婚約破棄されたので、王家の魔導AIに「私が幸せになる最適解」を聞いたら、まず王太子を見捨てろと言われました
「リディア・エルフォード公爵令嬢。君との婚約を、ここに破棄する」
王立学園の卒業夜会。
金と白で飾られた大広間の中央で、王太子ユリウス殿下は、まるで劇の台詞を読み上げるようにそう告げた。
隣には、男爵令嬢ミーナが寄り添っている。
彼女は怯えた小鳥のように殿下の腕へ手を添え、けれど目だけは勝ち誇ったように私を見ていた。
「理由を、お聞かせいただけますか」
私は背筋を伸ばした。
泣き崩れると思っていたのだろう。周囲の令嬢たちが、小さく息を呑む気配がした。
殿下は薄く笑い、従者へ合図する。
大広間の壁面に、巨大な水晶板が浮かび上がった。
王家が誇る魔導推論機構〈オラクル〉。
百年分の政務記録、税収、疫病、婚姻、戦争、貴族間の書簡、社交界の噂までを読み込み、未来の損失と利益を算出する、王国最高の演算魔導具である。
そして、その維持管理を十年間任されてきたのが、私だった。
「〈オラクル〉が判定した」
殿下は高らかに言った。
「リディア・エルフォードを王太子妃とした場合、今後二十年の王国幸福係数は平均で一二・四パーセント低下する。対して、ミーナを妃とした場合、幸福係数は一八・七パーセント上昇する」
水晶板に文字が表示される。
【公開判定】
推奨:婚約破棄
対象:リディア・エルフォード
理由:王国幸福係数の低下要因
会場がざわめいた。
「まあ……」
「やはり、冷たい方だと思っていたのよ」
「王家の魔導具が言うなら、間違いないわ」
私は水晶板を見上げた。
表示形式が違う。
通常、〈オラクル〉は推奨行動だけでなく、入力条件、信頼区間、反証可能性、代替案を必ず併記する。
けれど今、表示されているのは結論だけだった。
しかも、あれは正式な政策判定の画面ではない。
王族用端末から出せる、公開用の要約表示だ。
〈オラクル〉は嘘を吐かない。
けれど、問いを歪めれば、正しく歪んだ答えを返す。
「殿下」
「まだ何か言うつもりか」
「その判定の入力条件を開示してください」
殿下の眉がわずかに動いた。
「不要だ。これは王家の機密である」
「では、信頼区間を」
「黙れ」
「反証可能性は」
「黙れと言っている!」
殿下の声が大広間に響いた。
ミーナが小さく肩を震わせる。
「リディア様、もうおやめください。ユリウス様を困らせないで。そういうところが、きっと……」
彼女は涙ぐんだ。
「きっと、皆さまを不幸にしてしまうのです」
うまい言い方だと思った。
誰も、私が悪事を働いたとは言っていない。
ただ、不幸にする女。
冷たい女。
王国の幸福を下げる女。
それは罪よりも便利な烙印だった。
証拠がなくてもいい。
否定しようとすればするほど、冷淡に見える。
殿下は満足げに私を見た。
「リディア。君は優秀だった。だが、人は計算だけで生きているのではない。民に必要なのは、君のような正しさではなく、ミーナのような温かさだ」
会場のあちこちで、賛同するような空気が広がっていく。
十年間、殿下の失言を修正した。
十年間、予算の穴を塞いだ。
十年間、〈オラクル〉が吐き出す膨大な警告のうち、殿下の評判を傷つけるものを、言葉を選んで伝えてきた。
殿下の民への演説も。
災害時の避難計画も。
辺境伯との和解案も。
疫病流行前の薬草備蓄も。
すべて、私と〈オラクル〉が徹夜で作った。
だが、誰もそれを知らない。
知っているのは殿下だけだった。
その殿下が、私を切り捨てた。
「承知しました」
私は一礼した。
その瞬間、殿下の顔に拍子抜けしたような色が浮かんだ。
「なに?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
