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塞ぐ  作者: 海原ろこめ
第三章
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第五節

 音が──未だ耳に残っている。

 ドンッ! という腹の底まで響く重低音に思わず身を竦めた。



 つい先程まで、華那はるな風花ふうかと一緒に体育館で舞台鑑賞をしていた。

 しかし、今は一人で屋根付きの通路を歩いている。

 不安と恐怖で居ても立っても居られず、《《音から逃げてきた》》のだ。

 中庭に到着すると、華那はゆっくりと足を止めた。

 普段は何もない場所に、模擬店のテントがずらりと横に並んでいる。

 あっ、いい匂い!

 そよ風が熱気と共に焼きそばの香ばしい匂いも運んできた。

 お腹空いた。早くうどん買って食べよう。

 華那は内心そう呟いて、紺色財布のカード入れから「うどん」と書かれた黄緑色の食券を一枚取り出した。

 そうして、うどんの模擬店の方をチラリと見ると、

 ──あっ、篠田しのだくんだ!

 模擬店で受付担当をしている生徒は、陽翔あきとだと分かった。

 だが、分かった途端、華那は浮かない面持ちになった。

 どうしよう……?

 華那が陽翔と初めてちゃんと話をしたのは、中間試験前の放課後である。

 華那と風花の二人が、数学の宿題の中で最も難しい最後のチャレンジ問題がなかなか解けなくて困っていた──その時。

 風花が陽翔のいる一組の教室まで行って、『どうしても分かんないから教えて!』と陽翔に助けを求めたのだ。

 三組の教室へやって来た陽翔は、チャレンジ問題の解き方を親身になって教えてくれた。

 華那は陽翔のお陰でチャレンジ問題が理解できた上に、数学の宿題が全て終わったので陽翔に感謝した。

 しかし、そのまま三人で試験勉強をする事になり、華那は人見知りを発揮してしまう。

 緊張によって表情と体が硬くなり、密かに陽翔の事を警戒していた。

 ところが、陽翔は穏やかな笑顔と温かい声で、あっという間に華那の緊張や警戒心を解く。

 見事に解いたこの瞬間、他人と距離を詰める事に長けている、と華那は陽翔の事を心から尊敬した。

 その為、決して陽翔が嫌いだから陽翔に会うのを躊躇している訳ではない。

 だが、やはりまだ一対一での会話はハードルが高く、どうしても緊張してしまうのだ。

 そして、躊躇している最大の理由は、今日の午前中に『どうして風花は篠田くんの事をそんなに信頼してるの?』と風花に尋ねてしまったからだ。

 何で私、あんな事訊いちゃったんだろ? 篠田くんと喋るのめっちゃ気まずいじゃん。どんな顔して喋ったらいいんだろ? もう、うどん買うの諦めようかなぁ。でもお腹空いちゃったし……。

 華那は逡巡した後、ようやく意を決して陽翔の元へ向かった。

「あっ、瀬川せがわさん! いらっしゃい」

 幸運にも、陽翔の方から先に声をかけてくれた。

 華那はよかったとホッと胸を撫で下ろしつつ、

「……うん。素うどん一つお願いします」

 それでもおずおずと陽翔に食券を渡した。

 陽翔は意に介する様子もなく、両手で優しく食券を受け取る。

「は〜い! すぐ出来るからちょっと待っててね」

 屈託のない微笑を浮かべつつそう言った陽翔に対して、華那は僅かに微笑みながらこくりと頷いた。

「素うどん一つ!」

 陽翔が朗らかな声で注文を読み上げた。

 すると、陽翔の後方にある白い長机の上で他の生徒たちが調理の作業を手際よく進めていく。

 と、ある一人の男子生徒がうどんの露を容器に注ぎつつ陽翔に話しかけた。

「おい、陽翔! 『すぐ出来るから』じゃねぇよ! お前が作れ!!」

 ハリネズミの針のような髪と鋭い眼光が特徴的だ。

 確か……、杉崎すぎさきくんだよね?

