それ、私じゃなくてあなたが終わりです
「アーティア。──我が婚約者たる資格、今ここで剥奪する!」
王太子グラントの声が、玉座の間に高く響く。
その瞬間、時すら凍る音が聞こえた気がした。
ざわめく廷臣たちに記録官。
彼の隣には、レースのドレスを着た小動物のような令嬢の姿があった。
金髪をくるくると巻き、わざとらしく怯えた表情で彼の袖に縋っている。
男爵令嬢、リル・フェリア。
彼女を見ると、私はふっと笑みが漏れてしまいそうになった。
「すべて知っているのだぞ!」
「あら、なにをでしょう」
「惚けるな!」
グラントは伯爵令嬢である私を見て、勝ち誇った顔で続けた。
「この俺を貶め、我が国を乗っ取ろうと謀るとは。それだけでは飽き足らず、リルに数々の嫌がらせを──お前はここで終わりだ、アーティア!」
その言葉に、私はただ穏やかに微笑んだ。わずかに目を伏せて、口元だけを緩める。
ええ、まあ。乗っ取ろうとはしましたが。
私が終わり、ですって?
怯えを見せない私に気を悪くしたのか、グラントは一瞬眉を顰めながらも、すぐに横柄な笑みを浮かべた。
「証人はいる。リルよ。アーティアの悪行の数々を、皆に話すのだ」
あら。悪行の数々とは……楽しみだこと。
指名されたリルは、嬉しそうににっこりと微笑んでいる。
「はぁい、喜んでお話ししますわぁ」
「そしてシオン。お前は宰相として、この女の悪事を洗いざらい暴け!」
「仰せのままに、グラント殿下」
涼やかな声が応じた先──
そこには、灰銀の髪を後ろで束ねた美丈夫が静かに立っていた。漆黒の礼装に身を包み、切れ長の瞳に冷静な光を宿すその姿は、ひと目で只者ではないとわかる。
氷のごとく沈着冷静なその男は、若くして政庁の階段を駆け上がり、わずか二十七歳で宰相の座についた天才官僚──シオン・カヴァリエ。
小鳥のように愛らしいリルと、氷のように美しいシオン。
二人は静かに、視線を揃える。
そして向けられたのは──私ではなく、王太子。あなたの方だった。
「な……っ」
その顔、見たかったの。
愚かで、自分だけが勝者だと思い込んでいたあなたの、その表情を。
私は静かに一歩、前へ出た。
「……それ、私じゃなくて──あなたが終わりですわ」
***
──すべては、五年前の“命令”から始まった。
「第一王女アーティア。我がヴァルテア王国の名において、そなたに託す──“ルクレイド王国を、救え”」
……はい? と、思わず聞き返しそうになった。
お父様の声は真剣そのものだったけど、内容はどう考えても“乗っ取ってこい”の一言に尽きる。
「堕落した王政と貴族制度のもと、あの国の民は今も苦しんでいる。正義も公正も失われ、法は金貨に沈み、声なき者たちの涙は見捨てられている。だから、お前を送るのだ。希望として、変革の灯火として」
……ほんと、我が父ながら演説が上手すぎる。
要約すると、『お前ならうまくやれるだろう、内側からどうにかしてこい』ということ。
「なぜ私に、この任務を?」
「お前だからだよ。……他の誰でもなく、お前だからな」
それは、第二王女には頼めないということ。理由ははっきりとは語られなかったけれど、隣国での危険がそれを物語っている。
確かに、私が行くしかないのでしょう。
もっとも、断るつもりなど最初からなかったけれど。
相手はルクレイド王国。
かつては魔導具と文化を誇る大国だったけれど──今は見る影もない。
飢えた民が市場の残飯を奪い合い、雨漏りだらけの屋根の下で病人が野ざらしにされている。
子どもは読み書きを学べず、働き手として搾り取られ、大人たちは希望のない日々に心をすり減らしていく。
それでも王宮では、金箔の皿に盛られた食事が廃棄され、魔導具は使い捨てが当たり前、という贅沢っぷりらしい。
法も秩序も、金貨一枚でひっくり返る国で、王族と貴族たちは当然のように贅沢三昧している。
私はそんなルクレイド王国へと、“花嫁候補”という仮面をかぶったスパイとして、潜り込んだ。
滅びかけた国を、少しだけ違うかたちで救うために。
腐った王子と宮廷をきれいに掃除して、そこに住まう人々に少しでも明るい未来を取り戻すために。
ルクレイドを滅ぼすんじゃない。
──救うの。
そのために、私は乗っ取る。
身分を偽った私は、ルクレイド王国での協力者──カザリーヌ伯爵家の養女として迎え入れられた。
十五歳の時だった。
立場を与えられ、“完璧な伯爵令嬢”として振る舞った。王家との距離も、計画通りに縮めていった。
それから五年。
顔を広げ、情報網を張り巡らせ、宮廷の空気に溶け込み……ついに私は、王太子グラントの婚約者に選ばれた。
──選ばれた理由? 笑ってしまうわ。
王太子たる者が「美人で従順そうだから」というたった一言で、将来の妃を決めるなんて。
……本当に、滅ぶべくして滅ぶ王家よね。
私は微笑みを絶やさず、ばかばかしい宮廷劇の一幕に、しらじらしくも役を演じ続けていた。
接待と饗宴、魔導具の浪費に、裏金の回収──
調べれば調べるほど、滑稽なくらいに堕落した情報が出てくる。
けれど、それだけでは足りなかった。集めた情報だけで王政を揺るがすには、証拠も、味方も、まだ足りない。
そんなもどかしさを抱えていた時、私は──彼に、出会う。
名はシオン・カヴァリエ。
