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塞ぐ  作者: 海原ろこめ
第四章
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第九節

 道路右脇はクヌギやコナラが生い茂る雑木林で、道路左脇はガードレールの向こう側に用水路がある薄暗い道路。

 そこを颯爽と歩く男子生徒──颯斗はやとはひどく動揺していた。よく見ると顔面蒼白で、額には汗が滲んでいる。

 侑聖ゆうせい! 何で雪弥ゆきやにベラベラ喋ってんだ!? 

 つい先程、颯斗は後輩の雪弥から衝撃的な事実を教えてもらった。それは、今年の五月十五日に侑聖が颯斗の家庭事情を雪弥に暴露していた、というものだ。

 颯斗は侑聖が暴露した事情を『虚偽』や『作り話』だと言って全否定したのだが。

 実は全て紛れもない真実だった。

 と、言いようのない不安や焦燥感に襲われて、腹の底から酸がせり上がってきた。胃酸が口の中にどんどん溜まってきて思わず飲み込む。

 颯斗は何とか気分を変えようと視線を左に向けた。用水路の水が、ゴォォ、と激しい音を立ててうねっている。

 颯斗はなぜか荒れ狂う用水路に興味を惹かれて立ち止まった。

 何やってんだ、侑聖……。友達の家事情を後輩に暴露するとかどうかしてる。それに、勝手に報復して雪弥を追い詰めた事も絶対に許せない。

 雪弥は被害者面なんかしてない。あれは、僕に父親の話をした事を後悔している顔だと思う。侑聖の誤解だよ。雪弥は何も悪くない、悪いのは僕だ。雪弥は何も知らなかったんだから……。

 そう。雪弥は颯斗が父親に憎悪を抱いている事を全く知らなかったのだ。だから、雪弥が颯斗に、父親とのエピソードを楽しげに語って颯斗の地雷を踏んだのは、故意ではないだろう。


『俺、お父さんのような優しい人になりたいんです』


 これは、雪弥が、自分の父親は小さな成功でも自分を褒めてくれる優しい人間である、というエピソードを語り終えてから、雪弥が言った一言だ。

 颯斗は──。


『もしあいつが頭いかれてなかったら、雪弥のように父親を尊敬して憧れる事もあったのかな……』


 一瞬でもこう思ってしまった自分が、嫌で嫌でたまらなかった。今更どうにもならないのに、とやるせない気持ちになった。


『父親の話をするのはもうやめて欲しい』


 心からそう願った瞬間、颯斗は雪弥に『黙れ!』と怒鳴っていた。怒鳴ると同時に、雪弥の胸倉を掴んで殴りかかっている事に気づいて頭の中が真っ白になった。

 自分がこんな行動を取るなんて、俄には信じられなかった。


 あれ……? 怒ってすぐに雪弥を殴ろうとした僕は、暴力的なあいつに似ているんじゃ……?


 そう気づいた途端、一瞬で心と体が粉々に砕け散った。この時に僕は死んだ、と颯斗は思っている。

 正直、今も生きているのかどうか分からない。夢──いや、自分の目的を一生果たせない悪夢の中でずっと、ぼんやりと生きている気がしてならない。

 ただ、これだけははっきりと言える。あんな父親と僕が似ているなんて死んでも信じたくない。


 ──その時、突然、稲妻がピカッと光って辺り一面が真っ白になった。その数秒後に、耳をつんざく破裂音が響き渡る。

 その途端、颯斗は恐ろしい怪物に襲われでもしたかのように竦み上がった。

 鼓動が異常なほど早くなる。

 ……苦しい……何でお母さんを虐めるんだ……やめてくれ……恐い……やめて……嫌だ……お父さん……。




 黙れ、俺に口答えするなァ────!!


 凄まじい怒鳴り声が家中に響き渡る。そのすぐ後に、バシッと頰を殴る音と女性の悲鳴が上がった。

 不意に蘇ったのは過去の記憶。


 お母さんをいじめるなッ! 

 うるせぇ、邪魔するなッ!! 


 母親への暴力を止めようと父親の腕を掴んで、容赦なく殴り飛ばされる幼き日の自分。


 颯斗ッ!!


 母親が叫んで、慌てて自分の方に駆け寄ってきた。


 颯斗、大丈夫!? ……お母さんのせいでごめんね……。ごめん……っ。ごめんなさい……。


 涙ながらに謝罪する母親に、颯斗は涙を必死にこらえながら言った。

 

 オレはだいじょーぶだよ! あと、お母さんはぜったいにわるくない!! 


 父親は、床に座る母親と颯斗を冷酷な目で見下ろした。


 はぁ? 何言ってんだ颯斗。悪いのそいつだろうが。


 それから、呆れたようにそう言って母親を指差した。


 ちがう! おまえだ!! おまえさえいなければッ!!!


