Part 2 -Please Be My Friend-
翌日。また今日も昨日と変わらず空は青一色に染まっている。
まさしく春の朝にはうってつけの暖かさだろう。
和麻が起床したときにはすでに母親は家を後にしていた。『今日は帰れないからそのつもりでよろしく』という置手紙は食卓の上で無造作に置かれていた。
適当に焼いたパンをもぐもぐと口に運びながらテレビのリモコンに手をのばした。
「なにか面白いニュースは…っと」
せっかく余裕を持って起きたのだが、特に見る番組もない。早起きに三文の得は無かった。
「ゲ、牛乳の賞味期限切れてやがる…」
あまり発覚してほしくない事実まで明らかになってしまった。最悪だ。
「ふぁ~あ。眠い…」
もちろん今日も学校に行かなくてはならないが、和麻はいつもとは少し気分が違うのだった。
『また明日会えますよね?』
昨日会った少女の笑顔を思い出した。今日欠席したら彼女に合わせる顔がないだろう。まあ、休む理由なんて何もないのだが。
きっと冷めているであろう弁当を鞄に詰め込むと、意を決して和麻は学校へと登校するのだった。
今日は早めに出た所為か、充もまだいない。何もこんな時間に出る必要はなかったのだが、何となくそんな気がしたのだ。
そして、和麻は発見するのだった。
それは昨日夜美と別れた分かれ道に到達したときだ。
きょろきょろとあたりを見回す人影がいた。夜美だ。
近づいていくと、和麻に気づいた瞬間その顔がパッと輝いた。
「あ、天崎さん。おはようございますっ」
「朝っぱらから出会っちまったな」
昨日と同じ制服に身を包み、夜美は分かれ道の間に立っていた。
「まさか、待ってたのか?」
「はいっ。朝の七時くらいからずっと待ってました。もう着いてるのかもって思ったりしたんですけど、よかったです」
和麻は苦笑した。現在時刻は八時過ぎ。七時からということは一時間以上待っていることになる。
「おいおい。マジかよ」
「…迷惑、でしたか?」
少し不安な表情で夜美は聞いてきた。慌てて和麻は空気を元に戻す。
「ああいや、そんなことはないぜ。さ、早くしないと遅刻する」
「はいっ」
光り輝く朝の道路を進んでいく。夜美は自転車を使っていないので和麻も一度降りた。しかし、女の子と登校なんて、こんなシチュエーションは初めてだった。和麻は少し緊張気味に歩を進めた。
「眠たいですか?」
目をこする和麻を見て、様子を窺うように夜美は和麻の顔を覗きこんだ。
「まあいつものことだ。ふぁーあ」
欠伸を一つしながら答えた。今日も順調に眠い。
自転車を押しながら進んでいるので、風を切って進むことがない。したがってのろのろ歩くため余計に目も覚めないのだ。
手っとり早く学校へ行くために、思い切って和麻は提案した。
「後ろ、乗らないか?」
自転車の荷台に夜美を乗せて、突っ走ろうという寸法だ。
「大丈夫なんですか?」
「もちろん。…ちょっと恥ずかしいけどな。早く着くぜ」
「分かりました。それじゃ、えっと、失礼します」
少し控え目に荷台にちょこんと座った。同じくサドルにまたいだ和麻の肩に手を乗せる。
「よし、しっかり掴まってろよ」
ちょうど前方は坂道だったので勢いをつけて自転車を走らせる。頬をなでる風が心地よかった。長い夜美の髪をはためかせていた。
が、間もなく覚悟していた痛い視線が襲ってくる。登校中の生徒が次々と二人を凝視している。きっとカップルだと思われているだろう。殺気も混じっている気がしてならない。
しかし夜美は気にした様子もなく、涼しい春の風に身を任せていた。普通に気持ちよさそうにしている。周りの目に気づいていないだけなのか。
だが、そんな夜美を見ていると自然に和麻もそういう視線が気にならなくなっていった。マイペースとは時にすごい力を持っている。
「風が気持ちいいですね」
「ああ。そうだな」
坂道を下りきるとコンビニが見える。今日は特に寄る必要もないのでスルーした。
信号待ちをしていると後ろから奇妙な気配を感じた。
「クァーズマァーーーー!!」
せめてきちんと名前を呼んでほしい。『かずま』の『か』なんか『くぁ』になってるし。
超特急の黒木充が坂の向こうから迫って来ていた。ええい、その存在感、なんとかならないものか。
音速のような速度で坂を駆け下ると急ブレーキをかけてちょうど良く和麻たちの目の前で停止した。
「ぜぇー、ぜぇー。てめえ、何してやがる」
肩で息をしながら充は口を開いた。まだ春だというのに汗だくだ。
「見て分からんか。登校だ」
「なんで後ろに女の子が乗ってるんだよっ!!」
元気なやつはいいよな、と和麻は心の中で感嘆する。いくら疲れてもその精神力は無限大。素晴らしい。
「えっと、この方は…?」
しかし充のお陰で夜美は目を丸くしている。まあ初対面なら一般的な反応だが。
「こいつはまあ黒木充っていう面倒な人間だ」
「はいちょっと待った―」
すかさず充が口をはさむ。間違ったことを口走ったつもりはないのだが。
「俺ほどクールビューティーで優しい人間は他にいないぜ?」
「ほら見ろ。面倒だろ?」
「エヘヘ。面白い方ですね」
何故だ、おかしい。普通の女子ならこいつを『面白い』と形容したりはしない。『ウザい』辺りが一般的なはずだ。
「ほらみろ和麻。分かる子は分かるんだよ」
「貴様をクールビューティーと形容した瞬間にこの世界は破滅する。熱血サッカー馬鹿あたりが良いところだ」
「うるせえ。不健康引きこもりお昼寝野郎よりはマシだ」
ちっ、言わせておけば。きっと夜美がいなかったらこいつの顔をホットケーキ状に圧縮してやったものを。あと、不健康と引きこもりは撤回しやがれ。
「あ、あの、ケンカはよくないと思います……」
案の定夜美は場の空気におびえている。夜美はこういうのが苦手だということを和麻はすでに知っている。
「大丈夫。こう見えても親友だ。ケンカはしないぜ」
「で、和麻。俺にもこの子を紹介しろ」
「自己紹介くらい、出来るよな? 大丈夫、こんなんだけど良いやつだから」
和麻は夜美に優しく自己紹介を促した。変に優しい和麻の口調に充は疑問を抱いた。
「あ、はい。……えっと、はじめまして、霧野夜美といいます」
「俺は黒木充ってんだ。もうかれこれ和麻の親友を十年以上やってるな。よろしく」
「そうなんですか。よろしくお願いします」
「ところで和麻。なんで俺にはふざけた口調でしゃべるのに夜美ちゃんには優しいのさ?」
充は疑問を述べた。もしかしてコイツは女の子にはこうなるのか、という変な性格を発掘したかもしれないと思ったからだ。これはネタになる。
「その話は後で。ほら、予鈴が鳴ってるぞ」