宰相付きの高官にして、宮廷内でも群を抜いて寡黙な男。
銀灰色に輝く髪は闇に浮かぶ月光のようで、彼の冷静な瞳とともにひときわ異彩を放っていた。
礼儀正しく、常に沈着冷静。誰の悪口も噂話も口にせず、完璧な言葉づかいで立ち居振る舞いも非の打ち所がない。
……その完璧さゆえに、逆に私は違和感を覚えた。
王宮の人間はもっと醜く、もっと愚かだもの。
彼は、誰もが抱える弱さや醜さを、あえて見ないふりをしているように見えた。
それがまるで「知り尽くしたうえで、自分は汚れに染まらない」と無言で宣言しているかのような──。
素でできる態度とは思えない。
私は、彼に近づいた。ある日、書庫に続く廊下で、自然を装ってすれ違う。
「おはようございます、シオン様。……夜は、ゆっくり眠れました?」
たったそれだけの、何気ないあいさつ。でも、私の問いかけには意味があった。
“夜”という言葉に、特定の反応を返す者。
それが──父王から知らされていた、“もうひとりの協力者”の証。
彼は一瞬だけ瞬きし、けれど表情は変えずに応じた。
「はい。……“夜が明ければ、必ず光が来る”と信じております」
その瞬間、確信した。
それは、ヴァルテアでしか交わされない言葉。
内密の使者や潜入者が、味方を見分けるために使う合言葉だった。
「奇遇ね。私もずっと、それを信じていたわ」
彼は私に目を向けると、静かに一礼した。
「お待ちしておりました──王女殿下」
ようやく私は、王政を崩すための“味方”を一人、得ることができた。
***
その夜、私は彼を呼び出した。
カザリーヌ伯爵家の離れの応接間。
扉が閉まる音を最後に、空間がぴたりと静寂に閉ざされる。
椅子に腰かけた彼は、そっと開いた手帳とともに、書類を差し出した。
「こちらが、王太子グラント殿下の資金の流れです」
机に広げられた数枚の書類に、私は目を向ける。
「表向きは王立開発基金。ですが実態は、遊郭や魔導具業者への賄賂に流れています」
私は数枚確認しただけで、鼻で笑いそうになるのをこらえた。
「賄賂相手の名簿まで添えてあるのね。丁寧すぎるわ」
「ええ。殿下は愚かですが、妙に几帳面でして。帳簿も契約書も、すべて自筆。無駄に署名も押印も揃っています」
「自分の墓穴を丁寧に掘ってくれて助かるわね」
指先で紙をめくる。魔導具の不正流通、歓楽街の裏金、貴族への名誉職の売買──まるで腐敗の見本市だ。
「……このまま潰すのは、正直簡単よ。でも」
私は小さく息を吐いた。
「それだけじゃ足りないの」
視線を上げると、シオンの目がわずかに動いた。
「どういう意味ですか?」
「ただ壊すだけじゃ、瓦礫しか残らない。この国を救うには上だけじゃなく、土台から取り戻さなくては」
「つまり……乗っ取ると?」
彼の声はいつになく低く、慎重だった。
「ええ。あの王子を王位継承権から排除し、代わりに──私が“正統に”次代を名乗る」
一拍の沈黙。
彼の目に、わずかな驚きと、それをすぐに打ち消す思考の色が走る。
「……その、お覚悟は?」
「私は、ヴァルテア王国第一王女。ルクレイドを堕落から救い、正義と秩序を取り戻す使命があるのよ」
私は真っ直ぐに彼の瞳を射抜いた。
それは、ヴァルテア王族として育てられた者だけが知る、決して膝を折らぬ眼差し。
「……承知いたしました」
彼は小さく頭を下げたあと、懐から細い金属の指輪を取り出す。
「これは、私に託された“王命執行者”の証です。殿下にのみお見せするよう、命じられています」
受け取って確かめると、それは間違いなく内側にヴァルテア王国の王紋が彫られていた。
「すべてはアーティア様のために」
重さはないのに、手のひらがじんと熱くなる。
彼の言葉が、思った以上に胸を打った。
これは信頼。忠誠。そして、同じ未来を見据える“同志”としての絆。
「ありがとう、シオン。……さあ、始めましょう。この国を、私たちの手で」
私たちは手を取り合い、そして微笑んだ。
これで、土台は整った。
けれど、まだ一手足りない。
この作戦に必要なのは、もう一人──“仮面を被った本物”だ。
それは男爵家の長女、リル・フェリア。
彼女の弟は数年前、王太子グラントの馬車に轢かれて亡くなっている。
……そこに、気になる接点があった
くるくるとした金髪に、曇りひとつない空色の瞳。甘やかされて育った“ぽわぽわ令嬢”──それが世間のリル・フェリアの評価。
彼女はかつて、王太子妃の座を狙っていた私のライバルだった。
当然、それはどう考えてもおかしい。
弟を死なせた相手に、普通は自ら嫁ごうとはしないもの。
私が“従順な伯爵令嬢”を演じて、王太子の婚約者に選ばれたように。
彼女もまた──仮面を被って、機会を窺っていたに違いない。
結局、婚約者の座を射止めたのは私だった。けれど、リルのグラントに対する憎しみが、消えているとは思えない。
だから、確かめた。
彼女の動きを探らせ、三日も経たずに確信を得た。
ぽわぽわの仮面の裏で彼女は、裏口から孤児院に資金を届け、商人の子弟に読み書きを教え、貴族の醜聞を密かに記録していた。
……これは、予想以上ね。
私はすぐに、彼女を屋敷に呼んだ。
もちろん、表向きはティーサロンのお誘い。
「紅茶はお好きかしら? ヴァルテア式だけど」
