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Part 1 -Misery Girl-

月曜日。あまり休息できる時間もないまま学校へと足を運ぶ日。正直だるい。

和麻は重い体を奮い起して布団から這い出た。もちろん眠たい。

「学校遅れるわよー」

母親の声が呼んでいる。着替えを済ませて下へ降りた。

「おはよ」

「おはよ、じゃないでしょ。早く顔を洗ってらっしゃいな。ご飯できてるわよ」

母親はすでに弁当を包んでくれていた。和麻は寝ぼけ眼でテーブルに着く。朝食は白ご飯に昨日の残り物の肉じゃが、そして定番お味噌汁だ。食パンの方が食べながら登校できるのでそっちがよかったのだが、まあこのメニューも悪くないだろう。

「もう、なるべく早く食べなさいよ。お母さん今日は早いんだから」

「ああ、そうだっけ。悪い」

和麻の母親はこう見えて看護婦なのだ。夜遅くまで勤めることもあれば、今日のように早めに行かなければならない日もある。病院に泊まり込みで勤務することも珍しくないのである。朝起きたらすでに一人なんてしょっちゅうだ。

父親は物心ついた時にはいなかった。和麻が二歳の時に離婚したそうだ。理由は性格の不一致らしいが、真偽のほどは定かではない。

「今日は遅番なのか?」

「それは大丈夫よ。遅番は明後日だから。それじゃいってきまーす」

みると母親はすでに用意を済ませていた。和麻もあまりゆっくりしている時間は無いようだ。食べる速度を速める。

「鍵は閉めておいてね」

「言われなくても分かってるよ。いってらー」

トントンと靴を床で叩いて履くと、母親は玄関の向こうへ消えた。


通学用の黒い鞄を手に持ち、もう一方の手で鍵をかける。家の合い鍵は母親の持っていったものとこの鍵の二つしかない。なくしたらアウトだ。今まで三回無くしたことがある。そのうち一回見つかったが、あとの二つは今も消息がつかめない。いまさら出てきても何の価値もない代物だが。

そんなことはさておき、おなじみの通学路を自転車で走る。案外時間には余裕があった。

近所のおばさんやコンビニの駐車場で掃除をしている店員さんなどなどに若干の愛想笑いを浮かべながら通いなれた道を進んだ。

と、後ろから声をかけてくる人物がいた。充である。

「よ、おは~」

「おはよ。今日も順調に眠いぜ」

顔を洗ってはみたものの、やっぱり眠気というものはしつこく付きまとうものだ。眠い目をこすりながら和麻は答えた。

「そういや今日から本格的な授業だっけか。先週は学力テストだったから適当に流して早めに部活に行けたんだが」

充は実は意外な事に部活動をしていた。小学生のころからずっとサッカーをしているのだ。試合や部活のない日曜日に俺たちはたびたび集まっているのだが、高校に入って忙しくなったのか、月に二、三度出かけるレベルになっていた。

「どうせ国語やら数学やらはテスト返却だろ。まだそんなに面倒じゃないと思うぜ?」

「それが嫌なんじゃねーか。…お前には分かるまい。俺が恐怖している瀬川の説教タイムが」

どうやらまたテストでしくじったようだ。相変わらず勉強嫌いなやつである。ちなみに瀬川というのはうちの学校で一番説教が長いといわれている数学教師だ。今のところの最高タイムは二時間三十六分四十三秒である。測ったやつは誰か知らないが、説教をしている教室の外で測っていたそいつも見つかって、三十分ほどこってり絞られたようだ。本当のアホである。

あまりに長い説教なので、食らったやつは高確率でうつ病になるともっぱらの噂である。もちろん真偽のほどは定かではない。和麻はまだお世話にはなっていないが、充はすでに常連客である。それでも鬱らないというのはある種耐性が付いているのではなかろうか。

