0A-06.私と学園、どっちが大事?
船は、昼過ぎには港についた。
晴れているはずなのに、曇天のような空の下。風の強い中、一行は神獣に引かせた車で街を進む。ほどなく街中につき、プリムラムが宿をとってきた。リンディとアンジーは化粧をしていないため、プリムラム以外は皆、若く見られるためだ。
「今度のお宿は、まるでお屋敷だねぇ」
受付で、アプリコットは高い天井を見上げた。シャンデリアが煌めいていて、窓も高いところまである。奥行きはどこまでも広く、しばらく前にお邪魔した、エンタス公爵のゲストハウスもかくやといったところだ。
「ほんとですね」
すぐ傍から声が返って、アプリコットは思わず顔を横に向けた。いつの間に近寄って来たのか、エルの姿がある。
「ボクたち、今日は同じ部屋です」
「アタシ、プリムラム先生とかー。というかリンディ様とアンジー様、また同室だし。不正では?」
リンドウが通りすがりに、不平不満を残していく。
「また後でね、リンドウ」
「あいよー、アプリコット。まだ揺れてる気がする……」
ぼやきながら、彼女は廊下の奥に消えていった。幸いにも誰も船酔いはしていなかったが、慣れない者にはきつかったかもしれない。リンドウが寝入ってしまうこと考え、夕食前には起こしに行こうとぼんやり考えて。
「リコ」
何か小さく、すぐ横から不満そうな声をぶつけられた。
「なに? エル」
「またすぐ他の女のこと考えてますね……」
「そういうんじゃないし。というか人前ではもうちょっと自重しよう」
「ぶー」
不満げなエルが可愛らしくて、アプリコットはつい吹きそうになる。誤魔化すように振り返り、まだ受付している引率の学園長に向かって、声を張り上げた。
「リンディ! 私たちも、部屋に行ってるから」
「ああ。揺れてない地面で、ゆっくりおし」
黒髪黒目の魔女ににこりと笑われ……アプリコットは胸の奥が暖かくなる。ふわふわとしたその気持ちのまま笑みを返し、まだ不満顔のエルを引き連れて、赤いじゅうたんの上を歩き始めた。
★ ★ ★
この旅は、別に急ぐものでない。旅を楽しみつつ、天候を気にしながら北へ向かい、アプリコットの故郷に立ちより、そして帰ってくるだけ。船旅が短めなので、間の町々での滞在が少し長めだ。宿泊する部屋に辿り着いたアプリコットとエルは、カバンの荷物を整理しつつ、宿の洗濯サービスに出す衣服などをまとめだした。
「昨夜も思いましたけど。アプリコットって……結構派手なの着るんですね」
自分の分は済んだのか、エルが覗き込んできた。アプリコットはカバンの中身を選り分けながら、適当に質問に答える。
「そ? ああ……本土は結構、地味だよねぇ。文化の違いかな?」
「大陸は工業化が進んでいるといいますから、その恩恵もありそうですね……というか、アプリコットは地方出身でしょう? そっちでもこんななんですか?」
「田舎でもってこと? そだねぇ。流行りは遅れてるんだろうけど。むしろ派手な奴の方が安いんだよ」
「布地面積の問題ですかね……?」
袋に衣類を詰め、ベッドに放り投げる。後で夕飯時にでも受付に出し、クリーニングしてもらうのだ。高級宿らしく、この辺のサービスに追加料金はかからないらしい。
「夕方まで……どう過ごします?」
カバンを閉めて立ち上がり、声に振り返ると……ベッドの端に腰かけ、両腕を広げているエルがいた。
「どう……って。エルの希望は、わかりやすいね」
「なんですか。ぎゅってして一緒に寝ようって話かもしれないですよ?」
「早口だし。夕飯の時間に起きてられないでしょ。それ」
なぜか拗ねた様子のエルに近づき、アプリコットは彼女の頭をそっと撫でる。するとエルの手が回り、ひしと抱きしめられた。グッと体が引き寄せられ、彼女の頭が横隔膜のあたりに強く押し付けられる。ぐりぐりとされ、圧迫感で正直ちょっと気持ち悪いのと、とてもくすぐったい。
「…………甘えん坊だね、エルは」
「甘えさせてあげたいんです」
「そうなの? 自分が甘えたいのかと」
「違います」
頭が離れたので視線を下げると、青い瞳と目が合った。
「リコは、人にとても気を遣うでしょう」
「ん……気遣いは人間関係の潤滑油だよ?」
「それが必要ないくらいに、ドロドロに甘えて」
「んっ」
腰のあたりを撫で回され、ぞわりと甘いしびれが広がる。
「もう逃げられないってくらい、距離を詰めて。そうするとやっとあなたは、本当の姿を見せてくれる。ボクは」
「くすぐったいって、エル……」
「あなたがあんなに可愛いなんて、知りませんでした」
「私年上なんだけどなぁ――――ちょ」
