0A-02.ヒロイン二人。
「ふぎっ――――」
ネズミがつぶれたような声だ……自分の発した声に、そんなことを思いながら、アプリコットはぼんやりと瞼を開く。霞がかった輝きが、黒い視界に差し込んだような気がして、また目を閉じた。絨毯の感触が、思ったより肌に心地よくて……。
「いやさむっ…………くしゅっ」
手で塞ぐまもなく、くしゃみが出た。幸いにも鼻水が垂れることはなかったが、目に涙が滲み、鼻の奥がひくひくっとする。短く幾度か息を吸い込み……くしゃみが止まった。肩から震えが来て、アプリコットは数度瞬く。上体を起こすと背筋が冷え、立ち上がると脚の内側がひやりとした。
目が覚めてきて、アプリコットは遅まきながら、寝床から蹴落とされたことを自覚する。腰に手を当て、こめかみに青筋を浮かべてベッドに近寄ってみれば……何者かが厚手の布団にくるまっており、可愛い寝息を立てていた。
「…………プリムラム、先生? あっちで寝てなかったっけ?」
プリムラムは女の身から見ても愛くるしい。僅かに揺れる長いまつげや、ぷるっとした唇につい視線が吸い寄せられた。毒気を抜かれたアプリコットは、痛み始めた腰や尻をさすり、奥の空のベッドを見てため息を吐く。息が白く、寒いのを我慢してベッドの足元へ急いだ。
「服、来とこ……今日は海に出るんだよね。へへ」
自分のトランクを開き、暖かいものを選びながら袖に腕を、裾に足を通していく。本当は学園の制服が大好きなのだが、旅行なのでそれはお預け。ユーラニアに選んでもらおうとしたら、普段着の選択センスが壊滅的だったので、リンドウに手伝ってもらった。だいぶ着せ替え人形にされたものの、納得のいくものが揃った。
部屋の姿見を覗き込み、水兵服を思わせる自分の恰好を確認する。最後に大事な赤い布を、少し長くなってきた髪に結び付けた。
「結構あったかいし、感触いい……それに何より、かわいい!」
足から腰、腰から脇を這いあがるような震えと気分の高揚を覚え、一人「にひひ」と笑いを漏らす。
「本当は黒がよかったけど、それをしだすと黒づくめの集団になるから、禁止なんだよねぇ。アンジーが容赦なく破ってたりするけど」
仲間内の決まり事を思い起こし、アプリコットはほうっと息を吐き出した。視線を落とせば、青い襟、赤いスカーフ、白い袖や裾が目に入り……顔に笑みが戻る。普段しない自分の格好にそわそわしながら、ベッドの端にちょこんと腰かけ――――。
「ぐえぇ!?」
蹴り出された。床に四つん這いになって右腰あたりをさすり、恨みがましい目でベッドを振り返ると……素足がするすると戻っていくところだった。立ち上がって近づいてみれば、だらしなく幸せそうな顔で、桃色髪の教師がすやすやと寝ていた。がっくりと肩を落とし、ため息を吐く。
「聞きしに勝る寝相だなぁ……というかやっぱり、別々のベッドで寝てたよね? いやなんか、柔らけぇー! って思った覚えもあるけど……はて」
寝る直前。寝間着になってみたら学園長と同じような体型だったプリムラムと、何かいろいろやりとりしたようなそうでないような……そんなことを朧に思い出し、アプリコットは少しの背徳感に背筋を震わせ、ベッドに背を向けた。頭痛などは特にないが、添い寝権負け組宴会で摂取したアルコールの影響が、多少残っているようだ。
「うん、柔らかかった。たぶんリンディより……ぉ?」
ふと、奥の部屋が目に入る。扉はなく、ベッドが三つ見えた。
「アンジーがいない……はて。どこだろ?」
そのうちの一つが空で、残り二つにはエルとリンドウが寝ている。
「探してみよっと」
アンジーはアプリコットの神獣だ。魔力で呼びかければすぐ対話できるし、影から呼び寄せることも可能である。だがアプリコットはふわふわした服の感触を楽しみながら、朝の散歩と洒落込むことを決めた。