「まぁっ……アーティアさまのお紅茶って、すごく素敵な香りですぅ……ドキドキしちゃいますわぁ」
あいかわらずの調子ね。
けれど侍女を下げ、私がカップを置いて静かに口を開くと、彼女の目は変わった。
「リル・フェリア嬢。……演技は、もう必要ないわ」
「…………っ」
数秒の沈黙。次の瞬間、リルは小さく、息を吐いて笑った。
「……やっぱり。アーティア様は、普通じゃないと思っておりましたわ」
「あなたもね。従順な令嬢を装いながら、貴族たちの汚れ仕事を記録していた。その目的は?」
リルは一度、目を伏せた。長いまつげが震え、かすかに唇が引き結ばれる。
まるで、心の奥にしまい込んだ何かを掘り起こすように、ほんの少し間を置いて──
やがて、静かに口を開いた。
「弟を殺されたからです。王太子グラントの馬車に……“急いでいたから”という理由で轢かれて、見向きもされずに。御者が止めようとしたのに、殿下は『捨ておけ』と……」
声は静かだった。でも、その中に込められた怒りと覚悟は、私の想像以上だった。
「謝罪もなく、調査もなく、記憶にもない。……私が、あのときの姉だとすら、あの人は気づいていないんです」
その言葉に、私は頷いた。
心の奥底まで怒りを秘め、それを仮面の裏に隠し通す器量──貴族社会を欺くには、それくらいの覚悟が必要なのよ。
「それで王太子妃の座を狙っていたの?」
「はい。王太子妃になれば、この現状を少しでも変えられるかと思ったんです」
「弟の仇に嫁ぐなんて、尋常じゃない覚悟だわ」
「私の苦しみなんて、弟の無念に比べたら、大したことじゃありません」
その目に宿る光を、私は見逃さなかった。
迷いも飾りもない、本物の意志。
痛みを知り、未来を見据える者だけが持つ光だった。
私は静かに椅子を引き、立ち上がる。
懐から取り出したのは、ひとつの印章。
ヴァルテアの王紋が刻まれたそれは、この国において“よそ者”を示す烙印であり、私にとっては、誇りそのものだった。
リルは目を見開き、息を呑む。
「驚かないで。私は──ヴァルテア王国第一王女、アーティア・レグナス」
その名を口にするたび、私は自分に誓いを立て直す。
この国を変える。そのためなら、嘘も仮面もいとわない。
「王太子妃になるだけで変えられることは、少ないわ。けれど、あなたが私と組み、王子を欺くと言うのなら──この国を根底から変えられる」
しばしの沈黙の後、リルは背筋を伸ばし、深く頷いた。
そして、ふっと笑う。
「私、けっこう、裏切るの得意なんです」
甘くて、少し棘のある笑みだった。
誰よりも痛みに耐えてきた人の、優しくも覚悟ある顔だった。
私は手を差し伸べる。
彼女の手が重なるのを見届けながら、静かに言った。
「歓迎するわ、リル。ようこそ──私たちの作戦へ」
***
それから、静かに、けれど確実に時間は流れた。
王太子の傍には、リル・フェリアが隣にいることが増えていた。
とろけるような笑みで近づき、甘い声で王子を惑わせる。
たまに涙を滲ませてみせたり、袖を掴んで心配するふりをしたり──そのすべてが彼女の計算だった。
恋心を匂わせ、王太子の“特別”になる。
そして、さりげなく耳にした情報を私たちへと届け、時には嘘の噂で彼を撹乱する。
けれど彼女は、決して身体を許したりはしない。
近すぎず、遠すぎず、相手に“もっと”を求めさせ続ける絶妙な距離。
王子がその手のひらで踊っていることに気づくことは、もうないだろう。
その間に、私とシオンは記録を集め、証拠を積み上げ、周到に包囲網を狭めていった。
そしてある夜。
静かな応接室に、いつもの三人が集まった。
シオンの手から、ひとつの封筒が差し出される。
「──王都中央署の記録です。殿下が個人的に“封じた”傷害事件の写し。被害者は平民。示談ではなく、殿下自ら金で“沈黙を買わせた”案件です」
言葉が重く落ちる。
けれど、それは私たちが待ち望んでいた、決定打になり得る証拠だった。
シオンは白手袋を外し、丁寧に揃えた紙の束を机に置く。迷いのない所作、隙のない手並み。
そのすべてに、私は信頼以上のものを感じてしまう。
「完璧ね。ありがとう、シオン」
微笑みながら手に取ると、すぐに目を通した。
傷害、口止め料、不正な処理──すべて帳簿と矛盾なく裏付けがとれている。
その中には、リルの弟の件もきちんと含まれていた。
策略、証拠、証言、裏取り。
ひとつひとつが綿密に積み上がり、もう計画ではなく、作戦として現実が動き出している。
「お疲れでしょう」
私とリルに紅茶と菓子を差し出したシオンが、ふと視線を寄越した。
顔を上げると、思ったよりも距離が近くて──不意に、心臓が跳ねた。
「……甘いものがお好きでは?」
その低音の声に、思わず目を瞬かせる。
なにを、動揺しているの、私。
もう何度も顔を合わせているのに。
見慣れているはずなのに、なぜか彼を見るたびに鼓動が大きくなる気がする。
「ふふ……お二人とも、仲がよろしいんですのねぇ」
リルが、カップにお茶を注ぎながら楽しげに笑った。
「……なによ、突然」
「いえいえぇ? なんでも、ありませんわぁ」
くるくるとスプーンを回す音が、やけに軽やかに響く。
彼女の笑顔は、いつも通りぽわぽわしているけれど──なんとなく、今日は少しだけ、うれしそうに見えた。
