」

「ありがとうございます」

素早く礼を言うと三人はすぐさまエレベーターに駆け寄った。

「早く来い!」

「階段が早いわ!」

すぐ横に階段があった。一秒の消費も惜しい三人は階段を使って集中治療室へ向かって駆けのぼる。

突きあたりまでダッシュした三人はもうヘトヘトだった。

「はあ、はあ。ここか」

「やっと、着きました…」

「あら? あなたたちも、もしかして和麻を見に来てくれたの?」

と、肩で息をする三人にかかる声があった。その三人の中で、声の人物を知る者は充を除いていなかった。

「和麻の、お母さんも来てたんですね」

そこにいたのは看護婦の服を身に纏った和麻の母親だった。簡易ソファに座ってじっと成り行きを見守っているのだ。

「ここは私の職場だからね…。まさか、和麻が来るなんて思わなかったけど」

やはり和麻の母親も目には涙をためている。きっと充たちが知るよりもずっと前から――それこそ昨日の時点からここで待っているのだろう。

「手術の様子は?」

冷静に充は現状を聞いた。母親は答えた。

「大がかりな手術はとりあえず終わっているらしいの。今は絶対安静」

短く言うと、また目を伏せる。

「そうですか…」

「それより、ありがとうね。和麻のために。充くん、この二人は?」

三人が来て少し元気が出たのか、ほんのちょっと微笑みながら和麻の母親は二人を紹介するように促した

「ああ。えーと、こっちは俺らのクラスの委員長で、吉野円です」

「吉野です。はじめまして」

「はじめまして。ありがとう」

「こっちは、霧野夜美ちゃんです」

次は夜美を示して控えめに紹介する。和麻と出会った経緯は本人に話してもらった方が都合がいいからだ。

「あの、霧野といいます。和麻さんには、いじめられているところを助けて頂いたんです。そのうえ私の友達になって頂いて――」

「あら。あの和麻が? いいことするじゃない、あの子も。でもいじめなんて、本当に許せないわね。大丈夫なの?」

「はい。和麻さんが、いつもそばにいてくれましたから」

過去形。その響きが現状のすべてを物語っている。そう、和麻はいま、ここにいないのだ。目の前の分厚い鉄の扉で隔てられた間仕切りの向こうで、眠っている。

絶対安静。

事態は極めて深刻だった。

「和麻は、どうなったんでしょう?」

充が和麻の母親に疑問を投げかける。

「どうなったっていうと?」

「事故に遭った状況とか、どういった経路で事故にあったのかということです。何か、分かりませんか?」

「私も詳しいことは分からないんだけれど、突然角からワゴン車が突っ込んできたらしいの。搬送されてきたときの和麻は……血だらけで、目も当てられなかったから、かなりの勢いでぶつかったようね…」

ぶつかったのはもちろん和麻ではなくワゴン車の方だろう。だが、何故それなら和麻は事故に遭ってしまったのか。

「普通、気づきませんか? 車が迫ってくるのって」

「そうね。状況にもよるけど、大抵の場合は聞き分けられるはずね。エンジンの音を」

「じゃあ、和麻はどうして、事故なんかに」

「きっと、何か悩んでいたんじゃないかしら。……あの子、悩みごとを考えていると、名前を呼んでもなかなか気づかないから。きっと周りから意識が無くなってしまうのよね。それなのに悩みを打ち明けようとしないのよ」

和麻の悩みごと。充には特に思い当たる節はなかった。やはり和麻は話していないのだろう。というか何かに思い悩んでいる和麻を、充は見たことがなかった。

会話はそこで途切れ、重い沈黙と静寂が訪れる。みんな感情が複雑に入り組んで、うまく表情を表すことができない。

そんな時だった。

「天崎さん、ですね」

鉄の扉が開いて、なかからマスクと手袋を装備した医師が出てきたのだ。全員の注目が集まる。

「和麻は、大丈夫なんですか?」

苦い顔をしながら、医師は母親の問いに答えた。

「正直、まだ分かりません。脳の出血は見られませんが、体内の出血は凄まじいものでした。さらに事故の時に体の骨が数か所折れたり、一部の臓器が傷ついていました。助かるのは五分五分ですね。彼の生命力にかけるしかありません」