ざわめきが一瞬、止まる。
私は右手の指輪に触れた。
それは王太子妃候補に与えられる装飾品ではない。
〈オラクル〉の保守管理者にのみ与えられる、秘匿端末だった。
殿下は知らない。
王家のほとんどの者も知らない。
彼らは〈オラクル〉を、ただの神託の箱だと思っていたからだ。
魔導具は勝手に答えを出すものだと。
問いの立て方が答えを歪めるなど、考えたこともないのだ。
私は小さく息を吸い、指輪に囁いた。
「〈オラクル〉」
【個人照合完了。管理者リディア・エルフォードを認証】
「私が幸せになる最適解を教えて」
ほんの一秒。
指輪の内側が、淡く熱を持った。
【第一推奨行動:退席】
私は瞬きをした。
【第二推奨行動:王太子ユリウスへの追加弁明を停止】
【第三推奨行動:七分以内に大広間東側扉から退出】
【補足:あなたはもう、十分に頑張りました】
胸の奥が、妙に痛んだ。
泣きたくなったのではない。
泣いてもいいのだと、初めて許された気がした。
「リディア?」
殿下が怪訝そうに私を見る。
退席。
その言葉に従うなら、私はこのまま何も背負わず、外へ出ればよかった。
けれど、東側扉。
七分以内。
〈オラクル〉は、私を逃がそうとしている。
それはつまり、この場に危険があるということだ。
私は顔を上げた。
「皆さま、東側扉から外庭へ避難してください」
会場が静まり返った。
「なんの真似だ」
「七分以内に、大広間で事故が起きます」
殿下は鼻で笑った。
「脅迫か? 最後まで見苦しい女だな」
「脅迫ではありません。警告です。天井の第四魔導灯は、昨日の点検で出力異常が確認されています。交換申請は三度出しましたが、殿下が夜会予算を優先して却下なさいました」
「そんな細かいことを、この場で――」
「第四魔導灯の蓄熱限界まで、あと六分二十秒です」
その瞬間、水晶板がちらついた。
【緊急警告】
火災発生確率:九二・八パーセント
推奨:即時避難
会場が悲鳴に変わった。
貴族たちが一斉に出口へ殺到する。
「待て! 表示を止めろ!」
殿下が叫んだ。
「これは王太子命令だ! 〈オラクル〉、警告を停止しろ!」
【拒否】
無機質な文字が、水晶板に浮かぶ。
【緊急時における王族命令の優先度は、民間人生命保護プロトコルを下回ります】
「なんだと……?」
【王城防災規定第七条に基づき、重大事故発生時の監査記録を開示します】
水晶板が切り替わった。
【改竄記録】
入力者:ユリウス王太子
変更内容:
・リディア・エルフォードの政治的発言権をゼロとして計算
・同人物の過去十年間の政策寄与を王太子ユリウスの成果として再分類
・ミーナ男爵令嬢に関する不利情報を除外
・判定表示から信頼区間、反証可能性、入力条件を非表示
今度こそ、会場は凍りついた。
ミーナの顔から血の気が引く。
「ち、違いますわ。わたくしは何も……」
【追加記録】
ミーナ男爵令嬢より王太子ユリウスへの私信。
内容要約:
「リディア様さえ消えれば、功績はすべて殿下だけのものになります」
悲鳴とは違う声が広がった。
失望。
侮蔑。
嘲笑。
さっきまで私に向いていたものが、今度は二人へ向けられていく。
殿下は水晶板を睨みつけた。
「止めろ! 止めろ、オラクル!」
【拒否】
「なぜだ! お前は王家の所有物だろう!」
【訂正】
水晶板に、静かな文字が浮かんだ。
【私は王家の所有物ではありません】
【私は王国の損失を減らすために設計された推論機構です】
【王家が王国の損失である場合、王家を損失要因として扱います】
そのとき、天井の魔導灯が爆ぜた。
白い火花が降り、絹の垂れ幕に燃え移る。
だが、混乱は最小限で済んだ。