「勉強しろよ」

「嫌だね。俺は自分の生きたいように生きるんだよ」

馬鹿は自分で馬鹿だと気づけないから馬鹿なのだろう。気づけないからどんどん馬鹿が進行する。典型的な悪循環だ。

そうこうしているうちに二人はコンビニにたどり着いた。充のお昼を調達するためだ。和麻は弁当があるので買う必要はないが、充の付き添いでコンビニに入った。

いつもならしばらく雑誌を立ち読みするのだが、流石に今日は時間がないためさっさとレジを抜けて登校に戻る。

「運がいいぜ。今日はスペシャルカツサンドだ」

喜ぶ充。和麻も、たしかに今日はいつもより品ぞろえがよかったと思っていた。

コンビニを出ると学校はもう目と鼻の先だ。信号の向こうに校門を確認する。

きれいに整えられた桜の木が並ぶ並木道。その先に校舎がある。校門をまたぐと同時に予鈴のチャイムが鳴り響いた。

小走りで並木道を進んでいく。そろそろ桜の花も散るころではなかったか。

校庭を彩る桜たちはまだ見事に咲き誇っている。きれいな桃色の花びらが校庭の雰囲気を明るく染めていた。二人は自転車小屋に駐輪すると鍵をかけて校舎に入った。

校舎に入ると、朝HRはまだ始まっていなかった。ラッキーだ。

「おはよー」

「おはよ」

適当にクラスの人間に挨拶する。友達が多いわけではないが、それなりに慕われているつもりだ。

少し遅れて担任教師が入ってきた。小脇に生徒名簿となにやらプリント類を抱え、いつもの老け顔で教室のドアをくぐってきた。たまには休めばいいものを、律儀な担任である。

「よーし、席に着けー」

チャイムとともにHRは始まる。SHR(ショートホームルーム)なので普通に席について話を聞き流すだけで

いい。

「出席とるぞ。天崎、――」

いつもどおりに返事を返す。なんとHRは出席確認で大体終わりである。

さて、退屈な一日になるかそうならないかは自分次第だが、この時の和麻はこの日から自分を取り巻く環境が変わっていくことなど、知る由もなかったのだ。




「えー、古文の形容詞には、ク活用とシク活用があり――」

授業というのは睡魔との闘いだ。勝つか負けるか。それはその人物の精神力の強さが左右する。

「コラ黒木、寝るな」

コツンと頭を叩かれて充が目を覚ます。あいつが数学の時間以外でまともに授業を受けるのは体育くらいだ。数学は寝ると昼休みがつぶれるくらい説教されるだろう。

「じゃあ黒木、一番の問題の活用形を答えなさい」

「ふぇ?…ああ、えっと、ヤ行上二段活用です」

「やっぱり一ページ前の問題を解いてたな?今は形容詞のク活用だぞ」

「え?あ、マジか。すいません」

クラス中が笑いに包まれる。こういう雰囲気は好きだが、授業は好きではない。

昼休みになるまで、和麻はほとんどの時間外を眺めていた。

澄み渡る蒼い空。流れていく白い雲。時の流れを忘れさせるかのような穏やかな日常の風景である。なんてことない景色だが、じっと見ていると普段見えないものも見えたりする。

学校へパンを販売しにくるパン屋のトラック。風にそよぐ桜の木。登校中の女の子。

「って…え?」

和麻は気づいた。こんな時間に登校する女子がいるものなのか。

今は三限目の古典国語の授業中のはずだ。いや、間違いなく授業中なのだ。

「病院でも行ってきたのかな」

生徒が用事で少し遅れて学校に来るというのはそう珍しいことではない。午前中に病院に通院したり、電車やバスが遅れたりと、その理由はさまざまである。そういう場合は教師に申請すると遅刻や欠席扱いにならず、その日を過ごすことができる。

だが、彼女は何かおかしいのだ。和麻はすぐに気づいた。

どこにも怪我や治療の跡が見られないので病院ではないだろう。精神面での病気の可能性もあるので否定は出来ないが何か別の理由である。

今日は晴天で、しかも渋滞情報なども聞いていない。したがってJRや各公共交通機関も滞りなく通常運行しているだろう。つまり交通の遅れという線は除外できる。

そして何より、その女の子一人での登校なのだ。車で送ってもらったならその車や親がいるはずだし、そうでなくても事情を話しに事務室くらいまでなら親はつきそうだろう。一人ということは、本当に自分一人で登校してきたのだ。理由が不明だ。

ひょっとしてただのサボりなのか、とも考えた。しかしそれならそのまま休んでしまった方が良いに決まってるし(教師視点では許されざる行為だが)、来るのならそれこそ普通の時間帯に登校すればいいだけだ。

「サボろうと思ったが、やっぱり考え直してこの時間帯に来たとか?」

そんなおめでたいやつはきっといないだろう。そもそも何故サボろうと思ったのか謎だ。

そんなことを考えているうちに授業は終わった。忌々しい『国語科 日々課題』というプリントを残して古典教師は教室を去って行った。


四限目の数学をまじめに受けたのは和麻の心からの善意があったからだ。決して説教回避のためにまじめに受けたのではない。きっと、多分。

「この時をどれだけ待ちわびたか。諸君、来るべき食事の時間だ!」

充が高らかに叫んでいる。諸君というのはクラスの人間のことだろうか。

「誰に向かって言ってんだよお前は」

「和麻。お前はこの至福の時間がどれだけ大切なものなのか知らないのかい?」

「どうせ飯食って寝るだけだろ。それのどこが至福なんだよ」

「お前と一緒にするな! 俺は飯を食った後校庭で決戦の火ぶたを切って落とさなければならないんだ!」

すると諸君というのはその決戦に参加する人間のことか。充はどこまでもサッカー好きである。

「勝手に切って落としといてくれ。んじゃ」

「待てよ和麻。お前もどうだ?」

「さ、食ったら図書室にでも行って寝るかな」

「…まあいいさ。いつものことだしな」

弁当の包みを解いてふたを開ける。美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。和麻の母親はめったに冷凍食品を使わない。ほとんど手作りなので温かみのある弁当だ。もちろん味も申し分ないレベルで、和麻はおかずを残したことは一度もなかった。

「今日は麻婆豆腐に野菜炒めか。頂きます」

先ほど見た女生徒の事は忘れて和麻は黙々と昼食をとった。

食べ終わるといつもの場所へと足を運ぶ。

校舎三階。図書室。和麻のお昼寝ポジションだ。

今現在図書室はメディアルームという名前に変更され新校舎の一階に設けられている。ここはそれができる以前に使われていた場所なので、今は当然廃れた部屋だ。

だがそれでも管理の先生はいる。和麻はドアを開けると中へ入った。

「お、来たね和麻」

「来たよ」

和麻はここを管理している人間に短く挨拶をする。ずいぶん前から通っているので結構砕けた会話になっていた。

ソファに寝転ぶと、和麻は天井を見上げた。古い蛍光灯はきれいに掃除され、埃一つかぶっていない。今はこの部屋は教材を置いたり歴史の授業などで使う資料を保管しておいたりする場所になっている。管理人がいるのはそのためだ。

