表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黄泉に還れ、英雄たち――僕は“過去”を喰らって生きる

作者: りょ

 夜の街に、異常は“音”から始まった。


 カツン――。


 コンクリートの路面に、硬質な何かが落ちたような音が一つ。

 人通りのないアーケードに響いたその音に、高校生の蓮は足を止めた。


「……誰かいるのか?」


 返事はない。ただ、不自然なほど静まり返った空気だけが、じっとりと肌に張り付く。

 こんな時間に商店街のシャッター通りを通るべきじゃなかったと、蓮は内心で舌打ちした。


 数日前から続く“幻覚”のような違和感――

 誰かに見られているような感覚。耳鳴り。光の残像。そして……妙な夢。


 真っ黒な空。叫び。裂ける地面。

 そして、“名前を呼ばれる”感覚。


(あれは夢なんかじゃない。……わかってる)


 だが、それでも答えは出ない。


 蓮は早足で通りを抜けようとする。と、そのとき――


「……壊せ」


 耳元に、声が囁いた。男とも女ともつかない、冷え切った声音。


 ビクッと体が跳ねた直後、通路の奥――シャッターの陰から、異形の“何か”が現れた。


 ――異様だった。


 人の形をしている。だが、その身体には無数の朱の文様が浮かび、目は光を反射して青白く光っている。

 頭上に浮かぶのは、蛇のような霧の冠。そしてその手には、血のように赤い刀。


「っ、なんだよ、あれ……!」


 逃げようと背を向けた瞬間、背後にいたはずの“それ”が、目の前に立っていた。


 距離を……詰められている? 違う、空間ごと跳んでいる?


「やめろ……やめろっ!」


 息を切らして叫ぶ蓮に、その怪異は何も言わず、刀を振り下ろした。


 ――死ぬ。


 そう思った、その刹那。


 世界が“裏返った”。


 視界が黒く染まり、音がすべて引き剥がされていく。

 自分の鼓動すら聞こえない暗闇の中で、蓮の胸から何かが“割れて”出た。


 ──喰らえ。


 それは声だった。どこか、懐かしくも、異質な声。


 黒い何かが蓮の身体からあふれ出し、襲いかかってきた怪異を逆に包み込む。


 ズ、と。世界がひとつ“喰われた”。


 目の前の怪異は、まるで存在そのものを剥がされるようにして、音もなく掻き消えた。


 蓮はその場に膝をついた。肩で息をしながら、震える手を見つめる。

 そして、耳に届いたのは――


 「目覚めたか、“依代”」


 名乗りはなかった。

 ただ、確かに“何か”が、自分の中にいる。そんな感覚だけが、強烈に残っていた。




「……あれは、何だったんだ……」


 蓮はふらつく足取りで自宅アパートへと戻った。

 部屋に入って鍵をかけた瞬間、膝から崩れ落ちる。


 頭が熱い。

 心臓が、ずっと何かを拒絶し、同時に渇望しているような痛みを訴えている。


 ――目覚めたか、“依代”。


 あの声が、まだ頭に残っている。

 言葉の意味はわからない。ただ、確信している。


 自分の中に、“何か”がいる。


 人間のままではありえない“力”を、さっき――確かに使った。

 敵の存在ごと、この世界から喰らい、消したような……説明しようのない、異常な力。


 そのとき、不意にスマホが震えた。


「……?」


 通知も何もない。画面は真っ黒なまま、ただ震えている。

 そう思った瞬間、画面に“何か”が浮かび上がった。


 


 ──《記憶の奪還:進行度3%》


 


 それは、まるでゲームのステータス画面のような文字だった。

 誰が表示させている? 自分の意思ではない。

 だが、体の奥から湧き上がる理解が、こう告げている。


(これは……俺の中の“それ”の記憶か)