肌寒さが、かえって気を引き締めさせ、笑顔と胸の暖かさを灯した。
特別な――――旅の朝が続く、予感と共に。
★ ★ ★
城のような宿の一階まで降りて、雪白の花咲く庭園に出る。足取り軽く、彷徨っていたところ。
「うひゃー……様になるぅ」
東屋の壁に寄り掛かる、ホワイトブロンドの妖精を見つけた。細くすらっとしたシルエットが、ライムグリーンのドレス越しに描かれている。肩や胸元が空いて寒そうなのに、肌には血色があり、むしろ妖艶ですらあった。ドレスにはびっしりと刺繍がされており、まるで彼女自身が庭に立つ彫刻のようである。
アプリコットは跳ねるように、彼女――――アンジー教頭に近づいた。綺麗な彼女の姿を見るだけで、目元がゆるみ、肩がふるふると甘く震える。
「アンジー、今日は黒じゃないんだ……って迎え酒かよ」
胸の高さの壁の上に、ワインボトルとグラスが置かれていて、アプリコットは思わず突っ込んだ。黄白の色味強い液体が、中で揺れている。
「あいつの隣にいないのに、黒着てどうするんだよ。飲むか? アプリコット」
「色のアピール、たぶんリンディには伝わってないよねぇ。それ甘いの? 辛いの?」
「甘いのだ。ほら」
どこからかグラスを取り出し、アンジーが手ずから中身を注いでくれた。アプリコットは自然に漏れる笑みを振りまきながら、グラスを手に取って――――静かに、アンジーの持つものと合わせた。静謐な空気の中に、ちんっと涼やかな音が響いて、寒いのに冷ややかで気持ちが良い。何気なくグラスの縁を指でなぞってからそっと口をつけると、意外に何の香りもなく、水面が唇に迫った。するりと液体が口腔から、喉に落ち――それからぶわっと、香りが広がる。
「あっま! 採れたてみたいに鮮烈だねぇ」
「まさに、冬の朝。その露を浴びた果実の香りだろう。りんご、ぶどう……南国のいくつかのフルーツも思わせる」
「失楽園、って感じだ」
鼻にかかるような吐息と共に、もう一口。あっという間に中身が全部、喉奥に吸い込まれた。冷たい香りの先に、僅かな酒精も感じ……アプリコットはほろい高揚を覚える。
「失は余計だろ。だが言い得て妙だ。もうここにない、聖なる夜明けを思わせる」
「アンジーは……」
大陸生まれの小娘は、60も年上の教頭を軽やかに呼び捨てる。アンジーは気にした様子もなく、お代わりをアプリコットのグラスに注ぎながら、青い瞳をじっと向けてきていた。若返って澄み切った泉のようになったその目に見られていると、アプリコットは一気にアルコールが回ったような……羞恥と興奮を覚えた。綺麗なものの世界に自分が入れられて、恥ずかしいような、浮ついた気持ちになる。
「リンディと一緒の時は、そうでもないけど。詩人だねぇ」
「あいつは、回りくどいのは嫌いだろ?」
ボトルを置いたアンジーの左手が伸び、アプリコットの赤いリボンと、発色のいい金髪を絡めるように撫でた。耳や首筋まで手が滑り……しかしなみなみと酒を注がれたグラスが目に入って、アプリコットは震えを無理やり抑えて――悶える。
「それ、私は好きだろ、って意味?」
「そんだけ喜んどいて、隠せると思ってるのかい? お前の乙女なところ、わたしは嫌いじゃない」
「んっ…………それは反則、でしょ」
アンジーの手が頬を撫で、その親指がアプリコットの唇の端を触った。彼女の手がさっと引かれ、自身の口元につけられる。アンジーの唇と、指を舐める舌がちろりと見え……その妖艶な真紅に、アプリコットの背筋がぞわぞわと泡立った。自分の目に、とろみのついた霞がかかったような気さえし、アンジーをじっと見つめる。
