第三節
──はずだったが。
「ハァ……」
雪弥は眉根を険しく寄せつつため息を吐いた。背筋は真っ直ぐ伸びているが、長い廊下を歩く足取りはやや重くなっている。
富川に言った通り、来週からは中間考査が始まってしまう。だから、授業中は集中する為に出来る限り思い出さないようにしていた。だが、ショックな出来事の直後という最悪なタイミングで一気に思い出してしまった。
『猫……、猫に会いにお前の家に行ってもいいか?』
これは、雪弥が中学からの友人である、瀬川華那に言ってしまった台詞である。
華那は雪弥の数少ない友人の一人で唯一の異性の友人でもある。中一の時、少年漫画が好きという共通の趣味がきっかけで仲良くなった。
一昨日、雪弥は華那の家に遊びに行った。華那が飼っている三匹の猫たちに会いに行く、という目的でだ。
だが、一緒に試験勉強を行うという自然な目的があったはずなのだ。なぜ、そう言ってしまったのか自分でも分からない。心身ともに疲れていたから、癒しを求めてつい口にしてしまったのだろうか。
それにしても、マジで華那によく分かんねぇ頼み方しちまったよなぁ……。俺は馬鹿野朗だ。
後悔や羞恥心に襲われて顔が火照ってきた。思わず、うずくまって頭を抱えそうになるのを残り少ない気力で堪える。
華那はよく怒らずにOKしてくれたよなぁ、と思う。普通、『えっ、猫に会う為だけに遊びに来んの? いや、猫カフェ行けよ』とキレて即効断る。いや、そういえば、華那は『癒しの為だけに私の家を利用しないでよ』って華那言っていた。ごもっともだ。
また、久しぶりに華那と話して緊張したあまり黒猫の名前を忘れていた、と華那に答えたが。緊張していた事は本当だが、実は、黒猫の名前が「シホ」である事はしっかり覚えていた。
華那に嘘を吐くのはとてつもなく嫌な事である。ならば、なぜ嘘を吐いたかと言うと──。
実はあの時、
「その時にいた、あの特に俺の傍にずっと居てくれた『シホ』がマジで可愛かったから」
そう言うつもりだったが、咄嗟に言い変えたのだ。
それは、『俺の傍に居てくれたシホ』と華那に言う事を『まずい』と思ったからである。
「シホ」って名前は、猫よりどっちかと言うと人間──女性によく使われる名前だろ? だからなのか? 華那に『俺の傍に居てくれたシホ』って言ったらダメな気がしたんだ。
つまり、雪弥は「シホ」が女性名みたいだから、華那に言うのは『まずい』と思ったのである。
しかし、「シホ」の飼い主である華那は、「シホ」は「猫」である事をちゃんと分かっている。だから言い変えずに、先程の台詞をそのまま華那に言ったとしても、まずい事態にはならなかったに違いない。
そうだよな、俺がちょっと考え過ぎただけだった、と内心反省していた──その時だ。
『ねぇ。一度言ってしまった言葉はどんなに後悔しても取り消せないんだから、気をつけなよ?』
「……っ!」
苦い記憶が蘇ってきて、雪弥は思わず舌打ちをした。雪弥にとって地雷でしかない言葉だった。
これは、一昨日の放課後に華那の友人である円井風花が言ってきた台詞だ。
多分、悪気はない親切なアドバイスだったのだろう。だが、風花のアドバイスは雪弥の胸に深く刺さって、表情が凍りついてしまった。
どうやら、風花は凍りついた雪弥の表情を見て、自分が地雷を踏んでしまった事を察したらしい。あっという間に、彼女の無邪気な笑顔はぎこちない微笑みへと変わった。風花にはとても申し訳ないが、これ以上風花との会話を続ける事は不可能に近かった。
そして、雪弥と風花の間に気まずい空気が流れかけたその時。
『ねぇ、雪弥』
今まで黙り込んでいた華那が雪弥に話しかけてきた。雪弥は、華那から中三ぶりに下の名前で呼ばれて、その場でジャンプしたくなるくらい嬉しかった。
はたして、華那は気まずい空気を敏感に察知して話しかけてくれたのだろうか。いや、ただの偶然だったにしてもだ。間違いなく、雪弥は華那の言葉に救われた。多分、風花も最初は怪訝に思っただろうが救われたに違いない。
『お邪魔みたいだし、私は先に帰るね! じゃあ、二人きりの時間をめいいっぱい楽しんでっ!』
風花が雪弥と華那にそう言ってきた時、ホッとしたような安堵の微笑を浮かべていたからだ。
雪弥は華那の事を素直に尊敬した。『気まずかった空気を一瞬で変えちまうなんてマジすげぇ!』と。
だが、以前にも、華那の予想外な言葉に驚かされる事があった。それは──……。