和麻は再び走り出す。後ろに夜美を乗せて横断歩道を駆け抜けた。
「おい、コラ待てええええええええっ!」
後ろからまたも超高速のスピードで和麻を追いかける充。少し自転車をこぎすぎた。今日は下手をすると今日はサッカーが出来ないかも知れない。
校門の前に着くと、荷台から夜美をおろして歩くことにする。ついでに充も追いついた。
「辛いかも知れないけど、頑張れ」
「……はい。大丈夫です」
悪い言い方をすれば、今からみすみすいじめられに行くようなものだ。好き好んでそんな事をするやつはいない。辛いのは和麻もよく分かる。
「何かあったら俺に言えよな。昨日のあいつらがまた何かしてきたら、同じように追っ払ってやる」
「分かりました。ありがとうございますっ」
だが、そんな辛い現実にも負けないように、夜美は笑顔を作った。今笑えるのは、もちろん和麻がいるからだ。
「昨日のあいつらってなんだ?」
隣、というより後ろから充が聞いてきた。二人のやり取りを見て不思議に思ったのだ。
「その話は後で」
「いいじゃんかよー、教えてくれたって」
「ちゃんと話すから、今は黙ってろ」
その言葉に、充は素直に黙った。その和麻の口調に強い感情が入っていたからだ。
小屋に自転車を止める。校舎に入ると、夜美は自分の教室へと歩いて行った。
「あの子、アドバンススリーかよ。すげー」
何も知らない充は夜美の走って行ったクラスをみて驚いていた。そうだな。天と地がひ
っくり返ってもお前にゃ到底たどり着けない頂だ。
「ああ。哀しい生徒だがな」
和麻のその呟きは充には聞こえなかった。
「a/sinA=b/sinB=c/sinC=2Rというのが正弦定理で――」
今日も同じく退屈な授業の時間が過ぎていく。充は眠りこけているし、相変わらず教師の講義は右から入って左から出ていく。至って平和な風景だが、和麻はそわそわしていた。
「あいつ、大丈夫かなあ」
今は授業時間。ということはとどのつまりアドバンススリーのクラスも同じく授業中ということになる。さすがに教師のいる目の前でいじめられたりはしないだろうから今は恐らく大丈夫だろうが、休憩時間などのフリータイムは気が気でないのだ。その中でも特に注意すべきは掃除の時間から帰りのHRにかけての時間だ。やつらが一番いじめに徹する時間であり、夜美が一番辛い時間だ。
ふと時計を見た。あと数分もすれば一限目の数学は終了する。
「コラ黒木、起きなさい」
不覚にも数学の時間に寝てしまった親友に追悼の意をささげつつ、数学担当瀬川の熱烈説教タイムにヒーヒーむせび泣く充を想像する。
「あ…えっと、すいません」
「放課後に数学準備室へ来るように」
「……はい」
数学準備室というのはいわゆるグラフ黒板や巨大コンパスなどの数学教材を保管しておく場所だ。そしてわが校に君臨する数学教師どもの根城でもある。説教は大抵ここで行われるのだ。うつ病の発祥地ともっぱらの噂だ。
そんな事を考えていると授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。まさに気だるい雰囲気を打開する希望の鐘の音だ。数学教師がすたすたと教室を後にすると、生徒たちはみなそれぞれのグループで集まりつかの間の休息をものにする。
「さて、この時間が来てしまった」
つまりそれはあの三人組のグループがつかの間の休息で夜美をいじめにかからないとも限らないということを示していた。今日もずぶ濡れにされてしまうのではないかと心がざわつく。
「あーあ。まためんどい説教だぜ」
和麻の机の前には疲れ切った表情の充が立っていた。一日に一回は説教を受けている気がするのは気のせいだろうか。
「授業はまがいなりにも意識を保って受けるべきだぜ」
「やかましい。あんなめんどくさい定理を吹きこまれて眠くならないやつがいるものか」
お前以外きっと平気だ、と和麻は声に出さずに言うのだが、馬鹿にはわかるまい。
「ところで和麻。さっき言ってた『あの三人組』ってのは何のことだ」
「ああ、その話をしなきゃな」
何故夜美がいじめられているのか。その理由は実のところ和麻にも分からない。だけどいじめられているという事実は誰にも曲げることは出来ない。明確な問題だ。
「実は霧野は、アドバンススリーでいじめにあってるんだ」
和麻は真剣に話を切り出したが、充は笑い飛ばした。
「冗談だろ。あんなかわいい子誰がいじめるってんだよ」
「この状況で冗談なんて言ってられっかよ!」
和麻は声を強くして言った。それで充も理解してくれた。
「そんな…本当に、本当なのか?」
「だからそうだって言ってるじゃねーか。何度も言わせんな。…俺だって、認めたかねーんだよ」
「そうか…。なんだってそんな」
充も哀しい表情をしてくれた。なんだ、案外心があるじゃねーか。ただの筋肉馬鹿ではなかったようだ。
「夜美の成績がアドバンスにしては著しく低いらしいんだ。だからアドバンスのお荷物だとか馬鹿にされてるらしい」
「ひでえ奴らだな。許せねえ」
「昨日俺がお前を待ってた時に、偶然いじめられてるところを見つけたんだ。そこでいじめてたのがその三人組ってわけさ」
「なるほど。そいつらぶっ潰そうぜ」
納得したように充は頷いた。どうやら充も協力してくれるようだ。
「ああ。追い返した時にある程度きつめに言っといたが、きっとやつらはまた仕掛けてくるだろう。そうなったときは、協力してくれ」
「ああ。任せろ」
「だから、霧野の前ではあんまりきつめの言葉を言わないようにしてくれ。そう言うの、あいつ苦手だから」
「分かった」
やる気満々のいい顔をしている。こういうときには頼りになるのが充だ。昔二人でひったくりの現行犯を捕まえたことだってある。
ふと和麻は廊下側からの視線を感じた。教室の外を見やると、そこには夜美がいた。和麻は慌てて外に出る。充はさっきの頼もしい顔とは裏腹に放課後の説教を思い出して机で絶望していた。本当にカッコ悪いやつだ。
「あ、天崎さん」
「どうした。ってよくここがわかったな」
何組か、まではまだ話していなかったはずだ。どうやって調べたのか。
「自転車のステッカーで分かりました」
「なるほど」
さすがアドバンスの人間だ。鋭い観察力を持っている。
「…やっぱり一人でクラスにいるのは心細いので、来ちゃいました。迷惑なのは分かっているんですけど…どうしても天崎さんの顔が見たくて」
申し訳なさそうにうつむき加減で話す夜美。だが迷惑などとは和麻は微塵も思っていない。むしろ様子を見たくてこちらから行こうかと思っていたくらいなのだから。
「大丈夫。俺も退屈してたし、霧野と話したかったぜ」
