流れ星の声は何オクターブ?
人里遠く離れた森の奥深く。
人も通わぬその奥に、花の都からやって来た魔法使いが小さな家を構えました。
もとはたいへん人気のある魔法使いだったのですが、先のあの大きな戦いのあと思うところあって隠居を決心、こんなわびしい森の奥へ引っ込んでしまったそうです。
この魔法使い、まだ若いのに聡明な上に大変美しい方で、都では数多くの貴公子や大金持ちの商人が求婚してきたそうです。ええ、本当にいろんな方が求婚してきたのですよ。なかでも豪奢で知られるあの某国の王子などは……いえ、話が脱線しました。とにかく、魔法使いのお眼鏡にかなう男性はいませんでした。
求婚してくる男性も多かったのですが、弟子入りさせてくれ、と頼み込んで来る人はもっと多かったそうです。なにしろ聡明かつ美人ですからね。
でも魔法使いは決して弟子を取らなかった。面倒くさがり屋だったのかもしれませんね。
しかし。
魔法使いは、それまで決して取らなかった弟子を今になって一人取りました。よっぽど特別な弟子なんでしょうね。
その幸運な弟子は名前をアルといいました。
本当はアルカンヘル・ディ……なんとかいう長い名前らしいのですが、面倒くさいからアルです。まあ名前なんてどうでもいいのです。
敏捷な黒猫を思わせる漆黒の美しい髪に、神秘的な柘榴色の瞳をした少年です。
「お師匠様。少し話を盛りすぎじゃないですか?」
「なんのことかしら、アルくん」
アル、と呼ばれた少年は上質な給仕服姿で夕食後の紅茶――その三杯目を師匠に提供していました。
「お師匠様が都でそこまで人気者だったとは知りませんでした」
「む。……嘘はいってませんよ? 多少の脚色はあるにしても」
「それは失礼しました。ところで、クッキーもおかわりいたしますか?」
「もちろんよ! うふふ、料理上手な弟子を取ると毎日が楽しいわね」
「ありがとうございます。お師匠様、スタンダードなクッキーとジンジャークッキーとアプリコットクッキー、それにチョコクッキーがありますがどちらにいたします?」
魔法使いは甘いものが大好きでした。
「全部もらいましょうか!」
「はい」
「あら、これではまるであたしばかり食べてるみたいね。アルくんも一緒にどうぞ?」
「いえ。僕は結構です。お師匠様は御存分に」
食事後に、さらに何枚ものクッキーを食べるというこの魔法使いの習慣はアルにはあまりなじまないようでした。
「そう? 悪いわね」
アルは給仕の服こそ着ていても本当の給仕などではなく、聡明な魔法使いの一番弟子なのですから、遠慮などせずクッキーを食べればいいものですが。とはいえこのクッキーもアルが焼いたものなのですけどね。
「お師匠様」
「何かしら」
重く分厚いガラス窓の向こうにしん、と沈む夜の暗がりを眺めながらアルが一つの提案をします。
「御存じだとは思いますが、今夜は流星雨だそうですよ」
「あら、今夜でしたっけ? ええ、ええ、もちろん知っていますよ。そうだ、アルくんは知っていますか? 流星というのは遠くこの星を離れた小惑星帯というところから飛んできているのですよ」
「そうでしたね」
「この星の表面を一周するだけでも気の遠くなる時間が必要だというのに、途方もない距離よねえ。なにしろ小惑星帯ですよ小惑星帯」
「お師匠は世界一周なさったことがあるのですか?」
「ないわよ。まあ、物の例えよね。ねえ知ってる? 小惑星帯の主な軌道って一億キロぐらい離れてるのよ。アル君わかる? 一億キロよ」
「確かにとてつもない距離ですね。でも、彗星由来の流星もあるらしいですよ。というか今回の流星雨はその彗星の尾が由来なんです」
「彗星?」
「地球軌道近くまで降りてきた彗星から太陽風によって吹き飛ばされたその一部分が流星となって地球に落ちてくることもあるそうですよ」
「そうなんだ」
「惑星に衝突してその衝撃によって舞い上がったカケラが届くこともあるそうです。いろいろあるんですね、流星も」