私はカップを手に取り、唇を湿らせる。
「とにかく……証拠も地盤もすべて整ったわ。あとは、舞台に立つだけ」
私の言葉に、シオンとリルが、ゆっくりと頷いた。
***
数ヶ月の策謀と準備は、すべてこの瞬間のために。
そしてついに──舞台の幕が、静かに上がった。
「アーティア。──我が婚約者たる資格、今ここで剥奪する!」
王太子グラントの声が、玉座の間に高く響いた。
彼の隣には、男爵令嬢、リル・フェリア。
私は込み上げる笑みを、ぎりぎりのところで抑えた。今はまだ、“主役”を気取らせてあげる時間。
「すべて知っているのだぞ!」
「あら、なにをでしょう」
「惚けるな!」
グラントは伯爵令嬢である私を見て、勝ち誇った顔で続けた。
「この俺を貶め、我が国を乗っ取ろうと謀るとは。それだけでは飽き足らず、リルに数々の嫌がらせを──お前はここで終わりだ、アーティア!」
断罪させる舞台を整えるために、あえてその情報をリルから流させていたことも知らずに。
私はただ穏やかに微笑んだ。わずかに目を伏せて、口元だけを緩める。
「証人はいる。リルよ。アーティアの悪行の数々を、皆に話すのだ」
「はぁい、喜んでお話ししますわぁ」
「そしてシオン。お前は宰相として、この女の悪事を洗いざらい暴け!」
「仰せのままに、グラント殿下」
小鳥のように愛らしいリルと、冷静な美貌を湛えた宰相シオン。
二人は静かに、視線を揃える。
向けられたのは──私ではなく、王太子、あなたの方。
「な……っ」
その顔、見たかったの。
愚かで、自分だけが勝者だと思い込んでいたあなたの、その表情を。
私は、静かに一歩前へ出た。
「……それ、“私”じゃなくて。──“あなた”が終わりですわ」
「な、なにを言って──!?」
グラントの顔から、見る間に血の気が引いていく。
私の隣では、いつも通りぽわぽわと笑う令嬢が、スカートをふわりと揺らしながら一歩踏み出した。
「まず、私がされた意地悪の件ですがぁ……あれ、全部──王太子様のご命令でしたのぉ。意地悪されたフリをしろってぇ。ほんとうは、やりたくなかったんですけれどぉ? 殿下が怖くて、つい……仕方なくぅ……」
「なっ……なにを言ってる、リル!? お前もノリノリで──!」
グラントの声が裏返る。
彼は、あり得ないものでも見たように、リルを見つめた。けれどそれ以上に慌てたのは、次に彼が目を向けた男の名を呼んだ時だ。
「シ、シオン! お前も見ただろう、こいつの悪事を!」
そしてその男──宰相シオンは、優雅に手を胸へと当てた。
「ええ、殿下。余すところなく、見ておりました」
宰相シオン・カヴァリエ。
王国の頭脳にして、王太子の右腕だったはずの男が、冷ややかな顔のまま、威圧を強めながらグラントの元へと歩いていく。
「──そして私は、すべてを記録しております。裏金の流れ、妾のための機密費、事故死した少年の処理命令……すべて、あなたの署名入りで」
「シオン……貴様、なにを言って──っ」
「証拠はこちらに。これはごく一部ですがね」
シオンが懐から紙の束を取り出し、無造作に突き出す。
グラントは一歩、二歩と後退し、私を見る目が怯えと憎悪に染まっていた。
「……アーティア。お前……!」
逃げ場など、もうどこにもない。
私は、冷たく、静かに言い放つ。
「終わりですわね、グラント殿下」
静寂が落ちる。
まるで玉座の間そのものが、息を呑んだようだった。
「この場にて、すべての証拠を提示いたします」
シオンの合図で、控えていた文官たちが木箱を運び入れる。中には、帳簿、書簡、証言の写し──王国を蝕んだ醜聞が、これでもかと詰め込まれていた。
「リル! なぜだ! お前を妃に迎えるとまで言ったのに! アーティアと婚約を破棄してでも、俺はお前を選ぶつもりだったんだぞ! このままでは妃になれないんだ! それでもいいのか!?」
縋るようにリルへと手を伸ばすグラントに、彼女はひとつ、ため息をついて口元を歪めた。
「お触り、なさらないでいただきたいですわぁ……」
その声は、氷のように冷ややかだった。
空色の瞳が見下ろす先は、まるで虫けらを見るまなざし……
いえ、そんなことを言っては虫けらに失礼ね。
「裏切る気か、リル!? おまえ、俺を──っ」
「この日を……どれだけ待ち望んだことか。これで、弟も……少しは浮かばれましょう」
「なにを……言ってる……?」
リルの声が、震えていた。怒りと、哀しみと、決意とで。
「殿下の馬車に……弟は殺されたのです。なのに殿下は『捨ておけ』と。謝罪も、調査もない。私が“姉”だということすら──気づいていなかった……」
「弟だと? そんなものはどうでもいい! 今は──」
その言葉に、リルはキッとグラントを睨みつける。
「触れないでくださいませ!! これまでどれほどおぞましかったことか!!」
叫んだ瞬間、リルの目から涙が溢れ出した。
立派よ。立派すぎるわ、リル。
本当にここまで、よくやってくれた。
グラントから逃げ出すように駆けてきたリルを、私は優しく抱き止める。
「ありがとう……本当に頑張ってくれたわ……」
「アーティア様……っ」
「あとは、すべて私に任せて」
その時、玉座の間の空気が決定的に変わった。
もう誰も、グラントを見ていない。