 奪還。つまり、何かを取り戻そうとしている。



 そのとき、また声がした。


「お前、今……“使った”よな」


 不意に窓の外から声が飛び込んできた。驚いて身構えると、そこには――


 高校の制服を着た男がいた。だが、ただの学生ではない。

 その目は夜でも光を帯び、腰には古びた日本刀。そして何より、その背に纏う“気”が異常だった。


「お前も“依代”か。……なるほど、随分と異質な」


「……誰だ」


司馬一真しば・かずま。ヤマトタケルの神格憑きだ」


「……何の話だよ、それ。神格、憑き?」


 聞き慣れない単語に、蓮は思わず眉をひそめた。

 だが、目の前の男は真剣なまなざしで続ける。


「お前も……まだ気づいてないのか。

 神格憑きってのは、古代神話や伝説に登場する存在――その“魂”を宿し、力を引き出す者のことだ」


「……俺が、そんな……」


「さっきのあれ、ただの人間が使える力じゃない。

 お前の中に“何か”が目覚めたんだろう? なら、もう立派な依代よりしろだ」


 蓮は息を呑んだ。


 自分の中にいる“何か”。あの声。あの力。

 まるで、世界の理をねじ曲げるような異常な感覚。


「……信じたくないけど、言ってることは……全部当てはまってる」


 「俺は……何者なんだ」


 蓮の問いに、夜は何も返さなかった。


「今から、ついて来い」


 それだけ言い残して、司馬一真は夜の街へと踵を返した。

 蓮は躊躇ったが、逃げることもできなかった。


 この男は、あの“化け物”と同じような力を持っている。だが違うのは、それを制御しているという点。

 そして何より、“俺と同じだ”と、初めて感じられた相手だった。


「……どこへ行く」


「継承者たちの“中継地”だ。いわば中立区域……今はまだ、な」


 街から少し離れた高架下。人気のない空間に入り込むと、空気が明らかに変わった。


 ぴり、と。肌が焼けるような霊圧。空間に歪みが生じている。

 だが不思議と、恐怖よりも安心感のようなものが広がった。


「ここに、俺以外の“神憑き”も出入りしてる。……今はお前に話すことがある」


 司馬はそう言って、鉄パイプを蹴り飛ばす。

 その下には、地下へと続く階段が現れた。


 蓮は無言のままついていく。

 地下の空間は意外にも広く、機材とスクリーンが並ぶ異様な“会議室”のようだった。


「……ここ、何なんだよ」


「“裏側”の存在を追っていた一部の官僚と、神憑きの調停者たちの手による拠点らしい。だが今や、それも有名無実だ」


 スクリーンに映し出されたのは――“記録映像”だった。


 数日前。山中の神社で、ある少年が雷を呼ぶ映像。

 別の日。海辺の工業地帯で、少女が水を操り、爆発を起こす映像。


 「これは全部、“依代”たちだ」


「……神話に出てくる神々の力?」


「そうだ。正確には、“神格”の魂が、ある種の因子に適合した者に宿る。選ばれし者……英雄適性者とも言われている」


 司馬は自らの胸に手を当てる。


「俺の中にいるのは、ヤマトタケル。記憶も、力も、断片的にだが流れ込んでくる」


 蓮は言葉を失った。自分の中にも、確かに“何か”がいる。

 だがそれは、何も語らず、何も教えてくれない。


「お前の神格は……正直、どこの神話にも記録がない。それどころか、名すら持っていない」


「……じゃあ、俺の中にいるのは、神ですらない?」


「もしくは、すべての神々がその記録を“恐れて消した”存在かもしれない」


 冗談に聞こえた。だが、司馬は真顔だった。


「今、世界中で“目覚め”が起きている。神話の記憶が、断片的に現実へ侵食してきてる。

 俺たちのような依代は、それを“継承する器”に過ぎない。だが――」


 そこで司馬は、蓮を見据えた。


「お前だけは、継承されていない。お前の中の存在は、自ら“喰らっている”」


「……喰らう?」


「ああ。おそらく、お前の神格は、“記憶”そのものを糧に成長する異端だ。

 他の依代が過去を受け入れる中、お前は過去を喰い潰して進む」


 その言葉が、やけに腑に落ちた。


 あのとき、あの“怪物”が消えたのは――自分が“神の記憶”ごと食らったからではないか?


 蓮の中で、何かが静かにざわめいた。


「じゃあ、俺の中の“それ”は……記憶を喰って、生きてるってことか」


 自分で言いながら、蓮は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 まるで、自分という存在そのものが“人ではない”ものに浸食されていくような感覚。