「ほんとですか? 嬉しいですっ」
にっこりとほほ笑む姿はとても幼い女の子のようだ。いや、俺は決してロリコンではないぞ。
「ところで、今朝は何かされなかったか?」
「はい。今のところは大丈夫です」
表情からも哀しそうなそぶりは見られない。嘘をついているわけでもなさそうだ。その様子を見て和麻はホッとした。
「そうか。やっぱり気をつけるとしたら掃除からHRにかけてか」
「はい…」
やはりその不安はぬぐえない。きっとあの三人は出てくるはずだ。
「またいじめられたら、助けてくれますか?」
「心配すんな。まずいじめさせねーぜ」
「わあ。ありがとうございますっ」
この笑顔を涙で歪ませはしない。絶対にさせるもんか。和麻は強くそう誓った。
そろそろ良い時間だ。次の授業が始まってしまう。
「っと、そろそろ休み時間も終わりだな」
「はい。…あの、また来ていいですか?」
教室に戻るのが嫌だとはっきり分かる表情だった。実際に夜美は出来ることなら、ずっと和麻と一緒にいたいのだ。
笑顔でその問いに和麻は答えた。
「いつでも来な」
「分かりましたっ」
太陽のような笑顔を残すと、長くしなやかに伸びた髪を翻して夜美は去って行った。
時は昼休み。和麻にとっては恒例のお昼寝タイムだ。が、しかし今日はそういうわけにもいかなかった。
夜美は休み時間になるたびに和麻のもとを訪れ、楽しい時間を過ごしていた。きっと笑っていられるのはこの授業と授業の合間であるたった十分の休憩時間しかないと夜美は思っているのだった。もちろん和麻もそんな夜美を快く受け入れた。
「あのっ、お昼、一緒に食べませんか…?」
三限目の休み時間、夜美は思い切ってそんな提案をしたのだった。
「OK。それじゃ学食で待ち合わせにするか?」
「はいっ。それじゃあ、待ってますねっ」
和麻は迷わず承認した。夜美のそばにいればいじめてくることもないだろう。
因みに充はどうせ早めに切り上げてサッカーに行くので誘わなかった。死んでもサッカー馬鹿は治らない。
そんなこんなで迎えた昼休み。実は和麻はまだ学校の食堂に行ったことがなかった。テキパキと教室でお昼を済ませて昼寝をするからだ。
「あれ、和麻学食行くのか? 珍しいな」
そんな事を何回か言われてしまうくらい和麻は学食になじみがなかった。
そして和麻はふと気付いた。
「…学食、どこだっけ?」
一体どこに向かっているのだろう。もう一度言っておくが、この学校はかなり広い。普通に歩くと迷ってしまう夢幻の迷宮…とまではいかないが、構造をよく知らないと校舎を出ることすらままならない。
「困った…」
夜美のことだ。早く行かないと泣き出してしまう可能性も否定できない。せっかくできた友達なのに、それを裏切ってしまうことになる。
「学校の道案内はどこだ?」
幸いいたるところにマップが取り付けられている。昔授業参観に来た父兄が、トイレの場所が分からずに困ったという事件があったため、それ以来マップを表示して迷いにくくするという配慮がなされた。
職員室の場所くらいは知っているので、和麻はそこへ赴いた。もちろん職員室の前にマップがあることも知っている。
行ってみると案外自分のクラスからそう離れていないことが分かった。
「悪い、遅れた」
「いえ、私も今来たところです」
なんとか学食にたどり着いた和麻は、食券販売機の横に小ぢんまりと立っている夜美を見つけた。手にはお弁当の包みを握っていた。
「しっかし、人が多いな」
「席をとっておきました。こっちですよ」
「お、準備が良いな」
意外にこういうことは出来るみたいだ。しっかりしたところもあるのかもしれない。
テーブルの席に二人並んで座る。やっぱりこういうのはちょっと恥ずかしい。
「黒木さんはいらっしゃらないんですか?」
三人分の予約を取っていたので、夜美が聞いてきた。
「あいつはさっさと食って昼休みはサッカーに身を投じているから来れないんだよ」
「そうですか。じゃあ二人で食べましょう」
ふと思う。女の子と一緒に二人きりでお弁当タイム。これは実はすごくはずかしいことなんじゃないか? そして、夜美は恥ずかしく思っていないのだろうか。羞恥心がないのは女の子としていかがなものか。
「そ、そうだな」
「誰かと一緒にお昼を食べるなんて、初めてです」
大そう嬉しそうな表情で夜美は弁当の包みを解いていく。和麻も自分の弁当を開けることにした。
「俺も、女の子と食べるのは初めてかな。微妙に恥ずかしくて、一緒に食べたことなかった」
本当は微妙なんてものではなく猛烈に恥ずかしかったからなのだが、そんなことはもちろん口に出さない。
「天崎さんは、お弁当はいつもご自分で?」
「いや、いつも母さんが作ってくれてるよ。俺そういうのって苦手だから」
自慢じゃないがカップ麺ならきっちり作り上げることができる。それだけだ。
「そうなんですか」
「霧野のお弁当は誰がつくるんだ?」
見たところとても豪勢なおかずたちが狭い箱の中でひしめいている。鼻をくすぐる匂いだけで美味いということははっきりとわかる。
「自分で作ってます」
「……これを?」
「はいっ」
夜美はニコッと笑った。
和麻はど肝を抜かれた。どう考えてもこれは女子高校生が作れるようなものではないからだ。大抵良い飲食店は食材が命だ。だが夜美のお弁当箱の中身は和麻がよく通っているスーパーで買えてしまうお手頃な値段の食材ばかりだった。つまり何が言いたいかというと、そんなありふれた食材たちをこれほどまでに豪華なおかずへと変えてしまう力を、技術を、夜美が持っているということだ。
「とてもじゃないが、信じられないぜ…」
「そんなに、下手でしょうか…?」
なぜ夜美は物事をマイナス方面へと考えてしまうのだろうか。やっぱりいじめられっ子は自虐が自然に多くなるものなのか。
「逆だよ。どこぞのシェフが作ったのかと思ったんだ」
和麻の言葉がほめ言葉だと理解したのか、そう和麻が言うと夜美はちょっと顔を赤くして照れていた。
「そ、そんなに上手じゃないですよ。エヘヘ」
「いやいや、謙遜することなんかないぜ。全部美味しそうだ」
正直母さんほどの料理上手はなかなかいないと思っていたが、これを見せられるともうだめだ。
「…それじゃ、食べてみますか?」
そういうと夜美はきょとんとしている和麻の目の前に自分の弁当を差し出した。
「これを、俺が、食べても、良いの?」
「お弁当の中身を交換して食べたりするの、やってみたかったんです。…駄目でしょうか?」
つまり夜美は俺と弁当の中身を交換したいと言っているのだろうか。
……もちろん乗らない道理はないっ!
