蕾の箱庭
一章
四月の初め。入学式を終えた翌日、桜井詩織は学校に向かって通学路を歩いていた。
平坦な道。街路樹の桜の木はもう葉桜になり始めている。
その道で、詩織の目に凛とした歩き姿の女生徒が飛び込んできた。
その美しさに、思わずくぎ付けになってしまう。
(何だろう、この気持ち……。胸がきゅっとして、ドキドキする……)
たしか、同じクラスだった気がする。名前は失念してしまった。
その子の後ろ姿を見ながら、詩織は通学路をゆっくりと進んでいった。
教室に着いて、詩織は改めてその子の姿を認識した。二つ後ろの席で……。名簿でもあれば良いのに、と思う。
この高校は名札というものが無い。だから、まだ名前が分からない。
聞くのも何だしな、と思いながら、詩織は席に着いた。
授業後、帰り支度をしていた詩織の隣を彼女が通り過ぎていく。
無意識に目で追ってしまっていた。
すぐに彼女の姿は見えなくなる。追いかける事はせず、帰り支度を済ませて詩織も帰路についた。
自宅でも、詩織は彼女の事を考えていた。
(どうしたんだろう、私……。あの子の事で頭がいっぱいだ……)
クッションをぎゅっと抱きながら、今あの子は何をしているのだろう、と考えて止まなかった。
翌日は家を出るタイミングが違ったのか、通学路では合わなかった。
詩織が教室に着くと、少し遅れてあの子も教室に入ってきた。
また、無意識に彼女を目で追ってしまう。彼女もその視線に気づいたようで、詩織の机の横で立ち止まった。
「どうしたの?」
急に声をかけられて、詩織は何を言っていいか分からなくなってしまう。
そんな様子の詩織に、彼女は小さく首を傾げた。
「あの……綺麗だな、って思って……」
なんとか絞り出した詩織の言葉に、彼女は目を丸くする。
そしてすぐにその表情は微笑みに変わり、ありがとう、と言った。
初めて言葉を交わしたことに、また詩織の胸が高鳴る。
「桜井さん、だっけ」
「えっ?う、うん。私の名前覚えててくれたの?」
「近くの席だったから、何となく覚えてた」
詩織は後方の席だから覚えていられなかったことに申し訳なくなる。
「あの……ごめんね、私、あなたの名前……」
「気にしなくていいよ。私は高野咲子。よろしくね」
そう言って微笑む彼女――咲子に、詩織も改めて自分の名前を告げた。
「桜井詩織さんね。覚えた」
咲子の微笑みに、詩織の心はますます惹かれていった。
それから、咲子と会話する事が増えていった。
ちょっとした事にも、咲子は優しく言葉を返してくれる。
そんな中で、詩織は咲子と過ごす時間に幸せを感じ始めている事に気が付いた。
ドキドキするのは変わらないけれど、その、自分の気持ちを次第に自覚していく。
(私、咲子さんの事が好きなんだ……)
彼女の微笑み、仕草一つ一つ、すべてが愛おしく感じる。
いつしか詩織も、咲子から愛されたいと思うようになっていた。
二章
ある日、詩織は咲子の持ち物に、どう見ても手編みの巾着がある事に気が付いた。
メリヤス編みで編まれたシンプルながらも色合いのある巾着。
「咲子さん、これ自分で編んだの?」
詩織が尋ねると、咲子は嬉しそうに微笑んだ。
「そうだよ。よく分かったね。もしかして詩織さんも編み物するの?」
咲子の言葉に、詩織の表情も自然と笑顔になる。
「うん。私も編み物好きなの」
思わぬ共通の趣味が見つかったことで、二人の会話が盛り上がる。
今家でどんなものを編んでいるのかとか、あそこの毛糸屋さんに行ってみたいだとか。
二人とも棒針で編む事をメインでしていて、好きな毛糸のメーカーも同じだった。
「私達、似てるね」
咲子の言葉に、詩織の胸がまた高鳴る。
「そうだね。今度一緒に編み物しようよ」
詩織がそう言うと、咲子は嬉しそうに笑って頷いた。
(本当に綺麗な笑顔だなあ……)
次の休日、詩織は咲子の家で一緒に編み物をする事になった。
家を出る前、身だしなみにどこかおかしいところがないか、鏡の前で何度も服装を確認した。
編み物道具と編みかけの靴下を持って、咲子との待ち合わせ場所に向かう。
待ち合わせ場所にはもう咲子が立っていた。私服の咲子は、シンプルな白いワンピースにピンク色のカーディガンを羽織っている。