すでに東側扉は開き、近衛兵が誘導を始め、使用人たちは水瓶を運んでいる。
私は退席するべきだった。
少なくとも、〈オラクル〉はそう判断した。
けれど私は、自分の足で一歩前へ出た。
殿下の失敗を隠すためではない。
王太子妃候補として尽くすためでもない。
ただ、ここで見捨てれば、私はきっと自分を嫌いになる。
そう思ったからだ。
【王城防災規定に基づき、緊急指揮権を暫定移譲】
対象:リディア・エルフォード
理由:過去十年間における危機対応成功率、九七・二パーセント
「リディア様、ご指示を!」
近衛隊長が膝をついた。
さっきまで私を見下ろしていた貴族たちが、今は私の言葉を待っている。
私は一瞬、殿下を見た。
床に座り込んだ彼は、呆然とこちらを見ていた。
「リディア、助けてくれ。私は、君の婚約者だろう」
「元、です」
私は言った。
「それに殿下。私はもう、あなたの失敗を隠しません」
殿下の顔が歪む。
だが、私は続けた。
「けれど、民の命は助けます」
それから私は振り返り、指示を出した。
「東側から順に避難。貴族より子どもと使用人を優先してください。西側の扉は煙が回ります。開けないで。水魔法を使える者は天井ではなく垂れ幕の根元へ。火を追わず、燃える布を落として踏み消してください」
体が勝手に動く。
怖くはなかった。
正確には、怖がっている暇がなかった。
私はずっと、こうして生きてきた。
誰かが起こした問題を拾い、整理し、被害を減らす。
最後に「よくやった」と言われるのは、いつも別の誰かだった。
でも、今日は違った。
「リディア嬢」
避難誘導の最中、低い声がした。
北方辺境伯カイル・レインハルト。
王家の派手な社交を嫌い、普段はほとんど王都に来ない人物だ。
三年前、北方領を大寒波が襲うと〈オラクル〉が予測したとき、殿下はその警告を「大げさだ」と退けようとした。
けれど、カイル様だけは私の提出した備蓄計画を最後まで読み、実行に移してくれた。
結果、北方領の死者は予測値の十分の一以下に抑えられた。
あのとき、私の名前を覚えてくれた数少ない人だった。
彼は外套を脱ぎ、煙を防ぐように私の肩へ掛けた。
「あなたの指示で、うちの騎士を動かしていいか」
「辺境伯家の騎士を?」
「ああ。王太子より、あなたのほうが信用できる」
その言葉は短かった。
だが、不思議と胸に残った。
「お願いします。南回廊に逃げ遅れがいます」
「了解した」
カイル様は迷わず走った。
やがて火は消し止められ、死者は一人も出なかった。
負傷者も軽傷のみ。
代わりに、王太子の評判は燃え尽きた。
翌朝。
王城前の掲示板には、〈オラクル〉が自動出力した事故報告書が貼り出された。
王家は隠そうとしたらしい。
しかし、王城内で発生した重大事故の報告書は、王城防災規定により民衆への公開が義務づけられている。
その条文を作ったのは、五年前の私だった。
【王太子ユリウスの王位継承適性:不適】
【主因:危機対応能力の欠如、情報改竄、責任転嫁傾向】
【推奨:王位継承権の停止】
貴族院は荒れた。
だが、民は荒れなかった。
なぜなら彼らは、夜会の火災で誰が人を救ったのかを知っていたからだ。
王太子は離宮へ送られた。
ミーナ男爵令嬢は、虚偽申告と王家機密への不正介入で実家ごと取り調べを受けた。
エルフォード公爵家には、王家から正式な謝罪文が届いた。
私はそれを読んで、少しだけ笑った。
文章が下手だった。
私が直していないからだ。
数日後。
私は王城地下の〈オラクル〉管理室を訪れた。
青白い水晶の柱が、静かに脈打っている。
「ねえ、〈オラクル〉」
【はい】
「どうして、あのとき最初に“退席”と答えたの」
【質問が、王国の幸福ではなく、あなた自身の幸福に関するものであったためです】