「よし、じゃ俺はこの竜田揚げを頂こう。さあ、選べ」
「えっと、じゃあ私はこの卵焼きにしますっ」
トレード成立……でいいのだろうか。
「そんなものでいいのか?」
向こうは竜田揚げ。こっちは卵焼き。明らかに不平等な交換ではないか。渡す方として恥ずかしい。
「はい。私、焦げてない卵焼き作れたことないんです」
「まあ、霧野がそう言うならいいけど。じゃトレード成立だな?」
「はいっ」
さっそく和麻はトレードによって手に入れた夜美特製の竜田揚げを食す。結構大きいサイズだ。一口で食べるには無理がある。
「…どうでしょう?」
「…美味い。これ本当に美味いぞ」
この瞬間我が弁当のおかずは霧野夜美という女生徒の黄金の弁当によって打ち砕かれた。
「よかったですっ」
にっこりとほほ笑む夜美。まるで最初からこれを食べさせたかったかのような表情だ。
「口の中に広がるジューシーな肉汁、そして絶妙に絡むこのタレが格別だぜ」
まさか夜美がこんなにも料理上手だとは思わなかった。にわかには信じがたい光景だ。
今度は夜美が和麻の卵焼きを食べていた。パクっと一口かじるともぐもぐと口の中でじっくり食す。
「こんなにおいしい卵焼き、見たことないです」
「そうか? あんまり変わらないと思うけど」
まあ、さすが母親の料理ではあるのだが。
「焦げていない卵焼きは格段に美味しくなるんですよ」
感心しながら夜美はもぐもぐと卵焼きを味わっている。なるほど、料理上手の夜美が言うのなら間違いないだろう。
「他にも、なんか食べていいか?」
「どうぞ、お好きなおかずを取ってください」
男とこういうことをする女子はあまり見たことがないのだが、そんなことはお構いなしに夜美はおかずの交換を楽しんでいた。もちろん和麻も楽しんでいるのだが。今日の昼食はいつもより楽しいものになった。
「じゃあこの、…コロッケなのかな?」
「それはカキフライです。…初めて挑戦したので、味には自信がないです」
聞いたか諸君。最近の女子高生はカキフライを弁当に詰めるそうだぞ。
「牡蠣、食えるのか?」
「お母さんの親戚の人から頂いたので、フライにしてみました。食べたことないです」
「よく食おうと思ったな」
「食べず嫌いは、よくないですから」
和麻は牡蠣は割と好きな方なので頂くことにした。
「じゃあ、私の番ですね。……うーんと、ハンバーグを一かけら食べたいです」
母さん特製の和風みぞれハンバーグに食いついてきた。さすがだ。
「今度はカキフライに見合うブツということか。いいだろう」
カキフライを夜美の弁当から頂戴する。夜美は丁寧に裏箸を使って三分の一ほどハンバーグを切り取ると、そっと自分の弁当箱に移した。裏箸についたタレを舐める仕草がかわいい。
「何という美味さだ」
和麻はまたもカキフライの味わい深いその味に感嘆していた。これは本当に初めて作ったものなのか。
「美味しいですか?」
「食べてみろよ」
夜美は意を決してカキフライをかじる。だが、やはり女の子には複雑な味だったのか、あまり美味しそうな顔ではなかった。
「…私にはちょっと早すぎる味です…」
「まあ、仕方ないよな」
牡蠣は好きな人間と嫌いな人間の差が激しい食材だ。好きな人間は一度食べるとやみつきになってしまうが、嫌いな人間はいつになっても食べられないものなのだ。
「でも、ハンバーグは美味しいですっ」
先ほど和麻の弁当から取ったみぞれソースのハンバーグは夜美の心を捉えたようだ。やはりハンバーグは美味い。揺るがない世界共通の常識である。
「母さんの得意料理だからな」
「いつかレシピを教えて頂きたいです」
きっとハンバーグは基本的に他と変わらないだろう。あまりそういう世界に入ったことがないのでよく分からないのだが。
こうして、楽しい昼食タイムは過ぎていった。残ったカキフライは和麻が喜んでたいらげた。
「ふー。美味かったぜ」
「楽しいお昼になってよかったです」
二人が席で満腹感を味わっていると、充が現れた。
「…おばちゃん、水ちょうだい」
相当疲れているようだ。きっとはしゃぎまわりすぎたに違いない。何度も言うが充はサッカー馬鹿である。
「あれ、黒木さんですよね?」
夜美はその存在感に気づいたらしく、声をあげた。と、同時に和麻と充の目があってしまった。
「あ、和麻。お前なんでここにいるんだよ。昼寝じゃねーのか?」
「今日はちょっとここで食べたかったのさ」
不審な顔をしたが、夜美に気づいた充はニヤリと顔を歪めると、こちらに近づいてきた。
「ほーう。お主なかなかやるではないか」
「なんだよ」
「俺を差し置いてリア充してんじゃねーっ」
笑ったかと思うといきなり叫んで泣き出す。感情がぐちゃぐちゃだ。
「とにかく、落ちつこうぜ。なあ」
「いつから彼女なんて作りやがったんだチクショウ」
「へっ? か、かかか彼女って、私がですかああ!?」
「いや、彼女ではねーし」
夜美は顔が真っ赤で、充は疲れているのか真っ青だ。人間とは見事に感情豊かな生物だ。
「か、彼女…わ、私が……彼…女」
「こらこら、落ちつけよ」
何か勘違いしているようだ。きっとこれは感情的な意識の表れではなく、勘違いだろう。
「は、はい。えーっと、ふうー」
「冗談だよ。事情は聞いた。俺も協力するぜ」
「協力、ですか?」
「その三人が出てきたら、一緒に追っ払ってやるよ」
にっこり笑いながら、充は右手の親指を突き出した。
「ほんとですかっ? 嬉しいです」
「だからさ、俺も、夜美ちゃんの友達になってもいいかな?」
「ぜひ、お友達になってほしいです」
二人目の友達に、夜美は歓喜の表情を浮かべている。微笑ましい光景だった。
「さあ、三人いれば何とやらだぜ」
「そこを略すな」
きっと出てこなかったのだろう。やはりこいつは馬鹿なのだった。
「さあ、白状しろ和麻。…なんで俺を昼飯に呼ばなかったんだ!」
そんな事を根に持つとはどこまでも心が小さい男だ。忘れてしまえばいいものを。数学の公式は三分で忘れるくせに、こいつは三年前に貸した小銭の金額を正確に覚えているのだ。
「さっさと食ってグランドに走って言ったやつに『もう一度よく考えろ、お前が悪いんじゃないのか』って質問をして答えを聞いてから考えやがれ」
「……すまん」
「いいんだ。おかげで楽しい飯になった」
「夜美ちゃん、どんなお昼だった?」
和麻に聞いても無駄だと踏んだのか、充は夜美に今回の昼休みの全貌を問うた。
「えっと、おしゃべりしたり、お弁当のおかずを交換したりしました」
「地獄に堕ちろぉーっ、和麻ぁああああ」
「ええいやかましい!ここは食堂だ。てめえは動物園の檻にでも入ってろ!」
下手すると動物園の猿よりうるさいやつなのだ。こいつは。
「うるさい!てめえこそワニの水槽で泳いでろ!」
嫉妬というものは時に人の心を激しく豹変させるということを、和麻は嫌というほど知った。