「コーヒーあるか?」

「ポットに入ってるわよ。自分で注ぎな」

ため息をついて和麻は立ち上がる。カウンターの裏に置いているポットを傾けてカップに注いだ。

この管理人をしている女性は桜庭恵梨奈(さくらばえりな)先生。和麻がこの図書室を見つけた時にはすで

に管理をしていたひとだ。話しているうちにすっかり打ち解けてしまった。

「コーヒー飲んだらこの歴史書をEの棚に運んどいて」

「俺は昼寝に来たんだが」

「この部屋かしてんのはだーれ?」

「…ちっ。しょうがないな」

何かと和麻を手伝わせようとするのがこの人だ。この部屋がまだ図書室だった時は図書室の先生だったのだろうが、きっと図書委員にも力仕事を任せていたに違いない。

全部で数kgはあるであろう歴史書の束を持ち上げると、和麻は両手で抱えながら指定された棚に運ぶ。案外年季が入った歴史書なので慎重に運ぶ必要がある。

「つーかなんで寛いでんだよ」

みると恵梨奈先生はカウンターのいすに座りながら新聞を広げている。

「せっかく生徒が作ってくれた休み時間なのに、寛がなきゃ損じゃん?」

マイペースすぎる。和麻がサボったら本棚の埃をはたくあれを使って動きだすまで叩き続けるのだ。あれは痛い。

「あんた教師としてどうなんだよ」

「文句あるなら出て行きなさい」

きっとこの人に口げんかして勝てる日など永遠に訪れないだろう。和麻はしぶしぶ作業を続け、積み上げられた歴史書を並べるとようやくソファに寝転がった。

「最近問題になってるねえ」

唐突に先生は新聞を読みながら声をあげた。

「問題って、何が?」

天井を見たまま、和麻は答える。どうせ新聞の話題なのだろう。

「最近増えてるらしいね。いじめとか、恐喝とか」

よくニュースで取り上げられている話題だ。確かにここ数カ月の間で中学校・高校での生徒間でのいじめが増えているそうだ。

それに伴って耐えきれなくなった生徒の自殺が激増しているようだ。いじめをする人間の気などはわかってたまるものではないが、いじめられる側の心は何となくわかる気がした。和麻はとりたて過去にいじめられたことがあるわけでもないが、そういうことは許せない性格だった。

「いじめか。残念だが大人が動いてどうにかなるっていうことは無いだろうな。もともと大人のいないところで起こるものだし、いじめられてるヤツもなかなか自分で言い出すことができない。こればっかりは仕方のないことだぜ」

「あんたもどこかでいじめたりしてるんじゃないの?」

「そんな野郎どもと一緒にするなっての」

和麻は起き上がってコーヒーを飲み干すと、もう一杯のコーヒーを注ぐ。

「昼寝したいのか目覚めたいのかどっちかにしたら?」

「昼寝の一番いい長さは二、三十分と言われてるんだ。そしてコーヒーが効き始めるのも三十分後。つまりちょうどいいタイミングですっきりと起きられるって寸法さ」

和麻は三度ソファに寝そべると、目を閉じた。

恵梨奈は新聞をたたむと、奥の部屋に入り、その隅のソファに寝転がった。別に眠いわけじゃないが、何かをしようという気にもなれない。こういうときはボーっとするに限るものだ。きっと和麻がここで時々昼寝をするのもそういう考えだろう。

初めて和麻がこの部屋に来たのは一年生の夏だったか。突然扉が開いて現れたのが和麻だった。なぜヤツを入れてしまったのか分からないが、それなりにいい奴だったので置いておくことにしたのだ。ぶつくさ言いながらも仕事を手伝えと言えば最後まできっちりとやってくれるし、いつの間にかだいぶ話しやすい相手になった。何か不思議な力が和麻にあるわけでもないが、人を引き寄せるというか、すぐに仲良くなれるというか、クラスメイトの視点から見ればそういう人間なのだと恵梨奈は思っている。

ボーっとしているとあっという間に予鈴のチャイムが鳴った。和麻はちょうど良く目を覚ました。

「それじゃ」

「はいよ」

和麻は短くさよならを告げると資料室化した元図書室を後にした。

ちょうど良く充が校庭から戻ってきたところだった。

「よ」

「あ、和麻。お前何やってたんだよ」

走り回った所為だろう。汗が大量に額から噴き出ている。充のサッカー馬鹿は死んでも治らないだろう。

「もち。昼寝」

「何で来ないんだよ―」

「眠かったから」

欠伸をしながら和麻は答えた。ただし目はコーヒーの効果でしっかり覚醒している。

「少しは運動しないと体に毒だぜ?」

「お前は動き過ぎだ。それに俺は必要最低限運動はしているつもりだ」

実はそれなりに家から学校までの距離は遠い。案外早めに出ないとすぐ遅刻で瀬川の説教を食らう可能性がある。

毎朝長い距離を自転車で登校すれば十分な運動ではなかろうか。少なくとも和麻はそう思っている。

「早く教室行かないと遅れるぜ」

そう言い残して和麻は教室に向かおうとする。充も脱いだ靴を靴箱にしまうと和麻の後ろを歩く。

「登校だけだと、筋肉付かないぜ?」

「お前はとにかく筋肉の前に脳みそを鍛えろ」

「なっ、お前そういうこと言うのか」

「じゃあ今日の放課後の補習はどう説明する」

三限目の数学の時間、充は思いっきり欠点の領域を全力疾走したテストを受け取っていた。欠点者は放課後多目的室に集合するように、という瀬川の声を聞いた充の表情は誰よりも憂鬱な雰囲気が出ていた。