「そんな……」

絶望の声をあげたのは母親ではなく、夜美だった。大粒の涙を目じりに浮かべ、必死で泣かないようにこらえている。今の夜美にとって、和麻は大切な存在である。それを失うときの気持ちは計り知れない。

「まだ助からないと決まったわけではありません。彼を信じて、待っていてください」

夜美をなだめるように医師は言った。

「夜美ちゃん、こんな時だからこそ、和麻を信じてやらなきゃダメだぜ?」

充も泣き出しそうな夜美に、出来るだけ優しく、穏便に言った。

「ぐすん……はい」

力なく夜美は頷いたが、和麻を信じることを決心した。

「ありがとうございました、先生」

和麻の母親は先生に礼を言うと、充たちの方へと向き直った。

「みんなもありがとうね。さ、後は私がここに残るから、早めに帰った方がいいわ」

まだ母親には仕事が残っている。もしそうでなくともここにいる決意はしていただろう。

だが充は首を縦には振らなかった。

「俺たちも、ここにいさせてください。……親友を置いては行けません」

「気持ちは分かるけど、もう外は暗いのよ。みんなの保護者さんも心配されるわ」

「充くん、お母さんの言う通りよ。明日だって学校なんだから」

「……」

円の言っていることが正論だということはもちろん分かっている。だけどそれでも充は納得できなかった。

「もし和麻に何かあったら真っ先に知らせるわ。約束する」

「…わかりました。無理を言ってすいません」

「いいえ。私だってそうするわよ。ここまで和麻も信頼されている証ね」

苦悩の末、充たちは帰ることを了承した。集中治療室の扉に背を向けて、充は歩きだす。二人の少女も、それに続いた。

「二人は、先に行っててくれ。母さんに帰りの電話を入れてから追いつく」

充はエレベーターを降りたところで、携帯電話をポケットから取り出しながら二人に向けてそう言った。

「分かったわ」

「あ、それじゃ私も、お母さんにメールします。それに、黒木さんの自転車がないと帰れませんから」

夜美も同じように携帯を取り出す。母親あてにメールを始めた。

少し円はいぶかしんだ。二人ともこのまま私を先に帰らせてここに残ろうという魂胆かしら?

