黄泉に還れ、英雄たち――僕は“過去”を喰らって生きる
夜の街に、異常は“音”から始まった。
カツン――。
コンクリートの路面に、硬質な何かが落ちたような音が一つ。
人通りのないアーケードに響いたその音に、高校生の蓮は足を止めた。
「……誰かいるのか?」
返事はない。ただ、不自然なほど静まり返った空気だけが、じっとりと肌に張り付く。
こんな時間に商店街のシャッター通りを通るべきじゃなかったと、蓮は内心で舌打ちした。
数日前から続く“幻覚”のような違和感――
誰かに見られているような感覚。耳鳴り。光の残像。そして……妙な夢。
真っ黒な空。叫び。裂ける地面。
そして、“名前を呼ばれる”感覚。
(あれは夢なんかじゃない。……わかってる)
だが、それでも答えは出ない。
蓮は早足で通りを抜けようとする。と、そのとき――
「……壊せ」
耳元に、声が囁いた。男とも女ともつかない、冷え切った声音。
ビクッと体が跳ねた直後、通路の奥――シャッターの陰から、異形の“何か”が現れた。
――異様だった。
人の形をしている。だが、その身体には無数の朱の文様が浮かび、目は光を反射して青白く光っている。
頭上に浮かぶのは、蛇のような霧の冠。そしてその手には、血のように赤い刀。
「っ、なんだよ、あれ……!」
逃げようと背を向けた瞬間、背後にいたはずの“それ”が、目の前に立っていた。
距離を……詰められている? 違う、空間ごと跳んでいる?
「やめろ……やめろっ!」
息を切らして叫ぶ蓮に、その怪異は何も言わず、刀を振り下ろした。
――死ぬ。
そう思った、その刹那。
世界が“裏返った”。
視界が黒く染まり、音がすべて引き剥がされていく。
自分の鼓動すら聞こえない暗闇の中で、蓮の胸から何かが“割れて”出た。
──喰らえ。
それは声だった。どこか、懐かしくも、異質な声。
黒い何かが蓮の身体からあふれ出し、襲いかかってきた怪異を逆に包み込む。
ズ、と。世界がひとつ“喰われた”。
目の前の怪異は、まるで存在そのものを剥がされるようにして、音もなく掻き消えた。
蓮はその場に膝をついた。肩で息をしながら、震える手を見つめる。
そして、耳に届いたのは――
「目覚めたか、“依代”」
名乗りはなかった。
ただ、確かに“何か”が、自分の中にいる。そんな感覚だけが、強烈に残っていた。
「……あれは、何だったんだ……」
蓮はふらつく足取りで自宅アパートへと戻った。
部屋に入って鍵をかけた瞬間、膝から崩れ落ちる。
頭が熱い。
心臓が、ずっと何かを拒絶し、同時に渇望しているような痛みを訴えている。
――目覚めたか、“依代”。
あの声が、まだ頭に残っている。
言葉の意味はわからない。ただ、確信している。
自分の中に、“何か”がいる。
人間のままではありえない“力”を、さっき――確かに使った。
敵の存在ごと、この世界から喰らい、消したような……説明しようのない、異常な力。
そのとき、不意にスマホが震えた。
「……?」
通知も何もない。画面は真っ黒なまま、ただ震えている。
そう思った瞬間、画面に“何か”が浮かび上がった。
──《記憶の奪還:進行度3%》
それは、まるでゲームのステータス画面のような文字だった。
誰が表示させている? 自分の意思ではない。
だが、体の奥から湧き上がる理解が、こう告げている。
(これは……俺の中の“それ”の記憶か)
奪還。つまり、何かを取り戻そうとしている。
そのとき、また声がした。
「お前、今……“使った”よな」
不意に窓の外から声が飛び込んできた。驚いて身構えると、そこには――
高校の制服を着た男がいた。だが、ただの学生ではない。
その目は夜でも光を帯び、腰には古びた日本刀。そして何より、その背に纏う“気”が異常だった。
「お前も“依代”か。……なるほど、随分と異質な」
「……誰だ」
「司馬一真。ヤマトタケルの神格憑きだ」
「……何の話だよ、それ。神格、憑き?」
聞き慣れない単語に、蓮は思わず眉をひそめた。
だが、目の前の男は真剣なまなざしで続ける。
「お前も……まだ気づいてないのか。
神格憑きってのは、古代神話や伝説に登場する存在――その“魂”を宿し、力を引き出す者のことだ」
「……俺が、そんな……」
「さっきのあれ、ただの人間が使える力じゃない。
お前の中に“何か”が目覚めたんだろう? なら、もう立派な依代だ」
蓮は息を呑んだ。
自分の中にいる“何か”。あの声。あの力。
まるで、世界の理をねじ曲げるような異常な感覚。