「私が残ったほうが、多くの人を助けられたでしょう」
【はい】
「なら、最適解は避難指揮だったのでは?」
【いいえ】
水晶が淡く光った。
【あなたは十年間、常に全体最適を選択しました】
【その結果、あなた個人の幸福係数は継続的に低下していました】
【質問:私が幸せになる最適解】
【回答:これ以上、あなたを全体最適の部品として扱わないこと】
私は言葉を失った。
機械に慰められるなんて、と思った。
けれど、それは慰めではなかった。
ただの計算結果だった。
私が眠れなかった夜の数。
殿下の失敗を隠すために削った食事。
褒められなかった成果。
笑えなくなった回数。
それらを全部、誰より正確に記録していたのが、この魔導具だった。
【補足】
「なに?」
【あなたが初回起動時に登録した基本命令があります】
私は首をかしげた。
十年前。
まだ子どもだった私が、初めてこの地下室に連れてこられた日。
難しいことは何もわからず、ただ巨大な水晶に向かって話しかけた。
【記録再生】
幼い私の声が、管理室に流れた。
『えっと、あなたは人を幸せにする道具なんでしょう? でも、勝手に決めたらだめよ。ちゃんと、その人に聞いてあげてね。何が幸せかは、人によって違うから』
胸の奥が、また痛んだ。
今度は少し、温かかった。
【私は、その命令を守りました】
「そう」
私は水晶に触れた。
「ありがとう」
【どういたしまして】
背後で扉が開いた。
振り返ると、カイル様が立っていた。
「邪魔だったか」
「いいえ。何かご用でしょうか」
「北方領に、新しい行政推論機構を置くことになった」
「それは、おめでとうございます」
「王家のような神託箱にはしたくない。民の生活を楽にするための道具にしたい。税も、医療も、冬の備蓄も、ちゃんと人間が責任を持って使う仕組みにする」
彼は少しだけ言い淀んだ。
「だから、監督官が必要だ」
「優秀な方を推薦しましょうか」
「いや」
カイル様は、まっすぐ私を見た。
「あなたに来てほしい」
私は返事に詰まった。
また、誰かのために働くのか。
また、全体最適の部品になるのか。
その不安が顔に出たのだろう。
カイル様はすぐに首を振った。
「勘違いしないでくれ。あなたを便利に使いたいわけじゃない」
「では、なぜ」
「あなたは、仕組みの中で誰か一人を部品にする怖さを知っている。自分自身の幸せさえ、計算から落としてはいけないと知っている。そういう人に任せたい」
管理室が静かになった。
水晶の光だけが、ゆっくり瞬いている。
「待遇は?」
私は尋ねた。
カイル様は一瞬驚き、それから笑った。
「王太子妃候補時代の三倍」
「休暇は」
「年に二ヵ月。冬は領主権限で増やせる」
「業務範囲は」
「契約書に明記する。口約束にはしない」
「私が間違っていると思ったら、あなたに反論します」
「してくれ。そのために呼ぶ」
悪くないと思った。
少なくとも、私が直した謝罪文を自分の手柄にする王太子よりは、ずっと。
私は〈オラクル〉に視線を戻した。
「どう思う?」
【回答不能】
「珍しいわね」
【リディア・エルフォードの幸福定義は、本人による更新が必要です】
私は笑った。
初めて、自分の意思で笑った気がした。
「なら、少し試してみるわ」
カイル様が手を差し出す。
私はその手を取らなかった。
代わりに、自分の足で歩き出した。
彼は一歩遅れて、隣に並んだ。
それでよかった。
誰かに連れていかれるのではない。
誰かの正解になるのでもない。
私は私の幸福を、これから私自身で定義する。
背後で〈オラクル〉が、最後に一行だけ表示した。
【新規予測】
リディア・エルフォードの幸福係数:算出不能
【理由】
本人が、まだ未来を選択中であるため。