「そうだ。そして、その性質は――おそらく“神”にも例外じゃない」


 司馬は机の引き出しから、一枚の地図を広げて見せた。

 日本地図のあちこちに、赤い×印。そこにはすべて“神憑きの暴走例”というラベルが貼られている。


「これは最近起きた神格暴走の記録だ。憑かれた者が、宿した記憶に飲まれて自我を失ったケース。

 そのほとんどは“戦闘の痕跡だけが残っていて”、記録すら残っていない」


「……消された?」


「“食われた”可能性がある。お前と同じような、もしくは……もっと本能的な存在によってな」


 司馬はしばし黙り込み、やがて重々しく言った。


「特に最悪なのが、“ヤマタノオロチ”の依代だ」


「ヤマタノオロチ……八つの頭の蛇の、あの?」


「正確には“多神記憶の集合体”とされている。

 一柱の神ではなく、神々の“断片”を呑み込みながら成長した、集合的災厄。

 今の依代は、その封印を破ろうとしている。……そしてなぜか、“お前”を探してる」


「……は?」


「お前が鍵なんだ。もしかすると、“記憶を喰らう異質な依代”として、オロチはお前を必要としてる」


 蓮は思わず立ち上がる。


「俺は、そんなの知らないし、関わる気も――」


 だが、その瞬間だった。


 キィィィンッ!


 金属が引き裂かれるような異音が、地下空間に響いた。


 同時に、スクリーンのひとつがノイズに塗れ、やがて“映像”が映し出された。


 真っ赤な空の下、黒衣を纏った一人の少女。

 その背後には、無数の“蛇”の影がうごめいている。


 そして、彼女がこちらを見据えて、唇を動かす。


 「――君だ。君こそが、“終わりの記憶”だ」


 ぶつり、と。映像が途切れた。


「……今の、まさか」


「ああ。ヤマタノオロチの依代、“未登録個体”。

 本来なら感知不能なはずの存在が、逆にこちらにアクセスしてきた」


 司馬の表情が険しくなる。


「これはもう、ただの偶然や覚醒ではない。戦争が始まってる」


 蓮は息を詰めた。


 自分が何者かわからないまま、それでも確実に、世界は自分を中心に回り始めている。

 それは、破滅の歯車のように――


「蓮。お前は選べ。戦うか、逃げるか。だが言っておく。

 “名前を持たぬ存在”は、最後にはすべての記憶を呑み込む」


 その言葉に、蓮の胸の奥で、“何か”が小さく笑ったような気がした。


 深夜二時。人気のない都内の地下鉄ホーム。

 終電がとっくに過ぎたその空間に、場違いな“気配”があった。


 蓮は、司馬からの情報を頼りに、その駅を訪れていた。


「……ツクヨミの依代が現れる場所、って言ってたけど」


 外から見ればただの廃駅。だが地下空間には明らかな“異界”の気配が漂っていた。


 ――月の匂い。


 蓮はなぜか、空を見ていないのに“満月”を感じた。

 空間の歪み。時間がゆっくりと進むような、粘つくような違和感。


 そして、駅の奥。暗闇の向こうから、白い足音が響いた。


 カツ、カツ――


 やがて姿を現したのは、白装束をまとった“少年”だった。

 中性的な顔立ちに、蒼銀の瞳。手には折れた小刀を携えている。


「君が、“名を持たぬ者”か」


「……ツクヨミ、か」


「正確には“その依代”だ。だが、月は常に全てを見ている」


 その声には、情緒が欠けていた。まるで機械のような、感情の温度がない。


「君の中にある存在は、記録されていない。

 我ら神々の体系から、意図的に外された“外典の神”。……あるいは、“異界の喰神”」


「言ってる意味がわからない」


「君が知らなくても、我々には意味がある。秩序の外に在るものは、排除される」


 その瞬間、空気が凍った。

 ツクヨミの依代は、小刀を横に振るだけで、空間ごと“月光の刃”を生み出した。


 蓮は咄嗟に跳んだ。刃が地面を裂き、音もなく床が割れる。


 「やめろよ、いきなり殺す気かよ……!」


「これが“最も無駄のない方法”だ。君の存在が異常である限り、接触する理由はない」


 冷たい声。何の怒りもなく、ただ事務的に蓮の存在を“排除対象”と判断している。


 ――お前、喰らうか?


 蓮の中の“それ”が、また声を放った。まるで喉が渇いている子どものような無邪気さで。


 ツクヨミの一閃が迫る。蓮は構えもないまま、その一撃をギリギリで避ける。


 (クソ……俺は、まだ何も分かってない。なのに)