「うん、よくわからないけどロマンティックよね」
人類が到達できないような遠い世界からのメッセンジャー。確かにロマンティックですよね。
「よし、じゃあ外に出てその流星雨を見ましょうか」
「もう寒いですから上着を着てくださいね、お師匠様」
折りたたみ式の寝椅子と防寒用の毛布を用意する二人。いや、アル。魔法使いは寒い寒い、といいながら何もしません。お師匠様ですからね。
「用意出来ましたよ、お師匠様」
「ありがとうアルくん。うわあ、さすがに毛布は暖かいわね」
「熱いココアも用意しましたよ」
「気が利くわね。さすがあたしの弟子ね」
「ありがとうございます、お師匠様」
準備万端。
わくわくしながら寝転がる二人。
頭上にはには満点の星空が広がっています。
人里離れたこの森の奥では星の輝きを遮るものもありません。天気の良い夜はいつも星降る夜というやつですね。
「流れないわね」
「流星の雨、とは書きますけど実際の雨のように、とはいきませんからね。でも毎年の流星群と比べると流れる確率的はすごく高いんですよ、今夜は」
「そうなの」
「明け方まで待てばもっと流れるかもしれませんけど……あ、流れた」
「えっどこどこ!」
弟子があのへんです、と指し示す方向をくまなく眺めますがもう流星は見えませんでした。
「一瞬ですからね」
「なかなか油断ならないわね」
「流れ星に願い事を、と思っても簡単にはいきません」
「あら」
意外なことをいうものだわ、と魔法使いは思いました。
アルは真面目、というかややカタブツなところがありましたので、「流れ星に願いを」などというメルヘンチックなことには興味ないのだろうと思っていたからです。
「アルくん。何かお願い事した?」
「いえ、早すぎたので無理でしたね」
「うふふ。何をお願いするつもりなのかしら」
「もちろん失われている僕の記憶が戻りますように、ですよ。どうして僕がお師匠様に弟子入れできたのか。なぜ過去についてお師匠様は話してくれないのか。そもそも僕はいったい何者なのか。記憶が戻ればすべてわかるでしょうから。あっ、また流れた」
アルはよどみなく答えると、星が流れた正面の空をぴっ、と指し示します。
「え……そ、そう……そうよね」
快活に答える少年に、ややバツの悪そうな表情を見せまいとする魔法使い。
見てきた未来を語るように、アルはとうとうと続けます。
「でもいつか話してくれるんだろうな、って信じてます。いつその日が来るのかは知りませんから、早く知りたいって思いは止められないんですけどね。お師匠様、今の流れ星見えました?」
「あ……見えませんでした」
ちら、と師匠を見やる少年。
「眠くなりました?」
「だ、大丈夫よ! どんとこいよ? 夜はまだこれからだわ!」
「そうですね。たぶんこれからもっと増えてきますから」
しばし無言になって星空を見上げる二人。
冬の森は静かです。
二人を包む満天の星々もまた、無言のまま瞬いているのでした。
「あ」
「あっ」
「今度は見えたわ。本当に一瞬ね。願い事なんて無理。高速呪文みたいにあらかじめ願い事を圧縮しておけばいいのかしら」
「それじゃあロマンがないですよお師匠様。そんなことしなくても大丈夫です。待つべきは火球です。今夜は流星雨ですから、火球も見れるかもしれません。大きな火球ならそれなりの時間飛んでますから、願い事の一つもかけられるかもしれませんよ」
「火球ってなに?」
「流れ星の大きなやつです」
「それはいいわね! ではその火球狙いでいきましょう」
「お師匠様は何をお願いするんですか?」
「ええと……今は、秘密です」
夜が更けると気温はぐっと下がります。
やがて二人の吐く息も白くなる頃。
「じっとしてると毛布にくるまっても少し寒いわね。今夜はそろそろあきらめ……ああっ!」
見上げた先には。
火球です。
