4 腐ってても、初めて飲んだら腐ってるのかわからない
「なにか飲み物を用意するから、ちょっとそこに座って待ってててくださいね」
わんわん泣く私を見て驚き困ったご主人は私の手を取り立ち上がらせると、アトリエまでゆっくりと連れて行ってくれた。今はもう涙も出ないくらい目元がパンパンに腫れ上がって、ものすごい脱力感がある。
「はい。何から何までご迷惑ばかりかけて申し訳ございません。ご主人」
案内された椅子に座ると、借りてきた猫のように私はぐったりとしてほぼ動かなかった。
散らかった部屋に、私のお昼寝スペースがあった窓際の棚…。ついさっき、ここで私は殺されたというのに、なんかとても懐かしい。優しい空間だった。
「はいどうぞ、お待たせ。私が好きなハーブティーなんだけど、お口に合うかな~…」
「ありがとうございます。頂きます」
テーブルの上に置かれたハーブティーをそっと啜る。目の前の椅子に座ったご主人は私の方をジッと見ながら、私が飲み終わるのを待っているようだった。
(こんな味だったんだ…これ)
猫だった時は見てるだけだったけど、飲んでみるとなんかほのかに雑草のような匂いというか、主張が強い草の臭いというか…。人間はすごいもの飲んでいるんだな。
「すいません、急に泣いたりして‥少し落ち着きました」
私は手に持っていたカップをテーブルに置くと、大きく肩を落とした。
思っていたよりも人間とは難しい。猫の時のように感情が抑えられないし、移動は難しいし、鼻は効かない、耳も良くない。ジャンプなんてこの体では絶望的だ。こんな状態でどうやってご主人を守ればいいのか。
「急に泣き出したときは、どうしちゃったのかと思ったよ~。でも、少し元気になれたならよかった」
「それは、ご、ごめんなさい。なんか急に涙がおさえられなくなっちゃって」
「大丈夫大丈夫!そんなときもあるよね!…ん””””--!!?うげぇ」
ご主人はカップをすすった瞬間にものすごい声で叫ぶと、顔面をクシャクシャにしたような顔をした。
私はその瞬間、『毒殺』の可能性が脳裏によぎり、立ち上がろうとするもなれない人間の体で歩いた疲れのせいで足に力が入らず、その場に倒れこんでしまう。私は叫び、そのまま這いずるように進んだ。
「ご、ご主人!!大丈夫ですか!?ご主人!!」
「まぁっっっっずい!!これ、ハーブが傷んじゃってるね」
「…はぁ?」
「ごめんねぇ…こんなもの、まずくて飲めなかったよね。一人だと素材の管理とかも難しくて、たまに腐らせちゃうことがあって。えぇと、きみ、大丈夫だった?」
「はは、は…ふふ…あはは、ははははっ!」
そうだった。あのハーブが入っているケース。一番最初に忍び込んだ時にあまりにも臭くてのたうち回ったせいでホコリまみれになって真っ白になっちゃったんだ。
これ、あの腐った葉っぱの出し汁なのか…。どうりでなんか変なにおいがするわけだ。
涙目になりながら『ぺっぺっ』と腐ったハーブティーを吐き出すご主人は恥ずかしそうに笑っていた。
私は、いつものドジなご主人を見ると安心してしまい急に笑いが込み上げてきた。
「そ、そんなに笑う事ないじゃないですか!誰にだって失敗はあります!」
「そうですね。すいません。ちょっと昔のことを思い出してしまって。別に私は大丈夫ですよ。ちょっとくらい腐ったものでも全然気にしないんで」
頬を膨らませて怒っているご主人は私の知っているご主人と何も変わらないその人だった。この世界のご主人も、私の知っているご主人と変わらなそうだ。ただ違うのは、私が猫じゃなくなったことくらいだろうか…。これは錬金釜のせい?う~ん。謎の多い釜だと思っていたけど、不思議だ。
「いやいやいや!腐ったものは流石に体に良くないですよ!いま交換するね、えぇと…」
ご主人は私を見たまま何か言いにくそうにモゴモゴとしていた。
「あ、そうか。…私は、リリルーナ・ハーヴェルと言います!仲が良い人からルゥって呼ばれてて、その…もしよかったら、お名前を教えてくれると嬉しいなぁって思って」
ご主人…ルゥは床に座り込む私に握手の手を差し伸べてくれた。これはご主人が初対面の人に、『あなたと仲良くなりたいな』って思ったときにでる無意識のサインだ。きっと本人は分かっていない。
「シロ…ナ。私はシロナ・ノワールです。」
「シロナちゃん!わぁ~かわいいお名前だね!シロナ…しろな…シロ…シロちゃんだね!私のことはルゥって呼んでね!よろしくシロちゃん!」
「はい。その…よろしく。ごしゅ…。…ルゥ」
ご主人。と言いたかった。彼女は私にとってずっと、何年も繰り返した時間を含めれば10年以上ご主人だったんだ。シロナというのは今思いついた偽名だった。ご主人のリリルーナの『ナ』をもらったんだ。でも、結局はいつも通りシロに戻ってしまった。呼ばれた瞬間、心臓が飛び跳ねるような感覚だった。名前を呼んでもらえるだけで、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
私は必死に、ルゥに気持ちがバレないように隠しながら彼女の手を握り返した。




