ラジオは眠らない
その男は、ラジオというものが嫌いである。ラジオそのものが苦手なわけではない。母が寝るときに音量高く鳴らしていたのが原因で印象が最悪になったのだ。
男は母と二人暮らしであった。
ひとそれぞれ性質は分かれるが、男は騒音のなかでは就寝できない人間だった。音楽もテレビも、そしてもちろんラジオも。人の話し声が聞こえるだけで彼の安眠は妨げられる。扇風機や空調の音でさえ彼には騒音となって不眠症になる始末であった。
だがそれらは、耳に栓をすればすむ話である。以前はそれだけで問題は解決していたのだが、母が倒れて介護が必要となってからは、そうもいかなくなった。
母は夜中、何度も便所に通う。それは年のせいもあるからしかたがないが、そのたびに男は用足しの補助に起きなければならい。
母の介護ベットの隣で眠る。彼はそのたびに声をかけられるため、耳栓をするわけにはいかなくなったのだ。それは如何ともしがたいことである。それだけだったら、まだよかったというものだ。
「ラジオの音がないと眠れないからねえ」
これである。しかも耳が少々遠いため音量は高い。男にはこれが何よりも苦痛であった。
イヤホンかヘッドフォンで聞いてほしいと頼んだが、寝苦しいと言う理由で却下された。では呼び鈴を置くから別室で寝かせてほしいと言ったが、ちかくにいないと、もしもの場合に不安であるから近くにいてほしいという。男はついに諦めて、毎日睡眠不足という枷を引きずる生活を五年送ってきた。
それも、終わりを告げる。男は、町の小さな葬儀屋の一室でため息をついた。目のまえには、お棺の中で静かに横わったる母が眠っている。その傍らでは、小さな音量でラジオがかかっていた。
ラジオを鳴らしているのは、やはり生前の母のが言っていたこともあり、心静かに眠れるようにしてやりたいという、男と遺族の気持からであった。
葬儀屋のセレモニーホールの隣にはご遺体を安置する部屋があり、そこに遺族も寝泊りするベットがある。男はこれから二晩、そこで眠らなければならない。ほかの身内からもだれか泊まる必要があるかと男は訊かれたが、昨今の社会情勢もあり、自分だけで十分であることを伝えてほかの遺族を家に帰らせた。
よくある、身近で近場にしかいない身内だけでの葬式である。納棺、火葬、葬式まで、あと二日。あと二日だけ母のとなりで眠れば、待ちに待った本当に静かな夜を取り戻せる。
正直なところ、男は介護に憔悴しきっていた。母が亡くなった悲しみより、肩の荷が下りた安堵感のほうが大きかったこと事実である。まだ喪があけぬ内でありながらも、そんなことを思ってベットに潜り込み眠りに落ちていった。
夜中。
時刻、一時二〇分
男は”騒音”で目を覚ました。
なぜ目が覚めたかすぐに理解した。ラジオの音が大きくなっていたのだ。不気味に思ってラジオに近づいて様子を確める。供物台の上に置かれていたラジオが畳に落ちていた。携帯端末を確認する。なるほど、と頷いた。緊急地震速報の通知が入っていたようだ。大きな地震でラジオがこけて、畳に落ちた拍子に音量のダイヤルが回ったらしい。
ほかにも、燭台などが倒れていないか男は確認する。しかし、ふと疑問に思うことがあった。緊急地震速報はけたたましい警報とともに受信する。あの音で目覚めないほど男は鈍感ではない。さらにそのあとには地震が来たはずであった。それでも男は目覚めなかったということになる。そしてたかがラジオの音が上がったくらいで、彼は目が覚めたのだ。
いいや。男は首をふる。警報が鳴って地震がおこり、そしてラジオの音で目が覚めたのだ。自分は普段では起きるくらいのことが三回あってもすぐには起きられないほど疲れているということらしい。親戚が差し入れてくれた缶ビールを寝酒にして、その日は無理やり眠ることにした。
朝。奇妙なことがわかった。
地震など発生していなかったのだ。
身内の人間や葬儀屋の係員に言っても、皆一様に首をかしげる。ならばと男は携帯端末の通知を見せようとするが、その履歴がなくなっていた。まるで最初からなかったかのように。
だが男は取り乱さなかった。ただの悪い夢だと思った。彼は喪主としてやらなければならぬことが山積みである。すぐに頭を切り替えて今日の動きを集まった身内と葬儀屋で打ち合わせを始めていた。その部屋の祭壇の前では、畳におかれたラジオが低い音で今日の天気を報じていた。
今日は夕方から荒れるらしい。
一日はすぐに終わる。
疲れ果てて喪服のネクタイを緩め、ベットに腰かける。
昨晩と今朝のことを思えば、今夜も不安であることも事実だが、やはり身内は返した。なんとでも言い訳はできたが、今のご時世に酒が飲みたいからとか適当な理由で集団を泊めおくわけにもゆかず、ましてや大の大人が怖いから一緒にいてほしいなど口が避けても言えない。