「……信じたくないけど、言ってることは……全部当てはまってる」
「俺は……何者なんだ」
蓮の問いに、夜は何も返さなかった。
「今から、ついて来い」
それだけ言い残して、司馬一真は夜の街へと踵を返した。
蓮は躊躇ったが、逃げることもできなかった。
この男は、あの“化け物”と同じような力を持っている。だが違うのは、それを制御しているという点。
そして何より、“俺と同じだ”と、初めて感じられた相手だった。
「……どこへ行く」
「継承者たちの“中継地”だ。いわば中立区域……今はまだ、な」
街から少し離れた高架下。人気のない空間に入り込むと、空気が明らかに変わった。
ぴり、と。肌が焼けるような霊圧。空間に歪みが生じている。
だが不思議と、恐怖よりも安心感のようなものが広がった。
「ここに、俺以外の“神憑き”も出入りしてる。……今はお前に話すことがある」
司馬はそう言って、鉄パイプを蹴り飛ばす。
その下には、地下へと続く階段が現れた。
蓮は無言のままついていく。
地下の空間は意外にも広く、機材とスクリーンが並ぶ異様な“会議室”のようだった。
「……ここ、何なんだよ」
「“裏側”の存在を追っていた一部の官僚と、神憑きの調停者たちの手による拠点らしい。だが今や、それも有名無実だ」
スクリーンに映し出されたのは――“記録映像”だった。
数日前。山中の神社で、ある少年が雷を呼ぶ映像。
別の日。海辺の工業地帯で、少女が水を操り、爆発を起こす映像。
「これは全部、“依代”たちだ」
「……神話に出てくる神々の力?」
「そうだ。正確には、“神格”の魂が、ある種の因子に適合した者に宿る。選ばれし者……英雄適性者とも言われている」
司馬は自らの胸に手を当てる。
「俺の中にいるのは、ヤマトタケル。記憶も、力も、断片的にだが流れ込んでくる」
蓮は言葉を失った。自分の中にも、確かに“何か”がいる。
だがそれは、何も語らず、何も教えてくれない。
「お前の神格は……正直、どこの神話にも記録がない。それどころか、名すら持っていない」
「……じゃあ、俺の中にいるのは、神ですらない?」
「もしくは、すべての神々がその記録を“恐れて消した”存在かもしれない」
冗談に聞こえた。だが、司馬は真顔だった。
「今、世界中で“目覚め”が起きている。神話の記憶が、断片的に現実へ侵食してきてる。
俺たちのような依代は、それを“継承する器”に過ぎない。だが――」
そこで司馬は、蓮を見据えた。
「お前だけは、継承されていない。お前の中の存在は、自ら“喰らっている”」
「……喰らう?」
「ああ。おそらく、お前の神格は、“記憶”そのものを糧に成長する異端だ。
他の依代が過去を受け入れる中、お前は過去を喰い潰して進む」
その言葉が、やけに腑に落ちた。
あのとき、あの“怪物”が消えたのは――自分が“神の記憶”ごと食らったからではないか?
蓮の中で、何かが静かにざわめいた。
「じゃあ、俺の中の“それ”は……記憶を喰って、生きてるってことか」
自分で言いながら、蓮は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
まるで、自分という存在そのものが“人ではない”ものに浸食されていくような感覚。
「そうだ。そして、その性質は――おそらく“神”にも例外じゃない」
司馬は机の引き出しから、一枚の地図を広げて見せた。
日本地図のあちこちに、赤い×印。そこにはすべて“神憑きの暴走例”というラベルが貼られている。
「これは最近起きた神格暴走の記録だ。憑かれた者が、宿した記憶に飲まれて自我を失ったケース。
そのほとんどは“戦闘の痕跡だけが残っていて”、記録すら残っていない」
「……消された?」
「“食われた”可能性がある。お前と同じような、もしくは……もっと本能的な存在によってな」
司馬はしばし黙り込み、やがて重々しく言った。
「特に最悪なのが、“ヤマタノオロチ”の依代だ」
「ヤマタノオロチ……八つの頭の蛇の、あの?」
「正確には“多神記憶の集合体”とされている。
一柱の神ではなく、神々の“断片”を呑み込みながら成長した、集合的災厄。
今の依代は、その封印を破ろうとしている。……そしてなぜか、“お前”を探してる」
「……は?」
「お前が鍵なんだ。もしかすると、“記憶を喰らう異質な依代”として、オロチはお前を必要としてる」
蓮は思わず立ち上がる。
「俺は、そんなの知らないし、関わる気も――」
だが、その瞬間だった。
キィィィンッ!