人々は私たちに──この国を変えようとする者たちに、視線を向けていた。
「シオン」
私が名を呼ぶと、シオンは頷き、兵へと視線を送る。
「グラント殿下を拘束せよ。この場での逮捕に、十分な証拠がある。」
その言葉に、兵たちが即座に動いた。
「ま、待て、俺は王太子だぞ! 父上の許可が──」
「その“父上”を巻き込んだ犯罪の証拠も、すでに確保済みです。国王陛下の判断を仰ぐまでもありませんわ」
私は静かに前へ進み、口を開く。
「──この国の王族、そして腐敗に加担したすべての貴族たち」
そして高らかに言い放つ。
「全員、お覚悟なさいませ!!」
廷臣たちの間に、激震が走る。
動揺、恐怖、そして……希望。
これが、私たちの革命の始まりだった。
あるいは、“乗っ取り”の第一歩だったのか──。
グラントが拘束されると、王宮の空気は一変した。
私たちが突きつけた証拠と証言は、あまりに明白。
廷臣たちは言葉を失い、衛兵たちはもはや王子の命令に従おうとしなかった。
その夜のうちに、グラントの側近たちは国外逃亡を図り──ある者は罪状を前に、自ら命を絶った。
国王の寝所は固く閉ざされた。
“心労により倒れられた”と発表するに留まったけれど、実際にはすでに、政の中枢から排除されていた。
ルクレイド王国の上層部が機能することは、なかった。
そして私は、粛清を始めた。
裏金に手を染めた財務長官。
貧民を兵として売り払った南部の領主。
貴族の娘を裏で売り渡していた社交界の重鎮──
ひとつひとつ証拠を揃え、罪状を明かし、辞任を促す。
それでも抗えば、ためらわずに断罪した。
シオンが政務処理を支え、リルは残された良識ある貴族たちの心をつないだ。
「つらい日々は、きっともう過去のことになりますわ。どうか信じてくださいませ。この国には、まだ希望がございます。これからは民の笑顔が咲く国を──皆さまと共に、手を取り合ってまいりましょう」
リルの涙ながらの演説は、王都の広場で大きな拍手を浴びた。
ぽわぽわとした愛らしい声が、かえって真実味を帯び、民の心に深く届いたのだ。
広場に集まった群衆は、改革の意味など知らず、ただ“悪者が裁かれた”という物語を信じた。
国が新しく生まれ変わるのだと。
そして、誰も気づかなかった。
新たに玉座を覆い始めた意志が、どこの国のものであるかを。
数日後、ルクレイド国王の退位が正式に発表された。
けれど、それよりも大きな衝撃をもって報じられたのは、王太子グラントの処刑命令だった。
処刑の決定が下されたのは、公開の場ではなかった。
けれど、密室の私刑でもない。
王族として、そして一人の人間として、正しく裁かれた結果だった。
「グラント・べオニス・ルクレイド──王太子の名を、今この場をもって正式に剥奪します。そして、国家反逆・横領・殺人教唆・民草の踏みつけに対し、断罪を行います」
玉座の間に、重たい沈黙が降りた。
私の宣告を受けて、彼はまだ、口を開こうとした。
その目に“自分は王子だ”という自負を、滲ませて。
「ふざけるな……アーティア。俺は、この国の“未来”なんだぞ……。俺を殺せば、この国は終わる……」
「いいえ、違いますわ。あなたがいたから、この国はここまで腐ったのです」
冷たく言い放つ私に、グラントは睨みを向けた。
「っ……お前ら……リル……! お前だって、俺の傍にいたじゃないか……!」
怒鳴る声に、リルは眉ひとつ動かさない。
ただ、その空色の瞳が、ゆっくりとグラントを見た。
泣きもせず、怒りもせず。
まるで、これが当然の結末だと告げるように。
グラントという存在を、ただの失敗として静かに見つめるように。
その無慈悲なまでのまなざしに、彼の顔が引きつった。
理解したのだ。そこに、もう自分の居場所などないと。
まるで溺れる者が縋るように、グラントは視線をシオンへと向ける。
「……シオン、お前は……」
名を呼ぶ声は、かすれていた。
救いを求めるような視線を受けて、シオンが口を開く。
「……私があなたに仕えたのは、忠誠心ではありません。国家のためという“義務”でした。ようやく、終わりにできます。あなたという悪夢を」
その瞳には、凍りつくような嫌悪と、容赦のない軽蔑が宿っていた。
情けも、憐れみも一片もない。ただ、見限ったものに向ける視線──処分すべき無価値な存在への、それだった。
グラントは口を開きかけるも、漏れるのは声にならない呻きだけ。
その言葉を拾おうとする者など、この世のどこにもいなかった。
そして兵は動き、彼の両腕を縛る。
その瞬間、彼は最後の抵抗を吐き捨てた。
「俺は……王子なんだぞ……! この国の“血”が流れてるんだ……! お前のような女に、なにがわかる!! 民どもに媚びて、偽りの正義で王座を盗れると思うなよ!!」
グラントの最後の叫びは、まるで子どもの癇癪のよう。
その血こそが腐敗の源だったと、あなたは気づく気さえなかったのでしょうけれど。
私は静かに、けれど凛とした声で答える。
「確かに、私はこの国の血筋ではないわ。隣国ヴァルテアの第一王女、アーティア・レグナスよ」
「……は?」
グラントの顔が、信じがたいものを見たかのように歪んだ。
シオンが一歩前に出て、冷静に付け加える。
「あなたの腐敗は、この国だけの問題ではない。ヴァルテア王国の王女が、この国を再建するためにここに来られたのだ」