 恐いなぁ、と華那の表情は少し強張った。

 だが、陽翔は杉崎をサラリと無視してこちらに笑顔を向けてきた。

「二年一組のうどんは絶品だよ! だって、うどんの材料を仕入れたのは市内で一番美味しいうどん屋さんの長男だからね」

 いや、ちょっと待って! 後ろから杉崎くんが睨んでるから! めちゃめちゃ睨んでるから!! お願い篠田くん、早く気づいて!

 華那は背後から陽翔を睨みつけている杉崎に気づく。

 まるで、学校に行く華那を家の窓から恨めしそうに睨みつける愛猫の「小夏こなつ」のようだ。

 杉崎にビビりながらも、華那は何とか頑張って陽翔に返事をした。

「へぇ、そうなんだ……!」

「うん! まぁ、その長男くんは今は休憩中で作ってないし、俺もまだ食べてないんだけどねー」

 そう言って苦笑する陽翔に華那はぎこちなく笑い返した──その時だ。

 とうとう、我慢の限界を迎えたらしい杉崎が細い眉を苛立たしげに寄せた。

「何、無視してんだよ!?」

 とても迫力あるハスキーな怒鳴り声である。

 お願い、流石にそろそろ返事してあげて!

 華那は助けを求めるような必死な瞳で陽翔をじっと見詰めた。

 すると、どうやら華那の視線に気づいてくれたらしい。

 ようやく、陽翔が杉崎の方を振り返った。

「なに、泰雅たいが。お客さまを待たせてるから早くしなよ」

 陽翔が呼んでくれたお陰で杉崎のフルネームが判明する。「杉崎泰雅」だ。

「ハァ!? 充分急いでるだろうが!」

 泰雅は不服そうな表情で声を荒げた。

 泰雅の言う通り、彼の手は迷いなくしかもとても綺麗にうどんの上に刻み葱とピンク色のかまぼこを盛りつけている。

 陽翔はその様子をチラリと確認してから、

「そもそも泰雅が『受付が退屈だから交代しろ!』って頼んできたから、俺と交代して調理になったって事、忘れちゃった?」

 今度は調理が面倒になったの、と冷静な口調で泰雅に問う。

 チッとバツが悪そうに舌打ちした泰雅に、陽翔はふわりと微笑んだ。

「まぁでも、今さっきまでめちゃんこ忙しかったから疲れちゃったんだよね? いいよ、交代しよっか」

 陽翔はそう言ったが、泰雅は伏し目がちに「いい」と断った。

 再び交代するのは我儘だと思ったのだろうか。

 泰雅はその後すぐに、完成した素うどんを陽翔に両手で手渡す。

「ん。ありがとう!」

 泰雅から素うどんを受け取った陽翔は、素早く容器の上に割箸を載せた。

「瀬川さん、遅くなって本当にごめんね?」

 それから華那に申し訳なさそうな顔で詫びて、「容器の底の方は熱いから気をつけてね」と言いつつ素うどんを差し出した。

「うん、ありがとう!」

 華那は素うどんを慎重に受け取った後で、陽翔にこう返した。

「……あの、大丈夫だよ。私、全然急いでないから」

 「本当に?」と陽翔が心配そうに訊いてきたので、華那は「うん」と迷いなく頷いた。

 すると、陽翔はホッとしたように笑った。

「良かった……。お客さまがとても優しい人で本当に良かったね! ──ね、泰雅さん♬」

 陽翔が戯けたような口調で名前を呼びつつ、自分の左肘で泰雅の脇腹を小突いた。

「おっ……!」

 いきなり小突かれたからか、泰雅はよろけてしまう。

「何すんだ!」

 ややあって、陽翔の脇腹を小突き返した。

「ハイ、残念でしたー!」

 だが。泰雅にやり返される事など予想済みだったのか、陽翔は全くよろけずに楽しそうに笑う。

「ガキみてぇに喜ぶな! クソガキ!!」

 泰雅は暴言を吐いたが、本気で怒っていないとすぐに分かった。

 それはすぐ後に呆れたように笑ったからだ。

 最初は仲悪いのかなってちょっと心配したけど……、凄く仲良いんだなぁ。

 華那は陽翔と泰雅の関係を羨ましく思いながら、うどんの模擬店を後にする。

「ありがとうございました!!」

 背を向けた華那の耳に、陽翔の爽やかな声、続いて生徒たちの清々しい声が入ってきた。


 

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