立ち上がったエルの顔が、すぐ近くに迫る。右手が回されて、頭を押さえられて。興奮を頬や瞳に乗せた彼女と、距離がぐっと縮まる。思わずアプリコットは、目を逸らした。
「ダメ……ダメだって、エル」
「そういう、形だけ抵抗するの。誘ってるんですよね?」
「ちが」
「違わないです。昨日もずっとそうだった。あなたの〝ダメ〟は」
「ちゃんと愛を囁いてって、合図です。リコ」
いつの間にか、エルの口元が耳のすぐそばにあって。甘い震えが走って力が入らないアプリコットは、耳たぶを唇で食まれるのに、抗えなくて。
「ほら、力が抜けた。誰にでもこうなっちゃわないか、心配です」
「違う、違うの。エルだけ……」
「そう、なら」
「あっ」
エルの体が、離れてしまう。それを見送る自分の視線が、物欲しげだと気づいて。
「ほら、リコ。おねだり、してください」
そう、促されて。アプリコットの目は、エルとベッドの間を行き来する。
「エルの、いじわる……」
「リコ」
エルの顔を窺ってから、視線を逸らして窓を見る。明らかに日が高い。室内はほのかに暖かいが、まだ肌寒くて。そういえばとった昼食がまだ未消化で、お腹が少し重くて。
「エル、は……まだお腹、きついでしょ? 休んだ方が」
「だからちょっと食後の運動をしましょう、エル」
「言い方が卑猥! 風邪ひいちゃうって……まだ部屋冷たいし」
「なるほど、温めてほしいんですね? 着たままでもいいですよ?」
「言い方に余裕と遠慮がないな! まだ日も高くて――――」
「その方が」
妙に艶やかなエルの声が、耳に入って。
つい、彼女を見てしまう。
唇に人差し指を当て、じっとアプリコットを見つめている、エルを。
「興奮、します」
耳元で聞いた時よりも、その声が深く胸の奥に入った。アプリコットは思わず胸に手を当て、いまさら鼓動が高鳴っているのに気づく。下がり様もないくらい、熱が頭に昇っていて。
逃げられないんだ、と。そう、理解した。
「もっと。もっと私を求めて。エル」
「焦らしますね。ボクはそろそろ我慢の限界ですよ?」
一歩、近づく。
「そんなに私が欲しいの?」
「はい。そのためなら、なんでもしますよ」
もう一歩、近づく。
「学園と、私となら。どっちが――――」
アプリコットの、愚かな問いに。
「あなたです」
食い気味に答えを被せられて。
最後の一歩を。
『アプリコット。今いいかい』
ドアの向こうからした声とノックに、阻まれた。
「うにゃあリンディ!? ちょ、ちょ、まっ!?」
慌てて視線を走らせると、エルがいない。いつの間にかアプリコットの開いたままのカバンを閉めて、自分の荷物の方へと向かっていた。
「あ、あー…………どうぞ」
深呼吸をしてから、ドアまで歩いて行ってノブに手をかける。
「悪いね。部屋に入っても?」
「うん。いいけど」
扉を開くと、黒髪黒目の魔女がしずしずと入ってきた。アプリコットがドアを閉めて振り向くと、エルが椅子とテーブルを持ってきて、リンディに席を勧めているところだった。
「くく。アプリコット、不満が顔に出てるねぇ?」
「んぐっ。ナンノコトデショウ」
「エル、咎めようってわけじゃない」
「情報漏洩元はアンジーさんですか?」
ゆったりと座ったリンディが、くつくつと楽しそうに笑っている。アプリコットは居心地悪そうに、所在なさげに立ち尽くした。
「何言ってるんだい。見りゃわかるだろう。あたしゃ自分のことはともかく、人の色恋沙汰はずいぶん見て来てるんだ。さすがに間違えないよ。とはいえ」
エルがリンディの正面に座っている。アプリコットはしばし悩み……椅子に座るのではなく、エルの傍に立った。リンディの笑みが深く、皴もないのに不思議と80近い年齢を窺わせる。
「ユーラニアとそのうちくっつくと思ってたんだが。これは意外だ」
「リコは人に求めてほしいんですよ。でもね。お返しして満足しちゃう人はダメなんです」
エルが得意げに、人のことを断じた。よくわかっていない自分の生態を人に明かされるのは、どこかむず痒い。そわそわとしつつも、二人のやりとりは先の〝続き〟のようにすら思われて。
アプリコットは体の前で手をすり合わせながら、ちらちらとエルとリンディを眺めた。
「リンディさんやユーラニアさんがもし、リコを求めたら。リコに愛された時点で、きっと満足してしまう。それはダメなんです」
「あんたは違うというのかい? エル」
「そりゃあもう。ボクはパパとママと安心して暮らせるのに、学園長になろうって女ですよ?」
視線を下げると、リコの横顔が少しだけ見える。その瞳が――――獰猛に、歪んでいて。ドキリと心臓が跳ねるのを、抑えられない。