「おはよう、詩織さん」
「おはよう、咲子さん。そのカーディガンもしかして」
「気づいた?私が編んだやつだよ」
「すごく可愛い!私まだ服は編んだことないんだ」
そんな会話をしながら、二人は咲子の家へと歩いて行った。
二人で向かい合って、編み物をする。
詩織は持ってきた編みかけの靴下を、咲子はかぎ針でポーチを編んでいた。
お茶を飲みながら、咲子が詩織の手元をじっと見ている。
「ねえ、詩織さん。もしよかったら、一緒に何か編んで、その編んだもの交換しない?」
「えっそれ楽しそう。咲子さんは何を編むの?」
咲子は少し考えて、思いついたようで、
「詩織さんに似合いそうな色でアームカバーを編もうと思う」
「これから日差し強くなるもんね。私は咲子さんに薄手のショールを編もうかな」
詩織の言葉に、咲子は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。丁度編もうかと思ってたの」
それからは、何色にしようかという話をしながら、咲子の家にある編み糸を見せて貰って、詩織は自分が編むショールのイメージを膨らませていった。
「それじゃあ、また明日ね」
夕方前まで咲子の家で編み物をした後、朝の待ち合わせ場所まで送ってもらって解散になった。
「うん。また明日」
翌日も休日の為、また咲子の家で編み物をする事になった。
詩織は自宅に帰ると、早速手持ちの編み糸を選び始める。
淡いピンクのグラデーション糸で、ところどころに点々と水色が散らされている糸。これで咲子の為のショールを編もうと決めた。
夕食とお風呂を済ませてから、早速本を見ながら編み始める。
咲子を思いながら一目一目編んで、気が付けば夜も更けていた。
明日も咲子の家に行く事を思って、詩織は手を止めてベッドに横になり、目を閉じた。
翌朝、詩織は待ち合わせ時間に合わせて家を出た。
トートバッグの中には昨日編み始めた咲子の為の編みかけのショールが入っている。
待ち合わせ場所に着くと、咲子も丁度着くところだった。今日の咲子はは淡い水色のカットソーにオレンジ色の小花柄のフレアスカートという服装だった。
(咲子さん今日も綺麗だなあ……)
咲子と何気ない会話をしながら、彼女の家に向かう最中にも、詩織は胸が高鳴るのを感じていた。
二人で編み物をしながら何気ない会話をする。
咲子もアームカバーを編み始めていて、淡い水色の糸を器用に五本の針で輪にして編んでいた。
それとなく話をしているつもりでも、詩織は何だか咲子との心の距離が近づいていくのを感じていた。
編んでいる最中、咲子の手が止まっている事に気が付く。
顔を上げると、咲子は詩織の手元でショールが少しずつ形になっていくのをじっと見ていた。
詩織が気づいたことに、咲子は照れたように微笑んだ。
「ごめんね。じっと見ちゃって。綺麗な編地だなあって思って」
「ううん。人が編んでるものってつい気になっちゃうからわかるよ。私も咲子さんの手元を時々見ながら編んでたもの」
(ああ、私は本当に、咲子さんの事が好きなんだ……)
大好きな人がこんなに近くにいる。とても幸せだったけれど、詩織は咲子が自分の事をどう思っているのだろう、と気になり始めていた。
三章
日を追うごとに、作品は完成へ少しずつ近づいていく。
それと同時に、咲子の心にも変化が起きていた。
詩織への独占欲。私とだけ居て欲しい。他の誰にも渡したくない。
そんな気持ちになって、咲子自身戸惑っていた。
詩織と共に編み物をする間も、平静を装っては居るが、咲子の心は詩織の事でいっぱいだった。
自然とその距離は近づき、向かい合って編み物をするよりも、隣に座って詩織の体温を感じたい、と思うようになっていた。
そして、休日には実際に外に出かけて、ベンチに並んで座って編み物をする事もあった。
詩織と離れている時間も、咲子は詩織のアームカバーを編みながら、それを着用する詩織のことを考えていた。
一目一目、詩織を思いながら丁寧に編まれていく。
そして、ついに両腕揃って完成した。
その翌日、学校で咲子が詩織にアームカバーの完成を伝えると、詩織ももう少しでショールが完成するところだと告げられた。
自分の為に詩織が編んでくれたショール。その事を思うと、胸がいっぱいになった。