「私も待っておくことにするわ」

円も電話を入れることにした。

「そうか。じゃ各自で連絡を入れるとするか」

「はい。送信完了ですっ」

考えすぎだったようだ。二人とも特に怪しい素振りを見せることなく連絡を済ませた。

眠っている和麻の身を案じながらも、三人はほとんど人のいなくなったロビーを抜け、病院を出た。辺りはすっかり暗くなり、宵闇の静寂が支配する世界へと変貌している。

「暗くなっちゃったね。まあ夜の七時なら仕方ないか」

「急いで帰るのがいいですが、私たちまで事故には遭わないようにしましょう」

「ああ。そうだな。暗いし、慎重に帰ろうぜ」

三人はまた二台の自転車に乗って夜の街へと繰り出した。街を彩るネオンサインが夜を優しく包んでいる。

「天崎さん、本当に大丈夫でしょうか?」

「分からない。けど、和麻のそばにいるために、メール入れたんだろ?」

後半を小さい声で囁きかけるように充は言った。夜美も小さくうなずいた。

「黒木さんも、残るんですよね?」

「ああ。今日は病院に泊ろうと思う。夜美ちゃんは後で、お母さんに迎えに来てもらってくれ」

「いいえ。私も泊ります」

「え?」

思いっきり間抜けな声を出してしまった。前を走っていた円が振り向く。

「どうしたの?」

「へ? いや、何でもないぜ」

平静を装って充は答えた。円もさほど気にしなかったのか、すぐに前を向いた。

「それじゃ私はこっちだから、じゃーね」

「ああ。また明日」

「今日はありがとうございました」

手を振って円は角を右へと曲がり、姿を消した。見えなくなったのを確認してから、充はUターンする。

「でも夜美ちゃんは流石に帰った方が……」

「大丈夫です。……私も、天崎さんのそばにいたいんです。お願いします」

必死の思いで夜美は充に頼む。しかし充も了承しようとはしない。

「明日も学校なんだよ?」

充は病院を離れる時に円がくれた忠告を使った。

「宿題は出ていませんし、副教科の教科書は学校にあります。問題ありません」

「……お母さんは、大丈夫だって言ってるの?」

「メールの返事は、こう返ってきました」

夜美はポケットから携帯をり出して充に見せた。

『そうなの。それじゃ迷惑にならないように、気をつけて見守るのよ?』

充は頭を下げるしかなかった。考えてみれば和麻は夜美の友達であるだけでなく、危機を救ってくれた恩人なのだ。そばにいたい気持ちは誰よりも強いのではないだろうか。

「分かった。それじゃ、一緒に行こう」

「はいっ」

充は全速力でペダルを回す。せっせと両足を交互に動かして自転車の速度を加速させる。しかしそれでも後ろには夜美が乗っているので、揺れないように、転ばないように進んでいく。いつも和麻とともにサイクリングしていた経験が役に立った。