結局、今晩も母と二人でこの部屋に泊まる。思えば、これが最後の家族二人で水入らずの夜になる。感慨深げに祭壇の前に座り、母が収まるお棺を見上げた。顔の扉をあけて、安らかな顔を見る。じっと見つめて、手を合わせ、お辞儀をした。
母さん。明日は大事な日になりますから。
わるいけども、今日ばかりは静かに眠らせてくださいね。
男はそう念ずると、ラジオの電源を落としてスピーカーを下にするように横に倒した。部屋の小さな風呂でシャワーを浴びて体を清めると、やはり寝酒をひと缶あけて眠ることにするのだった。
時刻二時一〇分
”騒音”である。
男は血相を変えて飛び起き、祭壇に駆け寄った。ラジオが鳴っている。吐き気を催したのは、深酒をしたからではなく、深夜のラジオ番組パーソナリティの阿保みたいに下種な笑い声が原因なわけでもない。
なぜ、
消したはずのラジオが、
起き上がって、
電源が入り、
音量が最大になっているのだ。
男は戦慄し、まさに半狂乱でラジオを蹴とばした。安物のラジオは祭壇の角にぶつかってプラスチック片を散りばめて畳の上に落ちる。男はさらに、その残骸にしがみつき、電池を抜きとって遠くに放り投げた。
彼はもう眠れない。とにかく夜明けてほしい一心で缶ビール数本開けて、一気に飲み干すと、吐き気が頂点に達して、便所に走り、便器にぶちまけた。それでも彼は飲み続け、ベットではなくカーペットの上で、まさに気絶も同然で眠ることができた。
時刻不明。
”騒音”
それでも朝はこない。
それでもラジオが鳴っている。
彼にはもはや時間を確認する余裕もなかった。
放送されているのは試験放送の甲高い電子音だけだ。
なぜ、音が出る。
なぜ、電源が入る。
どうして、元通りの形に戻っているのだ。
もうだめだ。耐えられない。男は人を呼ぶ為に部屋の内線電話に走った。葬儀屋の夜勤係員が詰めているはずだ。とにかく今の状況は普通ではないと彼は考えた。誰かと話さなければ気が狂ってしまいそうだった。
だが、内線は係員へは通じない。その代わりに、受話器からは、女性パーソナリティの金切り声に近い笑い声が耳を貫いて、思わず受話器を壁に投げつけた。
ならば、身内を呼ぼうと携帯端末を手に取る。だれでも良かった。片っ端から電話をかける。すべての者が電話に出た。しかし、スピーカーから聞こえてきた声は知り合いたちの声ではなかった。あるものは、遠くで誰かが海でギャンブルに溺れるニュースを報じている。あるものは、座ったら二度と立ち上がれなくなる快適電気椅子の通販番組。あるものは、死ぬ気で生きたらどんなに楽に死ねるかを力説し、あるものは美しいこころを持った政治家がどのようにして世界を核戦争に導くか論争し、あるものは口の中の歯の一本一本が腐った宝石箱になるような絶品料理のレシピを紹介している。
最後のひとりに男はすがる思いで電話番号を呼び出した。だが、その者もこれからの天気を淡々と報じるだけで、彼を絶望のどん底につき落とす。そしてさいごに、天気予報は数秒後に落雷があると、今思いついたように報じるとぶつり一方的に電話を切られた。
男は、通話が切れた端末を耳に当てたまま呆けていた。
次に彼を襲ったのは騒音ではなく轟音。落雷である。
それと同時に、すべての電気が落ちて部屋のすべてが暗闇に包まれた。
カーテン隙間から遠来が光り。遅れて雷鳴が腹底を揺らす。それ以外は、なんの音もしなかった。逃げなければならない。直感が叫ぶとはこのことを言うのだろう。それでも腰が抜けて立ち上がることができない。這うように出口に向かう。あと少しのところで、指先に何かがあたった。
驚いて思わず手を引く。
暗闇で何も見えない。
恐る恐る近づくと爪の先が突起にあたる。
ラジオだ。
思わず叩きつけようと振りかざす。
しかし動きが止まった。
まるで“ラジオが何かに押さえつけられている”かのようだ。
「音がないと寝れないからねえ」
耳の中で母のかすれた声が響いた。幻聴ではない。明らかに聞こえたのだ。次は何かを引っかく音が聞こえる。爪で薄い板をひっかく音だ。最初は小さく。次第に激しくなる。それはあきらかに母の祭壇から、棺の中から音がしている。
「ねむらないからねえ」
また母が言う。男は、いま投げ捨てようとしたラジオをゆっくりと下し、静かに膝の上において、願うように目を固く閉じながらラジオの電源を入れた。
……。
その男は、ラジオというものが嫌いである。ラジオそのものが苦手なわけではない。母が寝るときに音量高く鳴らしていたのが原因で印象が最悪になったのだ。
それでも男は母の死後、一人暮らしであるのにもかかわらず、いまだにラジオの音を絶やすことはないという。不眠症に悩む彼に、周りの人間は、夜くらいラジオを切れはいいとすすめるらしい。しかし、男は必ず、憔悴しきった笑顔で首を横にふるのだ。
「だめだよ。母さんはラジオの音がないと、絶対に眠らないからね」