輝く火の玉が頭上を通過し、最後にひときわ光を増して……消えました。
「……すごーい」
「大迫力ですね。お師匠様、願いごとは間に合いましたか?」
「あ。忘れてました」
「あはは、僕もです。やっぱり願い事は自分で実現するべきですね」
「また火球こないかしら」
「そうそうはこないでしょう」
それでもあきらめきれずに空を見上げる魔法使い。
ときどき視界の端に小さい流星が流れたりはしますが、さきほどのような火球は流れません。
「むう。だめかしら。でも、さっきのはすごかったわね」
「そうですね」
「しゅわあって飛んで、ぴかあってなって。最後消えるとき、水に落ちた花火みたいに『じゅわあ』っていってましたね」
少女のようにはしゃぐ魔法使い。ですが、アルには一つ違和感を覚える部分がありました。
「え? いえ、お師匠様、音はしませんでしたよ」
「え? したわよ。最後にじゅわあって。はっきり聞こえましたよ」
ムキになる魔法使い。
「お師匠様。考えてもみてください。火球が飛ぶのは上空遥か100キロ以上ですよ。落ちてきても50キロは離れてるはずです。音速で伝わる音は数十秒遅れて届くのですよ」
「聞こえたもん」
「うーん。ならば電磁波音でしょうか? いえそれでもおかしいですね、僕にはそもそも音が聞こえなかったんですから」
「聞こえたもん!」
アルはいったん目をつむり、この女性に冷静さを呼び戻そうとしばし考えました。
「ココアをもう一杯飲みませんか、お師匠様」
「あ、それはいいわね!」
毛布にくるまってミノムシのようになっている魔法使いはまた甘いものを得られると知ると寝椅子の上で嬉しそうにくねくね蠢いていました。
抱えるようにして持つ温められたカップ。ココアが立てる湯気はゆっくり天へと昇っていきます。
「……お師匠様、火球の消える様子が何かの記憶と繋がって音を聞いたかのように錯覚したのでは?」
「ううん、聞いたのよ。その、でんじはおん?とかいうやつじゃないの?」
「ありえないことではありませんが、滅多に起きないことですしそもそも僕が聞いていませんからね」
「むう」
黙り込む魔法使い。間をおいて、はた、と毛布の中の腕で膝を打ちます。
「ということは、これはアレよアル君」
「なんでしょう」
「流れ星の声ね」
「声ですか。お師匠様は流れ星の声を聴くのですか」
「自分でも驚いているけれど、そういうことになるわね」
ずず、と残りのココアをすするアル。
「そうですか。なんていってましたかあの火球は」
「だから、じゅわあって。ああ、それと、感情は伝わってきたわよ。そうね、『ただいま』って感じだったわね」
「ただいま。なるほど、地球由来の流星だったわけですね」
「意外よね。原始惑星時代に生き別れしたのかしらね。でも、何億年もの長い別離を経て、こうやって再び巡り合えたわけよ。感動するわね」
「蒸発してますけどね」
「身も心も一つになったのよ」
うっとりつぶやく魔法使い。
「流星にも心がありますか」
「そうみたいね。そういうことになるわね。流星といえどあなどれませんねえ」
「本当は見も知らぬ小惑星帯のカケラだったということはありませんか」
「ない! いやあったとしてもよ? 小惑星帯のカケラだって、しいていえばこの太陽系という大きな家族の一員! ただいま、と語りかけてくる資格はあります!」
「そうですか」
主張しつつ、毛布にくるまったままじたじたと暴れる魔法使い。
その様には眺めるアルの表情もなごやかにならざるを得ません。
「……お師匠様のそういうところ、好きですよ」
「え? 今なんか良いこといいましたかアル君? 声が小さくて聞こえなかったんですけど。もう一回、大きな声で頼みます」
「いえなんでも。でもそうですね。燃え尽き蒸発して大気中を漂う細かい粒子になったとしても、消えたわけじゃない。流星たちはこの星の一部になったんですよね」
「そう! そういうことよね! アル君良いこというわね」