「ボクは満たされると、飢えるんです。もっとほしい。こんなものじゃ足りないって」
そうだった……と言葉を飲み込み、アプリコットは顔を逸らす。赤い頬や耳を見られるのは避けられないが、さりとて目があったら恥ずかしすぎる。
「意外といえば、あんたもだね……エル。恋愛ごとなど、興味がないと思っていたよ」
「なかったですよ? 今もないです。ボクが興味あるのはまずリコで、次に学園運営になりました」
「それはなぜだい? 信頼しているが、気にはなる」
学園第一の次期学園長が、それよりも自分を大事にしている……たった一晩で彼女の価値観を逆転させたことに驚きつつも、アプリコットは危うさを感じて目を見開いた。色に狂っているかのような、発言だが。
「ボクは学園が好きです」
答えるエルの瞳は、声は。理性と知性の光を感じさせた。
「訪れる人たちのためになろうと、いろんなものを必死になって積み上げてきたあそこが、大好きです。リコは……同じ」
彼女の口元が、穏やかな歪みを見せている。リンディの方も気になるが、アプリコットはエルから目が離せなかった。
「自然に、当たり前に、誰かのためになろうって生きている。それはすごいことです。そして学園ならば、その見返りは学園を運営する人たちに、様々な形で訪れますけれど」
大したことなどしていない。そう言いたかったが。エルに言ってもらえると、どうしてか胸の奥がとても熱くて。
「リコへの報いは、足りていない。ボクはそう思いました」
勝手なことを言われていると思いつつも、反論が思い浮かばない。そんな大事にされる謂れはないと、そう考えているのに。
「いや、私は、そんな」
ただ声を絞り出すくらいしか、できなくて。
「…………あんたは間違ってないよ、エル」
学園長の厳かな声が聞こえて、アプリコットは顔を上げた。
「リンディ?」
「見ていくと良い。この旅で、アプリコットのすべてを。もしその結果、あたしを見限りたくなったなら、それでも構わない」
彼女の指しているのは、秘密。アプリコット自身の。彼女はハッと息を呑み、揺れる視線でエルを見た。
「そんなことには絶対になりませんよ。リンディさん」
「なぜ、そう断言、できる」
エルの力強い声に、アプリコットは惑う。リンディと同じように、つい眉根を寄せた。
「リコへの報いは、足りないだけ。たくさん集まってる。あなたがその、大きな一助になっている。リンディさんがいなければ、リコの幸せは一気に減ってしまう」
当たり前のようにそう言われ、アプリコットはほっと息を吐いた。リンディを見ると、黒い瞳と目が合って。
「リコはあなたを、愛している。リンディさんは、それに応えている。ボクはそれで、十分です」
穏やかな言葉で締めくくられ、肩から力が抜けた。気恥ずかしいが、それ以上の安心を覚え、アプリコットは瞳を潤ませる。
「ボクからも、聞いて良いですか?」
「何だい、エル」
「教育者として、リコの想いに応えないという姿勢は理解できます。それで実際のところ……どうなんです? こんなに可愛い子、他にいないと思うのですが」
なんてこと聞くのさ、と口走ろうとして、アプリコットは口を手で押さえる。恐る恐る、顔を上げると。
「あたしはね。自分にないものを持ってる子がいいんだよ。あたしの背中を追ってくれるのも嬉しい。並び立ってくれるのも幸せだ。けれど」
魔女は、くつくつと笑っていた。どこか、照れたように。
「あたしが追いたくなる相手ってのは、なかなかいなくてね」
「いたんですか。それ、もしかして」
「おっと。質問タイムは終わりだ。それとも、まだアプリコットをお預けのままにしとくのかい? すごい顔をしてるが」
とても気になることを言われたが、突然水を向けられて戸惑う。エルが振り向いて、アプリコットをじっと見て……その視線に耐えきれず、どうしても顔が熱くなった。
「夕飯には呼びに来る。アプリコットを、よく休ませてやってくれ。エル」
「はい、学園長」
すっと立ち上がり、リンディが部屋を出ていく。
扉が閉まるまで、身動きが取れなかったが。
アプリコットは。
「エル、私――――」
「ボクも、大事な話を聞いてほしいんです。リコ」
やっと絞り出した言葉に、透明な声を重ねられて。
「旅の終わりに。ただ、不安で。だから」
伸ばされた手に、抱き寄せられて。
言葉のやりどころを、見失った。
「もっとたくさん、あなたのこと。教えてください。ボクを教育して……変えてください、アプリコット」
彼女の「何を」変えなければならないのか。
アプリコットにはそれが。
わからなかった。
ただ求められるがままに――――彼女に応えた。