金属が引き裂かれるような異音が、地下空間に響いた。
同時に、スクリーンのひとつがノイズに塗れ、やがて“映像”が映し出された。
真っ赤な空の下、黒衣を纏った一人の少女。
その背後には、無数の“蛇”の影がうごめいている。
そして、彼女がこちらを見据えて、唇を動かす。
「――君だ。君こそが、“終わりの記憶”だ」
ぶつり、と。映像が途切れた。
「……今の、まさか」
「ああ。ヤマタノオロチの依代、“未登録個体”。
本来なら感知不能なはずの存在が、逆にこちらにアクセスしてきた」
司馬の表情が険しくなる。
「これはもう、ただの偶然や覚醒ではない。戦争が始まってる」
蓮は息を詰めた。
自分が何者かわからないまま、それでも確実に、世界は自分を中心に回り始めている。
それは、破滅の歯車のように――
「蓮。お前は選べ。戦うか、逃げるか。だが言っておく。
“名前を持たぬ存在”は、最後にはすべての記憶を呑み込む」
その言葉に、蓮の胸の奥で、“何か”が小さく笑ったような気がした。
深夜二時。人気のない都内の地下鉄ホーム。
終電がとっくに過ぎたその空間に、場違いな“気配”があった。
蓮は、司馬からの情報を頼りに、その駅を訪れていた。
「……ツクヨミの依代が現れる場所、って言ってたけど」
外から見ればただの廃駅。だが地下空間には明らかな“異界”の気配が漂っていた。
――月の匂い。
蓮はなぜか、空を見ていないのに“満月”を感じた。
空間の歪み。時間がゆっくりと進むような、粘つくような違和感。
そして、駅の奥。暗闇の向こうから、白い足音が響いた。
カツ、カツ――
やがて姿を現したのは、白装束をまとった“少年”だった。
中性的な顔立ちに、蒼銀の瞳。手には折れた小刀を携えている。
「君が、“名を持たぬ者”か」
「……ツクヨミ、か」
「正確には“その依代”だ。だが、月は常に全てを見ている」
その声には、情緒が欠けていた。まるで機械のような、感情の温度がない。
「君の中にある存在は、記録されていない。
我ら神々の体系から、意図的に外された“外典の神”。……あるいは、“異界の喰神”」
「言ってる意味がわからない」
「君が知らなくても、我々には意味がある。秩序の外に在るものは、排除される」
その瞬間、空気が凍った。
ツクヨミの依代は、小刀を横に振るだけで、空間ごと“月光の刃”を生み出した。
蓮は咄嗟に跳んだ。刃が地面を裂き、音もなく床が割れる。
「やめろよ、いきなり殺す気かよ……!」
「これが“最も無駄のない方法”だ。君の存在が異常である限り、接触する理由はない」
冷たい声。何の怒りもなく、ただ事務的に蓮の存在を“排除対象”と判断している。
――お前、喰らうか?