だが、そんな三人を遠くから睨みつけている三つの視線には、気づかなかったのだった。
三人は食堂を出ると、校庭に出た。グラウンドではたくさんの生徒が走り回っている。先ほど充が共に闘っていたであろうサッカーの集まりもたむろっている。
「今日もいい天気だなあ」
充は背伸びをすると、一つ欠伸をした。
「そういやなんで戻ってきたんだよ」
和麻は学食に現れた理由を充に問うた。
「ちょっとのどが渇いたから水飲みに行ったんだよ。そしたらお前らを見つけたから戻るのやめた」
「戻っていればいいものを」
「なんか言ったか」
「いやなにも」
そんな会話をしながら和麻は校庭を見つめた。夜美は校庭で走り回っている生徒をみて羨ましそうな顔をしている。
「私も…遊んでみたいな」
ふと夜美はそう呟いていた。小学校の時も、校庭に出て遊んだことなど無かった。遊びに誘ってくれるような人間はいなかったのだ。いつも一人で本を読むか、せいぜい頑張っても一人さみしくブランコをこぐくらいしかなかった。
和麻はその、消え入りそうなほど小さく呟いた夜美の言葉を聞き逃さなかった。
「じゃ、遊んでみるか?」
和麻の言葉に驚いた表情を見せる夜美。だが、一瞬のあと、その顔は輝いていた。
「良いんですか?」
「充。サッカーしに行こうぜ」
「お、珍しいな。いいぜ、行こうか」
和麻は夜美の手を引いて靴箱へと走り出す。少しバランスを崩しつつも夜美は走り出した。
「おまたせ。和麻連れてきたぜ」
充は先ほどともにサッカーをしていた同志に声をかけた。
「早く入れよ。ヤバいぜ、二人抜けてった」
充のチームのうちの二人は校内放送で呼び出されたらしく、その用事を済ませるために抜けたらしい。グッドタイミングだ。
「大丈夫。代えがいるから」
「代えって…なんで女子?」
「いいじゃん。たまにはこういうのも」
チームのメンバーは少しいぶかしんでいたが、すぐに了承した。
「そうだな。可愛い子ならオールオッケーだぜ」
理由が理由だが気にしない。
「あ、あの、よよよよろしくお願いしますっ」
緊張気味ではあるが、和麻と充がいれば大丈夫だろう。点数差は三対〇。そして昼休みの残り時間はあと二十分弱だ。十分逆転できる。
「よし。じゃあ霧野は俺のそばで待ってろ。サッカーはやったことあるか?」
「授業で少しならやったことありますけど…ダメダメです」
和麻は笑って答える。上手下手は関係ないのだ。
「そんなの関係ないさ。楽しく遊べば、それでいいんだよ。さあ、行くぜ」
三人が入ると試合が再開される。依然としてボールの支配率は敵チームが高い。
敵側にはチームワークのとれた三人組がいる。見事な連携でパスを回し、絶妙な位置からシュートを決めてくる。
そしてボールはその三人のうちの一人が所有していた。
目配せをしながら連携を散る。試合のときでも素晴らしい活躍をしている三人なので、とても厄介だった。
「和麻、そっちは任せたぜ」
「いつでもこい」
だが和麻と充も連携の面ではまさに阿吽の呼吸と呼ぶにふさわしいものだった。ひったくりを捕まえることができたのも、そのコンビネーションがあったからだ。
まずは充が攻撃を仕掛ける。サッカー馬鹿であるがゆえに鍛えられたその腕にはなかなか勝てる人間はいない。
斜め後ろから思いっきりボールに突っ込みそれを奪い取る。思いもよらぬ不意打ちに走っていた敵プレイヤーはバランスを崩す。
「ほらよ和麻」
「よしきた」
取りあげたボールを和麻へとパスする。
華麗にそれを受け取ると、ゴールに向かって走り出す。サッカー経験はそれほどないが、シュートくらいはいくらでも決めたことがあった。充によく付き合わされたこともある。
「させないぜ和麻ぁ!」
だが目の前から二人ほど和麻に突っ込んでくる敵メンバーを確認した。
「くっ」
一人目はなんとか避けられたものの、もう一人がボールを蹴り上げた。和麻の足に当たったそれは跳ね返ったかと思うとちょうど後ろにいた夜美の前に転がった。
「霧野、そいつをゴールに向かって思いっきりぶっ飛ばせぇ!」
「はわわわ、えっと」
夜美は慌てていた。無理もないだろう。いきなり目の前にボールが来るのだから。
「えいっ!」
目を瞑ったまま、夜美は言われた通り力いっぱいボールを蹴った。
放物線を描いてそのボールは飛んでいく。和麻には見守ることしかできなかった。
「オーライ」
だがその先にはゴールとともにキーパーの姿も確認された。余裕の表情で構えている。
キーパーがキャッチすると思われた瞬間だった。
「なっ」
ゴールの左端にボールが当たり、変則的な曲がり方をした。キーパーとの隙間をくぐり抜け、その後ろのネットに当たったのだった。
「入った…入ったぞ!」
歓声が上がった。まさか女子に入れられるとは思っていなかったらしく、キーパーは落胆していた。
「今のって、ゴールでいいんですよね?」
「ナイスシュートだぜ霧野」
角にあてて入れるとは、素晴らしい腕前だ。まぐれでも滅多にないことだ。
「夜美ちゃん、ほんとにあまり経験ないの? プロ並みのシュートだったぜ」
「そ、そんなことないですよ。いつものけものにされてたし、今のゴールが初めてですから」
照れた表情で夜美は笑っていた。敵味方問わずメンバーはみんな脱帽している。もちろん和麻だって例外ではない。
「よし。まずは一点。まだまだ行こうぜ!」
「おう!」
「がんばりますっ」
昼休み終了の予鈴が鳴るころには、一気に三人のチームが逆転していた。
「さっきのすごかったな」
「ああ」
教室で和麻と充は昼休みのスーパープレイについて語っていた。まさしくミラクルシュートと呼ぶにふさわしいものだった。
現在六限目、自習時間中。どうやら世界史の教師が出張でいないらしく、至福の時間を味わうことができた。
隣のクラスにはばれないように私語は控えめであるが、クラスの人間はのびのびとしている。幸いなことに教師は途中退席したため、代わりの監督教師が来ることもなかった。グループで駄弁ったり、読書を始めたりしている人間が大半だ。
そんな中、二人は仲良く菓子パンを食べながらゆっくりと寛いでいた。
「夜美ちゃんってホントは運動神経良いんじゃねーのか」
「どうだろうな」
運動神経がよかったらいじめられずに済むのではなかろうか。返り打ちにしたり……なんてこともあるかもしれない。
昼休みの夜美はとても元気がよかった。楽しくサッカーしていたし、なによりずっと笑顔でいてくれたことが和麻は嬉しかった。
「ここからが正念場だ…」
この六限目が終われば、恐れていた掃除時間がやってくる。和麻は教室担当だが、そんなことは関係ない。掃除時間になったらすぐさま昨日の女子トイレにダッシュするつもりでいた。
「そうか。そういえば掃除時間だったな」
「ああ。きっとまた何かされるはずだ。何もないことが一番いいんだが」
どうか何も起きませんように。そう願うしかない。
まだ授業が終わるまで二十分ほど残っていた。