「え? どうして、戻ってきたの?」

和麻の母親は驚いていた。少しうとうとしてきたので、コーヒーでも飲んで目を覚まそうと立ち上がったその時、向こうから駆けてくる二人の人影を見つけたのだ。

「やっぱり、和麻のそばで待っていたいんです」

「お願いしますっ」

頭を下げる二人に、和麻の母親は戸惑った。

「で、でも、帰らないと、お家のひとが」

充はその言葉を遮るように言った。

「連絡は貰いました。許可も出ています」

「今日は泊りがけで、ここに残りたいと思います」

夜美が続ける。泊りがけという言葉に母親は心配そうな顔を見せる。

「本当に、大丈夫なの?」

「はい。もう準備は出来ています」

「ここから、明日は登校しますから」

決心の固い目をしていた。母親はここまで和麻を想ってくれる二人に、この場に残ることを許したのだった。

「分かったわ。お願いね」

「ありがとうございますっ」

誰より、夜美が喜んでいた。充はこの時、すでに確信していた。

夜美は、和麻のことが大好きなのだ。それはもう、ずっとそばにいたいくらいに――。

「じゃあ私はひとまず仕事に戻るわ。時々見に来るから、ここにいてね」

「はい。分かりました」

二人は力強く頷いた。

それを見て安心したのか、にっこりほほ笑むと和麻の母親はナースステーションへと小走りで駆けて行った。

「天崎さんのお母さんって、綺麗な方ですね。お仕事ができる女性って感じです」

「ああ。俺もずいぶん昔から世話になってるよ。遊びに行った時はよく、美味しいワッフルを作ってもらったっけ」

「うわあ、美味しそうですね。私も食べてみたいですっ」

「和麻が元気になったら、いくらでも食べられるさ」

そのためにも、和麻の無事を祈らなくちゃならない。和麻のそばにいることが、自分の使命なのだと、充は感じた。

ぐぅぅうううう。

空腹というものは突然訪れるものである。そろそろ晩御飯の時間だった。

「お腹すきましたね」

「何か買いに行こう。確か病院の売店に弁当が置いてあったはずだ」

この病院は国立というだけあってとても巨大で、入院患者もとても多い。そのため泊りがけでお見舞いに来る人も多く、弁当の売店が設けられているのだ。

エレベーターで一階へ。二人の入ってきた中央の入り口とは反対の方向、即ち正面から入って突きあたりにその売店は存在していた。

選り取り見取りの弁当が並んでいる。

「夜美ちゃんは、何が食べたい?」

「あ、大丈夫ですよ。お金ありますから」

「まあそう言うなって。ここは俺に任せなよ」

今日一日だけでとてつもなく疲れたのだ。せめて少しでも夜美の役に立ちたいと充は考えた。

「で、でも」

夜美は戸惑っている。さっきから見つめているのはエビフライ弁当だ。そこそこの値段がする逸品である。

「よし、エビフライでいいかい?」

「あ、いえ、その、高いのでこっちに――」

「すいません、生姜焼き弁当と、エビフライ弁当ください」

夜美が断る前に充は注文した。しばらく考え込んだが、夜美は小さく「ありがとうございますっ」と呟いた。充は親指を突き出して二カッと笑った。

「美味しいですね」

「ああ。結構いけるな」

二人は集中治療室前の簡易ソファに戻ると、その弁当を食べ始めた。

「すいません、ここまでしてもらって」

「美味しいんだったら、それでいいさ」

「あの、おひとついかがですか? 多分、私一人じゃ食べきれないと思うので」

夜美はエビフライを一本差し出した。そっと充の生姜焼きの上に乗せる。ありがたく充は受け取った。

「ありがとう」

「大したお礼にはなりませんけど」

夜美はパクっと一口エビフライをかじる。タルタルソースは永遠のエビフライのパートナーである。とても美味しい。

――いつか天崎さんにも作ってあげよう。

鉄の扉を見つめながら夜美はそっと充に聞こえないように呟いた。

食事を終えると、また重苦しい空気が二人を包み込む。つかの間の休息時間は終わりを迎え、ただならない緊張感がやってきた。

「やっぱり、まだ目を覚まさないんでしょうか……?」

夜美は不安の色がこもった声で呟く。

「大丈夫。和麻はきっと戻ってくるよ。俺たちの友達だろ?」

「は、はい。そうですよね、きっと――戻って来てくれますよね」

「そう。だから、待ってるんだ」

そうは言いつつも和麻は危険な状態。生死の境界を彷徨っているのだ。帰ってくる保証などもちろんどこにもない。ただ、信じるしかないのである。充も本当は怯えている。和麻が帰らぬ人となってしまうことを。

二人がソファに座っていると、和麻の母親が戻ってきた。

「二人とも、ご飯は食べたかしら?」

「はい。売店の方で弁当を買いました」

母親の問いに充は答えた。この人が来てくれると、いくらか重い雰囲気が緩和される気がする。

「こっちに来てくれるかしら? 見せたいものがあるわ」

そう言うと和麻の母親は二人を病院の奥へと誘導する。

「見せたいものですか?」

「ええ。こっちよ」

ナースステーションの中へと入り、そのまま反対側へと通過する。

歩きながら夜美は和麻の母親に尋ねた。

「あの」

「ん? なに?」

「いえ、まだお名前を伺っていなかったので、よろしければ教えて頂けますか?」

母親はくすっと微笑んで、答えた。

「ああ、ごめんなさいね。私は天崎(あまさき)恵子(けいこ)っていうのよ。よろしくね」

「はい。よろしくお願いしますっ」

そんなやり取りをしているうちに、目的の場所へと辿り着いた。

関係者以外立ち入り禁止というプラスチックの立て札が扉の前に置かれている。しかし恵子は何の躊躇も無しに二人を中へと招き入れた。

部屋の中には少量の医療機器があり、目の前には長方形に縁取られた窓があった。

「あっ」

「あれは」

二人は同時に『恵子が見せたいもの』を発見し、息をのんだ。それは長方形の窓の向こうに横たわっていた。

静かに眠っている和麻が、そこにはいたのだ。

頭は包帯でぐるぐる巻き、肌からは生気が感じられない。そこに横たわる和麻の姿は、二人に衝撃を与えた。

「本当に、天崎さん……なんですか?」

誰にともなく夜美は呟いた。昨日まで普通に、何の障害もなく話していた和麻だとは、到底思えない。そこにいる和麻は誰か、遠い所に住む見ず知らずのひとのように思えた。思いたかった。あれを和麻だと認めたくなかった。