 ――喰えばわかる。あの月の記憶を。


 黒い“本能”が、内側からささやいた。


 その瞬間、蓮の影が揺らぎ、そこから“黒い触手”のようなものが走る。


 それは刹那、ツクヨミの斬撃とぶつかり、空間を裂いた。


「君……今、月の記憶を喰おうとしたか?」


 ツクヨミの声に、初めて動揺が混じった。


「君の中の存在、それは……ただの神格ではない。“因果”すら喰う、禍神かもしれない……」


 蓮は、自分の手を見下ろす。


 黒い光が、うっすらと皮膚の内側で脈動していた。


「君の力……いや、“中の存在”の能力は、やはり異常だ」


 ツクヨミの依代は、一歩後退して蓮を見つめていた。

 その冷徹な目の奥に、かすかな警戒が滲む。


「記憶の断片すら、お前に触れられると“侵される”」


「それは……俺が“喰ってる”ってことなのか?」


「そうだ。“記録の形”にあるものに、お前の存在は作用する。まるで、過去そのものを“破壊”するように」


 ツクヨミの言葉が、じわじわと蓮の思考を蝕んでいく。


 破壊――記憶の再生を不可能にする力。

 それは、単なる戦闘能力などではない。神格にとって、存在の根幹に関わる異能だった。


「お前の中のそれは、我々の記録にない……いや、“記録できない”存在なんだ」


「じゃあ、最初から“いなかった”ってことか」


 問いかけに、ツクヨミは頷いた。


「正史には存在せず、しかし確かに世界の深部に残された痕跡。

 “神にすら忘れられた神”……あるいは、記録そのものの外にある“喰神じきしん”」


 ぞくり、と蓮の背筋が凍る。


 まるで自分が、“この世界に存在してはいけないもの”のように感じられた。


 そんな中、ツクヨミが構えを解いた。


「君を排除するのは、今ではない。……だが、忠告しておく。

 もし君が“記憶”を喰らい続ければ、いずれ自我を失う。

 それは、“その神”に喰われるということだ」


「……!」


「君は器ではない。君はすでに、“あるじ”の一部だ」


 その言葉が、最も重く、最も怖かった。


(俺は、俺じゃないのか? もうとっくに……)


 頭の奥で、誰かが笑っていた。


 ――そうだ。お前は“俺”を入れた時点で、もう“俺”なんだ。


 ツクヨミが踵を返す。


「次に会うとき、君がまだ“君”であることを祈る。

 それが不可能であれば……月は、“黄泉”に還すだけだ」


 白装束の背が、闇に溶けるように消えていった。


 蓮は、その場にひとり立ち尽くす。

 手のひらが震えていた。心が軋んでいた。


 なぜ、自分だけが“名前を持たない”のか。

 なぜ、自分だけが“過去を喰らう”のか。


「……俺は、“俺”のままでいられるのか」


 その問いに、返事はなかった。


 ただ、スマホの画面に再び、文字が浮かび上がる。


 


 ──《記憶の奪還:進行度11%》


 


 “進行している”。それだけは、確かな事実だった。


 空間が、揺れている。


 蓮は気づくと、白い霧の中に立っていた。


 地面がどこにあるのかもわからない。ただ、歩けば足元はしっかりしていて、遠くからは何かの詠唱のような音が響いていた。


「……ここが、“継承の儀”の場?」


 司馬から言われた言葉を思い出す。


 ――月齢が満ちる夜、全国の“依代”たちが自動的に引き寄せられる空間がある。そこでは神格同士が共鳴し、次なる力を解放する“儀式”が行われる。


 意思の有無は関係ない。神格を宿す限り、引き込まれるのだと。


 (これは、夢……じゃない)