「不可逆的破壊の後にですけどね」
「細かいことはいいじゃない。とにかく、過去のなにがしかのすれ違いによって二つに分かれてしまった存在が長い時間と距離を超え、再び戻ってきた。その感動的な瞬間に上げた、いえ上げざるを得なかった声があたしの耳に届いてきたの。うん、これね!」
「耳に、というより心にですね。学会で発表しますか?」
「それはやめとく。秘密にしたほうが輝くものってありますからね」
頭上では流れ星がその後も流れては消え、また思い出したように降っています。
ですが、魔法使いはもうじゅうぶんに満足したようでした。
「ふああ。眠い。そろそろ寝ましょうか」
「そうですね」
応えて寝椅子をかたずけ始めるアルもなにやら納得いったような顔をしています。
「アル君、明日の朝ごはんはなあに?」
「昼間にお師匠様が直してくれた完全自律型パン焼き窯が使えますから、さっそく焼き立てパンと……ベーコンと目玉焼きにしましょうか」
「マッシュルームのソテーも欲しい」
「ではそれも」
「わぁい! アル君を弟子にして良かったわぁ」
「ありがとうございます」
楽しそうな声が魔法使いの家に入っていき。
バタン、と扉が閉まりました。
見るものが去ったあとの空には、いまやせわしなくいくつもの流れ星が飛んでは消えていきます。
それらは音もなく、言葉もなく、ただこの星の空に、はかない光の雨を降らせているのでした。
アルは知っていました。
なぜ、魔法使いが都を去らねばならなかったかを。
それは彼女がその魔力を失ったからでした。
そしてなぜ彼女が魔力を失ってしまったのかを知っていました。
それは戦場で彼女と対峙した彼、アルカンヘルの名をつけられた彼がすべて吸収してしまったからでした。
魔法使いはすべての魔力を失い、アルは膨大な魔力を吸収しきったのち爆散しました。それこそがアルの使命でした。強力な魔法使いと刺し違える。アルはアルの国が生み出せた、魔法使いに対抗できる唯一の魔術兵器だったのです。
戦は停戦となりましたが、多くの魔法使いとアルの仲間が戦場に消えました。
アルがお師匠様と呼ぶこの魔法使いのように生きながらえた者はひどく少数でした。
そして魔力を失った魔法使いは壊れていました。ほとんどの記憶も魔力と同時に失っていたのです。
それはもはや権力者たちから見ればただの残骸としかいえない無価値な存在でした。
彼らの関心は、次の戦い、それに使用する次世代の魔法使い育成に移っていました。
廃人となって退役した魔法使いが田舎の森に恩給暮らしで引き籠ることに気をかける者はいませんでした。
アルも同じでした。
戦場で吸収した魔力と共に爆散したアルは他の仲間のようにそこで消滅するはずでした。いえ、いったんは消滅したのです。それが不思議なことに、散ったはずの魔力の塊が再び少年の像をとってこの森の奥で再構成されたのでした。あの戦場で何があったのでしょう。アルたちを生産する際に依り代となった少年の怨念の残滓なのか、魔法使いが最後に願ったことの結果なのか、またそれ以外のことが原因なのか、今はもうわかりません。
わかっているのは、自我を持った魔力構成体たるアルがこの家を訪ねてきたこと、魔法使いがそれを受け入れたこと、二人が今では師弟という形で暮らしていることです。師弟といってももちろんもう魔法は使えませんから、魔法の修業はありません。
魔法使いの記憶が大きく剝落しているのを知ったアルは、それに合わせ自分こそが記憶を失っていると設定したようでした。魔法使いはそれで納得していました。
二人は幸せでした。
魔力と記憶を失った魔法使いと、記憶を持ってしまった魔力でできた弟子。ちぐはぐな、まやかしの生活こそが二人の幸せでした。
だから空に向かってこっそり願うのです。
この穏やかな生活がいつまでも続くことを流れ星に願って。
ものいわぬ流れ星の声に乗せて。