真実を突きつけられたグラントの表情は、怒りと嘆きが入り混じっていた。
「お前……! 最初から騙していたのか! これは乗っ取りだ! こいつらを捕らえろ! 俺は、この国の正当な王太子だ!!」
彼はまだ、自分が失ったものの大きさを理解できていなかった。
その声に王子の矜持はなく、ただの子どものわがままでしかない。
私は一歩近づき、静かに告げる。
「……その“王子”という称号は、今、あなた自身の手で地に堕ちたのよ。」
兵士たちに合図を送ると、彼は無理やり連れ去られていった。
グラントは顔を引きつらせ、震えながら必死に喚き散らす。
「待ってくれ! 助けてくれ! まだ死にたくないんだ!」
足をばたつかせ、涙と涎を混ぜて声を震わせるその姿は、哀れみを通り越して滑稽だった。
私たちは一切表情を崩さず、冷たい視線のまま、彼の醜態を静かに見送った。
そしてその夜──王太子グラントの処刑が、国に向けて発表された。
王族であっても、罪を犯せば裁かれるという前例として。
「これが正義かと問われれば、きっと違うんでしょう。けれど、正しいことと必要なことは、また別のお話」
私の言葉に、シオンとリルは頷いてくれる。
王太子であったグラントの名は、記録から抹消された。
以後、“大罪人”とだけ記されることになる。
彼の墓は建てられず、遺体も公には弔われなかった。
それが私たちが選んだ、正義の形。
私は、王じゃない。
ただ、この国を整えた者。
けれど── 王以上にこの国を想っている。
これは、私たちの革命の終わり。
そして……私の、未来の始まり。
国は空位となり、政務は暫定評議会のもとに運営され始めた。
そして、その中心に立ったのは──この私。
「ヴァルテア王国第一王女、アーティア・レグナスです」
その名を、私は初めて公の場で口にした。
王宮前広場。噴水の前に集まった民たちが、沈黙とざわめきを繰り返す。
そのすべてを正面から受け止めながら、私は続けた。
「この国は今、選び直す時です。名ばかりの王に従うのではなく、民を守る政治を選ぶのです」
一瞬、広場に重たい沈黙が落ちた。
そして──どこからともなく、誰かが小さく手を打った。
控えめな拍手。けれど、その音が引き金となったように、次第にあちこちでざわめきが広がる。
「……本気で言ってるのか?」
「でも、あの人がいなければ、今ごろ国は……」
「王女様……いや、あの人は……」
声は交錯し、疑念と希望がせめぎ合う。
険しい顔で腕を組む者。涙をにじませる老婆。小さな子どもを抱きしめる母親。
私の言葉が、すぐにすべてを変えられるとは思っていない。
それでも、たしかに揺らぎが起きていた。
民の目が、少しずつ、私を見ていた。
やがて、群衆は戸惑いを残したまま、少しずつ広場をあとにしていった。
──しかしそこに、ひとりの男が、動かずに残っていた。
黒いマントを羽織ったその男は、人波が引いた噴水の前で、誰にも気づかれぬように小さく息を吐いた。
そして、低く呟く。
「……王女の血、ね。本物かどうか──確かめてみる価値はありそうだ」
唇の端をわずかに吊り上げたその顔には、興味と欲望、そして危うい野心の色が滲んでいた。
男の姿が群衆の向こうに紛れていったあと、空気は静かに流れ出す。
──私は、その視線に気づくことはなかった。
静けさを胸いっぱいに吸い込んで、そっと顔を上げる。
武力に頼ることなく、私たちは腐った中心を暴き、終わらせ、次を築いた。
結果、ヴァルテアは軍を動かさずに、ルクレイドを“受け入れた”。
けれど、それを手柄にするつもりなんてない。
正確に言えば──この国は、自ら滅んだのだから。
私たちはただ、それを静かに整えただけ。
かくしてルクレイドという国は幕を閉じ。ヴァルテアの一州として、吸収された。
***
──統合から半年。
ヴァルテアは新たな制度を敷き、貴族たちの過剰な権限は大幅に縮小された。
教育機関と治安組織は根本から再編され、税制も一から見直されていく。
かつて腐敗の温床だった魔導具工房には公的な監査が入り、少しずつ“再生”という言葉が似合う場所へと変わっていった。
街を行き交う人々の顔に、ようやくまっとうな希望の灯がともり始めている。
未来を見据えて夢や願いを語る声が、あちこちから聞こえるようになった。
日々聞こえてくる民の感謝の声に、私の胸はじんわりと温かくなる。
受け入れてもらえた喜びと、これまで積み重ねてきた努力が報われているという実感。
民と共に悩み、汗を流し、歩みを止めなかった日々が、今こうして確かな実を結んでいる。
この幸せを噛みしめながら、私はこれからも皆と手を取り合い、未来を築いていく。
そしてリルは今や、再建委員会の窓口として日々奔走していた。
ぽわぽわと笑いながら、時に鋭い提案で会議室の空気をひっくり返すのは相変わらず。
あの物腰に油断して、何人の官僚が冷や汗をかいただろう。
彼女がぽわんとした笑顔で皆を巻き込んでいく姿を見るたび、この国の未来は明るいと感じることができた。
***
──ある夜。
政庁舎の屋上で、私はシオンとふたりきりで話す時間があった。
澄んだ空気の中、銀灰の髪が夜風にふわりと揺れる。
彼は空を見上げ、それから、まっすぐに私を見た。