充がふと気づいたように声をあげた。
「そう言えば、他のクラスの人間には、特にいじめられはしてないのか?」
「分からない。だが、その可能性は低いんじゃないか? 少なくとも今日のサッカーのメンバーには嫌われていないはずだ。あれほど楽しくゲームしてたんだからな」
夜美の登場に不快感を持った者はいなかった。それはつまりいじめられていることを知らないということだ。
「そうだよな。ってことはやっぱり直接嫌ってるのはアドスリーの人間ってことか」
「誰か力になってくれるやつがいれば…」
和麻たちから直接クラスの様子を観察することは出来ないので、アドバンススリークラス内の誰かがかばってくれれば、十分解決への力となる。ただし問題も起こる。
一人二人の人数でかばったとしたら、効果は望めない。なぜならばその人間を含めて新たにいじめが起こる可能性が高いからだ。すると結果、せっかく出来た夜美の友達は無残にも離れていき、最悪の場合更なる憎悪を生みだすことにもつながる。
やはりいじめに立ち向かうのにはいろんなハイリスクを伴うのだった。
「何話してるの? 和麻くん」
悩み事をしている和麻たちのもとに声をかけてくる人間がいた。
「え? …ああ吉野か」
我がクラスの学級委員長、吉野円だ。先ほどから真面目に自習していない生徒を注意し
て回っているようだ。
「何やってんの?」
「こっちのセリフよ」
ぽかんと聞き返した充の言葉に呆れた顔をしている。銀縁の眼鏡が異様な輝きを放っている気がした。怒ってるわけではないと思う。多分。
「そうだ。ちょっと相談に乗ってくれないか?」
「いいけど、授業が終わってからね」
「それじゃ間に合わないんだよ。少しでいい。知恵を貸してくれ」
和麻は真剣な表情で訴えた。顔色を読み取ったのか、なんとか円は相談にすぐ乗ってくれた。
「で、何なの、相談って」
「もし、決まった時間にある人物が事件に巻き込まれることを知っていたら、吉野ならどうする?」
「何それ、何の話? 予言でも聞いたの?」
半分聞き流している。さすがにこんな切り出しではこの対応で当然だろう。
「そうじゃない。…実は――」
和麻と充は順を追って今までの経緯を説明し始めた。すぐに話を聞いてくれたのは委員長のいいところだ。
「つまり、その子が今日またいじめられるかも知れないってこと?」
話がひと段落して、円は納得していた。
「ああ。だからそいつのために何かしてやれることはないか、委員長をやってる人間ならなにか的確な方法を教えてくれないかと思って、訊いてみたんだ」
「なるほどね、分かったわ。…へー、和麻くんもやるじゃない」
ちょっといたずらっぽい目をしている。銀縁の眼鏡が先ほどとは違う輝きをともしている。
「なんだよ…」
「別にー。何でもないよ。えーと、そうね。誰か先生を呼んで待機してもらうとか、どうかな」
はぐらかされて話を戻された。相変わらず何を考えているのか分からんやつだ。
「…なるほど。そう言う手があったか」
夜美は極めて控えめで遠慮がちな性格なので、なかなか人に自分の悩みを伝えることができないのだ。先生もきっと夜美がいじめられているという事実を知らないだろう。知っているのは恵梨奈先生だけだ。
「ってことは恵梨奈先生か」
授業終了まで残り五分。走れば保健室まで間に合うかどうか際どいところだ。
「どうするよ、和麻」
「行くっつってもな。掃除が始まるだろう。それに、いなかったら最悪だ」
すでに間に合わない可能性が高い。やはり自分たちで行くしかないようだ。
「やっぱりそうよね。その子のこと、後で先生たちにも言っておくね」
「頼むぜ」
間もなくして、本日最後の授業は終わりを迎えた。
廊下には箒をもつ生徒、雑巾をしぼる生徒、各々の掃除を実行する人間があふれている。なんてことのないいつもの掃除の雰囲気の中、二人の少年が廊下をダッシュしていた。
「どこだ、和麻」
「こっちだ! あの角を曲がって最初のトイレ!」
二人の少年――和麻と充は例の場所へと急いでいた。教室からはそう遠くないが、すでに掃除が始まっている。これは夜美に対するいじめが開始されたことを意味する。
角を曲がって確認。昨日の女子トイレが見える。女子トイレにダッシュする男子二人は見事に変態にしか見えないが、今は気にしている場合ではなかった。
「霧野! いるか、霧野!」
トイレの前で夜美の名前を叫ぶ。中からは反応が見られない。これは大丈夫なのだろうか。
再度名前を呼んでみると、扉が開いた。だが、現れたのは夜美ではなく昨日の三人組の一人だった。
「またあんた? いい加減にしてよ、ここ女子トイレって何回言ったら分かるわけ?」
「霧野はどうした。またいじめてるんじゃねーのか?」
「はあ。あの子なら今日はここにいないわよ。六限の途中で気分が悪くなったとか言って、保健室に行ったのよ」
「何? 嘘じゃねーだろうな」
「疑うっていうの?」
「ああ。疑う。お前を信用するつもりはねえ」
「嘘だと思うなら見てみなさいよ」
そう言うとその女子はトイレの扉を開いて二人にトイレの様子を見せた。確かにその三人しかいない。ジットリした目でこちらを見つめている。
「これで分かった? 早くどっ行きなさい」
「…そうかよ。悪かったな」
扉をバタンと閉められた。早とちりしすぎたようだ。だが和麻は何か引っかかるものを抱えた。違和感を感じたのだが、それが何なのか分からない。
「なあ和麻。夜美ちゃんのこと、見に行こうぜ」
「ああ、そうだな」
二人は保健室へと走る。先ほどのスピードよりはゆっくり目だが、具合が悪くなったと言われたら急がねばなるまい。
保健室へとたどり着くと、和麻は扉を開けた。
「恵梨奈先生、いるか?」
先生は花瓶の手入れをしていた。和麻たちに気づくと、こちらに歩み寄ってきた。
「どうした和麻、そんな急いだ顔して」
「霧野が具合悪いって聞いたんだけど、大丈夫か?」
すると恵梨奈先生はぽかんと口を開けた。
「何言ってんの、夜美はここに来ちゃいないよ? どうしたっての」
「なんだって!!」
二人同時に叫んでいた。まんまとしてやられた。やはり嘘だったのだ。
和麻と充は踵を返して保健室を飛び出す。変な子たち、と恵梨奈先生は呟いた。
「くそっ、もう間に合わねえぞ、和麻」
「分かってる!!」
ここからトイレまで約三分半。さっきはペースを落として走ったので五分ほどだったが相変わらず広い校舎が裏目に出た。
トイレが見えたころには、掃除残り時間は残り四分を切った頃だった。
トイレはすでにもぬけの殻で、適当に水を流して帰ったようだ。そして、そのトイレの中で、夜美が泣いていた。
「あ、あのさ、霧野」
和麻に気づいた夜美は目をごしごしこすって無理やり涙を拭いた。作り笑顔でこう言った。
「…いじめられちゃいました」
「守れなかったのは俺の所為だ。本当にすまない! 霧野」