「ぐっ、それは…」

「今日は説教じゃないからマシじゃんか」

「クソ、お前は瀬川の怖さを知らないんだ、チクショウ」

「そりゃ、お世話になったことねーからな」

想像するだけで恐ろしい。あれを食らったら生きていける自信が無くなってしまう。

そんな話をしながら、二人は教室へ入り、昼休みを終えた。




帰りのホームの時間が終わると、ようやっと学校の時間が終了する。夕日に響くチャイムは部活動開始の合図だ。西日傾く校庭では運動部のランニングの声が校舎に反響してこだましている。

オレンジ色の廊下で、和麻は一人バッグを抱えて待ちぼうけしていた。すぐに終わるからちょっと待っててくれ、と充に頼まれたのだ。どうせ家に帰っても一人なので、補習が終わるまで充を待つことにした。

ロッカーに寄りかかりながら和麻は時間をもてあそんでいた。

「おっせーなあ。やっぱ瀬川の補習じゃしょうがないか」

補習など三十分で終わると踏んでいたが、甘かったようだ。さすが、うちの数学教師は一味も二味も違う。

「帰っちまおうか」

だがさすがに遅すぎるだろう。もうかれこれ一時間半が経過しようとしている。補習生徒はもちろん充だけではないのだが、どうやらきちんと理解するまでみっちり教え込んでいるようだった。

「気の毒なやつだよな」

補習に泣いているであろう親友の姿を哀れむ。だがこれも親友のたどった道なのだ。後悔はしていまい。

「のど渇いてきたな」

補習はいつ終わるのか誰にもわからない。きっと瀬川にも分からないだろう。少しここを離れても仕方のないことだろう。

和麻は校内の自動販売機を求めて歩きだした。

実はこの学校は案外広かったりする。小学校から高校まで、つまり高等部までエスカレーター式になっているのだ。校舎の数だけでも七棟あり、全体では生徒の人数が三千人いるというマンモス校なのだった。

それゆえに校内も彷徨うことができるくらいに広大だ。中等部や管理棟とはもちろん個別になっているとはいえ、はじめて入学した人間は迷子になるだろう。

和麻自身、慣れるまで相当時間がかかった。

オレンジ色の夕日が差し込む廊下を延々と歩く。和麻は重い鞄を下げながら自動販売機を目指していた。

「何が楽しくて一つにまとめたのか」

学校を分割してしまえばもっと快適になるのに、と和麻は一人愚痴をこぼした。聞いた話によると経費削減とか同じ土地だとやりやすいとか、諸説あるらしいが、本当のところわかったものじゃない。

そんなことを考えて歩いていた時のことだ。ふと耳を澄ますと、声が聞こえてきた。

「ほらほら、どうして逃げるのよ? 嫌がるのよ?」

「その汚い体をわざわざ洗ってあげようとしてるのよ? 感謝してほしいくらいなんだけど?」

「動くんじゃないわよ!そこに座ってなさいって言ったでしょ?」

なにやら三人組の女子の声が聞こえてきた。汚い体? 一体何のことだろうか?

しかし聞こえたのはそれだけではなかった。

「嫌、やめてください。…お願いだから」

今にも泣いてしまいそうな、いや、すでに泣き出してしまった女の子の声も聞こえてきたのだ。和麻は不審に思って、声のする方向へと歩を進めた。万が一和麻の考えた想像が外れているとも限らないからだ。

そして、その想像――誰かがいじめられているんじゃないかという想像は形になってしまったのだった。

放課後の女子トイレ。本来なら夕日が照らすだけで、静まり返ったその空間で一人の少女が泣いていた。恐らく同じクラスのものであろう、三人組の女子にいじめられながら。

「ほんとに見るだけで腹が立つわ!」

「なんであんたみたいなヤツがうちのクラスにいるわけ? 意味分かんないんだけど」

「きったない髪ね。洗ってあげるわ」

女子の一人はホースを蛇口につなぎ、あろうことかその少女に水をかけていた。おかげで制服はびしょびしょに濡れ、髪の毛からは水が滴り落ちている。

次の瞬間、別の女生徒が掃除用具入れからトイレの便器を磨くためのスポンジブラシを取り出し、なんとびしょぬれの少女の頭にこすりつけ始めた。

「やめて!ほんとにお願い!髪が汚れちゃう!」

必死に女生徒は抵抗する。しかしもう一人が手を振り払って床に少女を押し倒した。

「汚れる? はあ?何言ってんの? すでに汚れてるからきれいにしてあげてるのに、何様のつもりなわけ?」

ブラシを持った女生徒は更に、便器を磨いたその汚らしい黄ばんだスポンジの先を少女の髪に押し当て続ける。口許には笑みを浮かべ、思いっきり少女を嘲笑っている。

「ぐすっ…私が…なにをしたって言うんですか…」

「存在がむかつくのよ! そんなぼろ雑巾みたいな顔して、よく今まで生きてこれたわね」

「ねえ? なんで生きてんの? とっとと死になさいよ? あんたなんかが死んで悲しむ人間なんか一人もいやしないのよ? どうして無駄に生き続けるのかしら」

「そんな…。誰か、助けて…」

一連の会話を聞いて、和麻の心は決まっていた。男子が女子トイレに入るのはそりゃ生徒指導室行きだろうが、今は行かないやつを生徒指導室にぶち込んでやるべきだろう。あの腐った三人組と一緒に。

