序章
頑丈にできた木の扉を叩く。ノックはするけど、音が届いているのかもあやしい。どちらにしたって、応答がないのはわかっている。反応を待たずにそのまま美しい銀細工の施されたドアノブに手をかけた。
「お嬢様、お目覚めの時間でございます。」
声をかけながら部屋の中に入り、手に持っていた燭台を置く。それで部屋の中がようやく明るくなった。中央に置かれた簡単な造りの寝台の上で白いものが身動きをした-正確にいうなら白いものではなくて、白い絹の布にくるまった人が動いたのだが-もぞもぞと動いてようやく顔を出した。
「今日は、よく眠られていたようですね。」
「うん。トレアは?」目をこすりながら、寝台から降りるがふらふらとしていて危なっかしい。まだ、小さな少女だ。10代の半ばかそれよりも幼くみえる。
「それよりも…今日のお食事は、はちみつとスコーンをあわせた物とポテト。それからダージリンの紅茶になっていますが、よろしいですか?」
トレアと呼ばれたのは、執事の格好をした青年だ。いや、彼女に対しては間違えなく執事であるのだが…。まだ、執事と呼ばれる程に年はとっていなかった。
光の角度によっては青色にも見える黒髪を背中のあたりまで伸ばしている。
「そうだね。良いよ。はちみつ好きー」
トレアは、言いながらもまだふらふらしている、主の小さな手をとった。寝ぼけているわけではないのに、頼りないその足取りで近くのテーブルまで歩く。
トレアは慣れた手つきで主人を席に座らせ、紅茶をいれ、食事を全て並べ終えた。そしていつもの質問をする。
「今日のお散歩は何処へ行かれますか?」
「………」
少女にたずねるが、何故か返答が返ってこない。変わりに、顔をじっと見ている。
「私の顔に何かついていますか?」
少女はくしゃっと顔を崩して笑った。
「本当にあたしの言った通り、髪をオールバックにしてくるなんて。そんなにその髪って大事なのかなーって。考えていただけよ。…いただきます。」
トレアは自分の髪を気に入っている。執事といえば、服装も厳格に決められているはずで長髪はご法度ともいえる。トレアがそれを許されているのは彼女の采配あっての事。
せめて前髪を何とかして、後ろの髪も前に垂れてこなければ良いと、そう言われた。だから、後ろで軽く結い前髪を全て後ろにやっている。
「それから、お嬢様って呼ばれては気がめいるわ。アリアと呼びなさい、と何度言ったらわかるのかしら?」
もごもごと、口いっぱいにスコーンを頬張っている。
「お嬢様、口の中の物を飲み込んでからお喋りになって下さい。せっかくのレディが台無しです。」
トレアはすかさず、アリアをいさめた。
話をはぐらかされてアリアが不機嫌な顔になったのは言うまでもない。
「アリア。」繰り返して自分の名前を言い聞かせた。ちゃんと飲み込んでから、少しだけトレアを睨んで。
「ですが…」
「敬語は許すわよ。お互いに、気を遣うってとても大事な事だもの。だけど、名前で呼び合うくらいの近さは必要だと思うわ。」
アリアはため息混じりに言う。
「まったく。呼んでもらえるようになったら、いつの間にか"お嬢様"に戻ってるんだもの。信じられない。主人の命令よ?」
「わかりました。…では、アリア様、今日のお散歩は何処に行かれますか?そろそろ、ローズ・ガーデンの薔薇が良い加減ではないかと。」
有能な執事はにっこりと笑う。
「様は抜けないのね。」
アリアはもう一度、ため息まじりに言ってスコーンをバスケットから取ろうとした。そこを、すかさずトレアが先に動いた。柔らかな動作でスコーンを皿に乗せ、新しいクロテッド・クリームと苺のジャムを添えた。
「いかがでしょう?」
「えぇ、それが良いわ。あの人の所有物なのは気に入らないけど、薔薇に罪はないもの。」
トレアは、柔和な笑みを浮かべながら着替えの一式を取り出す。
アリアが食べ終わるのを見届けると身支度を整え始めた。
服をぬがせて、ぬるま湯で浸したタオルで体を拭き清める。その後に肌着から服と、衣服のすべてを着せていく。 細部のリボンまで丁寧に。最後のヘッドドレスまで優しく乗せ、整える。
着替えが終わると最初のねぼけた少女は全くの別人になった。
漆黒の髪に一切の乱れはなく、つやがあって美しく波打っている。顔つきも、不思議と大人になってみえた。
「それでは、参りましょうか。」
トレアはアリアにステッキを渡した。
実は、彼女はこれがなくてはほとんど歩けないのだ。その為にさっきもふらふらとした足取りで歩いていた。
しかしトレアさえいれば、このステッキがなくても特に不自由なことはなかった。
トレアはアリアが本当に幼い頃から仕えてきた。今ではいないことがあり得ないほど、大切な人になっている。