蓮の中の“それ”が、また声を放った。まるで喉が渇いている子どものような無邪気さで。
ツクヨミの一閃が迫る。蓮は構えもないまま、その一撃をギリギリで避ける。
(クソ……俺は、まだ何も分かってない。なのに)
――喰えばわかる。あの月の記憶を。
黒い“本能”が、内側からささやいた。
その瞬間、蓮の影が揺らぎ、そこから“黒い触手”のようなものが走る。
それは刹那、ツクヨミの斬撃とぶつかり、空間を裂いた。
「君……今、月の記憶を喰おうとしたか?」
ツクヨミの声に、初めて動揺が混じった。
「君の中の存在、それは……ただの神格ではない。“因果”すら喰う、禍神かもしれない……」
蓮は、自分の手を見下ろす。
黒い光が、うっすらと皮膚の内側で脈動していた。
「君の力……いや、“中の存在”の能力は、やはり異常だ」
ツクヨミの依代は、一歩後退して蓮を見つめていた。
その冷徹な目の奥に、かすかな警戒が滲む。
「記憶の断片すら、お前に触れられると“侵される”」
「それは……俺が“喰ってる”ってことなのか?」
「そうだ。“記録の形”にあるものに、お前の存在は作用する。まるで、過去そのものを“破壊”するように」
ツクヨミの言葉が、じわじわと蓮の思考を蝕んでいく。
破壊――記憶の再生を不可能にする力。
それは、単なる戦闘能力などではない。神格にとって、存在の根幹に関わる異能だった。
「お前の中のそれは、我々の記録にない……いや、“記録できない”存在なんだ」
「じゃあ、最初から“いなかった”ってことか」
問いかけに、ツクヨミは頷いた。
「正史には存在せず、しかし確かに世界の深部に残された痕跡。
“神にすら忘れられた神”……あるいは、記録そのものの外にある“喰神”」
ぞくり、と蓮の背筋が凍る。
まるで自分が、“この世界に存在してはいけないもの”のように感じられた。
そんな中、ツクヨミが構えを解いた。
「君を排除するのは、今ではない。……だが、忠告しておく。
もし君が“記憶”を喰らい続ければ、いずれ自我を失う。
それは、“その神”に喰われるということだ」
「……!」
「君は器ではない。君はすでに、“主”の一部だ」
その言葉が、最も重く、最も怖かった。
(俺は、俺じゃないのか? もうとっくに……)
頭の奥で、誰かが笑っていた。
――そうだ。お前は“俺”を入れた時点で、もう“俺”なんだ。
ツクヨミが踵を返す。
「次に会うとき、君がまだ“君”であることを祈る。
それが不可能であれば……月は、“黄泉”に還すだけだ」
白装束の背が、闇に溶けるように消えていった。
蓮は、その場にひとり立ち尽くす。
手のひらが震えていた。心が軋んでいた。
なぜ、自分だけが“名前を持たない”のか。
なぜ、自分だけが“過去を喰らう”のか。
「……俺は、“俺”のままでいられるのか」
その問いに、返事はなかった。
ただ、スマホの画面に再び、文字が浮かび上がる。
──《記憶の奪還:進行度11%》
“進行している”。それだけは、確かな事実だった。
空間が、揺れている。
蓮は気づくと、白い霧の中に立っていた。
地面がどこにあるのかもわからない。ただ、歩けば足元はしっかりしていて、遠くからは何かの詠唱のような音が響いていた。
「……ここが、“継承の儀”の場?」
司馬から言われた言葉を思い出す。
――月齢が満ちる夜、全国の“依代”たちが自動的に引き寄せられる空間がある。そこでは神格同士が共鳴し、次なる力を解放する“儀式”が行われる。
意思の有無は関係ない。神格を宿す限り、引き込まれるのだと。
(これは、夢……じゃない)
肌に感じる神気。漂う“記憶の断片”の気配。
それは、現実と同じ――いや、それ以上に“生きている”感覚だった。
やがて霧が晴れていく。
広がったのは、まるで神殿のような空間。
天井はなく、空は真っ赤に燃え、巨大な石柱が無数にそびえていた。
そして――その中に、“他の依代”たちの姿があった。
「……本当に、こんなにいるのかよ」
男女問わず、年齢もバラバラ。
だが、どの瞳もただ者ではない光を湛えていた。
雷光を背負った少女。
獣の気配を持つ少年。
全身を朱で染めた異形の僧。
それぞれが、それぞれの“神”を宿し、この場に集まっている。
「――始めるか」
