15ポンドのりんご
15ポンドのりんご
霧のかかった穴。れんこんの傘。アーノルドパーマーの色みたいにピラミッドの端にかかる、隠れた夕日のようだ。
青い血管が浮き出る。四角い霧の中へ入っていくのだ。
それはやがて駅の音に変わっていくのだ。シュッシュッ。
こんな事言ったらフローレンス先生に「レトリック!」って怒られるかしら。
デビーはちょっと振り向いた。そのまま顔を窓にデビーは押し付けた。
頭空っぽにしなきゃ、描けない絵もある。
散々っぱら降った雨が、上がった時も三人は一個のりんごを描いていた。
ガンクーは芸術だけを学ぶ学校。三人は絵画科だ。
ローレンス先生はいたりいなかったりする。ニキータとデッドウォーカーには話していない秘密がデビーにはあった。
デビーは父親を知らない。
いわゆる私生児だった。母、ライアにはその事を聞いたこともなかった。彼女の秘密なのだから。
ただ、「馬小屋で生まれた」と言われた。私の受難は誰かと兄弟かも知れないということ。私が姉か妹かも知れないのだ。デビーは恋愛に惧れを感じていた。
デビーは父親を、キングの絵札みたいだから「ラミー」と名付けていた。
腐るまでりんごは使われる。りんごも自分が腐っていく様子まで描かれるとは予想もしていなかっただろう。
「あちい」気付いたようにデッドウォーカーが言って窓を開けた。一気に蝉の声が抜けてきた。
それが集中力が切れたかけ声で、デッドウォーカーは煙草を吸い、デビーはお菓子をちょっとつまんだ。
「アイスレークって夏で凍ってなくてもアイスレークなのかな?」
「アイスレークは凍ってなくてもアイスレークはアイスレークだよ」
世間を騒がせているのはみなし児殺人だ。私生児ばかり狙われる。
ニキータに言わせれば、「世界はボールペンの色で染まってるぜ」らしい。
デビーが生まれた頃、父親は手紙を贈ったという。その手紙には「Dear・・」と書かれ、名前はライアから聞いたのだろう。
文面は「TERRIER」そう書かれているだけだった。
「テリア?」意味は不明だが、デビーはその手紙を大切に保管してきた。
父親に抱かれたことがない。ただ抱いてほしいだけだった。
「おマタゆるそう」
デッドウォーカーから見せられた写真を見てデビーは言った。
「セフレ」デッドウォーカーは稀に見る美形の男だ。
デビーは笑えなかった。そういう所では潔癖症なのだ。
「何で私に言うの?」
「お前が無理めな女だからだよ」
デビーはまたりんごを囲む席に戻って、絵筆を持った。
これが小さな心臓。
デビーは上を向いて安心のため息を吐いた。
私たちには絵を描くことが風の音が聞こえるようにごく自然なことなんだ。
何が自分の中で栄養になってるか分からない。
自分でも思いがけない色を使うことがある。
今そこに真実があっても人は気付かないかも知れない、人は真実を知らないからだ。
フローレンス先生はそれをギフトだと言う。自分の物ではなく贈り物だと。だから大切に使いなさいと。
誰かに恵んでもらったことはなかったが、デビーはそれで生きていくつもりだった。
ライアはデビーのいない内にデビーの部屋の掃除を済ませていた。そこに父親からの手紙があるのは知っていたが、覗かないようにしていた。
デビーには申し訳ない気持ちがある。実はデビーは神父の子だった。
ライアと神父は恋に落ちた。そして隠して産ませたのがデビーだった。
神父は聖職を離れなければならなかったが、それはなかった。デビーが生まれるまでライアは教会の地下室に隠されていた。ちょっとの間、デビーもそこにいたのだが、もう覚えていないだろうか?