二人で過ごす時間が増えていくにつれて、詩織は他の同級生や家族との接点が薄れていく事を何となく感じていた。
それでも、大好きな咲子と過ごせるなら、他の事なんて気にならなかった。
咲子と過ごす時間は、詩織にとって、とても甘い幸せだった。
咲子の自分に向けられる笑顔、声、何一つとっても、詩織にはかけがえのない宝物になっていた。
詩織は自宅で咲子のショールをやっと完成させ、仕上げも済ませる。
綺麗に整えられたショールが咲子の体を包むことを思うと、自然と顔がほころんだ。
翌日、学校で詩織もショールが完成したことを咲子に伝える。
咲子は目を輝かせて喜んでくれた。
その様子を見て、詩織は心から幸せを感じていた。
次の休日に、詩織はそのショールを大切に折りたたんでトートバッグに入れ、咲子との待ち合わせ場所に向かう。
待ち合わせ場所には、最初に家に行った時と同じく、シンプルな白いワンピースにピンク色のカーディガンを羽織った咲子が立っていた。
二人で並んで歩きながら、詩織も咲子も互いへの思いを募らせていく。
咲子の部屋に着き、すぐに二人は互いの編んだものを交換した。
咲子の編んだアームカバーは詩織の腕に丁度良く馴染み、詩織が編んだショールも咲子の体を優しく包んだ。
互いの編んだものを着用した二人は、手を取って微笑み合った。
四章
それからの二人は、何気なく触れ合ったり、寄り添って過ごすことが増えた。
その中である休日、二人で編み物をしていた間の休憩時間に、咲子は詩織の手を取りながら彼女の目を見つめ、自身の想いを伝え始めた。
「詩織さん、私、あなたの事が好き」
その言葉に、詩織は驚きと共に心からの幸せを感じる。
「私も。咲子さんの事、ずっと好きだったの」
詩織の返答に、咲子も自然に笑顔になる。
「嬉しい。大好き、詩織さん」
そう言いながら、咲子は詩織を優しく抱きしめた。
詩織も咲子の背に腕を回して、お互いの存在を確かめるように抱擁を交わした。
学校でも、放課後も、二人はずっと一緒に過ごすようになった。
休日には一緒に毛糸店を見に行き、その後に咲子の部屋で編み物をする事もあった。
デート、という言葉が詩織の脳裏に浮かび、咲子と共に過ごせる喜びへと変わっていく。
そんな中、いつも通り指を絡ませて触れ合っていると、咲子は詩織の手に唇を寄せ、愛おしそうにその手の甲に口づけた。
「詩織さん、愛してる」
咲子の表情に、その瞳に、熱が篭る。
「私も、咲子さん。大好き。愛してる」
咲子は詩織の言葉を聞くと、彼女を抱き締め、唇を重ねた。触れ合うだけの口づけ。けれど、今の二人には十分すぎる程の愛の行為だった。
「詩織さん、ずっと私と一緒に居てくれる?」
咲子の言葉に、詩織は頷く。
「うん。私、咲子さんとずっとこうして一緒に居たい」
唇が触れ合うくらいの距離で、二人は見つめ合う。そしてどちらからともなく、再び口づけを交わした。
エピローグ
それからの二人は、どこへ行くにも常に一緒だった。
学年が変わり、クラス編成で別々になってしまった時には休み時間に必ず会いに行き、同じ教室で過ごせない分、手紙のやり取りや交換日記も始めたりした。
卒業をする頃には、進学先の大学の近くに二人で部屋を借りて住むことにもなり、本格的な、二人きりの暮らしが始まる。
通っていた毛糸店でのアルバイトも二人で始めて、シフトが別々の日には、アルバイトの時間が終わった後にお互い迎えに出たりもして、一緒に帰って二人で過ごした。
二人きりでの部屋での暮らしは、以前にも増して密な触れ合いが増えた。
寄り添い合って編み物をするのは勿論、そうでない時間にも、互いの体温を確かめるように抱き合い、髪を撫でたり唇を重ねたり、甘い時を過ごしていた。
詩織は咲子と過ごす時に心の底から満たされる幸福を感じ、咲子もまた、詩織と共に過ごす日々の中に、留まる事を知らない愛情を感じていた。
同じベッドで眠り、目が覚めた時にはすぐ傍にお互いが存在する。
特に、咲子は眠るときに詩織を抱きしめて眠るようになった。
詩織もまた、咲子の腕の中で愛と安らぎを感じ、眠りに落ちる。
この安息と幸福を、二人はこの先も永遠に享受していくのだろう。