バン! と勢いよく扉を開け放ち、和麻はどなった。

「てめえら!いい加減にしやがれ!」

女生徒三人は茫然とした表情で和麻を見ている。構わず和麻は続けた。

「人が黙って聞いてりゃふざけたことしやがって! てめえらこの数分間のうちに何をやったか分かってんのか!」

すると女生徒達は口々に声を上げ始めた。

「ちょっとここ女子トイレよ。あんた変態? うわ~最低! この年になって覗きなんて、あんたこそ何やってんのか分かってんの」

「この子が汚れているからきれいにしてあげてただけじゃない。なんでキレちゃってんの?意味分かんない」

「しかもえらそ~に何言い出すかと思えば。さっさと帰らないと通報するわよ? 男子トイレは隣。わかった?」

この発言が更に和麻の怒りを燃やさせる引き金となった。

「おまえら…本当に人間のクズなのか。…いや、クズ以下だぜ!」

吐き捨てるように静かな口調で和麻は言った。

「クズ以下の人間に、この子を罵る権利はない。絶対に許さねえ! これならまだぼろ雑巾の方がましだぜ!」

「うっさいわね! あんたには関係ないでしょ!」

「そうよ! とっとと消えなさいよ!」

「あんたも水かけてほしいの?」

依然として引き下がる様子はないようだ。和麻はトイレの蛇口をひねると、水の出なくなったホースを女生徒の手からひったくった。同時にもう一人の持っていたスポンジブラシも頂戴する。

「ちょっと何すんのよ!」

「消えるのはお前らの方だぜ。この子に謝れよ」

少女は和麻の後ろでブルブルと震えている。濡れて寒いのと、恐怖が入り混じっているのだろう。

「はあ? なんで謝らなくちゃいけないわけ? あんた馬鹿じゃないの?」

とことん口の悪い三人組である。和麻は言葉を遮るように思いっきり拳でタイル張りの壁を叩いた。

「そんなことも分からねえのか? 謝る理由も分からないって言うのか!?」

和麻の大声が廊下にとどろいた。三人もさすがにビビったようだ。目を丸くして和麻を見ている。

「この子がお前らにどんな迷惑をかけたっていうんだ? この質問に対してお前は単に、むかつくからと答えたな。これは答えになっちゃいない。何故ならそれはお前の勝手な人間の感じ方だからだ。この子が何かをしたことによってお前らに不利益が生じたならそれは立派な迷惑だ。だが仕掛けたのはお前らの方なんじゃねえのか? 本当にこの子がこんな目に遭うほどお前らに何かしたのか? どうなんだ! 言ってみろよ」