和麻は必死の思いで謝った。もちろん充も頭を下げた。
だが、土下座する二人に夜美は言った。
「そんな、やめてください。…お二人は、何も悪くなんてありません。あの時、声を出せなかった私が問題なんです」
「あの時? さっきここにいたのか?」
「はい。そこの個室に閉じ込められて……声を出すとあの二人をひどい目に合わせるぞって言われて…」
和麻は違和感の正体に気づいた。そう。あの時個室はしまっていた。三人見えたのに、誰もいないはずのあの個室はしまっていたのだ。それに気づいた時、和麻はひどく自分を憎んだ。
びしょ濡れの夜美を見るたびに心が痛んだ。守れなかったという哀しみとやるせなさが込み上げてきた。
「安心してくれ夜美ちゃん。あの三人に何かされるほど、俺も和麻もやわじゃないよ」
充も優しく笑って見せた。
「分かりました。本当に、すいません」
「夜美ちゃんの謝ることなんかないぜ。俺たちが不注意だったんだ」
声が出せないことは仕方がない。恐怖心だってもちろんあったに決まっているし、口止めされたら打つ手がないのだ。もう少し注意していれば――。そんな思いだけが和麻たちを覆っていた。
「本当に、すまなかった、霧野。…いじめさせないって言ったのにな」
「そんなことないです。天崎さんには感謝しても足りないくらいなんです。謝るなんて、そんなことしないでください」
震えながらも、少女は笑った。作り笑いなどではなく、純粋なほほ笑みだった。
「次からは、絶対に守って見せるから、約束する」
「はい」
今度こそ、守って見せる。小さく和麻は呟いた。
「立てるか?」
「はい。大丈夫です」
「また水切りしないとな」
「恵梨奈先生、またお世話になって迷惑じゃないでしょうか?」
タオルで夜美の制服を拭いていく。今回は充がいたので早めに作業が完了した。
「大丈夫。恵梨奈先生はとことん面倒を見てくれる人だぜ。きっと今日も保健室で待ってるよ」
「今日は俺も一緒に――」
『2-D 黒木充、今すぐ数学準備室へ来なさい。繰り返す、黒木充、今すぐ数学準備室へ来なさい』
校舎にこだまするスピーカー経由の瀬川の声。
充が口を開いて瞬時に凍りついた。そういえば呼び出されてたっけ。
「和麻、一生の頼みだ。俺の身代わりになってくれ!」
「さあ、霧野、急ごうぜ。風邪を引いたら大変だ」
和麻は夜美の手を引いて走り始めた。ぽかんとした表情で夜美はついてくる。
持つべきものは友達? そんなご都合主義な考えは捨て去るべきだ。
「待てよ、薄情者!」
なにやら充は叫んでいるが聞かないことにした。夜美の服を乾燥させるのが先だ。友の自業自得につきあっている暇はない。
「やっぱり来たか。待ってたよ」
椅子に腰かけてコーヒーを飲んでいた恵梨奈先生はまるで二人が来るのを知っていたかのようだった。まあ予想は出来るだろう。頭のキレるひとだし。いろんな意味で。
「すみません」
控えめに夜美は謝った。しかし先生は笑ったままだ。
「気にしなくていいよ。悪いのは和麻だ」
バッサリだ。正論だから仕方ないのだが。
「そんなことありません。天崎さんは、私を一生懸命に助けてくれたんです」
うん、良い子だ。こんなときでも唯一夜美は和麻を弁護してくれるのだ。
「アハハ。そうだったね。それじゃ服を洗濯するよ」
慌てて和麻は廊下に出る。あれを食らうのは勘弁だ。本気で顔が変形しそうだ。一体どれだけの人間があの殺人級の鉄拳を前に沈んでいったことか。考えるだけで恐ろしい。
服を乾かしている間、和麻は三人組の手口を説明した。
「なるほど、それで一回ここに来たんだね」
和麻はまだやるせない気持ちが残っていた。あの三人組を信用したばっかりにまんまと手口にはまったのだ。
「本当に許せないね、そいつら。一度制裁を下す必要がある」
この人が言うとどうしてこんな怖い響きになるんだろうか。だが今だけはすごく頼もしい。
「本当にごめんな、霧野」
「大丈夫です。全然気にしてませんよ。……それに、慣れてますから」
ずぶ濡れになることに慣れてしまった少女。それはとても悲しい。
「こらこら落ち込むな和麻。そんなんじゃ守れるものも守れないよ?」
恵梨奈先生も和麻を励ましてくれた。少し元気が出た。
「ありがとよ」
呟くと和麻は微笑んだ。
「あの、天崎さん」
話題を変えるためか、表情を変えて夜美は話しかけた。
「ん? どうした?」
「あの、今日も、一緒に帰って頂けますか?」
昨日交わした約束を夜美は切り出した。本当に心配性な性格だな、と和麻は穏やかな気持ちになる。
「約束しただろ? これから一緒に帰ろうぜって。心配しなくても忘れねえよ」
「よかったです。嬉しいです」
ニコッと夜美は笑うとベッドの上から床に下ろした脚をばたつかせた。まるでさっきまでずぶ濡れで校舎を歩いていたことなど忘れているようだ。いや、実際忘れてしまいたいことなのだからその方がいいのだ。
「和麻モテモテじゃないか」
ちゃかすような口調で恵梨奈先生が言う。いたずらっぽい目をしている時のこの人に近づくとろくでもない目に遭わされるのは和麻が経験から得た知識である。そのうちの八割は力仕事が待っていたことも立証されている。
「そんなんじゃねえっての」
「照れなくていいんだよ色男」
「だから違うって」
「うんうんそうかそうか。それにしてはやけに嬉しそうだけどな」
「べ、別に俺は」
「あんたじゃなくて夜美が、だよ」
たとえ男の子でも、自分を慕ってくれる人がいるならそれで女の子は嬉しいものなのだ、というのが恵梨奈先生の思想だ。きっと彼氏ができない自分への言い訳だろう。
「あんた、なにかフザけたこと考えてないだろうね」
「まさか、ハッハッハ」
鋭い感性まで持ち合わせているとは、戦闘マシンに似つかわしい性能だ。時々人間なのかどうか疑わしい。
「そうだ、霧野」
「はい? なんですか天崎さん」
突然呼ばれたので不思議な顔でこっちを見ている。和麻は恵梨奈先生から逃げるように夜美の方へと移動した。
「あのさ、携帯電話の番号教えとこうって思ったんだけど、どうだ?」
「番号ですか?」
「ああ。またいじめられそうになったりしたら、すぐに駆けつけてやるから」
「交換、して頂けるんですか?」
「うん。どうだ?」
「もちろん嬉しいですっ。ちょっと待っててください」
そういうとバッグから携帯電話を取り出す。赤外線の準備をし始めた。が、どう操作したらいいのか分からないようだ。
「どうしたらいいんでしょう」
「赤外線にしたら、受信を選んで、しばらく待ってればいい」
「受信ですね。…これでいいですか?」
「オーケー。バッチリ。それじゃ行くぜ」
ピピッという電子音の後、和麻の番号が夜美の携帯電話の液晶画面に浮かび上がる。『登録』のボタンを押すと、夜美の二番目のメモリーとして登録された。
「やっぱり、他は母親だけなのか…」
「はい…。ほとんど電話したことなかったです…」