「……ずっと思っていました。あなたは、ただ合理と計算だけで動く人じゃない」
その言葉に、胸の奥がかすかに脈打つ。
冷静で、理知的で、滅多に感情を見せない彼が、選んでくれた言葉。
それはどこか、優しい告白のようにも聞こえた。
私は少しだけ視線をそらし、それでも笑う。
「……人も、世界も、理屈だけでは動かせないわ。だから私はこの国の未来に向き合う道を、自分で選んだの」
お父様に言われたからじゃない。
この国のために生きようと決めたのは、私自身だ。
彼の目は、すべてを見透かしているようで──それでも、どこまでもやわらかく、あたたかかった。
そして、私は気づいてしまった。
役割や立場を超えて、一人の男性として彼を見つめている自分がいることに。
だけど、私はひとつだけ、シオンに隠していることがある。
この国がもう少し落ち着いたら、その時こそ──必ず。
***
日々の平穏を影が脅かしたのは、ある日の午後だった。
政庁舎の一角、私の執務室に、不意に男が現れた。
細く鋭い目。油のように滑る口調。……どこかで見たような気がしたけれど、思い出せない。
「アーティア様。……実は、少々気になることがありましてね」
彼はにやりと笑いながら、一通の紙を机に置いた。
「貴女が“王女”である証拠が、どうやら意図的に隠されているようですな。血筋を証明する系譜書も、王族印の指輪も……一切見当たらない」
私は黙って視線を返す。けれど彼はなおも続けた。
「調べさせてもらいましたが、ヴァルテア王宮の記録では──貴女の名前だけが不自然に伏せられている。正式な王女としての記録は、すべて曖昧に処理されているのが明白です」
「……それがどうしたというのかしら?」
「もしこれが事実なら──“王女詐称”として、国家に対する裏切り行為で厳罰に処されることになる。覚悟はできているのか、教えてもらおうか?」
突然横柄となった男の口元に、いやらしい笑みが浮かぶ。
「だが、俺に相応しい地位を与えてくれれば、この件は黙っておいてやってもいい。どうだ、悪くない話だろう?」
彼が最後の言葉を放った刹那、扉が勢いよく開かれた。
「……貴様、それ以上口を開くな」
冷たい刃のような声。
そこにはシオンが立っていた。凍てつくような瞳で、まっすぐ男を睨みつける。
「アーティア様は、この国を救った。それ以上の正当性が、どこに必要だ?」
「シオン……」
「次にそのようなことを口にすれば、国家転覆の意図ありと判断し、正式に裁く」
その声に、男は小さく舌打ちをし、逃げるように去っていった。
扉が閉まると、執務室に静寂が戻る。私は小さく息を吐き、シオンを見上げた。
その顔が、驚くほど心配そうな表情をしていて──私は一瞬、言葉を失う。
「お怪我は……」
「大丈夫よ、シオン。あなたがすぐ来てくれたもの」
「……それなら、よかった」
安堵の吐息を漏らすシオンの姿に、なぜか胸が波立つ。
それと同時に、良心がきゅうっと痛んだ。
「シオン……今まで隠していて、ごめんなさい」
「……事情があったのでしょう。私に謝る必要はありません。王家の血があろうとなかろうと、あなたはあなたです。私は、あなたを信じています」
「……ありがとう」
シオンの穏やかな笑みに、ようやく肩の力が抜けた気がした。
──けれど、私はもう決めていた。
最初から、ずっと。これはいずれ、明かすべきことだと。
そして、数日後。私は再び、民たちの前に立った。
「私の名は、アーティア・レグナス。ヴァルテアの第一王女です。けれど、本当はその血を……──引いて、いません」
ざわめきが走る。
私は、一呼吸置いて、はっきりと告げた。
「ヴァルテア王は、血が繋がっていなくとも父に変わりはなく、私はこの国と向き合う任を託されています。しかし私は、自分の意思で──想いと責任で、この国を守ると、そう誓います。皆さんと共に国を発展させ、この地に骨を埋める覚悟です」
私の覚悟に、ざわめきが消える。
まっすぐな群衆の視線を受けて、私は言い放った。
「どうか、これからも私に力を貸してください。この国を、より良くしていくために!」
しん、と静まり返る中。
最初の拍手が起きた。
それは、ひとりの老婆の震える手から始まり、次第に広がり、やがて大きな歓声へと変わっていった。
「アーティア様は、私たちの王女様だ!」
「血なんて関係ない!」
「ここまで変えてくれた人を、信じないでどうする!」
民衆の声が胸に突き刺さる。
私はただ、静かに、深く頭を下げた。
その瞬間、私はようやく──“アーティア・レグナス”として、真にこの国に立てた気がした。
***
「アーティア様は、王族の血を引いてらっしゃらなかったのですわねぇ」
ぽわぽわとしたリルの声には、ほんの少しの驚きこそあれど、嫌味や責める響きは一切なかった。
彼女の隣に座るシオンも同じだ。
私はそっと笑いながら、彼女の差し出した紅茶を受け取る。
窓の外では春風が、政庁舎の庭を静かになでていた。
「……ごめんなさい。ずっと言わなきゃと思っていたの。でも、言葉にするのが、少し怖かったのかもしれないわ」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
こんなにあっさり、口に出せるようになるなんて。