三人は黙り込んだままだ。返す言葉がないのだろう。そのうち一人が口を開いた。

「はあ、やだやだ。なにムキになっちゃってんの? ちょっとかわいがってあげたくらいで。行きましょ。時間がもったいないわ」

「待てよ。確かお前だったな、とっとと死んでしまえなんてふざけたことぬかしたやつは」

その女生徒はまたも硬い表情した。

「本当にそんなこと思ってんのか?」

「お、思ってるわけ無いじゃない。冗談も通じないの?」

「その冗談で傷ついてる子がいるってのにずいぶんとしらじらしいんだな」

「悪かったわね! さ、行きましょ!」

一言心にも思っていないような謝罪を告げると三人は小走りでトイレを抜けていった。

あたりに沈黙が訪れる。和麻は口を開いた。

「大丈夫…そうには見えないよな」

少女はガタガタと震えていた。しかし三人がいなくなったことにより、心なしか少し落ち着いたようだった。涙も引いている。

「あ、あの、ありがとうございます…ぐすっ」

少女が口を開いた。とてもうるんだ目でこちらを見ている。

「気にすんなって。――ん? 君は」

その時和麻は気づいた。その少女を知っていたのだ。

日曜日のファーストフード店で、学生服の店を尋ねてきた女の子。完全に目の前にいる少女とその姿が重なった。

少女も和麻には気づいていたようだ。

「はい。度々ありがとうございます」

声を聞くまで分からなかった。全身はずぶ濡れだし、顔もよく見えなかったからだ。

「とにかく、早く服を乾かさないと。立てるか?」

「は、はい。大丈夫です」

スカートから何から水が滴り落ちている。目をそむけたくなるほどひどいいじめだった。

「ある程度ここで水を切って行こう。ちょっと待ってろ」

トイレの外に置いていた鞄からタオルを取り出す。気休めにしかならないが、無いよりはマシだろう。

「髪の毛を拭くくらいなら活躍できるだろう」

そう言って少女の髪の毛を拭こうとする。しかし少女は抵抗した。

「だめです。…髪の毛、汚いです」

スポンジブラシでこすられていたのを思い出す。しかしもちろん気にするつもりはない。

「そんくらいどうって事無いさ。洗えばいいんだし。ほら、風邪引いちまうぜ」

「でも――あっ」

まだ何かもごもごと言いだそうとしたので、さっさとタオルを当ててみる。少し申し訳なさそうな表情をしているが、黙って拭き終わるのを待っていた。

そのあともう一枚予備のタオルで可能な限り制服の水分を拭き取り、女子トイレを後にした。

夕日も四分の一が沈んできた頃、廊下に足音が二つ響く。きっと充の追試は済んでいるころだろう。瀬川のとっておきスペシャルな説教を食らっていなければ、だが。

二人は保健室を目指して歩いていた。保健室には洗濯機と乾燥機が備え付けられているのだ。乾かすには一番だろう。

薄暗くなってきたので校舎には明かりがともっている。白色の蛍光灯が照らす細長い廊下を黙々と進んでいく。

が、やはり会話がないとさみしいので、和麻は話しかけてみることにした。

「なあ、君、いつもあいつらにいじめられてるのか?」

「…はい。掃除時間になるとトイレに連れていかれて、放水されたり、個室に閉じ込められたり…」

「掃除時間って、それじゃ一時間以上あんなことされてたっていうのか?」

「いつもなら掃除が終われば許してもらえるんですけど…今日は担任の先生が出張で…HRに出なくてもばれないからという理由で、散々こんな目に…」

何というひどい仕打ちだろうか。これはもういじめを通り越して拷問である。一体なぜここまで彼女はいじめを受けているのだろう。

「どうしていじめられているのか、心当たりはないのか?」

「よくは分からないのですが、きっとアドバンスクラスに入ってしまったからだと思います」

アドバンスクラスというのは、本校の特色の一つだ。各学年一組から三組までをアドバンスクラスと呼び、成績上位者の生徒たちで構成されるいわばトップレベル集団だ。学力で生徒を差別するなど教師にあるまじき行為だが、更に高度な授業を行うというのが狙いらしい。

「どうして、君がアドバンスクラスにいるだけでいじめられるんだ?」

「私、頭はそんなに良くないんです。それなのにアドバンススリーにたまたま入ってしまったんです。『テストの平均点が低いのはおまえの所為だ』って言われるようになって、それで」

最近の生徒はやはり腐っている、と和麻は思った。それだけのことであんなひどいいじめをするなんて、とても和麻には考えられなかった。

アドバンススリーは三組、すなわちアドバンスクラスの中でも一番入りやすい低級のアドバンスだ。だがそこにギリギリ入ることができるのでも相当のことだった。和麻も頑張ったら入れるかもしれないというレベルだろう。

