絵日記工場
ミウは絵日記工場で働いている。
夏休みの絵日記が書けなくて困っている小学生たちのために、何十枚もの絵と文章をかく。それを切り刻んで塩や胡椒をまぶし、巨大なオーブンで焼くのだ。
焼き上がったものを取り出すと、マス目付きのノートに製本されている。熱とスパイスが内容を組み替え、どこからどう見ても小学生が書いたように見える。
「今日は朝から雨でした。いつまでもやみません。手のひらで受けてみるとそれは、種です。育てると星が咲きます。地球の裏側で育った星空が、花火のように咲いて散ります」
ミウは文章を書き終え、汗をぬぐった。工場には冷房がない。絵日記は冷やすとうまく焼けないのだ。
「ねえ、今何度?」
隣で作業している女性が聞いてきた。同じく顔中が汗だくだ。ミウは壁の温度計を見る。四十三度。こんな数値を日記に書くわけにいかない。
「窓、開けましょうか」
「外は五十度以上あるでしょ。いいわ、焼き上がればどうせ適当な数字に変わるから」
文章が終わると、絵に取りかかる。ミウは白と黄色とピンクのクレヨンで星を描き、それを花型に散らした後、濃い紫の水彩絵の具で塗りつぶした。クレヨンが絵の具を弾き、本物の星のように輝いた。
「うまいもんだな」
工場長が見回りにやってきた。ミウは会釈をし、まだ途中です、と言った。
「そんなに一生懸命やらなくていいよ。切り刻んで焼いたら小学生レベルに再編されてるんだから」
それは仕方ない。お台場で彼女とデートした話や、米寿の祝いに酒を飲んだ話がそのまま掲載されてしまっては目も当てられない。
工場長は白髪の老人で、二千人近い働き手たちを一人で管理している。健康状態や仕事の出来まで細かく見ているが、今日はことさらにミウが気になったらしい。
「きみ、その顔はどうしたんだ」
「顔? 絵の具がついちゃったかな。洗ってきてもいいですか」
「これだよ。見てみなさい」
工場長は鏡を出した。ミウはあっと声を上げた。シニヨンに結った髪と、小さくぶら下げた三つ編みに、セミの抜け殻がたくさんしがみついている。顔には黄色と黒の模様がべったりと描いてあり、まるでアゲハチョウがスタンプを押していったようだ。
「すぐに帰りなさい。きみは働きすぎた」
「えっ。まだ四十八時間しか働いてません」
「このままではきみが絵日記になってしまう。誰か、この子を安全なところへ」
ミウは頭を振った。何も落ちてこない。触ってみても、髪も顔も元通りすべすべしている。何かの間違いじゃないかと思った。
「私、何ともありません。絵を完成させたいの、離して」
救護班の男がミウの腕をつかみ、非常口に連れていった。他の働き手たちは恐れるようにミウを見たり、何かささやき合ったりしている。
「俺が工場長に頼んだんだ。ミウは絵日記にしないでくれって」
男は暗い声で言った。赤いジャージの上に救護班と書かれたエプロンを着て、顔には大きなマスクをつけている。
「絵日記にする? どういうこと?」
「そういうことだよ。みんな絵日記にされる。工場自体が灼熱のオーブンなんだ。骨まで溶けて、それまでの人生が数行の日記になる」
「ふーん。何だかロマンチックですね」
男は非常口に入っていった。ミウも続き、工場とは違う空気が少しずつ流れ込んでくるのを感じた。
「私、働かなくて良かったんだ。小学生だから」
ぽつりと口に出した言葉は、すとんと胸に落ちるような、わずかな違和感を含んでいるような、複雑な味がした。
「私の学校は絵日記の宿題がないの。そう、ないんだったわ」
新しい空気を吸い、意識が鮮明になってくる。
去年、アザラシ先輩が絵日記のネタ作りのために隣の小学校を襲い、水泳教室に来ていた教師と児童を全員食べてしまった。それで絵日記が廃止されたのだが、一番喜んでいるのはアザラシ先輩だ。
風が強くなってくる。非常口を抜けた先は台風が来ているらしい。
ミウは男の顔を見上げた。くっきりした目鼻立ちは、マスクをしていてもよくわかる。
「一緒に来ませんか」
「えっ。俺?」
「工場に戻ったら、あなたも絵日記になっちゃうんでしょ」
男は足を止めた。ミウを見つめ、何か言いかけてから首を振った。
「俺は大丈夫。いつでもそっちに行ける」
「こっちのほうが過ごしやすいですよ。少なくともオーブンの中じゃないし」
男は少し迷ったようにマスクを取り、ミウの腕を離した。
「俺のこと、覚えてる?」
「覚えてます。救護班で働いてたけど、時々さぼってた」
男は小さく笑った。非常口の先から風が吹いてくる。風に流されるように、男は元来た道に押し戻されていく。
「またな、ミウ」
掃除機に吸い込まれるようにあっという間だった。男は工場へ引き戻され、ミウは一人残された。
「変なの。あんなブラック企業に残りたがるなんて」
ミウは一枚の紙を握りしめていた。書きかけの絵日記を持ってきてしまった。星の絵は気に入っていたので、帰ったら続きを描こうと思った。
出口は薄いビニールの垂れ幕一枚だった。風を押し切って開けると、湿気を含んだ空気が体中を包んだ。セミが鳴き、高い梢がざわざわと揺れている。家の近所の公園だ。
「たくさん働いたような気がするけど、何だっけ」
ミウは絵を丸め、家に向かった。途中のコンビニでフルーツ練乳抹茶ココアアイスを買い、部屋でごろごろしながら食べるのだ。
夏休みはまだ、たっぷりあるのだから。