「悪かったよ、からかってるつもりはないんだ。ご主人様?」
「そういうのは、リンディにやりゃいいじゃんか。どうしたのさ、酔ってるの? それとも寂しいの? アンジー」
口を尖らせてアプリコットが訴えると、若々しい教頭は皴深そうな笑みを浮かべた。顔は透明で滑らかにしか見えないのに、不思議と深みと時間を感じさせる。そう笑われるだけで、アプリコットはぎゅっと胸の奥が締め付けられた気がした。
「誤解があるようだから言っておくが、そもそもわたしは酔わないし、お前のことは好きだよ。アプリコット」
「――――――――ひゃい?」
ついでのような告白が聞こえて、アプリコットは酔ったような声を上げる。
「例えばだが。ユーラニアの神獣になら、わたしはならなかった。拒否したよ」
「え」
思わず目が点になり、アンジーの青い瞳をまじまじと見る。しかしどうも彼女の言い様は「ユーラニアが嫌い」という吐き捨てではなく……瞳の揺れは、違うものを示しているようだった。
「覚えてないか? 一年前」
囁くような声で言われ、アプリコットは思わず半歩、アンジーに近づく。胸をくすぐるようなその声が、もっと聴きたくて。
「お前を惜しいと言ったのは……わたしだ。リンディじゃない」
彼女の語る思い出は、冬の廃村。リンディとアンジー、そしてアプリコットの邂逅の記憶。
「……覚えてるよ」
「なのに、リンディにばかり懐きやがって」
「そこはまぁ、好みってやつ?」
拗ねるように言うアンジーに、アプリコットは惚けたように答えた。白銀の妖精が呆気にとられたように目を見開いて。
「ふ……くくく。そりゃそうだ、気持ちはよくわかる。だが覚えておけ、アプリコット」
それから、お姫様のように笑った。
「神獣になったら、簡単に死ねない。もしリンディが間に合わず、世を去っても……わたしは生き続けなきゃならない。前ならそんなの、絶対に嫌だった。けど」
笑顔のまま、彼女はほんのりと頬を染める。
「わたしの命を諦めず、呼んでくれたお前の声は。その手は」
どれだけアルコールを注いでも、白いままだった、透明な頬を。
淡く、赤く、暖かく。
「とても、暖かかった。リンディが逝って、お前と二人、残されても。それでもいいと、思えるくらいには」
「私が、先に逝ったら?」
「望んでくれ。共に逝くか、残して逝くか」
どこか悲壮なセリフを、しかしアンジーは穏やかな顔で呟く。
彼女に手をとられ。
アプリコットは。
「じゃあ……一緒。リンディがいなくても、最後まで一緒。いい? アンジー」
優しく握り返した。
「いいとも。わたしのご主人様」
「誤解なきように言っておくけど」
絡められる指を、ゆっくりと撫でて。
アプリコットは、笑みを浮かべる。
「私もアンジーのこと、好きだよ」
だがどうしてか教頭は、まるで学園長のようにくつくつと笑った。肩を震わせ、楽しそうに。
「知ってる。お前が誰にでも、そう言ってることもな」
アンジーの青い瞳が、少しの涙を溜めて揺れている。相当笑いを我慢しているのか、手に小刻みな震えが伝わって。アプリコットはむくれ、頬を膨らませた。
「しっつれーな! ちゃんと好きな人にしか言ってない!」
「多すぎるんだよ。わたしとリンディ以外に、あと何人いる?」
思わず指折り数えようとして。
「内緒」
アプリコットは、笑顔で誤魔化す。
「いい女だ。もう少し付き合えよ」
「ん。空にしちゃおうよ、この朝のうちに」
解かれたアンジーの手が、またボトルを手にする。
二つのグラスに、朝日の眩しい朝のようなワインが注がれて。
またガラスの鳴る音が、雪が散ったような庭に、響いた。
恋多く、愛深いヒロイン気質の二人の、ささやかな宴は。
エルとリンドウが、朝食へ呼びに来るまで、続いた。