ほぼ新品同様のメモリーには殺風景なほど名前がなかった。『あ行』に二つ、『天崎さん』と『お母さん』の文字が並んでいるだけだった。
「それじゃ、霧野の番号も教えてくれ。今度は送信だ」
「えっと、送信っと…」
次は和麻の携帯に番号が登録される。女の子の番号なんて初めてだった。少しドキドキする。
こうして二人は電話番号とメールアドレスを交換したのだった。
「あー。今日は疲れたな」
自転車小屋。二人は帰宅の時間を迎えていた。もちろん充はまだ説教を受けているだろう。
「すみません。私のために時間を割いてもらって」
「いいんだよ。気にすんな」
残っているのは部活動に勤しんでいる生徒ぐらいだろう。辺りは静まり返っている。時折聞こえてくる吹奏楽の音色が放課後の独特の雰囲気を醸し出している。
和麻と夜美の二人は朝も通った道を歩き出す。雲行きが怪しくなっていたが、構わず帰路をたどった。
「雨降りそうですね」
「また濡れるのは嫌だよなあ」
「せっかく乾かしたので、出来れば濡れたくはないですけど…」
空は真っ黒な雲が一面覆っている。そう言えば朝一瞬テレビをつけた時、午後は降水確率八〇パーセントだったのを思い出した。
信号を渡りきったあたりでついに降り出した。
「うわ、降ってきやがった」
「急ぎましょう」
二人は傘を持っていない。それもそのはず、朝はこれでもかというくらい青い世界を空に展開していたのだから。
小雨の中を二人は駆け抜ける。今はまだそれほど降っていないが、じきに雨足は強くなるだろうと和麻は踏んだ。
しかし――。
「ひどい雨ですね」
早くも土砂降りである。とあるバス停で二人は雨宿りしていた。
「そうだな。止んでくれるといいけど」
こういうときの雨はなかなか止まないのが世の常だ。特に急ぐこともないので和麻はのんびりしているが。
「結局、濡れちゃったな」
「エヘヘ。でも、これはしょうがないですから」
せっかく乾かした服も髪も水が滴るほどに濡れてしまっている。和麻は苦笑した。
しかし突然の雨というのは厄介なものだ。傘を持ってくるんだったと後悔してももう遅い。
「あ、折りたたみ傘入ってました」
突然夜美が声をあげた。その手には水色の折りたたみ傘が握られている。
「どっから出したんだ?」
「鞄に入ってました。もしかしたらお母さんが入れてくれたのかも知れません」
「よかったじゃんか。俺の母さんは不親切だからそんな事してくれるはずないんだよな」
実際起床したときにはすでにいなかったのだから。
「でも、これで帰れますね」
「じゃあ、行くか。…まだ強いけど」
二人はバス停を離れる。雨は一向にやまないが、夜美が濡れないなら良いだろう。自分は濡れても乾かせばいい。
そんな事を考えていると、夜美が傘を差し出してきた。
「天崎さん濡れちゃいます」
「え? 俺も入るのか?」
「もちろんですよ。…それとも、嫌ですか?」
ちょっと待ってほしい。これは、その、俗に言う相合傘ではないか。しかも女の子って。いや男子ともやりたいもんじゃないけど。
「霧野は、恥ずかしくないのか? 相合傘」
「だって、仲良しのお友達同士なら楽しいじゃないですか」
にっこりと笑う夜美。和麻は辺りを見回してみる。誰もいないので、入ることにした。
「じゃ、じゃあ、頼むよ」
「もうちょっとこっちに来て下さい。雨ひどいですから」
自転車だけを外に出して二人は傘の中へと入る。折り畳み傘なので決して大きくは無いため、ある程度身を寄せ合う必要があるのだ。恥ずかしい。
やっぱり夜美も少し恥ずかしくなってきたらしく、若干頬を赤らめ始めた。二人の間に沈黙が訪れる。それをかき消すように雨は降り続いた。
「なんか、ちょっとドキドキしますね…エヘヘ」
「やっぱり恥ずかしいぜ…」
誰かに見られるのが恥ずかしいというより、二人でいることが恥ずかしくなってきた。きっと夜美も同じような心境なのだろう。
「ひとつ、お願いしてもいいですか?」
唐突に夜美は口を開いた。和麻が顔を上げると、さみしげな表情で和麻の顔を覗き込んでいた。
「なんだ、言ってみろよ」
昨日のようにジュースが飲みたいのだろうか。それともやっぱり傘から出てほしいのか。
そんな和麻の考えはすぐに虚空へと消えた。夜美は言った。
「私、この通り、何も出来なくて、暗くて、変な子です。でも、嫌いにはならないで欲しいです。天崎さんが、初めて出来た唯一友達と呼べる存在なんです。だから、だからどうか…」
必死にそれだけ絞り出すような言い方だった。やっぱり一番つらいのは夜美自身なのだと和麻は痛感した。
こう言うときの夜美の接し方もだんだんと分かってきた。かける言葉を選んで、和麻は言った。
「大丈夫。俺はずっと、霧野の味方さ。充だって一緒だ。心配することは無いぜ」
「本当……ですか?」
「こんな時に嘘言って、どうするんだよ?」
「私、怖いんです。いつか裏切られるんじゃないかって。いままでだって、いろんな裏切られ方をされてきたんです。だから、天崎さんだけは、そうならないで欲しくて」
うつむいて過去を思い出す夜美。胸をズキズキと突きまわす忌わしい過去なのだろう。いじめられた時の感情は、いじめられた人間にしか分からない。
「そんな悲しい顔すんなって。何があっても俺は霧野を裏切ったりしないぜ。だから元気出せよ」
「こんなこと言ってくれたの、天崎さんが初めてです。ありがとうございますっ」
雨にかき消されないほどに輝かしい笑顔で夜美は答えた。
「暗い顔したりするなよ?」
「はいっ。大丈夫です」
やっぱり笑っている時の夜美が一番輝いている。みじめな少女でいる夜美を和麻は見たくないのだ。笑顔の方が夜美らしいし、それに……可愛いし。
「あ、分かれ道ですね」
夜美が歩きながら声をあげた。みるといつもの分かれ道に二人はたどり着いていたのだった。
「それじゃ、ここでさよならだな」
「でっでも、それじゃ天崎さんが……」
ここで帰り道が分岐するということは、傘を持っていない和麻がずぶ濡れで帰るということに他ならない。
「大丈夫。濡れたら乾かせばいい」
「だめです。風邪引いちゃいます」
どうにも和麻を離そうとしない夜美。気持ちは分かるが、さすがにこれ以上お世話になるわけにはいかない。
「走ればすぐつくさ」
「……」
夜美はうつむいてしまった。少しでも長く会話していたかった。だが、和麻とはここで別れなければならない。
「じゃあ、風邪、引かないでくださいね。明日、私待ってますから。ここで」
「ああ。また明日な」
渋々夜美は一人になることを決めた。昨日以上にこの瞬間が寂しい。きっと一緒に過ごした時間が長かったからだろう。母親以外のひとと一日を過ごしたことのない夜美には、こんな感覚が新鮮だった。別れがつらい。それはどうしようもない感情なのだ。
降りしきる雨に打たれながら自転車を走らせる和麻を、夜美は見えなくなるまで見つめていた。