低く響いたその声と共に、空間が一瞬で変質した。
空中に浮かぶ“記録の欠片”――神話の断章たち。
それが依代たちの神格に呼応し、光の帯となって個々の体へと流れ込んでいく。
「これが……“継承”か……!」
多くの依代たちが悶えるように跪き、やがて再び立ち上がったとき――
彼らの“中の神”がより濃く、その肉体を染め始めていた。
「……でも、俺は……」
蓮のもとにも、光は届いていた。だが、形が違った。
流れ込んできたのは、“光”ではなく――黒い霧だった。
それはどの記録にも属さない、歪んだ、剥がれた、忘れられた何か。
そして、それは蓮の中で“喉を鳴らしていた”。
――全部、呑んでやるよ。
刹那、蓮の足元から黒い陣が展開された。
他の依代たちの記憶の欠片が、黒い霧に吸い込まれていく。
「なっ……お前、何をして――!」
複数の依代たちが警戒する。
だが蓮自身も、それを止められなかった。
「やめろ……! 俺はそんなつもりじゃ――!」
だが、“それ”は止まらない。
他の依代たちが継承したばかりの神格の一部が、記録の形のまま、黒い渦へと喰われていく。
ツクヨミの言葉が蘇った。
君は“器”ではない。
君はすでに、“主”の一部だ。
蓮は叫んだ。
「やめろっ……! 俺は、俺はまだ――“俺”だ!!」
だがその声をかき消すように、空間全体が震えた。
“継承の儀”が、異常を起こしている。
それは、ただ一人、“名前を持たぬ者”のせいだった。
「止まらない……止められない……!」
蓮は黒い陣の中心で立ち尽くしていた。
自らの意思とは無関係に広がる侵食。
それは、他の依代たちが継承した“神話の断章”――その記憶の形を次々と喰い潰していく。
「記録が……消えていく……っ!」
誰かが悲鳴を上げた。
別の依代が膝をつき、呻く。記憶の一部を奪われたことで、神格の安定が崩れ始めている。
司馬が叫ぶ。
「蓮! お前、自分の中の“それ”を制御しろ!!」
「してる! してるはずなんだ……けど……っ!」
違う、と声が割って入る。
「制御しようとしてる時点で、もう“遅い”のさ」
黒衣の小yぞ――見覚えのない依代が、笑いながら近づいてきた。
背後には、紅い蛇の影。舌のように揺らめきながら、蓮を舐めるように観察している。
「お前は、“最初から”選ばれてたんだよ。俺たちとは違う方法で」
「……お前は……オロチか……」
「“その一部”ってとこかな? でもまあ、今はまだ名乗るほどじゃない」
少年は蓮の肩に手を置く。
「自覚しろ。“喰う”ってことは、“選ぶ”ってことだ。
お前が望めば、どんな神の記憶だって食える。
でも――それはもう、“神格”じゃない。“喰神”だよ」
「俺は……そんなものじゃ……!」
叫ぶ蓮。
だが、次の瞬間――自身の胸の奥から、“黒い瞳”が開いた。
ズ、という音もなく、空間が沈む。
その“眼”が見たものは、記録でも光でもない。
記憶の底に沈んだ“原初の傷痕”だった。
雷神の咆哮。
海神の涙。
月神の孤独。
それらすべてが、“意味”としてではなく“味覚”として蓮の内側に流れ込んでくる。
「……これが、喰うってことなのか」
蓮は悟った。
これは力でも救いでもない。
ただ、記憶を“自分のものにする”という、果てしなく傲慢な侵食だ。
それでも。
「……選ぶよ。俺は、喰う。俺の意思で、喰らう」
そう言った瞬間、黒い陣が“沈黙”に転じた。
暴走ではない。蓮が“選んで”制御した、その最初の瞬間だった。
だが、空間に残ったのは――他の依代たちの“恐怖”の眼差しだった。
「……あいつは、もう“俺たち側”じゃない」
「神格の器じゃない……記憶を狩る存在……!」
「喰神……記録外の化け物……!」
ざわめきが、蓮を包んでいく。
司馬が一歩前に出る。
「蓮。……もう、お前は“神憑き”じゃない」
その言葉は、宣告だった。
蓮は俯いたまま、微かに笑った。
「……そうかもな。
けど、それでも“俺”は、ここにいる」
儀式空間が崩れ始める。
神格たちが各々の世界へ還っていく中、蓮は最後までその場に立ち尽くしていた。
──《記憶の奪還:進行度21%》
もう、後戻りはできない。
赤い空。黒い雨。世界が、悲鳴を上げていた。
蓮が目を覚ましたのは、まるで天地が逆転したような異空間だった。