運命の一つか、そのデビーも芸術に帰依している。
三人はガンクーで掃除のついでに雑巾でムーンウォークの練習をしていた。
「見て見て」デビーは後ろ向きに滑っていた。
帰る時間になって、画材道具を取り上げると、デビーの手はそれを取り落とした。デビーは手を握って見詰めた。
「みなし児殺人は終わったらしいぞ」
「終わらせたんだ。いい加減なもんだ」
デビーが精密検査を受けている間、知らず知らず耳にした。
デビーは横になって、輪が大きくなったり小さくなったりするのを見詰めていた。
ライアも駆け付けた。
「手がうまく動かないんです」
問診の時に、デビーは言った。医師は辛そうな顔をした。
「お母さん」ライアは椅子から跳ね上がるようにして立った。
「どうだって?」
「これから」
医師は人体の模型を指し示して説明した。
「末梢神経から、・・呼吸が、・・」
それは一時的なものではなく、進行するにつれ全身が動かなくなる病気だった。
デビーはニキータやデッドウォーカーに何も言う事もなく、ガンクーを去った。
「お母さん、覚えてる? 私、小さい時さ、アリ、潰してたよね。自分でも何であんな事やったのか分からないの。あんな残酷な事・・」
デビーはベッドで身を起こし脚を伸ばしていた。
「その刑を今、受けてるのかな・・」
ベッドの横には画材道具が開かれ、横にある小さな机にはりんごが載っている。
キャンバスノートにそれを写し取り続けた。
フローレンス先生は度々やって来ては「レトリック!」と批判した。技法に頼りすぎるなという意味だ。デビーはその都度、笑った。
デビーとライアは心が読めるように、腐ったりんごを取り替え、まだ青いりんごを机の上に載せた。
「1ポンドのりんごが20シリング・・、私、どのくらいのりんごを描いたろう」
こんなになっても体は生きようとする。デビーを月経が襲った。
滴り落ちるのはキリストの血のようだ。
水道水を神聖な油をいただくように顔を洗った。
「もっと描きたかったな・・」
やっぱり生き物ってのは死の前で立ち止まるものなんだ。
こんなに落ち着いているのは心を空にしたからだ。
ハウンドトゥースの壁紙が鏡に映っている。
「く・・ださい」
鏡に手を置き、胸の盛り上がりを涙が伝った。
まだ、耳の中で馬が走っている。
フローレンス先生が一枚のりんごの絵を手に取って、出て行った。
数日後、野生の青空が区切られた空をデビーは自室から横になって見ていた。
「デビー! 何が届いたと思う?」
ライアが広げて見せたのはガンクーの卒業証書だった。
テリアだ。私は大地を掘って一つの目標を手にした。
「お母さん、私の写真の横に飾って」
ライアは悲しみをこらえ、肯いた。
そこにはまだ何も知らないで笑っているデビーが長押にかかっていた。その横にその証書をライアは丁重にかけた。
「デビー、お父さんのこと・・」そのまま背を向けてライアは呟いた。
「いいの。それより、りんごを買ってきて」
ライアは思わず振り向いた。もう両の手は動かないのに。
財布を手に取って、りんごを買って帰ると、ベッドから横になってデビーは倒れていた。
「病院にしますか?」
デビーは黙って首を振った。
医師が出て行った後、ライアが呼んだニキータとデッドウォーカーがやって来た。その方が喜ぶからと。
二人とも何も言わず、黙っていたが、嘆き悲しんでいるのは分かっていた。
三人に囲まれ、デビーは急に地下室にいたことを思い出した。
「お母さん、あの」
一分間の不出来がりんごをだめにしてしまうこともあった。
幸せな人しか悔やまれない。そう思っていた時期もあった。
最後に呼ばれたのは神父だった。神父が家に入った初めてだった。
ブラウンチョコの髪の毛は見覚えがなかったが、ブラウンチョコのデビーの瞳は捉えていた。
もう瞳しか動かすことはできない。
神父は額にかかった髪を撫で、「内なる子に永遠の魂を・・」と祈りを始めた。
これが誰のものだったか、その声に聞き覚えがあるような気がして、デビーはもっと聞こう、と目を閉じた。
りんごは誰が想像する?
ライアは夫の肩に手を当てて、顔を埋めて泣いた。