「やるべきことはやったはずよ。あとは和麻自身の生命力に賭けるだけ」

恵子は冷静な声でそう言った。必死に哀しみを押し殺しているように、充には思えた。

「命に別状は……」

「分からないわ。和麻が目を覚ましてくれるか、その命が消えてしまうかは、私たちには分からない」

「そんな……」

「神様だったら、知っているのかも知れないわね……」

恵子の声も徐々に震えてきた。確かに、自分の我が子の命が助かるかどうかわからないという事実を自分で噛みしめなくてはならないというのは、辛いに決まっている。

和麻の事故。

それは三人にとって絶望の象徴だったのだ。そしてその絶望の象徴は今、目の前で力なく横たわっている。

「神様って……」

「ええわかっているわ。そんなものにすがったって、何にもならないことくらい。でも……和麻は……」

「まだ死んだわけじゃない。そんなに哀しまなくてもいいじゃないですか……」

充は涙を流す気は無かった。和麻はまだ死んだわけではない。また和麻とともに登校したり、遊んだりする日が来ないわけじゃない。

たとえ目の前に信じたくないような、目をそむけたくなるような現実があっても、希望がある限り諦めてはいけない。

充は深呼吸をひとつすると、ガラス越しに見える和麻を覗き込んだ。

「おい和麻! 何シケた顔してんだ! さっさと目覚まして、学校来いよ!」

笑顔で和麻にそう問いかけていた。二人のように涙を浮かべることなく。

「夜美ちゃんだって、吉野だって。お前を待ってるんだぜ? このままずっと寝てたら叩き起こしてやるからな!」

もちろん、和麻は答えはしない。それでも構わず充は、自分の思いを存分に言葉に込めた。

それだけ言うと充は踵を返し、その部屋を出た。あっけにとらわれる二人には目もくれす、扉を閉めたのだった。

二人も部屋の外に出ると、壁にもたれかかっている充を確認した。

「黒木さん……」

夜美は他に言葉が出なかった。誰よりも大切な和麻に、充のように声をかけることができなかったからだ。

「俺はまだ、諦めてなんかないですよ。和麻を信じてますから」

「充くん……ええ、そうね。悲しんでばかりいても始まらないわね。私たちにできることをしましょう」

「ごめんなさいです。私、黒木さんみたいに、強くなれませんでした……」

夜美がそう弱弱しげにつぶやくと、充は笑った。

「俺は強くなんかないよ。……信じることしかできないしな」

「私は、天崎さんを信じることもできなかったんですよ?」

「いや。そんな事はないさ。信頼しているからこそ、その和麻がこうなっている時に哀しんでやれるんだよ。一番いけないのは、何もしないこと。哀しむことは必ずしも、イコール信頼していないことにはならないんじゃないかな」