地面には歯のような岩が生え、空には無数の“目”が開いている。
「ここは……現実じゃない?」
耳鳴りが止まない。心臓の鼓動と地鳴りが重なる。
その奥で、声が響いた。
「来たね、“喰神”」
声の主は、黒い衣に身を包んだ少女だった。
年齢は蓮と同じくらい。けれど、その瞳は、遥か昔から全てを見てきたような色をしていた。
その背後には、巨大な影。
八つの蛇の首が、蠢いている。うち七つには異なる神格の“痕跡”が刻まれていた。
それが――ヤマタノオロチの依代。
「君の中にいるものは、すべてを喰らい、形を与えず、語らせない。“記録されない神”……」
「だから何だ」
蓮は、一歩踏み出す。
「俺はただ、“思い出したい”だけだ。
名前も、記憶も、意味も持たなかったこの存在が――何だったのかを」
少女は、優しく微笑んだ。
「それは、“記録”じゃない。“否定”だよ。
君は存在するだけで、世界の“構造”を壊す。君が選ばれたのは偶然じゃない」
空が唸る。蛇が吠える。
「さあ――喰い合おう、“過去”を懸けて」
その声とともに、黒い空間が一気に裂けた。
蛇たちが襲いかかる。
一撃ごとに、神々の力――雷、水、火、風――が襲いかかってくる。
そして、影が走る。
蓮の足元から展開された黒い陣が、蛇たちの記憶を“断片ごと”飲み込んでいく。
雷の咆哮が、音もなく消える。
水の奔流が、泡のように弾ける。
ひとつ、またひとつ――蛇の首が、記憶ごと消えていった。
「……本当に、喰っている……」
少女が呟く。その声には、恐怖と、微かな憧れが混じっていた。
「君は……私とは違う。私は記憶を継いで、重ねて、完成体を目指した。
でも君は、最初から“意味の外”にいる……存在の定義そのものを変える者」
「だったら――俺の存在が、“名前を与える”番だ」
蓮の目が開く。
そこには、黒ではない“何か”が灯っていた。
“記録”でも“継承”でもない、“自我”という名の色が。
最後の一撃が、虚空を切り裂いた。
八つあった蛇の首は、すでに七つが沈み、残された一本が、うねるように蓮の前に立ちはだかる。
だが、その動きに、もはや力はなかった。
蓮の中で、黒い“何か”が脈動している。
喰らった神々の記憶。それらはすでに“力”ではなく、ただの沈黙として存在していた。
「……終わらせるか?」
内側の声が問いかける。
淡々とした、しかしどこか楽しげな響きで。
「そうだな。……もう、終わらせよう」
蓮は、最後の蛇の瞳をまっすぐに見据える。
「お前が何を求めてきたのか、全部は知らない。
でも俺は――“喰う”ことで、何かになれるとは思ってない」
蓮がゆっくりと手をかざす。
その指先から、黒い霧が、優しく伸びていく。
だがそれは、暴力ではなかった。
“記憶を喰らう”のではなく、葬るという行為だった。
「もう……いいんだ。
忘れられた過去も、名のない神も、全部この手で――還してやる」
光のない世界に、わずかに風が吹いた。
残された最後の蛇が、そのまま塵となり、崩れ落ちる。
ヤマタノオロチの依代――黒衣の少女は、ゆっくりと膝をついた。
「……君は、何者なんだろうね」
「俺も、わからない。
ただ、“記憶”に意味を求めるのを、やめただけさ」
ふっと、少女は笑った。
それは、ほんの少し救われた者の笑みだった。
「じゃあ、君の記憶は――」
「俺の中にある“それ”は、もう記憶じゃない。
ただ、俺が俺であるために選んだ、“空白”だ」
空が晴れていく。
赤く濁った空間が、静かに崩れていく。
次の瞬間、蓮の視界は一面の白に包まれた。
……
目を覚ますと、蓮は自室のベッドの上にいた。
何も変わっていない。
だが、何もかもが変わってしまっていた。
スマホの画面に、またあの文字が浮かぶ。
──《記憶の奪還:進行度 100%》
それ以上、更新はなかった。
蓮はそれを見て、静かにスマホを伏せる。
そして、空を見上げた。
雲ひとつない空。だが、そこには、名も形もない“何か”が、確かに消えていった気がした。
神ではない。
英雄でもない。
ただ一人の、“名前なき存在”。
その物語は、誰の記憶にも残らない。
だが確かに、ここにあった。
──黄泉に還れ、英雄たち。
俺は、“過去”を喰らって、生きる。