 肌に感じる神気。漂う“記憶の断片”の気配。

 それは、現実と同じ――いや、それ以上に“生きている”感覚だった。


 やがて霧が晴れていく。


 広がったのは、まるで神殿のような空間。

 天井はなく、空は真っ赤に燃え、巨大な石柱が無数にそびえていた。

 そして――その中に、“他の依代”たちの姿があった。


「……本当に、こんなにいるのかよ」


 男女問わず、年齢もバラバラ。

 だが、どの瞳もただ者ではない光を湛えていた。


 雷光を背負った少女。

 獣の気配を持つ少年。

 全身を朱で染めた異形の僧。


 それぞれが、それぞれの“神”を宿し、この場に集まっている。


 「――始めるか」


 低く響いたその声と共に、空間が一瞬で変質した。


 空中に浮かぶ“記録の欠片”――神話の断章たち。

 それが依代たちの神格に呼応し、光の帯となって個々の体へと流れ込んでいく。


「これが……“継承”か……!」


 多くの依代たちが悶えるように跪き、やがて再び立ち上がったとき――

 彼らの“中の神”がより濃く、その肉体を染め始めていた。


 「……でも、俺は……」


 蓮のもとにも、光は届いていた。だが、形が違った。


 流れ込んできたのは、“光”ではなく――黒い霧だった。


 それはどの記録にも属さない、歪んだ、剥がれた、忘れられた何か。


 そして、それは蓮の中で“喉を鳴らしていた”。


 ――全部、呑んでやるよ。


 刹那、蓮の足元から黒い陣が展開された。

 他の依代たちの記憶の欠片が、黒い霧に吸い込まれていく。


「なっ……お前、何をして――!」


 複数の依代たちが警戒する。

 だが蓮自身も、それを止められなかった。


「やめろ……! 俺はそんなつもりじゃ――!」


 だが、“それ”は止まらない。


 他の依代たちが継承したばかりの神格の一部が、記録の形のまま、黒い渦へと喰われていく。


 ツクヨミの言葉が蘇った。


君は“器”ではない。

君はすでに、“主”の一部だ。


 蓮は叫んだ。


「やめろっ……! 俺は、俺はまだ――“俺”だ!!」


 だがその声をかき消すように、空間全体が震えた。


 “継承の儀”が、異常を起こしている。


 それは、ただ一人、“名前を持たぬ者”のせいだった。


「止まらない……止められない……!」


 蓮は黒い陣の中心で立ち尽くしていた。


 自らの意思とは無関係に広がる侵食。

 それは、他の依代たちが継承した“神話の断章”――その記憶の形を次々と喰い潰していく。


「記録が……消えていく……っ!」


 誰かが悲鳴を上げた。

 別の依代が膝をつき、呻く。記憶の一部を奪われたことで、神格の安定が崩れ始めている。


 司馬が叫ぶ。


「蓮! お前、自分の中の“それ”を制御しろ!!」


「してる! してるはずなんだ……けど……っ!」


 違う、と声が割って入る。


「制御しようとしてる時点で、もう“遅い”のさ」


 黒衣の小yぞ――見覚えのない依代が、笑いながら近づいてきた。

 背後には、紅い蛇の影。舌のように揺らめきながら、蓮を舐めるように観察している。


「お前は、“最初から”選ばれてたんだよ。俺たちとは違う方法で」


「……お前は……オロチか……」


「“その一部”ってとこかな? でもまあ、今はまだ名乗るほどじゃない」


 少年は蓮の肩に手を置く。


「自覚しろ。“喰う”ってことは、“選ぶ”ってことだ。

 お前が望めば、どんな神の記憶だって食える。

 でも――それはもう、“神格”じゃない。“喰神”だよ」


「俺は……そんなものじゃ……!」


 叫ぶ蓮。

 だが、次の瞬間――自身の胸の奥から、“黒い瞳”が開いた。


 ズ、という音もなく、空間が沈む。


 その“眼”が見たものは、記録でも光でもない。

 記憶の底に沈んだ“原初の傷痕”だった。


 雷神の咆哮。

 海神の涙。

 月神の孤独。


 それらすべてが、“意味”としてではなく“味覚”として蓮の内側に流れ込んでくる。


「……これが、喰うってことなのか」


 蓮は悟った。


 これは力でも救いでもない。

 ただ、記憶を“自分のものにする”という、果てしなく傲慢な侵食だ。


 それでも。


「……選ぶよ。俺は、喰う。俺の意思で、喰らう」


 そう言った瞬間、黒い陣が“沈黙”に転じた。

 暴走ではない。蓮が“選んで”制御した、その最初の瞬間だった。


 だが、空間に残ったのは――他の依代たちの“恐怖”の眼差しだった。


「……あいつは、もう“俺たち側”じゃない」


「神格の器じゃない……記憶を狩る存在……!」


「喰神……記録外の化け物……!」


 ざわめきが、蓮を包んでいく。


 司馬が一歩前に出る。


「蓮。……もう、お前は“神憑き”じゃない」


 その言葉は、宣告だった。


 蓮は俯いたまま、微かに笑った。


「……そうかもな。

 けど、それでも“俺”は、ここにいる」


 儀式空間が崩れ始める。

 神格たちが各々の世界へ還っていく中、蓮は最後までその場に立ち尽くしていた。


 


 ──《記憶の奪還:進行度21%》


 