「理不尽すぎるぜ」

「制服に、ペンキで大きく『アドバンスのお荷物』と書かれたこともあります」

「それじゃ、あの時のは入院じゃなくて…」

「すいません。嘘をついてしまって」

ペンキで使えなくなった制服を買いかえるため、だったのだ。ひどすぎる。

「可哀そうなんてレベルじゃねーな」

小さく和麻がそうつぶやいた時、目の前には保健室があった。

「とにかく先生に事情を話して、服を乾かしてもらおう。大丈夫、ここの先生は知ってるから」

小さくうなずくと、少女は一緒に保健室へと入った。まだ先生はいた。ひょっとしたら帰ってしまっているのかと心配したが、杞憂だったようだ。

「あれ、和麻じゃないか。こんな時間にどうし……その子は?」

そう。だれあろうこの先生は桜庭恵梨奈だった。実は彼女は大半をここで過ごしている。さすがに旧図書室の管理だけでは給料はもらえないのだろう。

和麻は保健室に入るや、事のあらましを説明し始めた。

恵梨奈先生はこう見えても話を聞いてくれる人だ。すぐに理解してくれた。

「そりゃひどいいじめだったね。分かった。それじゃ乾かすから、ちょっと脱ぎな」

「へっ? 今ですか」

少女は急に顔を赤らめ始めた。どうしたのかと和麻が思案していると、恵梨奈先生の鉄拳殺人スマッシュ右フックが和麻の頬を直撃した。

「おぶぅ!!」

「さっさと出ていきな。女の子の着替えをのぞくなんざ百億年早いよ?」

「ああ…悪い」

そういうことだったのか、と妙に和麻は納得しつつ保健室を出た。あれを食らったのは久しぶりだ。見事に油断していた。ちなみに技名を命名したのは和麻だ。

「いってー。ったく手加減しねえんだから」

しばらく廊下でじっとしていると、扉の向こうの衝立(ついたて)がどけられた。別に覗いたりしな

いのに。衝立が必要だなんて、信用は無いみたいだ。がっくし。

「入っていいよ」

「いや、別に入る必要ないけど」

そう言えば何故俺は待っていたんだろう。まあ、あの子の心配があるから待っていて損は無かったのだが。

「コーヒー一杯くらいならサービスするよ?」

「それなら頂こう」

見るとあの少女は何やらパジャマに似た格好をしていた。どうやら洗濯から本格的にきれいにしているようだ。洗濯機がブオンブオンと豪快に音を鳴らしている。

「あのさ」

ベッドに腰掛けている少女に話しかける。

「えっと、なんですか?」

「いや、まだ名前聞いてなかったなって思ってさ」

「あ、えっと。夜美、(きり)()()()といいます」

不思議な響きの名前だった。何と言ったらよいのか、どこか儚くて、さみしい感じがした。

だけどそんなことはどうだっていい。夜美。うん、綺麗な名前だ。

「そうか。俺は天崎和麻。よろしくな」

笑顔を作ってなるべく安心してもらえるように言った。

少し不安だったが、夜美は笑ってくれた。

「はいっ。よろしくお願いしますっ」

心なしか少し元気になった気がする。なんだ、暗い性格かと思っていたが、明るい部分も少なからずあるようだ。和麻は安心した。

「かわいいガールフレンドじゃないか。アッハッハ」

二人を見て恵梨奈先生は大声をあげて笑った。少し夜美は恥ずかしそうにうつむいた。ガールフレンドと言われて照れてしまったのだろうか。

「うっさいな。あんたもいい加減ボ――」

ボーイフレンドを作ったらどうだと言おうとしたその刹那、目の前に恵梨奈先生の拳が叩き込まれていた。床からはシューという熱気が上がっている。

「何か言ったかい?」

「いえ、なんでもございません」

先生、お願いですから笑顔で言わないでください。笑っているのが口だけじゃないですか。

「よろしい。もう少しで乾燥まで終わるからもうちょっと待っててね」

何事もなかったかのように夜美に声をかける。すまなそうに一礼をする夜美には絶対にこの人の怖さは伝わらないだろう。どうせ一生彼氏なんて出来やしないのだ。口に出すと自殺行為になるので心の中にとどめておいた。