「でも、知ってほしいの。私のこと、ちゃんと」
そう言って私は、カップを置き、ふたりを正面から見つめる。
リルがにっこり笑って頷いてくれた。
「私は、もとはヴァルテアの子爵家に生まれたの。幼い頃に両親を亡くして、財産はすべて狡猾な貴族に横取りされてしまっていた。……それで、王都の孤児院に預けられたわ」
リルが目を丸くして、思わずといったように小さく声を漏らす。
「まぁ……」
「その頃、ヴァルテア王宮では──第一王女が、重い病で伏せっていたの。次にいつ“表に出せるか”もわからない状態で……。それで、替え玉を立てることになったのよ」
「もしかして、その役に選ばれたんですの?」
私は微笑んだ。
「そう、私。教養だけはあったしね。王の目に止まって、それで……正式に、王女の名を与えられた」
「では……本物の第一王女様は、今……?」
シオンの静かな問いに、私は頷く。
「今はもう元気よ。表舞台に立つことは望まず、静かに暮らしてる。とても優しい子で、私のことを、いつも“お姉さま”って呼んでくれてたわ」
懐かしむように、思い出をなぞる。
「そして先日、ヴァルテア王がすべてを公表したの。“第一王女は二人いる”って。……私は王族の血を引いていない。でも、王の名のもとに、もう一人の“王女”として正式に認められているわ」
リルが小さく目元を押さえるようにして、にっこりと笑った。
「とってもアーティア様らしいご出自ですわぁ。強くて、真っすぐで……だからきっと、王様の目に止まったのですわね」
「……血がすべてではない。それをこの国に証明してくださったのは、あなた自身です」
シオンの瞳は、真剣で、どこまでもまっすぐだった。
その言葉に、私はようやく胸の奥が、ふっとほどけていくのを感じた。
「ありがとう。ふたりとも、聞いてくれて。私、やっと……ちゃんと、話せた気がする」
この国に立つ理由も、王女としての資格も、すべて。
もう隠しておくものなんて、なにひとつなかった。
見れば、ふたりは言葉にしないまま、穏やかに微笑んでいた。
リルはいつもと変わらぬ、ぽわんとした表情で紅茶を口に運びながら、にこにこと目を細めている。
シオンは静かに頷いて、私に向けて、ほんのわずかに唇の端を上げた。その眼差しには、確かな安心と信頼が宿っていた。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
まるで春の日だまりのような──そんなぬくもりが、静かに私を包んでいた。
ようやく、本当にここに居ていいと思えた気がする。
私はまた、そっと笑った。
──それからというもの、彼と私の間には、少しずつ確かに変化が生まれはじめた。
言葉を交わさなくとも伝わるものがあり、沈黙が心地よいものへと変わっていく。
シオンと私が、初めて二人きりで甘い沈黙を分かち合ったのは、ある夜のことだった。
仕事終わりの政庁舎。
その書庫の奥、照明石のほの明るい光だけが灯る静かな部屋で、私たちは向かい合って座っていた。
「……もう、資料は見ないの?」
「ええ。……あなたを、見ていたくなったので」
心臓が跳ねた。
シオン・カヴァリエ。無表情で、理詰めで、感情に反応することの少ない彼。
それなのに、時折こうして──不意打ちのように、心の奥を言葉にしてくる。
「……ずるい言い方ね。それじゃ、私ばかり意識してしまうわ」
「それなら、もっとずるいことを言いましょうか」
ただその一言だけで、胸が高鳴る。
「……たとえば?」
「私が今ここにいるのは、仕事のためではない。アーティア。あなたと同じ部屋にいて、あなたの横顔を見ていたいからです」
「……っ」
胸がぎゅっと鳴って、呼吸が詰まりそうになる。
頬が熱くて、思考なんてもう、どこかに飛んでいった。
「……そんなふうに、見つめないで」
「なぜ?」
「……好きになってしまうじゃない」
自分で言っておいて、また心臓が跳ねた。
けれど彼は──いつもの冷静な瞳で、でもその奥に確かな熱を宿して、こう言った。
「好きでいてください。私も、同じですから」
それは、きっと彼なりの優しい告白。
彼の指先が、そっと私の手の上に重ねられた。
触れたところから、じんわりと熱が広がっていく。
「あなたを、私だけのものにしたい」
シオンの静かな言葉に、胸が甘く軋んだ。
呼吸が詰まりそうになるくらい、まっすぐで、優しい言葉。
「……ずるいわ。私だって、あなたを私だけのものにしたいのに」
「私はもう、とっくにあなただけのものですよ」
唇が、自然と近づいていく。
言葉よりも深く、静かに。
私たちは、確かな想いをひとつに重ねた。
未来へと続く扉が、そっと開くような夜だった。
***
ルクレイド王国はもう、存在しない。
けれど、そこに生きていた人々の心が残っている限り──私たちは、この国を“殺した”のではない。
再生させたのだ。
そして私はこれからも、ヴァルテアの王女として。
この土地に根を下ろした者として。
新たな国を築く、その責任を背負っていく。
彼と、あの令嬢と、共に。
過去を断ち切り、今を越え、未来へと歩いていく。
この国を守るために──私たちの、手で。
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