 もう、後戻りはできない。


 赤い空。黒い雨。世界が、悲鳴を上げていた。


 蓮が目を覚ましたのは、まるで天地が逆転したような異空間だった。

 地面には歯のような岩が生え、空には無数の“目”が開いている。


「ここは……現実じゃない?」


 耳鳴りが止まない。心臓の鼓動と地鳴りが重なる。

 その奥で、声が響いた。


「来たね、“喰神”」


 声の主は、黒い衣に身を包んだ少女だった。

 年齢は蓮と同じくらい。けれど、その瞳は、遥か昔から全てを見てきたような色をしていた。


 その背後には、巨大な影。

 八つの蛇の首が、蠢いている。うち七つには異なる神格の“痕跡”が刻まれていた。

 それが――ヤマタノオロチの依代。


「君の中にいるものは、すべてを喰らい、形を与えず、語らせない。“記録されない神”……」


「だから何だ」


 蓮は、一歩踏み出す。


「俺はただ、“思い出したい”だけだ。

 名前も、記憶も、意味も持たなかったこの存在が――何だったのかを」


 少女は、優しく微笑んだ。


「それは、“記録”じゃない。“否定”だよ。

 君は存在するだけで、世界の“構造”を壊す。君が選ばれたのは偶然じゃない」


 空が唸る。蛇が吠える。


 「さあ――喰い合おう、“過去”を懸けて」


 その声とともに、黒い空間が一気に裂けた。


 蛇たちが襲いかかる。

 一撃ごとに、神々の力――雷、水、火、風――が襲いかかってくる。



 そして、影が走る。


 蓮の足元から展開された黒い陣が、蛇たちの記憶を“断片ごと”飲み込んでいく。


 雷の咆哮が、音もなく消える。

 水の奔流が、泡のように弾ける。


 ひとつ、またひとつ――蛇の首が、記憶ごと消えていった。


「……本当に、喰っている……」


 少女が呟く。その声には、恐怖と、微かな憧れが混じっていた。


「君は……私とは違う。私は記憶を継いで、重ねて、完成体を目指した。

 でも君は、最初から“意味の外”にいる……存在の定義そのものを変える者」


「だったら――俺の存在が、“名前を与える”番だ」


 蓮の目が開く。

 そこには、黒ではない“何か”が灯っていた。


 “記録”でも“継承”でもない、“自我”という名の色が。


 最後の一撃が、虚空を切り裂いた。


 八つあった蛇の首は、すでに七つが沈み、残された一本が、うねるように蓮の前に立ちはだかる。

 だが、その動きに、もはや力はなかった。


 蓮の中で、黒い“何か”が脈動している。

 喰らった神々の記憶。それらはすでに“力”ではなく、ただの沈黙として存在していた。


 「……終わらせるか?」


 内側の声が問いかける。

 淡々とした、しかしどこか楽しげな響きで。


「そうだな。……もう、終わらせよう」


 蓮は、最後の蛇の瞳をまっすぐに見据える。


「お前が何を求めてきたのか、全部は知らない。

 でも俺は――“喰う”ことで、何かになれるとは思ってない」


 蓮がゆっくりと手をかざす。

 その指先から、黒い霧が、優しく伸びていく。

 だがそれは、暴力ではなかった。


 “記憶を喰らう”のではなく、葬るという行為だった。


「もう……いいんだ。

 忘れられた過去も、名のない神も、全部この手で――還してやる」


 光のない世界に、わずかに風が吹いた。

 残された最後の蛇が、そのまま塵となり、崩れ落ちる。


 ヤマタノオロチの依代――黒衣の少女は、ゆっくりと膝をついた。


「……君は、何者なんだろうね」


「俺も、わからない。

 ただ、“記憶”に意味を求めるのを、やめただけさ」


 ふっと、少女は笑った。

 それは、ほんの少し救われた者の笑みだった。


「じゃあ、君の記憶は――」


「俺の中にある“それ”は、もう記憶じゃない。

 ただ、俺が俺であるために選んだ、“空白”だ」


 空が晴れていく。

 赤く濁った空間が、静かに崩れていく。


 次の瞬間、蓮の視界は一面の白に包まれた。


 ……


 


 目を覚ますと、蓮は自室のベッドの上にいた。


 何も変わっていない。

 だが、何もかもが変わってしまっていた。


 スマホの画面に、またあの文字が浮かぶ。


 


 ──《記憶の奪還:進行度 100%》


 


 それ以上、更新はなかった。


 蓮はそれを見て、静かにスマホを伏せる。


 そして、空を見上げた。


 雲ひとつない空。だが、そこには、名も形もない“何か”が、確かに消えていった気がした。


 


 神ではない。

 英雄でもない。

 ただ一人の、“名前なき存在”。


 その物語は、誰の記憶にも残らない。

 だが確かに、ここにあった。


 


 ──黄泉に還れ、英雄たち。

   俺は、“過去”を喰らって、生きる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