空に一番星が光りだしたとき、ようやく二人は帰途に就いた。

「待っててくれたんですか?」

靴を履きながら、夜美は和麻に問うた。

「まあ、な」

少し照れを隠して和麻は答える。さすがに暗くなりすぎたので一人は放っておけなかった、とは言いたくない。

和麻の答えに夜美は嬉しそうに微笑んだ。

「う、嬉しいです。ありがとうございます」

逆に恥ずかしくなってしまった。どうしたものか。

「今日会ったばかりの男に待ってて貰っても、嬉しかねーだろ」

そういうと夜美は暗い表情になってしまった。しまった、何かマズッたか。

「誰かと一緒に帰るの、初めてなんです」

「え? 初めてって、どうして」

少し笑顔を取り戻した表情に戻ると、夜美はポツポツと話し始めた。

「私、小学生の時からずっといじめられてたんです。友達なんていませんでした」

「そんな…ここでのいじめ以外にも、いじめに遭ったっていうのか?」

「はい…。小学校三年生までは、普通に過ごしてしたんですけど、いつからかみんなにいじめられるようになっていって…。ぐすっ、気が付いたら、一人で…ひぐっ」

話しながら泣き出してしまった。慌てて話を打ち切る。

「わかった。もういいぜ。…つらい過去を掘り返してしまって、すまない」

「ひぐっ、いえ…大丈夫…です」

とてもつらい過去だったのだろう。それなのに彼女はここまで生きてきた。くじけることなく、ずっと一人で歩いてきたのだ。なんて可哀そうな人生だろう。

学校を出ても、夜美はなかなか泣きやまなかった。

「もう泣くな。な? 俺は君の味方で…友達でいたいからさ」

和麻は必死で夜美をなだめた。

だれも手を差し伸べようとしなかった。なら、俺が友達になってやるまでだ。和麻はそう思った。

「ありがとうございます…。…嬉しかったです、初めて、私を嫌いにならないで、一緒に帰り道を歩いて貰って、私を待っててもらって…ぐすっ、ひぐっ、うっ、うわーん」

とうとう本格的に泣き出してしまった。

「お、おいおい。な? 頼むから泣きやめって。俺が泣かしたみたいじゃんか」

「すいません…うっ、ひぐっ、嬉しくて、ぐすっ、涙が、止まらないんです」

とても感情的な心の持ち主のようだ。いじめられ続けていたのだから、無理もないだろう。いや、むしろこうならない方がどうかしているのではないだろうか。

「はあ。しょうがない。こういうときは泣いても仕方ないよな」

観念した和麻は近くの公園へ夜美を連れていき、自転車を止めてベンチに座った。

夜美は一向に泣きやむ気配がなかったが、和麻はじっとその少女のそばにいた。

「少し、落ち着いたか?」

少しすすり泣き程度までおさまったので聞いてみた。

「ぐすっ、はい。…すいません」

「いいんだよ。霧野の気が済んだなら。そうだ、何か飲むか? 買ってくるよ」

「え? そんな、悪いですよ」

「気にするなって。オレンジジュースでいいか?」

財布から三百円を取り出す。ベンチに夜美を置いて自販機まで和麻は走った。自分のお金を出そうとする夜美を止めるのは時間がかかった。

二本のオレンジジュースを買って戻ると、夜美は律儀にも一礼してそれを受け取った。

「ほんとに、奢りで良いんですか?」

「ああ、もちろん。こういうこともしてもらったこと、ないだろ?」

「あ……はいっ!」

美味しそうにちょっとずつジュースを飲んでいく夜美。こうしてみていると結構、いや、かなりかわいい。

すらりと伸びた紺色の髪に、大きな鳶色の瞳。体つきはきゃしゃだが、生き生きとした肌の色。いじめられていたせいで気にも留めなかったが、美少女だった。

「あのー」

そんなことを考えていると、夜美が声をかけていた。

「ん?どうした」

「え、えっと、その、も、もし…もしご迷惑でなければ、あの、明日も一緒に……私と帰って頂けませんか?」

少し不安そうな表情で申し出てきた。本来ならビビることもない願望だが、夜美にとってはとても切実な願いなのだろう。もちろん答えは決まっている。

「よし、分かった。これから一緒に帰るか?」

瞬間パッと笑顔に顔が包まれる。

「ほんとですか? ありがとうございますっ」

よっぽど嬉しそうな顔で笑っている。そんな彼女を見るのが和麻は好きになっていた。

「天崎さん、そっちですか?」

帰りの分かれ道に到達した。どうやら向こうに夜美の家はあるようだ。

「どうやら、ここでさよならみたいだな」

少しさみしそうな表情を夜美は一瞬浮かべたが、すぐに笑顔に戻った。

「それじゃ、また明日会えますよね?」

「霧野がちゃんと遅刻も欠席もせずに学校に来たら会えるさ」

お互い手を振って、別々の道を進む。空には無数の星がいくつも煌めいていた。

今朝見た遅めの登校の女の子は夜美だった。理由を聞いたところ、やっぱり学校に行きたくなかったとのことだった。だが今日はテスト返却だったことを思い出し、いやいや登校したらしかった。

ところで――。

「んーと、あれ? そういや、誰かを待っていたような…。まあいいか。今日は霧野と帰ったんだし」

和麻は完全に補習終わりの親友を忘れていたのだった。


「ただいま」

「夜美? ああ、よかった。遅かったじゃない、心配してたのよ」

夜美が帰宅すると、母親が夕ご飯を作っていた。夜美が帰ったのを確認すると、ホッと胸をなでおろしたようだった。

「ごめん、ちょっといろいろあって遅れちゃった」

母親はそんな夜美の表情に疑問を抱いた。心なしかいつもより明るい口調だったからだ。普段はいつも暗い顔で帰宅する夜美に母親は心を痛めていた。やはりこの学校でも夜美はいじめられているのだ。

しかし今日はいつもと違う。笑顔で帰宅したのは何カ月振りだろうか。

そして今日は制服が濡れていない。ここ最近毎日のようにずぶ濡れの状態で泣きながら帰宅していたのだが、今日はいじめられた形跡が無かったのだった。

「なにか、良いことでもあったの?」

「え? 良いことって?」

「その…いじめにあってるんでしょう? 今日は何もされなかったの?」

言いにくいことだったが、その理由を聞くことにした。

「ううん…いじめられたよ。でも、今日は嬉しいことがあったの」

ますます疑問は深くなるばかりだ。いじめられたのに、良い日だったとはどういうことなのか。

「どんなことがあったの?」

「今日いじめられてる時、助けてくれた人がいたの。すごく、優しい人だったんだよ」

母親の胸の不安が瞬時に希望に変わった。それはつまり、夜美をいたわってくれた人間がいるということに他ならないからだ。

「私の…お友達になってくれたの」

「まあ、それはよかったわね。どんな子なの?」

「とても優しくて、かっこいい男の子だったよ」

「あら、ボーイフレンド? よかったわねー」

夜美の初めてのお友達。何よりも母親にはそれが嬉しかった。

「このまま、仲良くなれるかな?」

ぽつりと夜美は呟いた。昔から友達ができてもすぐにいなくなってしまう夜美には、それが不安だった。きっとまた、離れていくのではないか。そんな考えばかり頭によぎってしまう。

そんな夜美を見て、母親は優しく声をかけた。

「大丈夫よ。きっといいお友達になれるわ。自信持ちなさい」

「うん」

健気にも笑顔を作ると、夜美は答えた。


「ただいま」

疲れた顔で和麻は玄関の扉を開けた。美味しそうな夕飯の匂いが鼻をくすぐる。匂いからして今日はビーフシチューだろう。

台所からひょっこり顔を出したのは母親だ。

「遅かったわね。もしかして補習だった?」

「俺じゃねえよ。充だ。まあそれを待ってたんじゃないけどな」

「あら? じゃあなんで遅かったの?」

「ちょっといろいろあってな」

母親は釈然としない表情を浮かべたが、すぐに台所に視線を戻した。

「そう。あ、そうそう、洗濯物取りこんどいてちょうだい」

「へいへい」

何故もっと早めに取り込まないのか。きっと嫌がらせか何かだろう。

いそいそとベランダに出てすっかり乾燥済みの洗濯物を取り込む。外の風が気持ちいい。

和麻は洗濯物を取り込むと、しばらくベランダで星を見ていた。輝く星を見つめながら、和麻は今日出会ったばかりの少女の事を思い出していた。

「霧野夜美、か」

トイレの中でいじめられていた少女。震えながら泣きながら、必死で助けを求めていた。和麻は今までいじめの現場を直接見たことは無かったのだが、その実態は想像以上に悲惨で生々しいものだった。

「明日から、どうすっかな」

勢いで助けてしまって、その上仲良くなってしまったが、本当にそれでよかったのか。しかしかといってあの状況で何もしないのはあまりに非情だった。結果として彼女が和麻を頼ってくるのも仕方がないことだ。

だが。

「その時俺は、霧野を守れるのかな」

きっとまたこの先、夜美はいじめられるだろう。それでも、守っていけるのだろうか。夜美の友達でいたいという気持ちに嘘はないが、それが和麻は不安だった。

「ほんと、可哀そうな子だよな」

絵にかいたようないじめられっこである。だからこそ、いたわりの心も生まれてくるのだろう。それに、可愛かったし。

見上げた星空に、和麻は一筋の流星を見た。

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