 もし父親にそう言えば、父親は激怒して自分を殴ろうとするだろう。そこで、母親は必ず自分を庇って──殴られるのだ。

 今までもそうだったから分かる。自分のせいで母親が傷つけられるのだけは絶対に嫌だ。

 そう思った颯斗は何も言わなかった。奥歯を噛み締めてひたすら我慢した。

 だが、胸の内では──、


 お母さんをまもるためには、お父さんをころす(殺す)しかないのかもしれない……。


 颯斗が父親を殺害する事を決心したのはこの時だった。


「勝手に消えるなよ」


 ガードレールを挟んで用水路の近くに立っている颯斗は、低く唸るような声でそう言った。目を血走らせながら。掌に爪が食い込むほど握りしめた拳をわなわなと震わせながら。

 僕が殺す前に勝手に死にやがって!! 

 しかも、お母さんを道連れにするなよ……。何でだ。何で全てを奪う? 最期まで本当に最悪だよ。

 颯斗の両親は交通事故に遭って亡くなった。小学六年生の颯斗を一人残して。

 それだけではない。

 父親が勝手に逝ったせいで、復讐する機会が永遠に失われた。

「……だけどもういい」

 颯斗はぽつりと呟く。何も感じていないような虚ろな目をしている。

 もうあいつは死んだ。死んだんだ。分かってるよ。

 だからさ──、

 颯斗は学生鞄を地面に落とすとすぐに、目の前のガードレールを掴んだ。

 死のう。あいつを殺せないなら、僕が生きてる意味はないから。

 颯斗は今から《《用水路に身投げ》》して死ぬつもりだった。

 ふと気づく。アスファルトから漂ってくる独特な雨の匂いが、鼻が詰まっている訳でもないのにあまり感じない事に。

 また、傘に当たる雨の音や雷鳴、用水路の濁流の音がぼんやりとしか聞こえない。まさに今、颯斗の横を通り過ぎた車の走行音でさえぼんやりと聞こえた。

 そして、傘の柄を持っている感触やガードレールを掴んでいる感触はあまりなく、ガードレールの温度もあまり感じない。

 まあ、そんな事はどうでもいい。

 胸の内でそう呟いて、ついに傘を放り投げてガードレールから身を乗り出したその時。

 颯斗は今にも泣きそうな顔をしていた。まるで、迷子になってしまった男の子のようだ。

 僕──いや、最期くらいは元の一人称に戻してもいいかな。小一の時にあいつと同じ一人称なのが嫌で変えたんだけど、自分を偽ったまま死にたくないから。

 雪弥。あいつみたいに『黙れ!』って怒鳴った後に殴りかかって怖い思いをさせて、傷つけてしまって本当にごめん。……それから侑聖。思い悩ませてしまってごめん。君には迷惑かけてばっかだな……。それでも。小四の時から約八年間、『俺』の友達でいてくれてありがとう。

 二人に迷惑をかけてしまったのは……、俺がいつまでも親父に執着しているせいだ。

 だけど、俺は天崎和眞あまさきかずまをどうしても許せないんだ。あいつは、自分の妻を言葉や暴力で何度傷つけても全く悪びれない、本当の怪物だから。

 ……でも、透眞(とーま)伯父さんにとっては大切な弟だもんね。だから話せなかった。ねぇ、透眞(とーま)伯父さん。あのさ……。やっぱ、あいつをもう殺せない人生がどうしても無意味に感じてしまうんだ。

 それに……、俺はいつかあいつになる。なってしまう。予感がしてるんだ。悪い予感はなぜか外れないよね。どうしてかな。

 雪弥を傷つけてしまったみたいに、誰かを傷つけてしまう前に俺は俺を殺すしかないと思う。

 だから伯父さん。間違っても自分を責めないで、どうか幸せに生きてね。引き取ってくれた小六の頃から今まで、大切に育ててくれて本当にありがとう。……何も恩を返せなくてごめんなさい。伯父さんより先に死ぬ事を、どうか許してください。

 そして最期に。……ごめんなさい、お母さん。守れなかった。苦しみから救えなかった。お母さんには幸せになって欲しかったのに。あいつと一緒に死なせてしまって、最期まで地獄で本当にごめん。

 ああ、そうだ……。ありがとう、ってもっと沢山伝えておけばよかった。お母さんは俺に大切な事をいっぱい教えてくれたのに。俺が困ってる時はいつも助けてくれたのに。俺はお母さんに何もしてあげられなかった……。

 何もできないなら。こんなに役立たずなら。俺はこの世に生まれてくるべきじゃなかった。生まれてきてごめんなさい。

 俺は今から死にます。

 心の中でそう宣言すると、颯斗はガードレールからさらに身を乗り出した。

 グン、と激流が迫り、水しぶきが頰にビュンビュンと飛んできた気がした。

 だが、水滴が付着した感触は全くしない。温くも冷たくもない。

 まさに今、十八歳の人間が、独りぼっちであっけない『死』にどんどん近づいている。

 そして十八歳の人間は、そのまま用水路の中に──、


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