「そう……ですか?」

「ああ」

充の言葉に夜美は微笑んだ。そう考えてくれる人がいると、とてもうれしい。

「分かりました。励ましの言葉、ありがとうございますっ」

「元気出して、笑顔で和麻のそばにいないとな!」

「はいっ!」

と、夜美は元気に答えて、ふと思い出した。

「あのー、そう言えば、泊りがけって言ってしまいましたけど、私たちはどこで寝泊まりすればいいんでしょう?」

「……あ」

充も困った顔をした。そこまで考えていなかったって顔だ。和麻の安否を確認することで精いっぱいだったので、仕方がないと言えば仕方がないことである。

廊下のソファで寝るしかないが、少し迷惑ではないだろうか。

夜美はそれでも構わないが、充は渋々という感じである。確かに、他があるならそれに越したことは無いのであるが。

どうしたものかと二人が思案していると、恵子は待ってましたというような顔をして言った。

「それなら心配はいらないわよ。ついてきて」

充と夜美は顔を見合わせた。どこか寝ることのできる場所があるのだろうか。それとももしかすると外で野宿なのか。夏が近いとはいえ、駐車場で寝るのは勘弁だ。

しかし恵子についていくと、そこはナースステーションだった。

「ここって……」

「ここのベッドを使っていいわ。院長に許可は頂いてあるから」

そこはナースステーションの一角、仮眠室だった。六つくらい並んだベッドの上に雪のように真っ白なシーツがかぶさっている。

「良いんですか?」

遠慮がちな夜美の問いにも笑顔で恵子は答える。

「ええ。今日はみんな仮眠を既にとってあるからね」

「ありがとうございます」

充も深く頭を下げてお礼を言った。

その日は少し明日の予習をして、寝ることにした。充はまたも渋々予習をやっていたが、やはり夜美のレクチャーは素晴らしいもので、瞬く間に終わってしまったのだった。

やがて消灯時間になり、二人は布団に入った。ナースステーションの一部を除いて、夜の静寂が訪れる。

「それでは、おやすみなさいです」

「ああ、また明日」

時折ナースコールが響くが、気にならない程度の音量なので安心して眠ることができた。

しかし夜美はなかなか眠れすにいた。

和麻の安否はまだ分からない。早く目覚めてほしい。そんな事を考えると眠れなくなってしまったのだ。

「黒木さん。……寝ちゃってますか?」

小さく呼びかけ、充の様子をうかがう。返事は期待していなかったが、充はこっちを向いた。

「生憎、起きてるよ」

携帯の指し示す時間を見ると、午前一時三十分。そろそろ寝なければ、明日は睡魔と格闘しなければならない。

「夜美ちゃんも、眠れないの?」

「エヘヘ。……つい、考えてしまうんです」

「俺も。……やっぱ眠れるもんじゃねーよな」

寝苦しいわけではない。変に胸騒ぎがするのだ。ナースコールを押したい気分だ。

「なんか、飲み物買いに行かないかい?」

「賛成です。私ものどが渇いてきました」

二人はナースステーションを出て、一階の自動販売機へと向かう。やはり大きな病院のため、夜でもエレベーターは動くようだ。

夜の病院は不気味なものである。誰もいなくなった受付のカウンターは真っ暗でひっそりとしている。

「先ほどは奢って頂いたので、今度は私の番ですねっ」

夜美は財布から小銭を取り出して数えながら言った。

「いいのかい? これくらい自分で――」

「もちろんです。恩は返さないと罰があたりますから」

弁当と自販機のジュースでは明らかに不釣り合いだが、これくらいは返さなければいけない。奢ってもらったら奢るのが友達ではないか。

夜美は充のコーラと自分のオレンジジュースを購入した。

「天崎さんには、まだ返せてないんです」

ナースステーションへと戻る途中、ぼそっと夜美は呟いた。

「え? 何を?」

「あの日――、天崎さんと初めて一緒に帰った日、私にオレンジジュースを買ってくれたんです。これと同じものですよ」

「その借りってわけか」

「はい」

和麻には助けられてばかりなのに、何もできない自分が夜美は悔しかった。だから、せめてそばにいたいと思ったのだ。

「私、天崎さんが元気になったら、何かプレゼントしようって思ってるんです。…それが何かは、まだ決めてませんけど……」

「だったら、毎日お弁当を作ってやったらいいんじゃないか?」

充も一口味わったあの味。一度食べたら忘れられない美味しさである。

「分かりました。がんばりますっ」

和麻が唯一喜んでくれたもの。それが夜美の弁当だ。またカキフライをいつか作って持って行こうと、夜美は頭のメモ帳に書き込んでおく。

胸のつっかえが取れた気がして、戻ると夜美はすぐに寝息を立て始めた。




では、充は何故眠れなかったか。答えは簡単である。

女の子が隣で寝ているというシチュエーションが新鮮すぎて、なかなか落ちつかなかったからだ。

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